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レファレンス協同データベース

レファレンス事例詳細

事例作成日
2024/09/19
登録日時
2025/01/23 00:30
更新日時
2025/01/23 00:30
提供館
牛久市立中央図書館 (2310059)
管理番号
牛久-1943
質問

解決

牛久にある蕎麦屋の名前「一万十七石」は牛久藩の石高が由来だそうだが、どうしてこのような中途半端な数字になったのか。
回答
次の4冊を提供。※()内の数字は回答プロセスの資料番号。
(1)『牛久藩主とその時代』(牛久市教育委員会/牛久市教育委員会/2016)…p4、p9、p13
(2)『牛久市史 近世』(牛久市史編さん委員会/牛久市/2002)…p115、p120、p123
(3)『藩史大事典 第2巻』』(木村礎/雄山閣出版/1989)…p116
(4)『小藩大名の家臣団と陣屋町 4』(米田藤博/クレス出版/2019)…p197
→牛久藩の石高が一万十七石二升四号となる数字の詳細は(1)(2)にあり。
 領地の変遷は(3)(4)にあり。
最も詳しい記載があったのは資料(2)
p120弘隆の時代の領土について、常陸国河内郡領については「寛文四(一六六四)年時点で(中略)野銭・船役などを含んで三三五〇石三斗五升八合であった」とあり、p123には「寛文四(1664)年時点での山口氏近江領」について「計六六六六石六斗六升六合であった」とあった。これらを合わせると一〇〇一七石二升四合となる。
 
後日(2)の出典である次の資料にも確認。
(5)『続々群書類従 第9』(国書刊行会編/続群書類従完成会/1978)…p284-285
回答プロセス
1.牛久藩の石高であったこと、その数字になった時期・藩主の確認のため、郷土と歴史の棚をブラウジングし、次の資料を確認。
(1)『牛久藩主とその時代』(牛久市教育委員会/牛久市教育委員会/2016)
…p4 「展覧会に寄せて」に、「牛久藩主の山口家は、一万十七石の小藩藩主としては極めて珍しい」とあり。
…p9「二.「居所」を牛久に定める」にて
 寛文四(一六六四)年交付の「『領知朱印状』には、『近江国甲賀郡内八か村(六六六六石余)、常陸国河内郡之内十五か村(三三五〇石余)』とあり、都合『壱万拾七石余』を家綱から拝領したことになっている」とあり。
…p13「牛久藩主山口家のあゆみ」にて重政・弘隆の項目を確認。
重政の項に、「寛永六(一六二九)年、遠江・常陸国において一万五千石を与えられ、大名に復帰した」とあり。
弘隆の項に、「寛永一二(一六三五)年に家督を相続し、相続時に弟重恒に五千石を分与したため一万石余を治めた」「寛文九(一六六九)年、牛久に陣屋を築き、延宝二(一六七四)年に近江国の領地を常陸国に移し替え、領地が確定した」とあり。 
(2)『牛久市史 近世』(牛久市史編さん委員会/牛久市/2002)
…p115「石高は初期を除いて一〇〇一七石余」とあり。
…p120 弘隆の時代の領土について、常陸国河内郡領については「寛文四(一六六四)年時点で(中略)野銭・船役などを含んで三三五〇石三斗五升八合であった(『寛文印知集』)」」とあり。
…p123には「寛文四(一六六四)年四月時点での山口氏近江領」について「計六六六六石六斗六升六合であった(『寛文印知集』)」とある。これらを合わせると一〇〇一七石二升四合となる。
→合計すると一万十七石となる数字が判明。
(3)『藩史大事典 第2巻』(木村礎/雄山閣出版/1989)
…p116 藩の外観にて「重政没後は、四男弘隆が家督を相続。この時弟重恒に五〇〇〇石を分けたため、所領は一万十七石に減じた」とあり。
…p118-120「藩主一覧」(歴代藩主および石高・所領の変遷)では正保4年(一六四七)3月20日から領地が近江国甲賀郡・常陸国河内郡となり一〇〇一七石となったこと、その領地の移し替えもあるが変わらず一〇〇一七石であったことが確認できる。
→「藩主一覧」の年表より、石高が一万十七石になった年は弘隆の正保4年から弘達の時までと判明。
(4)『小藩大名の家臣団と陣屋町 4』(米田藤博/クレス出版/2019)
…p197 ②山口氏の藩領 にて重恒への分知後について「その後、三回にわたり藩領の入れ替えがあり、元禄11年(1698)に常陸国河内・信太・新治3郡、下総国岡田・豊田・相馬3郡となって、廃藩置県まで変化はなく、表高10,017石であった」とあり。
 
→以上より(1)~(4)の資料を紹介。
牛久藩の石高が一万十七石二升四号となる数字の詳細は(1)(2)にあり。
領地の変遷は(3)(4)にあり。
 
2.後日(1)(2)の出典の所蔵を確認。書名「領知朱印状」「寛文印知集」でそれぞれ自館資料検索。「領知朱印状」はヒットせず。「寛文印知集」は次がヒット。
(5)『続々群書類従 第9』(国書刊行会編/続群書類従完成会/1978)
「寛文印知集」の「巻第二十二 山口但馬守」に以下の文あり。
…p284-285「目録 寛文四年四月五日 山口但馬守」に、「近江国甲賀群之内八箇村 六千六百六拾六石六斗六升六合」「河内郡之内十五箇村 三千三百五拾石三斗五升八合」とあり。
→合わせると一万十七石二升四号となる。
事前調査事項
NDC
参考資料
  • B10697442 牛久藩主とその時代 牛久市教育委員会/編集 牛久市教育委員会 2016.10 210.4
  • B10379909 牛久市史 近世 牛久市史編さん委員会/編 牛久市 2002.12 213.1
  • B10073552 藩史大事典 第2巻 木村礎/[ほか]編 雄山閣出版 1989.11 210.5 9784639009207
  • B10873613 小藩大名の家臣団と陣屋町 4 米田藤博/著 クレス出版 2019.12 210.5 978-4-86670-059-5
  • B10011399 続々群書類従 第9 国書刊行会/編 続群書類従完成会 1978 081
キーワード
  • 牛久藩
  • 一万十七石
  • 石高
照会先
寄与者
備考
調査種別
事実調査
内容種別
郷土
質問者区分
社会人
登録番号
1000361966
転記用URL
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000361966 コピーしました。
アクセス数 202
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