一週遅れの映画評:『映画ドラえもん のび太の絵世界物語』これは「喪失」を描いたもの。
なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。
今回は『映画ドラえもんのび太の絵世界物語』です。
※※※※※※※※※※※※※
面白かったし、めちゃくちゃ良かったんだけど、個人的な好みで言うとSF色が強めだった去年の『地球交響曲』がちょっと上かなーという印象でしたね。
ただ敵キャラクターにしっかりとした共通点があるところと、「虚構のキャラクターと友だちになること」をしっかり肯定していくお話はかなり良かったです。
ざっくりとあらすじを言うと、「絵の中と現実を行き来できる」ひみつ道具で遊んでいたのび太たちは、少女とコウモリ? が描かれた一枚の絵の中に入る。実はその絵、ひとつの絵画が事故によって2つに割れていて、のび太たちが入った場所とは別に割れた片割れも「絵と現実の出入り口」になっていた。絵の中にいた少女と一緒に、そのもうひとつの出入り口からたどり着いたのは芸術によって栄えた13世紀の王国で。
その王国自体は何らかの(恐らく火山の噴火)で跡形も無く消失したために、現実の歴史では未発見のまま忘れ去られてるんですね。で、絵の中で出会った少女というのが、4年前に行方不明となっていた王国の姫だった。神隠しにあったことで国王と、彼女の幼馴染である王国お抱えの画家見習いは、姫の帰還に喜ぶ。
その一方、王城では特に優秀な美術品を展示しているんですが、それら美術品は盗難の被害にあっている。のび太たちはその美術品窃盗犯を探しているうちに、王国が崩壊する大きな事件に巻き込まれていく……って感じなのね。
ここで2つの敵が登場するんですよ。ひとりは美術品の窃盗犯、もうひとりはその窃盗犯が追い詰められて「絵の中と現実を行き来できる」ひみつ道具を使ったことで王城に展示されていた絵から出てきた「この国の伝承にある悪魔」。
でね、この窃盗犯、実はのび太たちよりも未来からやってきた人物で。美術品を盗んでいたことがバレたとき、こう言うんですよ。「この国は未来で忘れ去られて、ここにある素晴らしい美術品も失われている。自分はそれを救っているだけだ」って。これかなり妥当性があると私は思うんですよ。
例えばダ・ヴィンチの「モナ・リザ」が盗まれたとするじゃない、その翌日ルーブル美術館が火事で全焼したと仮定する。そのとき「モナ・リザ」窃盗犯は当然その罪で裁かれるだろうけど、一方で「モナ・リザ」を焼失から救った英雄としても扱われると思うんですよ。現在の社会としてどうか? ってのと美術史としてどうか? ってので別の答えが用意されている、ましてやこの作品において未来人である窃盗犯からしてみれば「失われることが確定している」作品なわけで、彼の行動には一定の評価ができる部分ってあると思うの。
ただ問題はその美術品窃盗について「どうせこの国の人間はみんな死ぬんだから、盗んでもいいだろ」と言ってしまったことで。それは「いま、ここ」でその作品を見て感動したりする権利を奪っている、ひいてはその美術品を後の世代でも鑑賞できるようにする意味を否定しているわけで。それによって窃盗犯は持っていた妥当性を失ってしまうんですよね。
そしてもうひとりの「悪魔」なんですけど、こいつは美術品に留まらずあらゆるものから「色」を奪って塩の柱みたいなもんに変えてしまうってヤツで。美術が中心にあるこの王国では、世界を滅亡に導く存在として恐れられてる。今回はその悪魔そのものではなくて、ひみつ道具によってその悪魔が描かれた絵画から出てきてしまう。
でね、一見無関係に思える窃盗犯と悪魔なんですが、ここに共通点が隠れているんです。そこには一本の補助線が必要になってくる。
ええと、映画冒頭でのび太が学校の課題として絵を描いているんですけど、まぁ毎度のごとく「上手に描けない!」って悩んでる。それに対してのび太パパは「上手な絵と、良い絵は違う」ってことを言うのね。さらには王国お抱えの画家見習いも「上手に描けなくても、大好きだって気持ちがこもっていればそれは良い絵だよ」ってのび太に教えるんです。
つまり「絵」にとって重要なのは、写実的な上手い下手ではなく、そこに込められてる感情ですよって話をしているわけよね。その補助線が入ることによって「美術品を奪い、誰かの感動する機会を奪う」窃盗犯と、「色」を奪うことで作品に込められている気持ちを消してしまう悪魔、このふたりのやってることは同じくらい悪いことだ! って言ってるわけですよ。
そんな悪魔に対して逆転を起こしたのがのび太の描いた絵で、それは写実性としては下手なドラえもんの絵なんだけど、画家見習いに言われた通り「大好きだ」という気持ちで描かれていて。それはこの時点だと美術品として価値は低いから窃盗犯には無意味で、だけど悪魔が消したいと思っている「色」つまり想いはたっぷりと込められている。そういった「気持ち」を消し去ろうとする悪魔と真逆のものであるわけだから。
さらには最終的に悪魔を撃退したことで、のび太の下手な絵は王城に展示されることになる。それって絵自体の上手い下手よりも、何を考えて描かれたか、どういった想いが込められているか、さらにはこの絵が社会や環境に及ぼした影響を含めて「素晴らしい芸術品」として意味があるって話で。これってめちゃくちゃ美術史的な価値基準/評価基準のことを言ってるんですよね。だからこそ一見妥当性がありそうな窃盗犯の言動をも打ち返せるわけですよ。のび太の絵は「この国を救った」という物語/歴史込みで、美術品として価値がある。そこから歴史を無視して盗んでいくのって「いま、ここ」でその美術品が作られたことの意味から、窃盗犯は盗むことで背景にある物語から切断してしまうわけですから。
さて、そうやって悪魔は撃退したものの、ここで「絵の中と現実を行き来できる」ひみつ道具の効果が切れてしまう。その結果、姫さまも消えてしまうんです。のび太たちが絵の中で出会った少女は、「絵の中の姫」だからひみつ道具の効果が無くなれば消えてしまうのは道理ですから。
ここがめちゃくちゃ素晴らしいなと思っていて。えっとね、画家見習いはのび太に「大好きだって気持ちを込める」って教えているんだけど、それはのび太限定の指導であるわけ。一方でのび太パパは絵画一般の話として「良い絵とは気持ちが込められたもの」って言ってるわけさ。そしてここではパパの方が正確な表現をしている、だって王城の展示室には「恐ろしい悪魔の絵」が素晴らしい美術品として飾られていたわけじゃない? それって当然「悪魔大好き!」って描かれたわけではなく、恐ろしい怖いって想いで描かれている。ポジティブな感情だけでなく、ネガティブな感情もまた「良い絵」を生み出すってことを暗に表現しているわけですよ。
その上で、「姫」が出てきた絵っていうのは、彼女が行方不明になったあと悲しむ王さま/后を慰めるために描かれているのね。つまりそこに込められているものって「喪失」なんです。姫が突然消えてしまった、その悲しみや戸惑い、諦めきれなさとそれでもどこかで踏ん切りをつけなきゃならない現実。そういった複雑に絡み合う感情を持った「喪失」がテーマになった絵で。
そして絵に込められた感情の大切さ重要性を肯定すればするほど、「喪失」が込められた絵がもたらす結末は「喪失」でしかありえないわけですよ。
だけど現実での「喪失」を描くことは、絵の中で「姫」を描くことだから、作品の中には確かに「姫」は存在している。現実にはいない者を、作品つまり虚構の中で存在させることができる。そしてのび太たちは確かにその虚構の姫と友だちになって手を繋ぐことができた。
確かに絵/虚構ではあるけど、それが失った人たちである王さまの慰めであり。同時にのび太たちにとっては友人にもなる。実在しないキャラクターでも、現実と変わらず存在を感じれたり、友情を育めることを強く肯定していてそれが素晴らしい。それに加えて「喪失」を描くということは、喪失以前「間違いなくそこに彼女がいた」ことの証明であり、歴史の中で失われた王国をも「確かにあったんだ」って肯定している。その延長線には「歴史に名を残さない存在」全てへの確かなまなざしがあることを意味しているのです。
※※※※※※※※※※※※※
次回は『お嬢と番犬くん』評を予定しております。
この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。





コメント
1はじめてコメントいたします。
ドラえもんの二次創作作品を見たのですがそれもラストシーンがのび太の絵。あなたさまの指摘どおりなら、のび太の絵の意味は「願い」であり、「祈り」になりますね。のび太が彼・彼女たちには笑っていてほしいという。