東京・阿佐ヶ谷にある銭湯「天徳泉」は、南国リゾート風の内装が独特な雰囲気をもつ。ある日、この銭湯にひとりの若者がふらりと訪れ、「本を置かせてもらえませんか」と熱弁をふるった──それが、若林凌駕さんによる“銭湯移動型書店”プロジェクトの始まりだった。
「『銭湯移動型書店』は、銭湯の軒先をお借りして、お風呂上がりに読むのにぴったりな“風呂上がりの一冊”をセレクトして販売しているんです。天徳泉さんは、地元でよく行く銭湯だったので、ぜひこちらでもと相談したところ、ご主人に快諾していただきました」(若林さん)
本業は放送作家の若林凌駕さん
「風呂上がりの一冊」を手にしてもらいたい
もともと銀行員として多忙な日々を送っていた天徳泉のご主人・川﨑弘樹さんは、親の代から続く銭湯を、50代になった数年前に脱サラして継承した。地域の人々の癒やしの場を守りながら、映画『PERFECT DAYS』のような観葉植物、カセットテープ、ビール、そして本がある世界を、現実の銭湯で実現したいと考えていた。そんな時、まるでタイミングを見計らったかのように現れたのが若林さん。しかも彼は、近所に住む常連客だった。まさに運命的な出会いだった。
「若林さんの提案、“風呂上がりの一冊を手に取ってもらいたいんです”という言葉を、とても直感的に面白いと感じました」(川﨑さん)
天徳泉のご主人・川﨑弘樹さん
そこから、銭湯に本を置くという実験的な取り組みが始まり、同時に若林さん編集による小冊子『銭湯は裏切らない!』も誕生した。
「お笑い芸人の水道橋博士さんと立ち上げた出版社・虎人舎から刊行しています。テーマはズバリ“銭湯の魅力”です。博士さんや自分をはじめ、芸人のやついいちろうさん、映画監督の青柳拓さんなど、銭湯好きな方々に寄稿していただいています。自分も博士さんも無類の銭湯好きなんですが、タイトル『銭湯は裏切らない!』は、落語家・立川談志さんの言葉がもとになっています。 “人生、いろんなことがあるけど、銭湯は裏切らない”──この一言には、銭湯に救われたすべての人の気持ちが込められていると思います」(若林さん)
若林さんが編集した小冊子『銭湯は裏切らない!』(イラスト・みついりな)
体だけでなく心も頭もすっきりと
小冊子の評判は上々で、初版300部は早々に完売し、現在は増刷分を販売中だ。天徳泉だけでも約50部が売れたという。銭湯を訪れた人が湯上がりに本を手に取り、そのままSNSに写真を投稿する──そんな新たな“読書体験”が静かに広がっている。中でも天徳泉は、この活動の「始まりの場所」として特別な意味を持つ。本によって、銭湯の絆が深まったと川﨑さんは語る。
天徳泉のフロントでも『銭湯は裏切らない!』を販売中
「実は、自分自身これまであまり本を読む時間がありませんでした。ずっと銀行のサラリーマンだったので、朝から晩まで働いて、風呂に入らずシャワーで済ませる生活でした。それがこの仕事について、銭湯にしっかり入るようになると、体だけでなく心や頭もすっきりする場所だと分かったんです。さらに、本と組み合わせたときの癒やしの効果は、思っていた以上に大きかったですね」(川﨑さん)
川﨑さんにとって、最も大きな課題は設備の老朽化だという。
「建て替えをして理想を実現するとなると数億円の費用がかかります。物価高のご時世、巨費を投じても銭湯の入浴料金では、なかなかペイできません。高い料金を取ってしまえば、銭湯の意味がなくなります。だから自分で手を動かすんです。設備が故障すれば自ら修理しますし、リニューアルしたければ自ら改装します。老朽化が進んでいるので頻繁に不具合が起きますが、どんな故障が起きたとしても、場合によっては徹夜してでも修理して、臨時休業することなく営業を続けています」(川﨑さん)
脱衣場を広く使えるように、自らの力でエアコンをサウナ室の上へ移動させた
関西から宮古島へと広がる活動
一方の若林さんの本業は放送作家だが、「銭湯移動型書店」の活動は東京だけでなく、京都、さらにははるか南の宮古島にも広がり始めている。
「京都ではSNSで告知を行ったところ、銭湯のオーナーが自主的に『うちでも置いていいですよ』と名乗りを上げてくれました。宮古島は自分の出身地でもあるんですが、お笑いライブや放送作家としての活動と連動して、この9月にイベントを行う予定です。島という中央から離れた場所に、“本と笑い”の文化を持ち込めればと思っています」(若林さん)
最後に、若林さんに「最近、裏切られなかった銭湯は?」と尋ねると、即答で「天徳泉」と返ってきた。
「洗い場のシャンプー類を置く棚なんですが、ある時期、老朽化で傾いて棚が使えなくなっていたため、シャンプーなどは床に直置きされていたんです。それがあるとき、棚が取り付けられて、そこにモノを置けるようになった。川﨑さんがDIYで取り付けたそうなんですが、不便な状態をなんとか自分で直そうという姿勢を見て『来るたびに進化している。このホスピタリティは本当に裏切らない』と思いました」(若林さん)
JR阿佐ヶ谷駅から歩いてしばらくすると、湯気の気配が立ちのぼる町の銭湯が見えてくる。その中に並ぶ一冊の本が、誰かの一日を少しだけ変える。デジタルの時代だからこそ、アナログな癒やしが必要なのだ。銭湯は、やっぱり裏切らない。
(取材・文:銭湯ライター 目崎敬三 写真:編集部)
若林凌駕(わかばやし りょうが) 2001年、沖縄県宮古島市生まれ。放送作家、本屋店主。2024年、店舗を持たない移動式本屋「古本興業」を開業。また、浅草キッド・水道橋博士さんと「14歳」というユニットを組み、漫才やトークライブに参加するなどマルチに活躍中。
X(旧Twitter):@furuhonkogyo
Instagram:@furuhon_kogyo
※若林さんは、お風呂上がりにぴったりな本を選書して送るサービスも行っている。興味のある方はホームページをご覧ください。選書サービスはこちら
【取材地DATA】
阿佐ヶ谷温泉 天徳泉(杉並区|阿佐ヶ谷駅)
●銭湯お遍路番号:杉並区 16番
●住所:杉並区阿佐ヶ谷北2-22-1(銭湯マップはこちら)
●TEL:03-3338-6018
●営業時間:15時~25時
●定休日:水曜
●交通:中央線「阿佐ヶ谷」駅下車、徒歩4分
●ホームページ:https://suginami1010.com/tentokusen
●X(旧Twitter):@tentokusen
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