Vol.033|スピってて何が悪い
『MONOLOGUE』は、備忘録を兼ねたフリースタイル文筆を毎回3本まとめてお届けするマガジンです。それぞれの内容は独立している場合もあれば、連続性をもたせている場合もあります。毎週月曜午前8時に定期更新。何かと思想強めですので、用法容量を守ってお読みください。
スピってて何が悪い
「スピってる」というと、多くの場合、蔑視の文脈で用いられるかと思う。後述する自分の立場としては、これは残念きわまりない風潮ではある。だからあなたがたはいつまでたっても、生きる意味を見出すことができず、資本主義の奴隷として不幸そうな面をしてうなだれながら、今日という日を生きるしかできねえんだよと、そう一蹴したくなる。
まあでもその気持ちもわからなくはない。スピ界隈の住人というのは、単なる生活保護の受給を存在給などと言い換えて、「ほらごらんなさい、私に価値があるから自動的にお金が入ってきたでしょう」とドヤ顔でほざくような、頭の中がお花畑なたいへん気持ち悪い……あ、失敬。たいへん〝氣〟持ち悪い連中が、似非スピリチュアルという誘蛾灯に集まっているような界隈なので、いっしょにされたくない気持ちは理解できる。
それにしても、目線のバグがすごい。いったいどこをどう生きたら、そこまで目線がバグるのか。もはや哀れみや蔑みを通り越して、興味深いまである。シリアルキラーなんかを見る目線に近いかもしれない。別に自身の生存を最優先にあらゆる制度を利用すればいいし、そのことをなんら恥じる必要もないが、そういうとこやぞ。
根本的な認知の歪みを放置して、表面的な言葉や概念の言い換えに執着しているようでは、そりゃあ何事もうまくいかない。あなたがたの人生が一向に開かれる気配がないのは、それこそこの世界の仕組みがもたらす必然の結果でしかない。
というわけで、ここらで声を大にして言っておきたい。スピってて何が悪いのか、と。自分からすれば、スピってて当たり前である。逆に言えばスピってない人というのは、自己の存在ごと揺るがすような実存の危機に瀕したこともなければ、救いを求めてなりふり構わずこの世界を突き詰めて探求したこともないんだろうなと思う。なぜなら、そうした存在論的な修羅場をくぐりぬけているならば、遅かれ早かれ絶対にスピざるをえないから。
スピ界隈の住人が、とてもじゃないがお近づきになりたくないような、きっしょい人たちだからといって、スピリチュアルそのものが茶番であることを示すわけではない。
これはどの界隈にも言えることだが、一例をあげればフェミニズムだってそうだろう。フェミニズム運動や思想そのものには間違いなく価値があったとしても、ごく一部ながらも否が応でも目立つフェミニストを名乗る単なるミサンドリストたちが暴れまわることによって、一般の人々からはフェミニズムそのものが煙たがられている。「フェミニズムってあれでしょ?『男が産めるのうんこだけ』の人たちでしょ?いや~自分はちょっとそういうのとは関わりたくないっすね」になる。そりゃそうだ。誰がそんな失笑が服を着て歩いているような連中と好き好んで関わりたいというのか。彼女たちは自らの権利を声高らかに主張するが、うんこ製造マシンにも付き合う人を選ぶ権利があるという当たり前の事実を、彼女たちは見落としている。
そして、これと同じ力学がスピ界隈でも働いているわけだ。そのものの本質から大きくズレているからこそ、そういう人たちは目立つし、われわれは拭いがたい嫌悪感を抱くのであって、その目立つ一部の人たちをもって、そのもの全体の価値判断をするのは筋が悪い。なぜならそれは一種の過度の一般化だから。
みんなスピリチュアルとはなんであるかがわかっていない。なんちゃって似非スピリチュアルを見て、スピリチュアルそのものを嫌厭している。これは非常にもったいない。スピっている山岡ならば「おれが本物のスピリチュアルに触れさせてやりますよ」と、すかさず啖呵を切っていることだろう。
真のスピリチュアルへと通じる道
僭越ながら、そのスピった山岡の役目を自分が果たせればと、常々そう考えている。では本物のスピリチュアルとはどんなものか。似非スピリチュアルとの決定的な違いは、高いレベルで「理性」を要求する点にある。
ここからは
似非スピリチュアル民がなぜあんなにも気持ち悪いのか、彼らの人生が一向に開かれないのはなぜかというと、あまりにも理性
一応はあるべきバランスである
「我思う、ゆえに我あり」で広く知られるデカルトは、疑って疑って疑い抜いた方法的懐疑の末に、コギトの境地に行き着いた。後期のデカルトは「神の誠実さ」なんかをさらっと議論に持ち出すため、前期に比べて迷走していると評されてしまいがちだが、自分はそうは思わない。決して迷走しているわけではなく、理性の権化ともいうべきかのデカルトでさえ、いや、理性の権化であるデカルトだからこそ、最終的にはスピったのだ。自分はそう解釈しているし、そう解釈すべきである。
これはスピリチュアル界隈へと足を踏み入れるにあたって、まさに理想のプロセスである。似非スピリチュアル民は、ろくに疑いもしない、論理的に考えられない、歴史を学ばない、科学的思考も身についていない、自己を省みることもないなど、
さらに身も蓋もない指摘を重ねれば、似非スピリチュアル民は、何よりも
そりゃあ存在として見ればたしかに無条件に価値はあるが、現状の停滞しているあなたがたに価値はない。価値とは適切なバランスで
口ではさも高尚なことを言いつつも、結局は現世利益に執着しているのもまた、
要するにこういうことだ。彼らはまずそもそも土台としての戦闘能力である
真のスピリチュアルへと通じる道は、細く険しい。まずスピリチュアルに可能性を見出す時点で、圧倒的大多数が脱落してしまう。世の大半の人は、スピリチュアルなんて、詐欺まがいのいかがわしいものだと信じ込んで、何もわからないまま死んでいく。たとえスピリチュアルに可能性を見いだすことができたとしても、
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
二種類のpについて
前項で「
「
なお、ここでいうところの社会的な声とは、文字どおり社会から明に暗に強いられる価値観、先にフェミニズムの例をだしたのでこれに倣うと、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」が象徴するような社会的な規範から、もっとも小さな社会である家庭環境を通じて植えつけられた価値観をも含んでいる。
抽象的でわかりづらいかと思うので、わかりやすい例をあげよう。『母という呪縛 娘という牢獄』という本がある。
医学部合格を母に強要され、9浪の末に看護過程に入学するも、今度は助産師になることしか許されず、母に罵倒され続けた娘がとうとう母親を殺害し、死体を損壊するという実際に起きた事件を追ったノンフィクションである。娘は母親を殺害後にTwitterで「モンスターを倒した。これで一安心だ。」と投稿していた。
実の母親をモンスターと呼び、殺害に至るまでにいったい何があったのか。詳しい事件の内容は本書を読んでもらうとして、当時はそこまで考えていなかったものの、今読み返してみると、本書はいかに
母・妙子はおもに学歴主義を中心とした社会的な声を、娘・あかりはそんな肉親である母親の声を内面化し、自分の本当の声である
そして、この
なので、機を見てまたどこかで


