元宮チアキは願いを告げた。それは普段の騒がしさからすればまるで別人に思えた。力無く、搾りかすを出すような小さな声で願いを告げた彼女の身体は、私の一回り小さな肉体に全体重を預けて寄りかかった、その感触は数分前の出来事とは思えないほど消えかかっている。
らしくない姿を見せた彼女は、今は目の前のソファに横になって静かに身体を上下させている。私はテーブル越しにその動きを観察するように眺めていた。外は暗く、執務室の光源は月光が何よりの頼りであった。月光に照らされたチアキの髪色は淡い藍色を浮かばせて、黒い角はより怪しく、一眼見た時の印象に違わぬ悪魔らしさを見せている。だがそんな角をもつチアキの顔は何も世界を知らない無垢な赤子のように静かだ。
いつもならため息を漏らすのにそれさえ出ない。ああ、どうしてこんな面倒くさい事になったのだろうか。
月が見上げなければ視界に入らない程深けた時間。わざわざ万魔殿の議事堂に足を運んだのは忘れ物に気づき、それを回収する為だった。別に次の日に登校した時についでに回収しても良かったのだが、どうしても今取っておかないと落ち着きを得られないので来たのだ。
そうして忘れ物も無事に回収し、さっさと去ろうとしたところで一つの光が目についた。その光は私を含めみんながいつも集まっている執務室から漏れている光で、そこに誰がいるのか気になった私はすぐに執務室の扉の前まで行き、ゆっくりと扉を開けた。
扉を開けばそこには見慣れた姿が一つ、椅子に座ってパソコンに向き合っている同級生の元宮チアキがいて、それ以外に人影はない。いつも身につけてるコートや帽子は机の近くにあるポールハンガーに掛けてある。そして、どうも彼女は舟を漕いでいる様子らしく、頭を不規則に揺らしているのが入り口からでも見えた。そういえば今日も締切がどうとか、編集作業がとか近くで騒いでいた。おそらく編集作業を終わらせるために居残ったが作業も半ばで限界が来たのだろう。意外と週刊誌作りはちゃんとしてるチアキにしては珍しい光景だ。
そんなことを浮かべながら足は自然と彼女のいる方へと進んでいる。特に何かを思って行動してるわけでもなくただ起こして帰宅を催促するためだけに彼女の方へ向かう。海を揺蕩う浮き物に似てフラフラしている頭をじっと見ながら手を机に突いて声を掛けた。
「チアキ、お疲れ様です」
「………………イロハちゃん?」
揺れる頭は一向に落ち着きを見せないが、僅かに開いた目は時間はかかったが私を認識し、か細い声で名前を呼んだ。私は次に、今日はもう帰りましょう、と口を動かそうとしたが頭の中で組み立てられた言葉を声に出すことはなかった。チアキがあまりに脈絡もなく、座ったままの体勢で腰に抱きついてきたせいで驚きの声しか出せなかったからだ。
身体を暴れさせればすぐに振り解くこともできたが、それをすると重心を前に倒しているチアキはそのまま倒れて怪我をしてしまうかも知れない。銃弾も効かない丈夫な身体と言えど、油断している状況では簡単に怪我を負ってしまう。だから抵抗もせずにチアキの名前を呼んで止めようとしているが効果は薄い、それどころか名前を呼ぶたびに呼応して彼女の力が強まっている気さえしてくる。
「イロハちゃん……うへへぇ……イロハちゃんだぁ……イロハちゃん……」
抱きつかれてからのチアキに様子は今まで関わってきた中で見たことのない異様なものだ。譫語のように私の名前を繰り返し、時々笑って頭を擦り付けてはまた私の名前を呼ぶ。その度に彼女の側頭部から生える立派な黒角が腹部に押し付けられて痛いの何の、ストレスが溜まる。ただそれ以上にチアキの態度が私の知らないものすぎて、それへの衝撃で角が当たる痛みなんてものは些事になっている。
私と関わる時の彼女の態度と言ったら大体が軽妙に楽しんで、少し離れた場所から振り回される私に対して大変そうだねと他人事みたいに笑って声を掛けている印象だ。
もしくは鬱陶しく感じることもあるくらいこちらに構って私の名前を呼んで、そしてオレンジ色のデジタルカメラのシャッターを切る。パッと考えて思いつくのはそんな印象、だが現に、目の前にいるチアキはそのどちらでもない未知の様子、縋るように私の名前を呻いている。
むず痒さを感じていながら受け入れるべきか、拒絶すべきか、それさえ判断がつかない私は彼女にされるがままだ。その判断は側から見れば情けないかもしれないが、誰のものかも知れない高そうな割れ物に触る人の気持ちを考えてみてほしい、大抵は割ってしまった場合を思い描いて尻込みするだろう。今の私には元宮チアキはとても繊細な割れ物に見える、今日の今までとても繊細なんて似合わない明朗な人だと思っていたのも重なり余計に対処に慎重になってしまうものだ。
とは言ってもこのまま好きにさせているのも癪だ、少しばかり覚悟した私はチアキの背中に手を回して軽く撫でる。
「落ち着いてください、私は逃げませんから」
自分で言っておいて何だが、私の言葉は妙に軽薄に聴こえた。しかしながら、チアキには心地よく聴こえたのだろう、腹部に擦り当てていた角も腰に回していた手もするりと離れ、久しぶりにも思える解放感が訪れた。私から離れたチアキの顔がパソコンのブルーライトで照らされて、先ほどよりもよく見えた。
チアキの真っ赤な目は見えない、瞼は横に細い線を描いている。口がほんの少しだけ開いて、そこで呼吸をしている。目を凝らせば後頭部にぼんやりと浮かぶ赤いヘイローが切れかけの電球のように点滅を繰り返している事に気づく、それはチアキの意識が朦朧としていることを示していた、夢と現実の境界が今の彼女にとっては曖昧なのだろう。
「逃げない……ほんと……?」
「ええ本当です。だから、抱きつくのはよして貰いたいのですが」
「イロハちゃんは優しいねぇ……」
つまり私のお願いを無視し、よろめきながらも立ち上がって今度はちゃんとした抱擁を行ったのもきっとチアキが無意識にしたいと思っているから。身体に衝撃が来るが、一応予見はできていたからかよろめくこともなく受け止められた。先ほどまで角が当たっていたお腹からまだ痛みが走っている。彼女の肉体的な重さ、体温、香り、それらが一気に流れ込んで私の周りに漂い始めた、手は私の背中まで回って今まで彼女からされたこともなかった抱擁をしている。背中も、少し痛い。チアキの鼻が首筋に当たる。私の髪の中に顔を埋めて深く、ゆったりと、落ち着いた呼吸を繰り返している。
昨日までの私なら到底こんなふうに彼女の好きにはさせない。なら、なぜ今このような状況を、私が許しているのか。それ今の状況をうまく整理できておらず、そのせいで次にどう動けばいいのか、どう声を出せばいいかが皆目見当もつかないからだろう。それを分かっていながら驚くほど、自分自身で薄情だと思えるほど、感情が平坦だ。
鼓動はぴくりとも揺らがずに、一定の間隔を保っているし、体温が上昇することもない。動揺こそあるが大きなものではなく、故に平坦だと思った。
「そんなことありませんよ」
だからだろう、口が自然とチアキの胡乱な独り言を否定したのは。私は決して優しくなどなく、同僚の様子のおかしい事に心を動かさない冷たい女だ。チアキの明るさ、温かさの隣にいればそれはより顕著になる。
否定してもチアキが私を離す様子は一向にない。むしろ私の否定に否定を重ねるように背中に回った手の力がより強まったぐらいで、私の中の困惑が余計に強まる。チアキにとって私がどう映っているのか訊こうにもぎゅっと抱きしめられていては私の小さな体躯では声が出にくい。
彼女は私が少し苦しいと思っているのも知らずに抜けた笑いを静かな執務室に響かせて、ひとしきり笑うと途端に静かになり、地面に垂れる雫のようにぽつりと一言だけこぼした。
「覚えてないだけ」
「もっと側に居てよ」
言い切ると電源を突然抜いた機械のようにふつりと意識を手放した。気ままにすやすやと寝息を立てて、穏やかに夢に旅立っていった。
確か、つい先ほどまでそんな会話とも言えない言葉の応酬を繰り広げていた。本格的に寝てしまったチアキをソファに運び、ポールハンガーに掛けてあった彼女のコートを布団がわりの被せてやってから私もようやく椅子に座ることができたのだ。そのまま放置して帰るという手もあったにはあったが、私がいくら冷たい女だと自負してもあんなチアキを見た後で捨て置ける程薄情ではない。
あとはチアキが眠る前に言った言葉が気になってしょうがない。寝ている彼女を見守っているの理由はその疑問が八割を占めているからだ。やはり、薄情かもしれない。
それにしても、暇だ。
今この部屋の光源は月光だけ、パソコンもデータを保存して電源を落としたし、デスクの電灯もついでに消してしまった。おかげで光が何もなくて本を読むこともできない。暗所でスマホを使うのは苦手なので彼女が起きるまでの暇な時間を潰す手立てがない、そのせいで私は心底退屈を持て余しながら月光の照らされる彼女の寝顔を見やるばかりだ。
ひとつ、ため息を吐く。意味のない行動だ。
ふたつ、背筋を伸ばす。ぱきりと背中がなった。
みっつ、またため息を吐く。意味のない行動。と自嘲するよりも先に違和感に気づいた。なにか熱い。おそらく部屋か、外が暑いのだろうが、しかし急に暑さを実感した。ただそれならおかしいことがある。部屋の温度が暑いなら耳に聞こえるあの冷房の稼働音と吹き付ける風はなんだ。それも肌を撫でるのは冷えている風だ。外の気温も私が中に入る前に肌寒さを感じていたくらいには涼しかった。ならばこの熱さは一体────
「やっば!完全に寝ちゃってたや……」
違和感の正体を突き止めようとした矢先に間が悪くチアキは飛び起きた。先ほどまでの不安定さを見せることもなく騒がしく大袈裟に、別人みたいにいつもの姿だ。もしや1人でも常にあのテンションなのだろうか。芝居をうつように忙しなく状況を確認しているチアキの視線がこちらに向いた。彼女は目をあんぐりと見開いて間抜けに声を漏らしたのが聞こえる。
その声が聞こえてからまたチアキは静かになった。それがおよそ5秒ほど、5秒経って堰を切ったようにチアキは声を荒げ出した。
「イロハちゃん!?なんで、えっ!?なんでなんで……え?あれ夢……夢……?違うかったの?」
「起きて早々騒がないでください。……倒れていたんですから」
「え?倒れてた?」
私の嘘にチアキは信じられないほど簡単に乗った。ボロが出る前に捲し立てるように私は嘘と本当を重ねる。忘れ物を取りに来たと、部屋に来た時には倒れていたと、ソファまで運んでコートをかけたと、説明してやれば困惑していたチアキは大分と平静を取り戻していた。我ながらよくここまで悪気もなく嘘が吐けるなと感心さえできる。しかも、いやに饒舌だ、普段彼女に向ける言葉の数と比べても多い。それにしても私の言葉を信じてるチアキの視線が不思議だ。心配の目をしている。
「どうしたんですか?」
「いや、イロハちゃん風邪なかなって」
思わず手を頬にやる。確かに伝わる温度は先ほどから鬱陶しかった温度と似ているし、手のひらも汗のせいで湿っている。耳の端なんてかなりの温度だ。月明かりの向こうでチアキの赤い目が細まって私の顔を見ている。本もスマホも、咄嗟に顔を隠せるようなものを持ってなかった私は帽子と制服とで無理やり視線を遮り、震える喉を冷静に落ち着かせて声を出した。
「気のせいです」
「えー?うっそだ〜!絶対顔赤いって!もっと近くで見たげるよ!」
相変わらず遠慮なしの彼女はソファから離れて私の方に近づいてくる。静まり返る中で一歩一歩靴を床に鳴らして、その距離を教える。頭の中でこの状況をどう切り抜けるかを試算しても熱くなった頭では碌な結果など得られはしない。むしろ余計な時間を使って詰みが近づくだけだ。
チアキが私を気遣う言葉と共に歩いている。私の名前を呼んでいる。その事に意識すると、先ほどまで私を抱きしめていたチアキを思い出してしまう。すぐにでも忘れそうなはずだったのに、今になって抱きしめられた感触が思い出され、鼓動が強くうたれる。
私はたまらず、席を立ち上がると何も言わず、足早に出口に向かう。しかしチアキの腕が私の肩を掴み、グイッと引っ張った。その力に抵抗もできずに流れるようにチアキの胸の中に収まる。先ほどの感覚がより鮮明になって、否、先ほどの感覚を追い越すようにチアキの手のひらが私のデコに触れている。チアキは熱いねと呟きながら私から離れた。
「外は寒いんだからここで一休みしていったら?1人で編集作業するのも寂しくてね〜、イロハちゃんは寝てるだけでいいからさ!」
裏表のない笑顔を弾けさせる姿を見て、急激にここまで焦っている自分がバカらしく思えて来た。私は頷いて、被っていた帽子を脱いでテーブルの上に放り捨てた。
「はぁ。分かりました」
彼女は投げ捨てた帽子の軌道を最後まで見届けると何度か頷いて、また元の席に戻っていった。私もチアキのデスクに一番近いソファにどさりと座り込んで、目を閉じる。視界は閉ざされ、聴こえるのは紙面にペンを踊らせる筆音と青い画面上に情報を打ち込む打鍵音、それと元宮チアキの息遣いだ。すっかり冷め切った夜は熱帯夜かと思うほど暑い。
しばらく作業の音に耳を傾けていると意識が遠のき始め、うとうとしていると、そのタイミングで肩に何かが当たる感触がした。薄く目を開けるとチアキがソファに移動して寄りかかっている様子だった。
「もういいんですか」
「もういいかな〜。あとは仕上げだけ、イロハちゃんのお陰だよ」
「私の?何かをした覚えはありませんが」
そう言うとチアキは嬉しそうに笑ってさらに体重を掛けてきた。やはりと言うべきか、先ほどの抱擁の感覚を思い出して背けていた顔をもっと彼女の見えない所にまで持っていく。彼女はこの距離感を、沢山いる友達にもしているのだろうか、そんなことを一瞬考えてすぐに棗イロハには何にも関係ないことだと思考をやめた。声は特に上機嫌で幸福に満ちた色を浮かばせている。
「実はさ、さっき夢でイロハちゃん見たの。起こしに来る夢」
「どんな私でしたか。冷たかったですか、それとも優しかったですか」
「どっちも。イロハちゃんいっつも私には冷たいけど優しいから、いつも通りって言った方がいいのかな?」
次に出る言葉は全く浮かばず、心の中で優しくはないと呟く。しかしチアキは返事が来ないことを気にせず、今度は全く違う話題を喋り出した。冷たく熱い夜に響く豊かないい声で、最近読んだ本の話、新しい購読者、休日にしたこと、十人十色の友人、万魔殿で起きた面白くて可笑しい問題の数々。彼女の語り口は一向に閉じない、潤滑油を差し込んだばかりの駆動部のように滑らかに動き続けているし、その止まるところを知らないどれもに私は夢中になった。静かに頷いて、また笑った。
だから暗闇の視界の中で自ら関係ないと切った思考を、完全に切り離せないでいた。疑問は、やはり尽きない。聞く気もないがそればかりが会話の思考に割り込んで離れない。チアキはソファから飛び起きた。
「話してたらなんか目が醒めちゃったや!もうちょっと煮詰められそうな感じ〜」
「ねえチアキ」
足取り軽くソファから離れていく彼女を呼び止めた。チアキは振り返ると不思議そうに首を傾げて、どうしたのと私に訊いた。
「いえ、その、なんて言うんですかね。変なこと、言いますよ私。今の、寝てる人に寄りかかるやつってあなたは友達なら誰でもやるんですか?」
チアキは窓際の方まで行き、体を窓の外に乗り出して、夜の青と黄色の魔法のような景色を熱心に眺めた。私の方を振り返った時には、顔に確かに、かすかな微笑が浮かんでいた。
「イロハちゃんが望む方だよ」
「……どういう意味ですか?」
動揺して言葉を返す。彼女は明るい月に背を向けたので、表情ははっきり見えなくなる。真っ赤な瞳だけが灯るライトのように彷徨っている。ただ、勘違いでなければチアキの表情はまた笑みを浮かべていた。
「今、肩に体を預けたのはイロハちゃんだけへの特別サービスか〜、他のみんなにもしてる応募者全員サービスか〜ってね」
雑誌のキャンペーンを例えにチアキは選択を迫る。
「『私だけ』がいいですね」
ほんの一瞬だけ言い淀んでから、確かに口を作って言い切ると、チアキの赤い瞳には確かな感謝の色が表れた。不思議な話だ、選択を迫り、そして一体何に感謝を感じたというのだろうか。
それを尋ねれる訳もない私の隣に、チアキはまた上機嫌に座り込んだ。立ったり座ったり、彼女らしい忙しなさであったが、安息の地を見つけた旅人のようにやがて私に寄りかかったまま離れず、そして夜が明けるまで眠ってしまった。
彼女が再び寄りかかってから眠るまでの間に会話はなかった。翌日からのチアキは、まるで変わったところを見せずその日のことを口にすることも無い。夢だと思って私に投げたあの言葉の真意は、今も分かっていない。ただ変わらず側で笑って、大変そうだねと他人事のように話しかけてきた。
全てまやかしではないのか、そう思ってもあの夜に、抱きしめられた時の痛みを、私は少しも忘れられないでいた。