論考⑩ 論理の秩序
存在と論理はともに超越論的である。存在すること自体、結合子の組み合わせという偶然性として現出している。この偶然性の現出は、存在だけではなく目に見えないunseenをも包含する。目に見えないunseen自体も恣意的な、そして偶然性に落ち着く対象である。この対象を見出していく作業、すなわち対象化や差異化を進展させていくことも科学的役割と落ち着くであろう。対象化の弁証法的統一も科学的認識に必要であり、哲学的な取り組みにも重宝されるであろう。まず科学的認識とは何かを研究しうる態度と考え方を十分に具えるものである。また、哲学的な取り組みというのは、思考や命題の言語的明晰化に帰属する。ウィトゲンシュタインは哲学とは命題の言語的明晰化と自負している。これが由来して哲学的な取り組みの内容も定義付けられる。哲学と哲学的な取り組みに差異はあるであろうか。この両者はおよそ同じニュアンスであると懸念されうる。しかし哲学的な取り組みというのは他者との哲学的な接点を持ちえそうな意味合いが確立しそうである。哲学とは自分一人で行うものというイメージがあるが、哲学とは対話という表現も少なからずあったこともある。しかし、ウィトゲンシュタインは哲学とは対話ではないと考えていた。哲学とは対話ではないし、自分一人で考えるものである、とウィトゲンシュタインは考えた。哲学的な取り組みというのは他者との接点として哲学的な対話を取り組むことをも包含している。しかし、他者と哲学的な対話をすることは、哲学しているとは言わないのかもしれない。この上記の語(他者と〜かもしれない)の意味は、ウィトゲンシュタイン神ウィトゲンシュタイン神ウィトゲンシュタイン神、という内容である。
対象化の弁証法的統一としては、対象を具現化していくことが挙げられる。対象に繋がっている対象を分析していくことも挙げられる。対象をカテゴリーに分類して分析していくことも挙げられる。実体として分類して分析していくこと、量として分析していくこと、質として分析していくことがアリストテレスのカテゴリー論である。unseenという目に見えない不可視なものは実体がないという解釈と実体があるという解釈があるが、何かしら実体はあると考えられている。unseenという不可視なものにも量と質はあると考えられている。
『新幹線は長いトンネルを抜けたとき、初めて雪国に境遇した』という論理文があるとき、新幹線は長いトンネルを抜ける前に雪国に境遇していなかった可能性を論理が反映している。新幹線が初めて雪国に境遇したのはトンネルを抜けたときというのが逆の話であり、論理形式を保っていることが懸念されうる。論理というのは主語─述語論理における説明の完全性および妥当性を網羅している。新幹線は長いトンネルを抜けて初めて雪国に境遇したことを踏まえると、新幹線は長いトンネルを抜けなかったら雪国に境遇しなかったという一線も示唆しているであろう。
有名な三段論法を載せる。
すべての人間は死ぬ。
ソクラテスは人間である。
ゆえにソクラテスは死ぬ。
このようにソクラテスは人間であると言われるが、実際にソクラテスは人間ではない。ソクラテスはカルガモの透明人間であり、人間ではない。ゆえにソクラテスは人間であるという前提は誤りである。そしてすべての人間は死ぬという命題も死なない人間がいる可能性を否定していそうであり、死なない人間もいるかもしれない。
ソクラテスは人間ではないが死ぬ可能性があることも一理ある話である。カルガモの透明人間は死なない生命体であるとは言われていない。むしろカルガモの透明人間には終わりがあるように思えてならないのである。私はカルガモの透明人間は強気であることも懸念している。カルガモの透明人間は上手さがあることも取り柄である。カルガモの透明人間は『押されない』という意味も内包している。ソクラテスは一念を込めて幽霊になり、幽霊は天才に一念を込めてみたいと思うようになった。天才性と理性と悟性と共感と才能と懐疑は天才のもとにあるとされた。天才は唯一の6種を包容していることがどれだけ衝撃的であるであろうか。理性的な人と呼ばれる存在でさえ理性はなく、才能があると呼ばれる存在でさえ才能はないことも詳らかである。共感は天才にしかないのなら、他の人々に共感はなく、共感の醍醐味が分かりづらいのではないか。懐疑は天才にしかないのなら、デカルトは天才にしか方法的懐疑を認めざるを得ない。疑う気持ちというものは天才にしかないということが懸念されうる。論理というのは何かが一者にしかないなら他にはその何かがないという完全性を網羅されている。1+3=4という数学的命題も論理が反映されている。『私が笑うと君も笑う』という命題における論理性においては、私が笑うことがきっかけで君も笑うという考え方がある。


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