私のパソコンはそうとう古い。自分でも意識していなかったのだが、なんと13年使っている。ここまで使えたのは、夏になると、パソコンのファンの下とか、熱くなる部分に保冷剤を置き、湿気が来ないように小さい木のすのこを敷いていたこともあるのだろう。
もうひとつ、私はキーボード使用歴が50年以上なので、キーを”パシッ”と大きい音を立てて叩くようなことをしない。50年前は機械式タイプライターだった。その印字を一定にするのと、聞いていて音疲れしないために、指先のタッチを調整する必要があった。おそらく、そのため、いまの人たちよりパソコンにキーボード操作で負担をかけていないのだと思われる。
意外なことに、私は会社員時代コンピューターを使うことが多かった。複数の計測機械から入ってくるデータを集中管理・解析したり、その時代はテレックスもそういえばキーボードだった。会社で使っているタイプライターはIBMのインパクトドット・マトリックスタイプだったので時代がわかる。地球のような形をしたボールの表面に活字がある。それが動いて印字してゆく。
海外からコンピューター付、あるいは電子部品の入った製品が壊れたり、不良で帰ってくると、じつに、何とも言えない鬱陶しさがあった。ただ、スクリーンが一つの数字を表示してパカパカ点滅していたりすると、自分ではどうしようもない。基盤を作っているところへそのまま送り返し、多くの場合基盤を総交換する。
それに対して、自転車とかエンジン車は構造が見てわかりますから、どこが問題を起こしているか論理的にわかる。職場で”テクノストレス”とでもいうべきものを受けて、会社を辞めた時は、もうとうぶん電子物は触らないようにしたいと思った。
1990年代の半ばから2005年まで、世の中はパソコンで原稿を送るのが普通になっていたが、私は『キーボードが扱えませんで、、、』と言って(笑)、喫茶店で400字詰め原稿用紙にBか2Bの鉛筆で書いたものをFAXで送っていた。ほんとうにこころが楽だった。何かのひょうしに、私がキーボードが打てることが発覚して、2年間、2007年まではパソコンで原稿を送った。
携帯電話もあまり使わなかった。あの頃から、”もう古い自転車はやめよう”と思った。それは、インターネット・オークションの発達で、”顔を見ない売買”が可能になって、”この人には売るのをよそう”ということが難しくなったから。金さえあれば誰でも買える。世の中が”金の勝負”になってきた。
ある人がまがいものの古い英国自転車をつかんだ時、その人が価格のことを言って、『50%ぐらいはニセモノだと、あのとき思ったんだよな』と言った。価格の問題ではない。安くても本物は本物だ。いまから100年ほど前のロールス・ロイスのシルヴァー・ゴーストのオーナーは、”いくらで買ったか口が裂けてもいわない”のが暗黙のルールになっている。そうした歴史的車両は『自分が生きている間借りるものだ』という認識。これは盆栽や動物のことでも同じで、それを育てていた人が亡くなると、すぐそれを枯らさない、死なせてしまわない愛好家に遺族が渡すならわしになっている。
そうした『文化継承の文化』をインターネットは壊した感じがある。
先に”Bや2Bの鉛筆で原稿を書く”話をしたが、鉛筆で書くと脳の3カ所の場所を使うことがわかっている。一方でキーボードを使って書くと、脳の一か所を重点的に使うことがわかっている。キーボード世代はものすごく字が下手だ。しかし、指先の器用さと脳の発達は無関係なのか?
メモを取る時に、脳はすでに物ごとを整理して、その全体像を思い出すのに最適のことを短く省略してノートする。そのとき脳が何を重要だと判断するかは、その脳の個人差がある。だから、試験前に他人のノートを借りても、何も頭に入って来ない。
裏返すと、若い人ほど、自分に最適の思考経路、思考回路を発達させる必要があると、私は考えている。デジタル世代は将来的にボケが早く来るのではないか?あるいは生きている実感が薄まるのではないか?
自分の自転車と言う、”実体のあるものを整備したりするのは愉しい”。正直、人の自転車を触るのは好きではない。ある人が、古い英国自転車を整備してほしいと持ってきた。しかし、おそらく、入手してから一度も磨いたりワックスをかけたりした形跡がなかった。『失礼だけど、貴方は歯医者へ行くとき、歯を磨かないで行きますか?直してもらおうという時、しかも私は自転車店ではないのに、どうして、修理するのに、貴方の自転車を掃除するところから始めないといけないのですか?』と訊いた。逆に言うと、ヨーロッパで古い”バーン・ファインド”(納屋で放置されていた歴史的な車両)を売買するときは、そのまま、ホコリや汚れとともに手渡すのが普通だ。それは、掃除をしだしたら、レストアをするのと同じたいへんさになってしまうのがわかっているから。
さて、私の13年物のパソコンだが、インターネットには出て行けるのだが、ヴァージョンが変わった関係で、メールはずっと見れなくなって、とんでしまっている。しかし、メールがない生活と言うのは、実に清々しい。幸福な1980年代前半に戻った感じがする。
しかたがないので、パソコンを新調したが、なかなかセットアップする気力が出ない。みんな、パソコンがダウンした時は、待ったなしで金が出て、デジタルライフも止まる。私の世代は『もともとなかった人たち』だから、意外となくても平気。禅では”深山に暦は無い”と言ったりするが、外部の雑音に惑わされず、”いまやらないといけないこと”に専心できる。むしろ、そうした利便性がなかった昔は清々しかったと、いまさらのように思う。