――「この国に生まれたことが、罪ですか?」
日本で生まれ、日本語しか知らずに育ちながら、在留資格を持たず生きる子どもたちがいる。国民健康保険にも入れず、進学や就労の道も閉ざされ、強制送還の不安と隣り合わせの日々を送る。
子どもたちを物語の主役とした書籍『仮放免の子どもたち』では、データや政策を整理したコラムも収録し、外国人政策の「今」を描き出す。
*本記事は、池尾 伸一『仮放免の子どもたち 「日本人ファースト」の標的』(26年1月22日発売)の一部を抜粋・編集しています。
国を持たない世界最大の民族
クルド人は「国を持たない世界最大の民族」といわれる、中東に住む民族である。現在の人口は正確な統計がないものの2500万人から3500万人とされている。
人類最古の文明といわれるメソポタミア文明を生んだチグリス川、ユーフラテス川の上流地域に、クルド人は古来住んでいた。しかし、度重なる戦争の結果引かれた国境線によりその居住地は分断され、現在ではトルコに半分ぐらいが住み、残りはイラン、イラク、シリアなどに住む形になっている。宗教は、大半がイスラム教の最大宗派であるスンニ派だが、少数派のアレヴィーもいる。
言葉は、ほとんどの人が、ペルシャ語と文法などが似たクルド語を話す。農耕や羊飼いで生計をたててきた人が多いが、近年は都市に住む人も多い。独自の「クルド暦」の正月にあたる毎年3月には、鮮やかな民族衣装で着飾って野原に繰り出す。男も女も肩を組んで音楽にあわせて踊り、春の到来を祝う「ネウロズ」と呼ばれる祭りが有名だ。今ではもともと住んでいた地域を離れたクルド人が、世界中に住んでいる。3月になると、ドイツ、カナダなど各地でネウロズが開催され、日本でも彼らが集住する埼玉県の川口市周辺で開かれる。
クルド人が多く住むトルコ東部の地域は、13世紀末から20世紀前半まで続いたオスマン帝国がもともと支配していた。オスマン帝国は、中東から、東ヨーロッパ、アフリカにまたがる領土を持ち、16世紀以降、クルド地域を支配下に置いた後もクルドの領主たちの統治権を容認してきた。
受難の始まり
民族の苦難はオスマン帝国の滅亡とともに始まる。第1次大戦では英、仏、ロシア陣営とドイツなどが戦ったが、オスマン帝国はドイツ側として参戦。敗北すると1920年に「セーブル条約」が結ばれ、クルド人は独立国家をつくることが認められた。しかし、オスマン帝国の内部で、軍人ムスタファ・ケマルが率いた勢力がオスマン帝国を倒し、英、仏などと新たに1923年に「ローザンヌ条約」を結ぶと、クルドの独立国家をつくる条項は破棄され、クルド人は、トルコ、イラクなどの複数の国に分断されて暮らすことになった。
クルド人の居住地域には石油資源が埋蔵されており、東京外国語大学名誉教授の藤田進はクルド分割の背景には、「クルド南部地域を、イギリス領となったイラクに取り込もうとしたイギリスの野望など西欧の国々の利権確保の思惑もあった」という。
それぞれの国で少数派として虐げられる運命になったクルド人だが、とりわけトルコ共和国内では厳しい生活を強いられる。ムスタファ・ケマルはケマル・アタテュルク(「建国の父・ケマル」)と呼ばれ、新設の「トルコ共和国」初代大統領に就任した。ケマルは「トルコ国家はトルコ人とトルコ文化のみで構成される」との理念の下、少数派のクルド人については徹底的なトルコへの同化政策を敷いた。政府は憲法で国語はトルコ語とし、クルド語を公の場で使うことを禁じ、クルド語での出版も禁止した。
名前もトルコ風の姓をつけるように定め、クルド人の住む地域の地名もトルコ語の名前に変えていった。クルド人の存在を認めず、クルド人は「山岳トルコ人」として、トルコ人とみなされた。トルコ語とはまったく異なる言語体系を持つクルド語も「トルコ語の方言」と位置づけた。ネウロズなどの祭りも制限された。
日本でも北海道などに住むアイヌの人たちの権利を厳しく制限したり、第2次大戦前に占領した朝鮮半島の人たちに「創氏改名」として日本人としての名前をつけるよう強制したりした。トルコの同化政策もそれに似たものだった。