冷徹な平和(Cold Peace)の時代へ:中国の構造的敵対と「パイプ」幻想の終焉
高市政権発足後、台湾有事をめぐる国会答弁を契機に日中関係は急速に冷え込んでいる。一部では「高市首相の発言が関係悪化を招いた」との論調もあるが、これは因果関係を見誤っている。
そもそも、かつてのような日中友好の時代はもう戻らない。我々が目指すべきは、幻想に基づく偽りの和解ではなく、構造的敵対を前提とした『冷徹な平和(Cold Peace)』である。これは断交を意味しない。経済的な付き合いは残るが、政治的には一切の幻想を捨て、銃口を向け合いながら握手をするような緊張関係を受け入れることである。そのためにはまず、中国の対日姿勢が日本側の態度とは無関係に、中国国内政治の論理によって構造的に規定されているという現実を理解する必要がある。
従来の「振り子理論」の完全なる終焉
かつて日中関係の分析には一種の法則があった。米中関係が安定している時期には日中関係が悪化し、米中関係が緊張すると中国は日本に融和的になるという「振り子」である。
しかし、この構図はすでに過去のものとなった。
その背景には、ゼロコロナ政策の壊滅的な失敗と、長年放置された不動産バブルの崩壊がある。これは単なる不景気ではない。2025年、中国の不動産開発投資は15%を超える減少を記録し、GDP成長率はかつての勢いを失い4%台へと沈み込んでいる。若年層の失業問題やデフレ圧力は、鄧小平以来、中国共産党が国民に対して保持してきた「自由はないが、豊かさは約束する」という社会契約、即ち経済的正統性を根底から破壊した。
もはや中国共産党は、経済成長によって自らの支配の正当性を証明できない。国民の不満が党に向かうのを防ぐために残された唯一の資源は、「中華民族の偉大な復興」というナラティブと、それを阻む「敵」の存在である。中国共産党にとって、対日敵視はもはや「選択肢」ではなく、体制維持のための「生存不可欠なコスト」へと変質したのである。
「親中」石破政権時代に何が起きたか
さて、この構造的敵対を証明するのが、前政権である石破政権時代の中国の対応である。石破政権は高市政権と比較すれば中国への配慮を見せた時期もあったが、その結果はどうであったか振り返ってみよう。
処理水問題では、科学的根拠を無視した「核汚染水」という呼称で日本を攻撃し続けた。水産物輸入再開を口にしながら、実際の再開は大幅に遅れ、謝罪もなかった。
また、2025年は「抗日戦争勝利80周年」の節目であり、中国国内では大規模なキャンペーンが展開され、日本を「非道徳的な犯罪国家」として描くプロパガンダが国内外で発信された。軍事面でも、領空侵犯や海警局の艦船による威嚇行動が常習的に行われた。
これらは全て、日本側が「刺激しないように」努めていた時期に起きたことである。
これが「友好的」な態度だと言うのであれば、それは悪い冗談であろう。即ち、日本の態度が宥和的であっても、中国の敵対行動は止まらないということが明らかになったのである。
抑止のパラドックスと高市発言の真意
ここで重要なのは、中国の行動を「政治的敵対(プロパガンダ)」と「物理的破局(戦争)」の二層に分けて考える視点である。
中国共産党は国内政治のために日本を敵視する必要があるが、同時に国家としての生存本能も持っている。「敵」は欲しいが、「敗北する戦争」は望んでいない。
よくある過ちは、高市首相の発言が中国を怒らせ、戦争のリスクを高めたという主張である。しかし、これは因果関係を逆転させた議論と言わざるを得ない。
ここで明確にしておきたいのは、本稿の主張は「日本が何をしても同じ」という宿命論ではないということだ。主張の核心は、日本が宥和的な態度を取っても、中国の敵対姿勢を緩和する効果はないという一点にある。そして宥和的態度は効果がないどころか、むしろ危険である。
もし日本が宥和的に振る舞えば、中国は政治的攻撃を続けつつ、日本が抵抗しないと見て、軍事的冒険に出るコストを「低い」と見積もる。これこそが破局への道である。
逆に、毅然とした姿勢で介入の可能性を示唆すればどうなるか。中国は激怒しプロパガンダを強化するが、実際の軍事行動のコスト計算は劇的に跳ね上がる。「日本は本気だ」と思わせることで、計算を狂わせる。
つまり、宥和と敵対緩和の間には因果関係がないが、毅然とした態度と軍事的冒険の抑止の間には因果関係がある。この非対称性を理解することが、現在の日中関係を正しく捉える鍵となる。
結果的に日本の介入の可能性を示したことで、中国は「口では激しく罵るが、手は出せない」という状況に追い込まれる。これこそが、現在の構造下で達成しうる最善の平和、即ち抑止の成立である。
「パイプ」という危険な幻想
さて、最後に公明党や自民党重鎮による「対中パイプ」について考えよう。
ここで強調しておきたいのは、「パイプ幻想」を批判することは、決してあらゆる対話チャンネルを否定することでも、外務省をはじめとする公式外交を軽視することでもない、という点である。
日中間にはすでに、首脳会談、外相会談、次官級協議、局長級協議、防衛当局間のホットラインなど、多層的な公式チャンネルが整備されている。これらはいわば、構造的敵対を前提としつつも、偶発的な軍事衝突や誤算によるエスカレーションを防ぐための最低限の「安全装置」である。本稿が否定しているのは、こうした制度化された公的外交ではない。
問題は、特定の政治家や政党、あるいは一部業界が自らの影響力を誇示する文脈で、「自分たちの"パイプ"がなければ日中外交は成り立たない」といった物語が語られがちな点にある。そうした物語は、外務省や防衛当局が日常的に積み上げている地道な交渉・危機管理の価値を過小評価し、同時に、中国側の統一戦線工作や国内政治介入の格好の入り口ともなりうる。
もしこれらの非公式パイプが有効なものであれば、石破政権時代に処理水問題での誹謗中傷や領空侵犯は起きなかったはずである。しかし現実にはそれらは発生した。パイプは相手が尊重する意図を持って初めて機能するものであり、相手に都合よく利用する意図しかなくなった時点で無価値となる。
この「パイプ崇拝」こそが、中国側の分断工作を許し、日本の外交メッセージを曇らせる原因となっている。中国はパイプを「対話の道具」ではなく、日本国内の世論を操作し、政権に揺さぶりをかけるための「レバレッジ(梃子)」として利用している。正常な公式チャンネルが機能しない責任を日本側の「パイプ不足」に転嫁する論調は、加害者の論理を代弁しているに等しい。
さらに問題なのは、非公式パイプの存在が公式チャンネルを阻害している可能性である。「裏で話がつく」という期待は、政府の毅然とした抑止行動を躊躇させる。加えて、中国側はこのパイプを日本の世論分断に利用する。パイプ役の政治家に甘い顔を見せ、政権批判の道具として使役する。パイプを維持すること自体が目的化し、結果として中国の統一戦線工作に加担してしまう倒錯が生じるのである。
本稿が批判する「パイプ幻想」とは、まさにこの種の「非公式チャネルさえあれば構造的敵対を上書きできるかのような期待」である。冷徹な平和(Cold Peace)とは、むしろ逆に、制度化された公式外交を中核としつつ、準公式・非公式の接触は透明性と説明責任の枠内で慎重に補完的な役割にとどめる、という秩序感覚を含んだ概念でなければならない。
その意味で、「パイプさえあれば外務省などいらない」という方向に傾斜する議論こそが、現実の国際政治の複雑さを過小評価した、危うい幻想である。必要なのは、幻想に基づく友好ではなく、構造的敵対を前提とした冷徹な平和であり、その維持のためにこそ、公的で制度化された外交チャンネルを基盤としつつ、非公式の「パイプ」に過剰な機能を託さない、という冷静な線引きなのである。
結論:構造への理解と覚悟
日中関係の悪化を常に「日本側が何かした」という枠組みで説明しようとする傾向は、中国側の戦略的意図を見えなくさせる。
中国共産党には、経済的正統性が崩壊した今、日本を敵視し続ける国内政治的な理由がある。これは日本がどのような態度を取ろうと変わらない構造的な定数である。この現実を直視せず、「対話」や「パイプ」で何とかなるという幻想を抱くことは、むしろ危険である。
日本が取るべき道は、相手が変わることを期待する「期待の外交」から、相手が変わらないことを前提とする「構造の外交」への転換である。
毅然とした態度は中国を激昂させるが、同時に彼らの計算を合理的なものへと強制する。プロパガンダの叫び声は大きくなるかもしれないが、その背後で彼らは物理的な破局のコストを再計算せざるを得なくなる。これこそが、構造的敵対期における「冷徹な平和(Cold Peace)」の形である。
相手が善良な隣人になることを期待するのではなく、そうならない前提で備えることが、逆説的に平和を維持する道となる。
なぜ抑止か:台湾人の自己決定権のために
最後に、本稿の立場を明確にしておきたい。筆者は中国と争い合いたいわけでも、中国を憎んでいるわけでもない。ただ、台湾人を犠牲にした平和はあってはならないと考えている。台湾を見捨てることは、日本のシーレーンを失うという国益上の致命傷になるだけでなく、かつての統治国としての道義的退廃をも意味する。
これは、台湾を植民地支配していた国家に生まれた者としての責務である。かつて日本は台湾人の意志を問うことなく統治し、そして去った。その歴史を持つ国が今なすべきは、台湾人の自己決定権を尊重することではないか。
もし台湾人が自ら民主政治を放棄し、中国への統合を選択するならば、それは残念ではあるが尊重する。しかし、外部からの軍事的威嚇によってその選択を強制されることは、断じて容認できない。抑止とは、その選択の自由を守るための手段である。


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