「ていねいな暮らし」の戦時下起源と「女文字」の男たち / 大塚 英志
5月4日、厚生労働省が新型コロナウィルスを想定した「新しい生活様式」を公表しました。感染対策のために、「手洗いや消毒」「咳エチケットの徹底」といった対策を日常生活に取り入れることだけでなく、会話や食事、働き方など様々な領域における行動について指針を示しています。この「新しい生活様式」という言葉から、戦時下に提唱された「新生活体制」を想起するという大塚英志さんに、エッセイを寄せていただきました。
テレビの向こう側で滔々と説かれるコロナ下の「新しい生活様式」なる語の響きにどうにも不快な既視感がある。それは政治が人々の生活や日常という私権に介入することの不快さだけではない。近衛新体制で提唱された「新生活体制」を想起させるからだ。
かつて日本が戦時下、近衛文麿が大政翼賛会を組織し、第二次近衛内閣で「新体制運動」を開始。その「新体制」は、経済、産業のみならず、教育、文化、そして何より「日常」に及んだ。事実、大政翼賛会の理論的基礎を作った昭和研究会の示した新体制建設綱領には「新生活体制」の項があり、こう説かれる。
内外の非常時局を突破し、日本の歴史的使命たる東亜自立体制建設のため、全体的協同的原理の上に国民生活を一新し、国民に犠牲と忍耐と共に新たなる希望と向上を齎すべき新生活体制の確立を期すること。
文体は勇ましいが、文言をややソフトにすれば、コロナというこの「非常時局」に転用できそうである。何故、「国民生活」を一新しなくてはいけないのかといえば、それは大政翼賛運動の「実践場」が「日常生活」(「大政翼賛会会報」第2号)であるからだ。
ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。例えばコロナへの医療対応を「コロナとの戦争」と比喩した瞬間、そこには「前線」と「銃後」のような構図が成立し、「#医療関係者にエールを」と呼びかけるのは正しいことなのかもしれないが、そこに「兵隊さんありがとう」に似た不穏な響きをぼくは感じてしまう。
と、このように書き始めれば、何でも戦争に結びつけいかがなものかと言う、サヨクのいつもの手口だろうと反発する人々も少なからずいるだろう。しかし、このような「非常時」の「日常」、「銃後」の「生活」を政治が言い出すとき、碌なことにはならない。そのことはやはり歴史を振り返れば明らかなのだ。
なるほど、かつての戦時下と違って私たちは「ステイホーム」しながら、日々の料理に工夫を凝らしインスタにあげ、この機会に断捨離を実行し、私生活を豊かなものにしようと工夫をしているではないかと言う人がおられるだろう。マスク、トイレットペーパーに続き、パンケーキ用の小麦粉が品薄となり、東京都は「こんまり」動画を配信し、家庭菜園が人気だとニュースが報じる。webでエクササイズもあれこれと配信される。飲食業の自粛に伴うフードロス問題にも熱心だ。
その一つひとつは悪いことではない。
しかしそれでも引っかかるのは、それらが、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」や「テレワーク」とセットになって求められている、新しい日常や生活の一部である、ということだ。私たちが「日常生活」に求める豊かさは、コロナ政策の「実践」の場になってしまっている。
ぼくは、自分の生活、日常に公権力が入り込み、そこに「正義」が仮にあっても、それはやはり不快である。そして、その「不快である」ということ自体が言い難く、誰かがそれを言い出さないか互いに牽制しあい、「新しい日常」を生きることが自明とされる。そういう空気はきっと近衛新体制下の日常の基調にあった、と想像もする。
ぼくはそのことがとても気持ちが悪い。
本当に気持ち悪い。
†「ていねいな暮らし」の原型をつくりあげた花森安治
もう少しこのコロナ下の生活について考えてみる。
コロナ下で人々が楽しむことを求められている生活は、少し前の流行語を用いるなら「ていねいな暮らし」とでも言うべきものである。
実は、かつての「銃後」においても「新生活」のための献立が誌面を飾り、日々の総菜の細かなレシピが語られ、家の庭には防空壕より先にまず菜園がつくられた。菜園の作物に合わせて一年サイクルでの「漬物暦」が紹介される(図1)。婦人雑誌はまず服の数を減らそうと断捨離のようなことを言い出していた。衣服や不用品の整理を説く冊子を自治体が配りもした(図2)。ラジオに合わせて日本中が体操を始めるのはもう少し前だが、日中戦争開戦の翌年に創刊される内閣情報局のプロパガンダ雑誌『写真週報』では富士山の前でラジオ体操する子供らの姿がグラビアページを飾る(図3)。やはり戦時下の光景だ。それらは一つ一つ、戦時下の新聞や雑誌の記事でいくらでも確認できる。そうやって一見、戦時体制と無縁の実践で、日常がつくり変えられていくのが、近衛新体制の「新体制生活」だった。
現在の「ていねいな暮らし」の流行がいつどこから始まったのかは判然としないが、『暮しの手帖』の編集長が松浦弥太郎だった時期あたりから盛んに目にするようになった気がする。『暮しの手帖』と敢えて雑誌名を書いたのは、かつて、「戦時下」の「日常生活」を「ていねいな暮らし」として作り出したのがこの雑誌の創始者の一人・花森安治だからである。花森が大政翼賛会の宣伝局で戦時下スローガンに関わったことはよく知られる。
特に、戦時標語との関係はよく語られる。「贅沢は敵だ」というコピーは花森が企業広報に関わったときの作だ、いや違うといった諸説があるが、「欲しがりません勝つまでは」などの代表的な戦時標語に選者として関わり、それを国家広告として、いわばプロデュースした。敗戦直前には広島への原爆投下を一般の人々より早く知り得る立場にあったことも、関係者の日記の中に記されている。そういう立場にもいた。
しかし重要なのは、花森が戦時下、「ていねいな暮らし」の原型とでもいうべきものをつくり上げていたことだ。あるいは花森が、というのはいささか彼に責を負わせすぎかもしれない。しかし近衛新体制に始まる戦時下の日常の「実践」を導いた生活様式や美意識があり、それは花森が手がけた雑誌の中で表現され、「戦後」において、戦時下起源であることを曖昧にしたまま持ち越されたことは確かなのだ。
企業広告に関わっていた花森が、発足したての大政翼賛会に帝国大学新聞の繋がりで採用されるのは、彼が二等兵として出征し傷痍軍人として帰国した2年後である。その徴兵の経験、一銭五厘のハガキ一枚で使い捨ての兵士として招集された経験を戦後の彼は、詩というよりは広告コピーの文体で書き、そのパブリックイメージがつくられる。ここでは立ち入らないが、花森の詩の文体は戦時広告の文体と酷似している。しかし、翼賛会は人を一銭五厘で徴兵するための宣伝機関であった。
†花森の「ジェンダー的複眼」
実は、翼賛会へ採用される直前、花森は婦人雑誌の編集を手がけていた。『婦人の生活』という雑誌であり、林芙美子らの随筆が誌面を飾り、服飾関係の記事が際立つ。
学生時代の花森が、ギリシャ神話を模した「直線断ち」の服を手製し、後に対外プロパガンダ雑誌『FRONT』の中心となる木村伊兵衛が、偶然、目撃して写真に収めた挿話は出来すぎだが、彼が服飾に強く関心を持ち、その感覚の中心に確実な「女性性」があったことは、彼の仕事からうかがえる。それが彼のジェンダー上の何かなのか、この国の近代に水脈としてある「男性によるフェミニズム」なのかは、今は判断するだけの材料はない。
ただ、服飾を女性の視線で見たとき、男たちとは異なる風景が戦時下にあったことは、花森の「女性性」を考える上で重要だ。
例えば「国民服」と言った場合、多くの人々が暗に抑圧や軍国主義の象徴と、自動的に連想するだろう。だが、民俗学の立場から服飾研究を行う横田尚美の指摘によると、地方などでは国民服は女性たちに都会的でおしゃれな服と受け止められていた、という。女学校の制服も戦時統制の象徴だが、ぼくが私蔵する資料『女学校の制服』は、戦時下、服飾を学ぶ女学生二人が、制服統制への抵抗として、東京中の女学校の制服を再現可能なようにスケッチし、採寸したものだ(図4)。卒業後、その彼女たちは服装統制の前線に立ち、縫製を教えることになる。彼女たちにとって「制服」とは学校制度や統制といった「公」のツールだが、他方で「私語」のような視線や文脈がある。この私家版制服図鑑はその所在を記録している。
男たちにとって単純なイデオロギーの象徴でしかない「制服」や「国民服」によって行った服装統制さえ、女性はそれを細部のつくりかえでオシャレに着こなし、良くも悪くも、自分たちの側に引き寄せ、日常化する。それを花森は理解でき、表現できる。そういう男性なのだ。
服飾が「生活」や「日常」にいかに根を下ろすかを理解する女性目線が花森にはある。
しかしその一方で、花森の大学の卒論「社会学的美学の立場から見た衣粧」は、徳川幕府の統治機構と服装の関係を論じたものだ。服飾と政治の関わりを彼は承知していた。
女性目線だけではないのである。
だからこそ、生活文化が「新体制」実践の現場になっていくとき、花森のジェンダー的複眼はそれを正確に設計し得た。
それが戦時下編集者としての花森の特異な才能であった。
花森がつくった雑誌『婦人の生活』は、元は企業のPR誌であった。この婦人向けの雑誌作りを花森は翼賛会に合流しても尚、つくり続けた。「みだしなみとくほん」「すまひといふく」「くらしの工夫」と、花森が編集した婦人誌は、着物を特集する一方で「昔の人の節約」を説き古いゆかたで襖を飾る、というまさに「ていねいな暮らし」の思考の雛形が並ぶものだ。国防服を女性がいかにも「凛凛と」して着こなせるよう、そのデザインと「裁ち方縫い方」を提案する。女性目線に立ち国防服でおしゃれをしようと企む(図5,6,7)。
それら花森の提案は、翼賛体制という政治を日常の細部に、いわば女文字で落とし込んだところに特長がある。戦時下の婦人雑誌は男性のように勇ましい言葉で語る女達も多数いたが、花森は違った。政治の日常化、生活化には彼の女文字の編集こそが有効だった。
†女文字が隠蔽するもの
翼賛会宣伝部員としての花森は、戦時下、国家広告の理論化と実践を行った集団「報道技術研究会」と互いに接近、「おねがひです。隊長殿、あの旗を射たせて下さいッ!」のコピーで知られるポスターを始め、男文字のプロパガンダを牽引してもいく。
その時、厄介なのは「戦争」という前提、国家プロパガンダという文脈をとり除いたとき、男文字の仕事はあからさまな戦争協力に見える一方、女文字の仕事はまるでそんなものは感じさせず、むしろ凜として節度を持った生活の主張のように思える点だ。
そういう例は他にもある。戦時下、もう一つの思想統制としてあったのが、科学戦遂行のための「科学」的啓蒙の徹底である。その旗印の許につくられた、旭太郎(マルクス主義詩人・小熊秀雄のいかにもの筆名)が原作の「科学」をモチーフとする子供向けまんがや、村山知義の科学絵本から少しも戦時色を感じないのと同じだ。しかしそれは彼らが転向をしなかったからではなく、こういう種類の「転向」があっただけの話で、それは中野重治の『空想家とシナリオ』の中で、仕事を干された左翼作家が「文科映画」(国策啓蒙科学映画)のシナリオを描く姿に書き留められているではないか。
花森の女文字の仕事も同様である。戦時下につくられたことばや書物で戦時色、軍国色が感じられない作品は実は少なくないが、多くはつくり手の抵抗の証しでなく、別の国策に従順であった証拠なのである。
この花森の生活雑誌群が、その題名に平仮名を多用していることも注意していい。いささか皮肉めいた言い方になるが、「ていねいな暮らし」系のライターが好んで用いる生活をめぐる平仮名の単語が並んでいるのである。平仮名を女文字と言うとあまりに直球だが、そういう女文字の「くらし」を花森は翼賛下につくったのである。
†隣組長、村岡花子のことば
近衛新体制下、新体制をめぐって男性たちのイデオロギーに溢れた男文字の書物が大量に刊行され、思いつめた左翼青年の中には、ぼくの本来の専門のまんが関係に限っても加藤悦郎や阪本牙城のように、勢い余って工場労働者や開拓民の「生活」や「実践」に身を投じてしまう者がいた。しかし、それは例えば以下のような『赤毛のアン』翻訳者の村岡花子のエッセイと比すと対象的だ。
子供も大人も一緒になつて宣傳のための實踐をするのは感心しないが、眞實の意味に於ての日常生活をとほしての職域奉公の實踐を私は自分の隣組の目標として行きたい。
(村岡花子「隣組ノート」、大政翼賛會宣傳部編『随筆集 私の隣組』)
村岡が批判する「宣傳のための實踐」とは勇ましい男文字の新体制運動を指す。それに対し村岡は、良くも悪くも(いや、本当はかなり「悪い」のだが)「日常生活」での実践をこそ翼賛運動の本質と理解している。
実は、この一文は大政翼賛会の下部組織としてつくられた隣組の「組長」として活動した経験を翼賛会のパンフレットに寄せたものだ。隣組というとこれも大きな誤解があり、「隣組」の歌の牧歌的にも聞こえる曲調や、江戸期の五人組に端を発するという伝統的起源論の流布で、古き良き近隣社会の象徴のように錯誤されさえするが、実際には、ナチスドイツの下部組織であるブロックを模したものだ。一方では中国大陸や台湾など「外地」への隣組組織の拡大を想定し、隣組は古代中国起源とも説かれていた。戦時下刊行された一般向けの隣組マニュアルの類に堂々とそう書いてあるのだから仕方ない。
そもそも、隣組がまず組織されていったのは近代以前、郊外へ郊外へと拡大していった都市近郊に於いてである。希薄化した社会関係の再構築が目的だとも当時、語られた。郊外の新興住宅地に江戸時代の近隣組織の残存などないことは考えればわかるものだ。
隣組とは、つまりは「新体制生活」を実践することでつくられる、人工的な「日常」の立ち上がる場であった。
だから注意していいのは、このような「隣組」を語るときに積極的に動員されたのが「日常」の語り手であった、ということだ。しかも、村岡花子を腐すわけでもないが、どこか浮世離れした日常の描き手である。
†『詩集組長詩篇』の男文字と女文字
村岡が隣組エッセイを寄せたのは、すでに触れたように『随筆集 私の隣組』である。執筆者はいずれも隣組組長として行動した著名人であるがその顔ぶれは壮絶である。男性陣は、日本における原爆開発に関わった仁科芳雄、玉音放送に奔走することになる下村海南(宏)、航空エンジン研究の第一人者であった富塚清、登山家であるが寄稿文や郷土研究で知られる冠松次郎と並ぶ。そこに唯一の女性で村岡花子が加わる。一見脈絡がないように思えるが、この人選は国策にあまりに忠実である。一方では「科学」の最先端にいる者、他方では「日常」や「生活」の描き手と、綺麗に二つに分かれるではないか。下村は、実は歌人としてもよく知られる。
岡本一平は、あの「隣組」の歌の作詞者でもあるまんが家である。まんが領域における隣組プロパガンダは、途中から新日本漫画家協会の「翼賛一家」にとって替わられるが、当初は岡本を軸に展開しかけていた。岡本は花森の生活雑誌にも男性の着物についてのエッセイを寄稿している。ここからも生活を描くことに長けたまんが家が必要とされたのだとわかる。
その中で、尾崎喜八の名は、あるいはあまり今は馴染みがないかもしれない。ベートーヴェン「歓喜の歌」の翻訳で知られるが、白樺派に近い詩人である。
尾崎の「隣組」論は凡庸だが、屋外での常会(隣組の集会)を実践したくだりだけは、興味深い。
つまり組内の何處かへ集まつて空の下でやる常會である。之は私が或時狹山ヶ丘の或部落を通り掛つた時目撃した光景を取つて用ひたもので、ちやうど到る處で柿の實の美しく輝く秋だつたが、村のおかみさん達が山畑の畦ふちへ腰をかけて晝間の常會をやつてゐた。農家の裏庭に白や桃色や薄紫の蝦夷菊が咲き、白い雲のぽつつり浮んだ秋空の下を無數の赤蜻蛉が飛んでゐた。
その光景がいかにも私の心を打つた。田園の野外常會、古くして新らしい日本の牧歌。それを取入れたのが私達の屋外常會である。
「新しい村」ではないがどこか白樺派の理想化された生活共同体への憧憬を強引に隣組に重ねている感じもする。
その尾崎は『詩集組長詩篇』なる奇妙な詩集を残している。大政翼賛会宣伝部の刊行である。
宣伝部からは、A6判中綴じで60〜70ページ程度の冊子が宣伝用ツールとして大量に刊行されている。多くが中扉に隣組での「回覧」を求める但し書きが載り、その内容の多くは新体制啓蒙のマニュアルや、プロパガンダ用の簡易なツールで、創作では人形劇や演劇など隣組が「厚生」(国民参加の協同的娯楽)として上演するための脚本はあるものの、詩集は珍しい。
この詩集が『組長詩篇』と奇怪な題を冠しているのは、「戦時下隣組長としての私によってかかれ」たからである。詩人の第一義的なアイデンティティが「隣組組長」であるのは笑うに笑えない。なんのひねりもない。
しかし、この尾崎の詩集が、興味深いのは男文字と女文字の二重構造になっていることだ。その点で花森に近い。
ハワイ海戰、マレー沖海戰、
あの赫々の大戰果にも慘として驕らず、
我が海軍將兵は唇をかみ眦を決して
あすの作戰に從事してゐると人は言つた。
その言葉を幾たびか心に繰返しながら、
私はただ一人燈火管制下の我町を視てまはる。
芋なり。
配給の薩摩芋なり。
その形紡錘に似て
皮の色紅なるを紅赤とし、
形やや短くして
紅の色ほのぼのたるを鹿兒島とす。
前者は日米開戦の直後の緊迫した様子、後者は配給の芋の細部を歌う。元々尾崎の詩は山岳や自然に過度に憧れる、いささか地に足のつかないものが少なくないが、戦時下にあって此の詩人は「生活」を実に丁寧に歌うのだ。
家庭菜園を歌ったものもある。
さざんくわの花 地にこぼれ、
笹鳴のこゑ 路にあり。
うすむらさきの初霜に
うたれて結ぶ白菜の、
はつはつあまき味をおもふ。
その尾崎は、「けふの詩人はもう昔の詩人ではゐられない」「公の福祉を先立たしめなくてはならない」(「窓前臨書」同)と自分に言い聞かせる。「公の福祉」とは戦時協力のことだが、一体、「公の福祉」が詩のことばになるとは、と彼を憐憫さえしたくなる。
†ていねいな暮らしに取り込まれていくということ
こういった詩人の「日常」や「生活」は、最初から地に足がついていたわけではない。
戦時下の日常作りに駆り出された作家の中には村岡花子のように少女文化の担い手も少なからずいた。宝塚が「隣組」をモチーフにした歌劇を上演した記録も残っている。
もはや忘れられたと言っていい、少女小説家・城夏子なども戦時下の日常を描いた者の一人だ。女学校時代にデビューし、平塚らいてうらの『婦人戦線』にも接近するが、戦時下の著作に『歡びの書』がある。これは日本開戦から半年後に刊行され、その時点での女性たちの日常が描かれる。そこには服や食についての彼女の「好み」についての記述が溢れる。
もう一つほしいふだん着は、昔の地のいゝめりんすである。ほんとに毛織ものといふ感じのする柔らかな手ざはり。そして、その模様と色。紫地に白く優雅な花模様を染め拔いたのや、白地に秋草を細い線で、色々な色どりで散らしたものなど、何かふらんすと日本とのあいのこみたいな、リヽシズムを持つてゐたものだ。
初夏のフランネルと共に、私の大好きなものの一つであつた。
今は、ハイカラなフランネルも着られないし、めりんすなんかふりむいてもみたくない程、いやなのばかり。
このまま「ていねいな暮らし」エッセイとしてwebサイトに載っていても誰も気がつかないだろう。尾崎と同様に城もまた、食べ物や布といった、手仕事の産物を実に丁寧に描写する。
だがこのような一種の生活上の「確かさ」を彼女にもたらしたものは何なのか。
同書には「翼賛一家の笮螺さん」という一文が掲載されている。「笮螺」は「さくら」と読み、翼賛会プロパガンダまんが「翼賛一家」の長女と同じ名の「東京の一隅に愉しく生活しているお嬢さん」についてのエッセイである。
彼女は、宝塚出身の葦原那子や小夜福子に入れあげ、ファッションを真似、手芸で宝塚スタアの人形をつくる日々を送っていた。しかし、日中戦争が始まり、彼女の手芸は「兵隊さん」用の慰問人形の「献納」へと変わり、女優への憧れに替わって、海軍兵士の話を同じ口調で熱心にするようになった。そして、日米開戦後の今は自宅に隣組の「娘さん」を集め手芸や習字を教え、病弱な姉に替わって家事を切り盛りし、鳥たちに与える餌をつくる。そのように、戦時下という環境が、彼女に「くらし」や「生活」の具体相を与えていく様が描かれるのである。
この地に足のつかぬ都会の少女なり女性たちが、新体制下、豹変していく様は、城が描き留めた例に留まらない。ぼくは、城の文体から太宰治の「女生徒」を連想する。そこではいうまでもなく、一人称の「私」のふわふわと漂う自意識が冗舌に語られる。それは現在形としても読み得る、自我のあり方だ。
しかし注意して読むと、それは、ファシズムを待つ小説であることもぼくはくり返し書いてきた。またくり返すのは気が引けるが、やはり以下のくだりを引用せざるを得ない。これも考えてみれば、男による女文字だ。太宰の危うさもそこにある。
それならば、もっと具体的に、ただ一言、右へ行け、左へ行け、と、ただ一言、権威を以て指で示してくれたほうが、どんなに有難いかわからない。(中略)こうしろ、ああしろ、と強い力で言いつけてくれたら、私たち、みんな、そのとおりにする。
ぼくはこの十年近く、ずっと今はファシズムを待つ戦時下だと語っては失笑されてきた。しかし、この世界が待っていたのは此のような「強い力」であったことは、やっと実感してもらえるだろう。
言うまでもなく「女生徒」は日中戦争開戦後の1939年に書かれ、同名の単行本に収録されるが、1942年、つまり日米開戦の翌年、短編集『女性』に再録される。ぼくはこの短編集が「女生徒」の読まれる文脈を正確に示しているとずっと言ってきた。そこには「十二月八日」と題された短編が収録される。それが女生徒ではなく主婦のモノローグとして語られ、日米開戦当時の「わたし」の変容がこう描写される。
きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。
ふわふわと地に足のつかない「わたし」が着地したのはどこであったかは明らかである。そこで主婦となった「わたし」は「昭和十六年の十二月八日」の「生活」を「ていねいに」書こうと決意するのだ。「ていねいな暮らし」の「ていねい」がここから始まったと強弁する気はないが、彼女が新体制下に「ていねいな」「生活」を発見した事だけは確かである。その彼女たちが担う「新体制生活」のフィクサーの一人が、女文字の花森安治であったのは既に見た。
その花森と「報研」は日米開戦の一周年に向けて「十二月八日」という特別な日付をフォントとして表現しようと試みている。一体、日付をレタリングによって特権化しようというのは何と無謀で傲慢な試みなのか。しかしそれは「日常」が更新された日付として歴史に収録されるべきだと戦時下、女文字で語り続けた太宰治が描き残したことと正確に呼応する(図8)。
花森が戦後『暮しの手帖』を創刊したことはよく知られるが、「報研」のメンバーたちはマガジンハウスをつくり、あるいはコピーライターやアートディレクターとして電通を始めとする広告代理店や広告制作の現場で戦後の生活を設計していく。雑誌や広告の歴史ではよく知られた事実だ。そういうものの果てにぼくたちのこの「生活」や「日常」があり、だからこそ、ぼくはコロナという戦時下・新体制がもたらした「新しい生活様式」や喜々として推奨される「ていねいな暮らし」に、吐き気さえ覚えるのである。
だから、この「日常」がいかにして出来上がったのか、その歴史というものが、もう一度、書かれなくてはいけない、と強く思う。
大塚 英志(おおつか えいじ)
1958年生まれ。まんが原作者、批評家。神戸芸術工科大学教授、東京大学大学院情報学環特任教授を務め、現在、国際日本文化研究センター教授。まんが原作に『クウデタア<完全版>』(KADOKAWA)他多数、評論に『感情天皇論』(ちくま新書)、『少女たちの「かわいい」天皇』(角川文庫)、『感情化する社会』(太田出版)、『大政翼賛会のメディアミックス』(平凡社)、『日本がバカだから戦争に負けた』(星海社新書)、他多数。
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1940年、第二次世界大戦への参画を睨む近衛文麿政権は、国民を戦争に動員するための「新生活体制」の確立を唱えた。生活を一新し、国民を内面から作り変える――。そのために用いられたのは、男性を戦場に駆り立てる勇ましい言葉ばかりではなかった。「ていねいな暮らし」「断捨離」「着こなし」「町内会」「二次創作」。これらは、元を正せば戦時下に女文字のプロパガンダがつくりだしたものである。現在私たちが享受する「当たり前の日常」の起源を問い、政治の生活への介入があからさまになった「withコロナ」の暮らしを見つめ直す。
<目次>
序章 戦争は「新しい生活様式」の顔をしてやってくる
第1章 花森安治と「女文字」のプロパガンダ
第2章 太宰治の女性一人称小説と戦争メディアミックス
第3章 戦時下のミニマリスト詩人・尾崎喜八の「隣組」
第4章 「サザエさん」一家はどこから来たのか
第5章 制服女学生とガスマスクのある日常
付論 花森安治の小説とモダニズム



