映画「国宝」を観たが、二度と観たくない
映画「国宝」を観る前日の夜、映画を観たあとに書店に行って原作を買おうと思っていた。各所で絶賛されていたから、きっと面白いんだろう、と楽しみにしていた。
175分のあと、私は、原作を読むのをやめよう、と思った。
胸の奥をどうしても浄化したくて、ちょっといいスーパーでストレートのオレンジジュースを買った。あんな気分でオレンジジュースを買ったのは初めてだ。
今は、「国宝」という文字を見るだけでドキッとする。またあの深淵に引きずり込まれそうで。
私が上映中に一貫して李相日監督から受け取っていたメッセージは、
登場人物は誰ひとり愛し合ってなどいない。
みな自分のために誰かを渇望している。そんな事だ。人身御供にも、人身御供が必要ということだ。
唯一、俊ボンと喜久雄の間には、刹那のような愛を感じた。
現代の恋愛や結婚にもそれは通ずる。多大な他意を孕んだ好意は、この世に溢れている。みな自分の弱さを自覚すらできず、自分を理解するのにも、永遠のような時間がかかる。
世の中で蓋をされているそんな部分を、役者を使ってあれだけ表現できる監督凄い!
私はきっと理想主義なところがあって、その部分をスクリーンを通して受け取るのが辛かった。人間の弱さ。不完全さ。
歌舞伎のシーンは、純粋に美しかった。
序盤はやや拙く、後半に進むにつれ洗練されていくのを表現されていたのも良かった。
元々、国宝や歌舞伎に興味を持ったきっかけは、AmazonPrimeで配信されている「人間標本」に出てた市川染五郎さんの演技なんだよね。
若いのに死との親和性がこれほど高いのはなぜ?才能や血筋がそうさせるのかな?と思っていたけど、歌舞伎の内容を見て納得した。
何度も何度も死んでいるんだな。役を上手に全うできると褒められる。見せ場のあと即時的に拍手が起き、喝采を浴びせられる。死ぬ役なら、上手に死ぬと褒められるんだ。
どんどん、上手に死のう、となるのは想像に易い。
私はこれ以上の深度で、喜久雄の生を追体験することが怖い。原作を読み、映画より何倍も長い時間をかけて自分を暗闇に沈めていく過程が怖い。きっと戻ってはこれる。しかし、これ以上深く触れていたくないのだ。その類の刺激をそのやり方で摂取するとダメージの方が大きい。
才能とは鎖だと思っていた。
己の才能によって得てしまったもののせいで、オートマチックに才能が作動する。自分の才能に気付いた時、人は自分で自分に首輪を括り付けてしまう。それによって死にもするし、生かしもする。
喜久雄は死んでいるのか?生きているのか?
私たちが最後に見た鷺娘は悪魔だっただろうか、からっぽの彼の器に入った。


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