1987年作品『プラトーン』は
アカデミー賞各賞を受賞した。
ベトナム戦争での米軍の兵士
たちを描いた作品。

上掲の本作の有名なポスター
はベトナム戦争で米軍兵士が
仲間の裏切りにより殺される
シーンだ。

この映画について私の職場の
上司でもあり二輪仲間だった
O弁護士は公開直後に語った。
「最後のいわずもがなの台詞
が作品を台無しにしている」
と。
それは私も思った。最後の主
人公の戦場から立ち去るヘリ
の中での独白さえなければ至
高の作品だった、と。
アカデミー賞を総なめした作
品だが、作り方は実にアメリ
カ的だ。たとえ本作がアメリ
カ国家のやった「悪」につい
てアメリカ人が初めて鋭く自
らに問いかけた作品であって
も。
本作の影響は強く、この作品
以降、西部劇においても「騎
兵隊が悪いインディアンを殺
しまくって正義を守る」とい
うような表現は回避されるよ
うになった。歴史的な作品だ。
ただ、そうした点があったと
しても、本作がアメリカ的で
あると私が指摘する理由は、
それは「善」と「悪」を明白
に描く事によって、最終的に
は主人公による「勧善懲悪」
が描かれるからだ。日本のお
茶の間時代劇と同じように。
それは結局は「騎兵隊とイン
ディアン」の図式を脱却でき
ていない限界性がある。

現実の人間社会はもっと複雑
だ。そして、ただの人の愛憎
だけでは説明できない事象が
多く発生する。
そこに「正義感」を持ち込む
と複雑な人と人の関係、国と
国の関係がさらに混迷する。
本作はそこまでアンチテーゼ
を付与させる狙いでの作り込
みではなく、単純に光と影、
善と悪、という描写方法を採
っている。
それが劇中で幾度も幾度も出
て来る。
その対比は、裏切りとそれに
復讐をする更なる裏切りとい
う形で帰結する。人も国家も
裏切るのである。
何の為に?
己の「正義」の為に。私的な
「正義」の為に。

一方、2018年の英国本土防衛
戦を描いた『バトル・オブ・ブ
リテン 史上最大の航空作戦』
では、劇中にはそうした裏切
り行為は一切出てこない。
排外主義的態度をとっていた
英国人も、だんだんと亡命者
であるポーランド人の優秀さ
を認めて仲間として受け容れ
て行く。
そして、力を合わせてナチス
ドイツのイギリス本土への航
空侵略を阻止する。イギリス
全土がヨーロッパのようにナ
チスに占領されるかどうかの
瀬戸際だった。
だが、英国人は最後の最後で
英国国家存亡の危機を救った
ポーランド人を裏切るのだ。
主人公の恋人さえもが。

劇中の途中から明瞭に光と影
を克明に描いていた『プラト
ーン』と『バトル・オブ・ブリ
テン』の作り込みの違いはそ
こだ。
後者は最後の最後にドカンと
来る。鑑賞していると「え?」
みたいな風に。「そんな事する
の?」みたいに。

私は新左翼が嫌いだが、以前
から嫌いだった。
それは既成左翼や右派勢力と
同様どす黒い複雑な政治をす
るからだ。
昔、先輩活動家は嗜めるよう
に私に言った。「そんな君の
言うような単純ピュアででき
る訳ないだろう。二枚腰どこ
ろか三枚腰、四枚腰でいかな
いとやってられないよ」と。
首都圏学戦統括キャップの言

葉だった。私が活動に疑問を
抱いていた頃にそれを見抜い
ての、いわゆる「査問」では
ないが、突然の面談の時に告
げられた言葉だ。
「嘘こけ。あんたが一番本当
はピュアマンじゃないか」と
はその時思ったが、それは言
葉には出さなかった。
新左翼が1960年代から大得意
の党派間の勢力争い、俺が俺
がの手柄争いに明け暮れる動
向にはうんざりしていた頃だ
ったのだが、その後も闘争や
戦闘は私は最後までやり切っ
た。党派という組織が消滅す
るまで。
どうしてそういう推進力とい
うか継続性が自分の中で持続
したのかは自分でも解らない。
つまり私は「自己総括ができ
ていない」人間のままなのだ。
一度バイクの師匠でもある某
ライターに膝詰めで話し合っ
た時に言われた事がある。
世代は一回り上の元ガチ活の
人だ。
「おまえさんは一度完全に
自己解体して自己分析して、
自己批判含めて見つめる必
要があるかも知れない」と。
その助言は極めて新左翼(元)
的なのだが、正鵠を射るもの
だとその時には感じた。
今から40年以上前の話だが。
ただ、今でも私は人間のみに
くい姿が如実に現れて、それ
をあたかも正義かのように振
舞う政治の世界が心底嫌いだ。
これはもう性分なのかも知れ
ないが、政治状況の中ではそ
うした性分さえも捨象しなけ
ればならないという残酷さが
必須となる。本当に嫌な世界
だと思う。
そして戦争は政治の「高度」
な解決手段として人間界で
は機能している。
嫌だと思っても、そんな思念
とは無縁に現実はそうなって
いる。
自分はそこには入りたくは
ない、と思っていても自分
が現在この世に存在する限り
その関係性からは逃れられな
い。
結局は勢力争い、権力争い、
俺様承認欲求の人間の思惑
がうごめく人間社会でしか
生きて行けない。人間がそう
いう構造にしてしまった人間
社会の中で。
マルクスは一つの人間社会の
未来を模索する光明だったが、
かなり不完全だ。
ただ、単純に好き嫌いでいえ
ば、おのが村自慢の延長でし
かない勢力争いは政治の世界
でも個別個人の世界でも私は
大嫌いなのだ。
戦闘は別だ。戦闘は戦闘であ
って、それ以上でも以下でも
ない。ただ単純に戦闘がそこ
にあるだけだ。命のやりとり
だろうと、戦う事は闘いも含
めて嫌いではない。自分を含
める誰かが目の前で強圧的な
暴力や武力で虐げられている
ならば、それに命がけで抵抗
するし反撃するだろう。事実
そうして生きて来た。
嫌なのは、その戦争や戦闘、
闘争の裏にあるものが嫌なの
だ。

『プラトーン』は最後のシーン
でのあの主人公のいわずもがな
の「いい子ちゃんの正義マン」
のようなセリフさえ一切なけれ
ば、最高の作品だ。
苦虫をかみ殺したような表情で、
新人兵が戦場で人間が変わった
が、やがて人として本当の大切
なものは何かに気付いて行く、
という「無言の演技」でよかっ
たではないか、と感じる。
あのラストの台詞のみは要らな
いと思える。

最後の最後でズドン!ドキュ
ーン!というのも、作りとし
てはかなりえぐいけどね。
ただ、『バトル・オブ・ブリテン
史上最大の航空作戦』はかな
り私個人的には高評価の作品
だ。劇中も人間の心のありさ
まの描き込みが鋭い。
そして、ひと時の幸せそうな
笑顔のシーンも、「この後と
んでもない不幸が来るのだろ
うな」という事を予感させる。
それゆえ、映像から直截的に
ではなく、予見として涙が浮
かぶ。その場面が楽しければ
楽しすぎるほど。
描き方が極めてポーランド映
画ぽい。
米国ハリウッド映画の場合は
楽しいシーンはただ楽しいシ
ーンとしてダイレクトに描か
れているだけだ。そうした単
純さは極めてアメリカ的だ。

上掲両作は、戦争映画の中で
も、同じ人間の内面と国家の
体面との中で歪む人と人の関
係、という点を描いている。
物語も時代も描写方法も異な
るが、共通点はそうした人間
の「心」を描いている点だ。
そうした戦争によって歪めら
れる残酷な現実を描かない戦
争映画は✖だ。これは有名な
映画監督も断言しているが。
戦争の最大の罪悪は、人殺し
を正義とする事だけでなく、
戦争準備段階、戦争中、戦後
において、人間の心が徹底的
に歪められて、「ある方向」
に外圧で強制的に動員される
事だろう。
そこでは一切の人間らしさは
排除されて行く。
だが、それを実行しているの
は人間だ。本人たち自身なの
だ。非道な排除排外があたか
も正義であるかのように進め
られる。
その中では、人も家族も人倫
が蔑ろにされ、踏みにじられ
て行く。
「正気の沙汰」ではない事が
現実にごくごく平凡な日常と
して行われるのである。
誰がやる?
人間自身が平然とやるのだ。
それはとても恐ろしい事だ。
単純な人殺しよりも遥かに恐
ろしい事を人間は平然とやる。
明かに「狂って」いる。
しかし、人間は愚かであるの
で、狂っている人は自分を狂
っているとは思わない。自分
こそが正しいとして自分たち
を振り返らない。
本当に、人間とは別な外圧に
よっていっぺんに人間はその
うち一掃されてしまうのでは
なかろうか。
お前たちを造ったのはそうい
う事ではない、と。
だが、今のところ見えている
のは、人間を滅ぼすのは人間
のようだ、という段階だ。
それは日常的なところから始
まっている。