HPVワクチン論文に何が起きているのか 異例の公開質問状を読み解く
名古屋市立大学の鈴木貞夫教授が、日本看護科学学会の英文誌(JJNS)に対し、極めて異例の「公開質問状」を提出しています。
その指摘は、科学の公正さ(インテグリティ)を揺るがしかねない重大な内容を含んでいます。また、若者世代へのワクチン接種という、リスクコミュニケーションにおいて重要なテーマとも深く関係しています。
そこで本稿では、できるだけ専門用語を避けつつ、一般の方にも伝わるように解説します。
HPVワクチンの安全性を示した「名古屋スタディ」
まず、この背景には、日本におけるHPVワクチン(子宮頸がんワクチン)をめぐる大きな混乱があります。
2013年に同ワクチンの定期接種が始まりましたが、接種後に体調不良を訴える声が相次ぎ、国は開始からわずか2ヶ月で「積極的な接種推奨」を中止するに至りました。その後、ワクチン接種後の症状を訴える方々を中心に『全国子宮頸がんワクチン被害者連絡会』が結成されます。
2015年、同連絡会の愛知支部が名古屋市の河村たかし市長に強く要望したことを受け、「ワクチン接種と症状との関連が本当にあるのか」を検証するため、約7万人という大規模な疫学調査、いわゆる「名古屋スタディ」が実施されることになりました。
この疫学分析を名古屋市から依頼されたのが、今回、公開質問状を提出している鈴木教授でした。そして、導かれた結論とは、「調査対象となった24種類の症状について、ワクチン接種との間に統計学的に意味のある関連は認められない」というものでした(Papillomavirus Res. 2018 Jun:5:96-103.)。
ワクチンの有益性をどう考えるか?
強調しておきたいのですが、統計的に捉えられないからといって、健康被害が1人もいないわけではありません。
体調不良を訴えている人に対して、「精神的な問題ではないの?」とか、「捏造に加担しているんだろう」とか、心無い言葉を投げつけてはなりません。「疑わしきは救済」という姿勢は、医療と行政が取るべき重要な態度です。ただ、救済対象となる人が発生しているからといって、ワクチンそのものを否定することにはなりえません。
子宮頸がんとは、日本国内で年間1万人以上が新たに罹患し、毎年3千人近くが死亡している疾患です。しかも、20代から40代という若い女性での罹患率が高く、「マザーキラー」とも呼ばれる側面があります。
公衆衛生学的には、「統計的に捉えられないほど稀な健康被害のリスク」と「ワクチンによって回避できる大きな疾病負荷」とを比較し、社会全体としてどの選択がより多くの健康を守るかを考える必要があります。そして、多くの先進国においてHPVワクチン接種が公衆衛生政策として採用され、それらの国で子宮頸がんの発症が大きく減少しているのは事実です(※参考資料へ)。
どのような医薬品であっても副作用の可能性はゼロではありません。たとえば抗菌薬は細菌感染症による死亡を激減させましたが、重篤なアレルギー症状(アナフィラキシー)を起こすことがあります。それでも、「抗菌薬の使用をやめよう」という社会的判断にはなっていません。
論争の火種となった「八重・椿論文」
さて、今回の公開質問状で問題となっているのは、2019年に同誌に掲載された八重ゆかり准教授(聖路加大学・職位は当時)らによる論文(以下、「八重・椿論文」)です。これは名古屋スタディのデータを用い、異なる統計手法で再解析を行い、「ワクチン接種と症状との関連があるかもしれない」との結論を導き出しました(Jpn J Nurs Sci. 2019 Oct;16(4):433-449.)。
この論文が公表されたのは、まさに国がHPVワクチンの接種勧奨を再開するかどうかを検討していた、きわめてデリケートなタイミングでした。政策判断に少なからぬ影響を及ぼしかねない以上、しっかりとした検証と説明責任が求められます。これは鈴木教授による研究についても同様です。
鈴木教授は「八重・椿論文」に統計的な誤りがあるとして、以前から学会側に指摘していました。しかし、学会側から説明や是正がなされないまま対応が不透明であるとして、もっとハッキリ言えば「組織ぐるみで隠蔽している」のではないかとして、今回、編集委員長に対し公開の形での回答を求めるに至った、という経緯です。
公開質問状が指摘する「5つの疑問」
公開質問状では多数の質問が列挙されていますが、論点を整理すると、主に次の5点に集約できます。
1.身内による甘い審査を行っている
この論文は看護学の内容を含まず、日本看護科学学会にとっては「専門外」のものでしたが、異例の速さ(わずか70日)で採択となりました 。その過程で、審査責任者が「著者の上司」に変更されるなど、公平性に欠けるプロセスがあったのではないかと指摘しています 。
2.科学的な誤りを隠ぺいしている
現在の編集委員長であるグレッグ美鈴教授(名桜大学)は、2019年当時、外部の統計専門家に確認し「論文の分析は間違っている」という回答を得ていたはずだと鈴木教授は述べています 。しかし、その事実は公表されず、闇に葬られたという疑いです。
3.学術誌の独立性が守られていない
論文の取り扱いは本来、編集委員会が独立して決めるべきものです。しかし、この論文については、日本看護科学学会の「理事会」が作った特別委員会が決定を下し、編集委員会はそれに従わされたと指摘しています。これでは学術誌が守るべき独立性が侵害されている疑いが生じます。
4.新たな科学的指摘を無視している
鈴木教授は、この論文の誤りを示す新たな論文を別の学会誌(日本公衆衛生雑誌)で発表しています(情報バイアスの定義,考え方と実例.日本公衆衛生雑誌:2026(in press))。査読論文なので学術的に認められた形です。また、2020年以降の新情報を加えたレターをJJNSに投稿しています。ところが、学会誌側は、新しい指摘を吟味することなく門前払いしていると批判しています。
5.読者に対する説明に虚偽がある
学会誌側は「編集委員会で検討した結果、論文に問題はない」と読者に説明してきましたが、実際には実質的な審議が行われた形跡がなく、虚偽の情報を提示した疑いがあるとしています。
求められるオープンな議論
鈴木教授は、公開質問状への回答を1月23日までにするよう求めています。
私は、鈴木教授の指摘したことのすべてが、本当に日本看護科学学会において起きていたかは知りません。ただ、これらは、科学の公正さを守るべき学術誌が、組織の都合で間違いを隠していないかという、研究倫理の根本に関わる問題とも言えます。
科学の論争は、開かれた場所で誠実に行われるべきものです。組織のメンツを守るために科学的な誤りが放置されることがあれば、それは公衆衛生上の大きなリスクになりかねません。学会側が、きちんと回答していただけることを期待しています。
―――
※ 参考資料
1) スウェーデンの女性において17歳未満で4価ワクチンを接種した群では、未接種者と比較して子宮頸がんの発症リスクが88%減少(発生率比 0.12, 95%CI 0.00〜0.34)し、17〜30歳では53%減少(発生率比 0.47, 95%CI 0.27〜0.75)した(N Engl J Med. 2020 Oct 1;383(14):1340-1348.)。
2) イングランドでは、HPVワクチン接種プログラム導入後、12〜13歳で接種した世代では、子宮頸がんの発生率が87%減少。1995年9月1日以降に生まれた女性における子宮頸がんは、ほぼ根絶に近い水準まで低下している(Lancet 2021;398:2084-2092.)。
3) スコットランドにおいて、12〜13歳で2価HPVワクチンを接種した女性では、観察期間内に浸潤子宮頸がんが1例も確認されていない。また、14歳~22歳でも発症率は大幅に低下(10万人あたり接種者 3.2人、未接種者 8.4人)しており、キャッチアップ接種の有効性も示されている(J Natl Cancer Inst. 2024 Jun 7;116(6):857-865.)。