処女作は、自費出版の「春と修羅(詩集)」(1924 T3)。生前に刊行されたのはこの処女作と「注文の多い料理店(童話集)」だけで無名に近かったが、没後に詩人草野心平(1903 M36ー1988 S63)らにより作品が世に出て国民的作家となった。代表作は、「雨ニモマケズ」(1931)、「銀河鉄道の夜」(1933)、「風の又三郎」(1934)など。国民的作家に余計な説明は不要だ。
生涯独身であった。1933年(S8)急性肺炎により37歳で没。
宮沢賢治で驚くのは、短い期間での多作もさることながら、その多才ぶりと多面的な活動力だ。内面の深さとマルチタレント顔負けの活躍ぶりに圧倒される。
むろん童話作家、小説家、 詩人である。短歌も俳句も詠んだから歌人、俳人でもあった。
俳句は菊連作
秋田より菊の隠密はいり候
などが有名である。
それだけでなく、地質、気象、肥料学を追求した 科学者。農耕人でありかつ、学校教諭として農業教育、農村改革運動、農業指導者でもあって教育者。 熱心な仏教徒 (浄土真宗徒のち日蓮宗)として 宗教家。社会活動家としては、農業研究会、羅須地人協会を設立して農民芸術、稲作経営などを説いた。そこでは音楽 セロ、オルガン、合唱 、演劇活動 、エスペラント語学習普及まで行った。作詞作曲は20曲もあるという。
だから絵も描いたのは不思議でも何でも無い。
宮沢賢治の絵は戦災などで焼失したものが多いという。我々が眼に出来るのは一部で、もっとたくさん描いたのだろうか。 題名はいずれも「仮題」、本人がつけたものではないのだろう。
「日輪と山 」(水彩 )岩手山か。残されたものでは、最も完成度が高いとされる。宗教的な絵。
「竜巻の絵 」(水彩) 暗い空とそれを仰ぐ左下の人々。「不安」を描いたと思われる。
「ふくろう」原稿用紙に落書きされたものという。
「月夜のでんしんばしら」(水彩 )「注文の多い料理店」に収録された同名の童話 がある。童話も奇妙ならこの絵も不思議な絵である。
童話を一部。
(電信柱は)みんな六つの瀬戸もののエボレツトを飾り、てつぺんにはりがねの槍をつけた亜鉛のしやつぽをかぶつて、片脚でひよいひよいやつて行くのです。
そして歌うー
ドツテテドツテテ、ドツテテド、でんしんばしらのぐんたいは はやさせかいにたぐひなし ドツテテドツテテ、ドツテテド でんしんばしらのぐんたいは きりつせかいにならびなし
「抽象画 赤玉」 (水彩)赤い大玉とギザギザ線は何を表現しているのだろう。
「ケミカルガーデン」 (水彩 )通称「お化けの絵」 、「お化けわらびの絵 」とも。また「手の幽霊」とも。化学の庭?
「猫」賢治の童話によく猫が出てくるが、こんな猫を頭に描いていたのか。
宮沢賢治の詩をあまり読んではいないが、以前読んだもので好きな詩をあらためて再読したくなって青空文庫で探した。「春と修羅」ー永訣の朝 ーである。妹のとしが24歳で亡くなった時の追悼の詩である。
あめゆじとてちてけんじや ー賢治兄さん雨雪とってきてーの挿入が読む者に哀切さを訴える。
詩はこう始まる。
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ (*あめゆじゆとてちてけんじや)
(途中略)
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから (あめゆじゆとてちてけんじや)
(略)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
宮沢賢治の詩は、地名、科学用語、農業用語、宗教に関する言葉などが頻出する。そのものを歌ったり比喩であったりする。詩の分からぬ自分には、不思議な世界に迷い込んだような気分になる。
詩人の描く絵も似ていて、不思議な異界に遊んでいるように見える。詩画ともにそれが多くの人を魅了するのだろうか。言葉がイメージを膨らましていく感覚だ。
そして彼の不思議いっぱいの童話群にも、通奏低音の如くにそれはあるように自分には思える。
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