今回は久しぶりに、研究の話ではなく「数学という分野そのもの」についてお話ししたいと思います。 テーマは、
「数学科に入ったら、学ぶ数学ってどう変わるの?」
です。
高校生の中には、「数学が好きだから大学では数学科に進みたい。でも大学の数学科では、実際にどんな数学を学ぶのだろう?」そんな疑問を持っている人も多いと思います。あるいはそれ以外の方でも、「数学科ってどういうところなの?」と思っている人もいるかと思います。
そこで今回は、大学で数学を教える立場から、数学科で学ぶ数学の特徴について、高校までの数学と比較しながらできるだけわかりやすく説明してみたいと思います。
それでは本題に入りましょう。「高校までの数学と、数学科で学ぶ数学は何が違うのか?」この問いに対する私なりの答えは、次の一言です。
高校までの数学は「使うための数学」、数学科の数学は「作るための数学」
この言葉の意味を例え話を交えて説明します。
まず「自動車」を思い浮かべてみてください。自動車に対する考え方は人それぞれですが、多くの人は、「早く移動できる便利な乗り物だから、自由に運転できるようになりたい」と考えるのではないでしょうか。自動車は高速な移動手段です。その利便性を得るために、多くの人が自動車教習所に通います。
数学もこれとよく似ています。 数学は身につけて使えるようになると、日常生活や社会のさまざまな場面で役に立ちます。足し算・引き算から始まり、微分積分のような内容まで、数学を学ぶことで私たちの行動の選択肢は大きく広がります。この意味で、自動車における「運転の仕方」に対応するのが、高校までの数学です。
自動車教習所では、エンジンの内部構造などには踏み込まず「どう操作すればどう動くか」と「守るべきルール」を中心に教えます。多くの人に必要な内容に絞り、効率よく学べるように体系化されている点も特徴です。高校までの数学も同様です。社会を生きるうえで多くの人にとって重要となる内容が選ばれ、限られた時間の中で無理なく身につくよう、学習の流れがよく整えられています。
では、数学科で学ぶ数学は何なのか?自動車が好きな人の中には、「自分で自動車を作ってみたい」と考える人もいますよね。その場合、運転の仕方を知っているだけでは不十分です。エンジンの仕組みや部品同士の関係など、内部構造そのものを理解する必要があります。数学科で学ぶ数学は、まさにこっちの需要に対応します。つまり、数学の理論を「使う」だけでなく、「作る」ことを意識しながら、その仕組みを根本から学ぶのが数学科の数学です。
運転するだけなら、エンジンの詳細を知らなくても困りません。必要なのは「アクセルを踏んだら前進」のような操作と結果の対応関係だけです。数学でも同様に、実用的な場面では多項式を微分すると次数が下がる、
ただし、結果だけを知っている状態には限界があります。例えば、自動車が故障したとき、運転方法しか知らなければ原因を考えることすらできません。また自分の理想に合わせて車を改造することも難しいでしょう。数学も同じです。既知の公式だけでは対応できない問題に出会ったとき、理論の仕組みを理解していなければ、先に進めなくなります。新しい理論を考えたいと思っても、何から始めればよいのかわからなくなります。数学科の数学は、この部分を支える学びです。理論の構造を理解していれば、未知の問題に対しても、自分で考え、解決策を探ることができます。
「困ったら専門家に任せればいい」と考える人もいれば「できるだけ自分で理解し、判断したい」と考える人もいます。どちらが正しいという話ではありません。ただ、数学科の数学は、後者のような姿勢に応える学びだと言えるでしょう。
比喩的な話だけで終始するのもあまり面白くないので、ここからは実際の数学を見ながら高校の数学と数学科の数学の違いを実感してもらおうと思います。
平面ベクトル、もう少し正確にいうと実数成分の2次元位置ベクトル全体の集合を考えて見ましょう。ここではこれを
と書くことにします(
では「向き」はどうでしょうか?ここでは2つのベクトルに定まる相対的な向きのことを考えることにしましょう。例えば、2つのベクトル
平面ベクトルはこの長さと向きの情報が肝で、これが実用上のいろんなところで役立ちます。
一方で、この原動力を他の車体やあるいは車ではない他のものにも搭載することができないか?という疑問も生まれます。この「長さ」と「向き」の情報は非常に便利なので、
まずは
で定まっています。まず、この演算が満たす次の8つの性質をみてみましょう。これらの性質は、平面ベクトルが満たす他の性質を導出する非常に基本的な性質です。
ここで3.の
さてそうしたら、ここで発想を転換します。この8つの基本性質を満たす演算を和・スカラー倍の定義として、さらにこの演算ができる集合の元をベクトルと呼ぶことで、和・スカラー倍・ベクトルの意味を拡張してしまうのです。言い換えると、平面ベクトルの本質は上記の8性質だとみなし、その本質を持つものを逆に全てベクトルとして扱うということです。
集合
上記の和とスカラー倍が任意の
このベクトル空間の定義によれば、
なぜこんなことをするのでしょうか?その答えは、私たちがやりたいことにあります。私たちは今
ちなみに、「和」「スカラー倍」をどの性質で定義するべきか?という問題は簡単な問題ではありません。「計算するときにこの性質は欲しいよな〜」と思う性質はたくさんありますが、全部を定義に盛り込んでいると覚えるのが大変なので必要最小限でまとめたいところです。例えば性質Aが性質Bと性質Cから導出できるのであれば、3つの性質A,B,Cを定義に入れるより、性質Bと性質Cだけを定義にしてしまう方が賢いです。上記の8条件は、どの性質で定義すべきかをいろんな人が考え、試行錯誤がなされた末に結論づけられたものです。
何のことやらという人もいると思うので、ここで1つ
集合
とする。
で定める。ここで、
さて、このときこれらの演算はベクトル空間の定義の1.-8.の条件をすべて満たす。例えば、1.の条件は任意の
また、3.の
上の例
さて、これで「和」と「スカラー倍」を
まず最初に考えるべきは、「長さ」と「向き(ここでは2つのベクトルがなす角)」をどう表現するべきかということです。これらは幾何的な情報から読み取れるものですが、一般のベクトル空間は必ずしも
その演算が何かを考えるために、まずは
を使うことで
と計算することができます。
この観察から、集合の元に「長さ」や「向き」の概念を導入するためには、内積があればよいということがわかりました。ではこの内積を
今回は、
この5条件があれば、
例えば
と言う不等式も、
任意の実数
したがって
である。これは
である。これを整理すると
両辺の平方根を取ることで
を得る。
ということで、長さやなす角を定める上で、内積に求められる本質はこの5条件であろうということがわかりました。したがって、これを定義とすることにします。
ちなみに、先に和とスカラー倍について考えていたのは、この内積の5条件が和とスカラー倍を使って記述されているからです。
実数
なお
内積から定まる「長さ」と「なす角」も定義しておきましょう。本家ではまず「長さ」や「なす角」の概念が幾何的に定められていて、あとからベクトルと内積を使った解釈が与えられていましたが、今はベクトルと内積のほうから出発しているので、逆に「長さ」や「なす角」はベクトルと内積を使って定義されます。
内積をもつ実ベクトル空間
内積をもつ実ベクトル空間
を満たす
以上で、
例1で見た連続関数全体の集合
連続関数全体からなるベクトル空間
で定まる実数を対応させる。この対応は内積の条件1.-5.の条件をすべて満たすので
となるので、2.が示される。
さて、この定義に沿って考えると、例えば
である。
となる。
次に長さは
であるから,
となり,
ところで今回例1と例2で見た謎の例、なんかの役に立ってるんですかといわれると、そりゃもう目が飛び出るレベルで役に立っています。この内積には
さて、かなり長くなってしまいましたが、これが数学科で学ぶ数学の一例です。今回私はこの記事の中で、非常に便利で使い勝手が良いことが知られている
このように、大学で学ぶ数学は単に計算や公式を覚えるだけではなく、「何が本質だったのか」を言葉(定義)にして抜き出し、別の世界でも同じ力を発揮できる形に作り直していく学びです。そして、その作り直しをさらに進めて、まだ誰も見たことのない新しい車を組み上げて走らせる人たち、それが数学者です。少しは雰囲気を感じていただけたでしょうか。
今回は、具体例を交えながら数学科で学ぶ数学の雰囲気を紹介しました。具体例の部分は読むのにちょっと骨が折れたかもしれませんが、これを1つの参考にしていただけますと幸いです。
私はこの記事の数学の説明の中で、1点ごまかしたところがあります。それは、「(相対的な)向き」を「なす角」と言い換えた点です。実は、2つのベクトル