東京農業大学の竹内重吉准教授は教員の自覚が持てていないのではないか。教員として当たり前のことが当たり前に出来ていない。
竹内重吉准教授に対して「なぜ私が前田や南石に対する批判記事を書くことに反対するのか意味が分からない。そうやって記事を書くことに反対すると竹内先生が加害者となるので竹内先生自身を批判しなければならない」と私が伝えると、「Xさんは取材に協力したの?」怒り気味に言っていたがXさんは当時学生であり被害者である。なぜ教員である自身と同じ目線で捉えているのか意味不明である。Xさんは卒業生であり、当時は学生かつ被害者である。竹内重吉先生は当時助教であり現在は准教授である。教員であるのだからアカハラ問題が解決する方、小さくなる方向に動かなければならないならないのは当然であり、それが出来ないのならそれこそが情報価値である。竹内重吉先生は教員なのだからアカハラ問題を解決する方向に動かなければならないがこの前提が欠けている。そこを何度も指摘しても正しい方向に動けないのは何故なのか不思議で仕方ない。正しい選択をすれば批判されない。間違えた選択をすれば加害者となり批判記事が書かれる。こういう小学生でも分かりそうな当たり前のことが大学の教職員には理解できている人が少なそうで、大学というのは本当に特殊な世界だなと思う。世間知らずな大人が実社会に出ず、大学という世間知らずな学生や大学しか知らない教職員としか接することなくそのまま年を取り、めちゃくちゃ世間知らずな50歳60歳が誕生する。これはまさにガラパゴス諸島のイグアナではないか?ガラパゴス教員、九大農学部の前田幸嗣のようになってしまえば批判記事を書かれる運命しかないし、まともな人は寄り付かない。
「おれはそういうの嫌いだからやらない」と竹内重吉准教授は言うが、好き嫌いは無関係であって、やらなければいけないからアカハラ加害者である前田幸嗣や南石晃明に対して「被害者に謝罪しろ。アカハラとなる言動をやめろ」と命令もしなければならないし、批判しなければならないし、被害者である私に対して彼らの連絡先を教えなければならない。
すべきことが出来ないのならこうやって名指しで批判されるのみである。
教員としてしなければならないことなのに、好きだからやる、嫌いだからやらないという認識で捉えていることがおかしい。


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