シャーレの屋上は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
夕暮れが始まる少し前。
陽光は柔らかく、風はほとんど音を立てない。
その静けさの中で、私は手すりにもたれ
一本のタバコに火を点けていた。
深く息を吸い込み、吐き出した紫煙がふわりと滲む。
これを吸うのは、いつもこういう時だけだ。
自分が上手くいっているのか、自分に存在価値があるのか、分からなくなる時。
生徒たちの前では明るくしているが、心が置き去りになったような瞬間。
「……はあ」
煙と一緒に、不安が少しだけ軽くなる気がする。
ほんの、少しだけ。
その時だった。
「……先生?」
静かな階段の方から、ヒールの小さな音がした。
振り返ると、風に揺れる髪と、落ち着いた瞳があった。
そこには桐藤ナギサが立っていた。
高い品位をそのまま形にしたような少女が
少しだけ目を見開いていた。
「……タバコ、ですか?」
ああ、見られてしまった。
「……ナギサ。来てたんだ。」
隠すには遅かった。手元のタバコを見つめる彼女の視線は、驚きよりも、心配の色が濃い。
「申し訳ありません。シャーレに書類を届けに来たところ、先生のお姿が見えず……ここにいらっしゃるのでは、と」
ゆっくりこちらへ歩み寄りながら、しかし視線は煙に吸い寄せられている。
「……先生が、タバコを吸われるなんて……初めて見ました」
「滅多に吸わないよ。本当に……どうしても、必要な時だけ」
「必要……ですか?」
私は小さく笑った。
「ナギサにも、ないかな?どうしても気を張って、どうしようもなく疲れた時って。誰にも言えない気持ちとか」
「……」
「私はそんな時、これに頼るんだ。煙を吸って吐くと……少しだけ楽になるからさ。」
ナギサは、しばらく黙っていた。
目の前で風に揺れる煙を見つめ、ゆっくり瞬きをして、言った。
「……先生。それは、先生が本当に……必要としているものなのですか?」
「……さあね。」
曖昧に笑うしかなかった。
自分でも分からないのだ。
ただ、逃げ場が欲しいからやっているだけかもしれない。
するとナギサは小さく息を吸い、穏やかな声で言った。
「……先生。タバコを吸う姿そのものを、咎めるつもりはありません。ただ……もし
『自分が必要とされていないのでは』
『価値がないのでは』
そんなふうに思って吸っておられるのなら。」
彼女の瞳が、真っ直ぐこちらを貫いた。
「……それは、とても悲しいことではないですか。」
優しいが、鋭い。
胸の奥をそっと押されるような感触があった。
ナギサは手すりに近づき、私のすぐ隣に立つ。
紅茶の匂いが、タバコの匂いを溶かしていく。
「先生は、トリニティの生徒からも他の学園の生徒からも……それ以上に、私からも必要とされている方です。
どうか……そんなふうに、ご自分を低く見ないでください。」
俯き気味に言われるその声音に、胸が締め付けられる。
「ありがとう。……でも、ナギサだって大変じゃない?ホストの仕事、大部分は1人でやってるんでしょ?」
「ええ、まあ……時折、頭を抱えるほどには」
ふっと微笑む。
見事に品のある微笑みだが、その奥には確かな苦労が見え隠れしている。
「ですが、どれほど疲れても、私はそういう物に頼るという発想には至りませんでした」
「偉いね。」
「前の私ならもしかしたら手を出していたかもしれません。……ですが、今の私の場合は……頼れる相手が、すぐ近くにいますから。」
「?」
ナギサの視線が、まっすぐ私に向けられる。
その瞳の揺れが、夕暮れの光を吸い込みながら、甘く、強く、確かな熱を帯びた。
「先生。……タバコをやめさせる方法をひとつ、提案してもよろしいでしょうか」
「提案?」
「はい」
ナギサは少しだけ頬を赤くしながらも、決して視線を外さずに言った。
「……タバコが心の逃げ場ならば。
その役目を……私に、任せてみませんか?」
風の音が止まった。
胸に、熱いものが落ちてくる。
「……ナギサ?」
「先生が、苦しい時……辛い時……自分の価値が分からなくなる時……紅茶でも、会話でも、肩を貸すことでも、ただ傍にいるだけでも構いません。
その代わり……煙ではなく、私に依存していただきたいのです」
甘い声音だった。
しかし、芯の強さが一切揺らがない。
まるで彼女の本質そのもののように
気品と、優しさと、少しの寂しさを混ぜた声。
「……依存って、そんな簡単に言っていいものじゃなくないかな。」
「承知しております。ですが……」
ナギサは小さく笑ったが、その笑みはどこか切実だった。
「先生は……私にとって大切な方ですから。」
言葉を失った。
夕陽が二人を包み、ナギサの横顔を暖かい金色に染める。
それがあまりにも綺麗で、胸に刺さる。
彼女は手元のタバコへ視線を落とし、小さく囁くように言う。
「……それを吸われるくらいなら、私を呼んでください。
弱くなってしまった時でも、格好悪いところでも、全部……私に見せてください。」
「ナギサ……」
「ええ。先生が依存なさっても、私は、決して嫌いにはなりません。むしろ......。」
少しだけ声が震えた。
「……嬉しいと思います」
その瞬間、自分の中で何かがほどけた。
ゆっくりと、私は手に持ったタバコを指でつまみ、足元の携帯灰皿に押しつけた。
小さくジッと音がする。
「……ナギサ」
「はい、先生」
「少し……頼ってもいい?」
ナギサは一瞬、驚いたように瞬きをした。
だがすぐに、深く、柔らかく微笑む。
「もちろんです!」
言葉に偽りはなかった。
その眼差しは揺れもせず、ただまっすぐに、こちらだけを見ている。
私は無意識に、ナギサの頭をそっと撫でた。
「っ……!」
一瞬で頬が赤くなる。
しかし、彼女は逃げようとはせず、むしろほんの少しだけ身を寄せてきた。
「……依存していただけるのなら……もう少しだけ、撫でてほしい……などと、思ってしまいます。......ダメでしょうか。」
「言っていいの?」
「……恥ずかしいですけれど……言ってしまいましたから」
肩が震えるほど顔を赤くしながらも、彼女はまっすぐにこちらへ、手を伸ばした。
「先生……タバコではなく、私を選んでくださったのなら。これから先も……ずっと……」
その手を、私はしっかりと握った。
「……じゃあ、これからは頼るよ。ナギサに」
「……はい」
風が頬を撫でる。
紫煙の代わりに、紅茶の香りが優しく漂う。
夕陽が落ちていく屋上で、私はタバコの代わりに
ナギサの手の温もりと、彼女の言葉に救われていた。
そして気づく。
依存という言葉の真意は
彼女が私に寄りかかりたい気持ちと同じくらい
私にも寄りかかってほしいという願いなのだと。
二人の影が寄り添うように重なり、ゆっくりと夜の中へ溶けていった。
依存大好き侍が通ります ありがとうございます