新進党のトラウマ
もちろん党の側は、それほど割り切れているわけではない。新進党のトラウマがあるからだ。
1994年、政権交代可能な二大政党制を目指すとして小沢一郎氏が主導して結成された新進党には公明党も日本新党や新生党とともに参加した。斉藤代表も立憲の野田代表も結成当初から新進党に所属していた。
しかし、95年の発足直後の参院選では比例の得票で自民党を上回る躍進を果たして、政権交代への期待が高まったが、小選挙制導入後初めての96年衆院選では自民党に敗北、その後は小沢氏の政治手法への反発や政治路線の対立が重なって1年後に解党に追い込まれた。
この背景には、新進党に参加した公明党を揺さぶるために、宗教法人法の改正問題や池田大作名誉会長の証人喚問要求などで、自民党が執拗に学会攻撃を重ねたことがあった。そして新進党解党後には、新党平和を経て公明党を復活させ、その後小渕内閣の時代に自民党との連立に動く。
当時官房長官として小渕恵三内閣を支えた野中広務氏が、かつて激しく対立した自由党の小沢党首に「ひれ伏して」自民党との連立に引き入れ、続いて公明党を連立に加えた。
中間政党の生存戦略
野中氏は後に「野党だった公明党がいきなり自民党と連立というわけにはいかない。間に1枚座布団を入れてくれというので、小沢さんに入ってもらったんです」と証言している。
長年自民党と対立してきた公明党が連立を組むのはそれだけハードルが高かったが、新進党の失敗から中間政党に戻った公明党側も、その先の展望が描けていなかった。
強固な支持組織を誇ると言っても、中間政党として生き残っていくのは難しい。まして大政党に有利な小選挙区になると、公明党単独では勝ち残るのは極めて難しい。与党となれば自民党支持の企業団体の票も期待できる。そうした選挙協力で実績を積み重ねることで、公明党は26年間、生き延びてきたのである。
この間、政策上の違いや繰り返される政治とカネのスキャンダルに、しばしば自民党との対立も表面化したが、それでも選挙協力の互いのメリットの大きさもあって、離脱することはなかった。いつしか、「どこまでも ついていきます 下駄の雪」と揶揄されるようになっていた。
その下駄の雪が、去年高市早苗首相の誕生と共に、ついに離れたのだ。
学会員が抱えた矛盾
去年の10月20日、高市首相誕生の前夜に都内で開かれた「野中広務先生生誕100年の集い」で出会ったある創価学会の元幹部は、高市首相が誕生するほど自民党がタカ派的、強行右派的な議員が増えた事が政権離脱の大きな要因だと話した。
野中氏が公明党との連立工作を進めた頃を知るこの幹部は、「かつては野中さんや古賀誠さんのように、戦争に反対し平和を重視する議員が少なからずいましたが、とうとうタカ派の高市さんが首相になるほど自民党が右傾化してしまった。公明党の選挙を現場で支えてきた学会員たちは、政治とカネの問題や平和が大切だと思いが強いのでむしろ政権離脱でスッキリしました」と話していた。
長年与党の恩恵も享受してきた公明党だが、現場で選挙を戦う学会員の間では、大衆とともに平和を守るのだという理想と自民党政治との矛盾に不満が溜まっていたのだ。