内在的読みの限界
現代の批評の大きな部分を形成しているのは,おそらく「作品そのものを読む」ということである。
作家の個人的な境遇だったり,その時に流行っていた文学的手法であったり,およそ作品の外にあるものを隔離して,作品そのものを読むというのがおそらく現代の批評の大きなテーゼであるように思われる。
それらは従来の批評が作品の外部にあるものを豊穣な知識として作品を読んでいたこと,つまり外在的な批評に対して,内在的な批評と一応は呼ぶことができる。
内在的批評が外部をどうして寄せ付けたくないかといえば、権力が作品を構成しているような像がそこに現れてしまうからであろう。
つまり、文学批評的な用語や普段使わないような言葉で作品を評することで,その作品がその作品ではなく知識を適用する対象となってしまうということに内在的批評は恐れをなしているのである。
それは至極真っ当なことであり,正当な発展性を持ったものであると私は考えるのだが,ここに私は内在的批評に対する疑念が生まれる。
というのも、外在的批評から内在的批評へ,というのは単なるそのような,知識を適用するためだけの作品,もっといえば知識のための作品,という像を解体しているのであって,その目的はもちろん「よく読む」という単純なものに返還されると思っているからである。
もちろん、様々な現代批評理論に住う内在的批評の理論はそれまでの外在的批評の理論が無視していた,もしくは主題として考えることのできなかった現象を多く発見した。
それはそれで意味があることであるのだが,内在的読みというのはあくまで理想論であり,ひとたび「私は内在的批評によって作品を考えました。」というと,それは嘘であるように私には感じられてしまうのである。
もちろん、内在的批評に至るために努力することを良しとするのは私の信念であるが,それはなんというかテーゼとして宣言されるものではないのである。
このようなことを言うのは,外在的批評に批評を戻そうというのではなくて、私の人間に対する態度から要請されるものなのである。
つまり、私は人間が実存的かつ歴史的な存在であると信じるが故に、その人間が行う行為がそのように完全に内在的である可能性はもうすでに消えていると言わざるを得ないのであり,それを行うというのはどちらかというと社会学的な方向性を持つものであると考えられるのである。
内在的批評の持つ用語はたしかに私たちが通常用いるような言葉のようであるが,そこには言葉の全体性が欠けている。
彼らもまた,内部にいるようで外部にいるのである。
彼らももちろんそんなことには気が付いていて,だからこそ内在的批評という名の下に集うのであるが,その事情を知らぬ外部のものがそのようなこと、つまり内在的読みが可能であると誤解することはとても危険なことである。
なぜなら、私たちは内在と脱自を繰り返すことによって作品を読んでいるからである。
そのことを暗に無視し,いや、明らかに無視し読むというのは,およそ外在的批評が無意味に感じられるほど用語を用いて考えたことよりも危険なことである。
なぜなら、彼らはまだ距離を保っているが,内在的批評を称するものたちは,私たちの社会的な精神そのものに悪影響を与える可能性があるからである。
もちろん、この論で何度も言うが、内在的批評に向かおうという基本的な態度を批判しているわけではない。
私が批判するのは,それを取り違えると危険な読みになり、発展もない権力そのものになってしまうからである。
権力の偏重に気がつかない人間ができてしまうからである。
それはもちろん私にも及ぶ危険であり,私もそのように解釈される可能性がある。
だから私はここで完全な内在的読みが不可能であることとそれを目指すことが良いことであることを同時に示すのである。
文学批評の言うところのことは昔も今も変わっていない。
よく読め。
と言っているだけである。
それをどのように行うかが変わっているだけなのである。そしてその「どのように行うか」ということが明確に認識され始めると言うのがやはり現代批評のはじまりということなのであろう。



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