「私は、ギリギリにならないとできないんです!」と提出物とか宿題や試験勉強なども、本当に直前になるまで手がつけられなかった。
どこかへ出掛ける時も「前の日にちゃんと準備しておけばいいじゃない!」と思うのだが、出発する直前になって「あ!何も用意していない!」と慌てて用意をして、遅刻ギリギリ。
そして、到着したら「あれも持ってきてない!あれも忘れた!」という感じになって「ダメじゃん!私!」となってしまう。
ちゃんと前に余裕を持って用意しておけば楽しめたものが「全然楽しめないんですけど!」となるのが私の日常でした。
一番わかりやすいのが、母親からの暗示。
幼稚園から、記憶があるのは小学生の頃から「ちゃんと明日の用意は前の日にやりなさい!」とイラッとした口調で言われてしまう。
あれって面白いですよね。
イラっとした口調で言われると「ビクッ!」として「は~い!」と調子のいい返事をするんだけど「用意ができない!」となってしまう。
母親の頭の中では「こっちが家事で忙しい思いをしているのに、ダラダラしやがって!」とぼーっとしている私をみてイラッとしてしまう。
ここがポイントになりますね。
「ちゃんと前の日の準備をやっていたら明日の学校が楽しくなるよ!」というメッセージだったら動ける。
でも、母親が「ちゃんと明日の用意は前の日にやりなさい!」という言葉の背後には「私が忙しい時にダラダラしているんじゃねえ!」という感じで言葉で罰を与える感じになっている。
要するにロバや馬に入れるムチ入れみたいなもので「ピシッ!」とボケーっとしている私に罰が与えられる。
それを繰り返しているうちに「怠けている!」という時にビシッと母親からイラっとした口調で言われると、動けなくなる。
動けなくなると「宿題を忘れた」となって、学校の先生から「廊下に立っていなさい!」と怠け者の罰を与えられて、みんなから蔑まれた目で見られることがさらなる罰になる。
そして、反省して家に帰って「さあ!今日こそは宿題をやるぞ!」と思っていると、母親から「ちゃんと宿題をやったの!」とイラッとした口調で言われてしまうと「動けない!」となるのは、その口調に罰が入っているから。
「怠け者」で罰が連続してしまうと、学習性無力になってしまって「チ~ン!」と頭が真っ白になって動けなくなる。
これって体験したことがある人じゃないとわからないんですよね。
そんな!自分からやればいいじゃない!と人は言うのよね。
でも、実際にあの状況を体験すると本当に動けなくなって、今度は自分で「自分は怠け者でダメだ!」とダメ出しをした時に「罰」を自分で与えて、自分で学習性無力状態を作り出してしまう。
だから「自分を責めれば責めるほど動けない」となるのは、母親が罰を与えていたように、自分で自分に罰を与えることになって、学習性無力を作り出すから。
ここで面白いのは「自分を責めちゃダメだ!」とみんなは思ってしまう。
この「ダメだ!」が罰になるから「チ~ン!」となって自分を責めるのが止まらなくなって「やっぱり動けなくてダメじゃん!」と再び罰を与える。
だから「自分は前もっていつも用意しない!」というのも罰を与えていることになるから「直前まで動けない」となる。
「ちゃんと用意しておけばいいのにちっともしない!」と自分に対してイラ立てば、それも罰になるから「用意ができない」という状況が作られる。
だから「なにかやらなきゃ!」となった時に「淡々と」と言った時に「あ!罰がない!」となるから「動けるじゃん!」と自由に動き回れる。
ちなみに学習性無力が解けるまでは、ちょっと時間が必要になるが「淡々と」という感じを繰り返していると「あ!学習性無力から解放されてきたかも!」と自由に飛び跳ねることができる。
「あれをしなくちゃいけない!」は「ビシッ!」で罰ですね。
「あれもできてない!」も「ビシッ!」で罰ですね。
「なんで自分はちゃんとやらないんだろう!」も「ビシッ!」で罰ですね。
これらを全て「淡々と」に変えていくと「あれ?」となるから不思議。
結局、親がものすごく我慢をしていて、相当ストレスを溜めていたから、その溜まったストレスの電流に感電して学習性無力が作り上げられちゃうんですよね。
親としては「ストレスの原因は子供」と思っているんですけど「本当かな?」と今ではちゃんと疑えます。
自由な生き方をしていて、真実に向かっていたらストレスなんか溜まらないはず。
でも、みんな人間なんです。
清く正しく生きなければ、と思えば思うほどストレスは溜まる。
そして、自分自身にも周囲の人間に対しても「ビシッ!」で罰を与えて学習性無力を作り出す。
でも「淡々と」で簡単に罪と罰がない世界は作り出せて、学習性無力の状態から解放されて自由に生きることができる。
そう、何が起きても「自由に淡々と生きる」でいいんですよね。
(つづく)