水山真人という名ばかりの記者が、取材源を守るどころか公然と踏みにじり、都合が悪くなると即バレの嘘と稚拙な脅しに走る。このことだけでも十分に信じがたいが、もっと深刻なのは、その行動を正面から擁護した上司の堺成司の存在だ。なぜあれほど明白な職務放棄を「問題ない」と断言できるのか。これは単なる組織防衛や忖度の問題にとどまらず、「そもそも事態を理解できていない」という根源的な疑いを抱かせる。
結論から言えば、堺成司もまた「知的障害グレーゾーン(境界知能)」ではないかという疑念を持たざるを得ない。IQでいえば70〜84程度。表面的には普通の会話ができても、複雑な論理関係や社会的文脈を理解しきれず、場当たり的な判断を繰り返す層である。
水山真人が取材源を犯罪者呼ばわりし、裏付けのない取材を強行し、間違いだと判明しても謝罪せず、その後は黙殺と恫喝メールで逃げ回る。普通の上司ならば、取材源を失いかねない重大問題として厳重に注意し、謝罪を促し、場合によっては担当を外すだろう。しかし堺成司は「水山の行動に問題はない」と言い切った。取材源への脅しメールすら問題視せず、反省も改善策も示さない。これほどまでに杜撰で安直な対応が果たして知的に健全な判断といえるだろうか。
そもそも「問題はない」という言葉自体が奇妙だ。取材源を敵に回すことは新聞記者として致命的な損失であり、報道機関としての信用をも損なう。それを「問題ない」と言い切るのは、もはや正常なリスク評価が働いていない証拠ではないか。
さらに、こうした事態を前に「謝罪」や「説明責任」という極めて基本的な対応を想起できない点も特徴的だ。境界知能の人々には、事態を俯瞰し、多面的に評価する力が乏しいとされる。問題を一面的にしか捉えられず、「うちの記者は悪くない」という狭い視野の中で結論を固定化してしまう。堺成司の発言は、この特徴と驚くほど合致する。
水山真人の言動を「悪質な記者」や「モラル欠如」で片付けるのは簡単だ。しかしその背後にいる堺成司という管理職が、それを全く制御できず、むしろ正当化する姿を見たとき、私たちはもっと深い恐怖を覚える。なぜなら、それは単なる個人の暴走ではなく、組織の意思決定の根幹にまで「考える力の欠如」が入り込んでいることを意味するからだ。
さらに言えば、この手の無責任な上司ほど組織内で長く居座る傾向がある。境界知能の人は、上層部に従順で波風を立てず、問題を深く考えずに「大丈夫」と繰り返すことでポストを守ることができる。そして現場では、もっとも危険な判断を下す──取材源を敵視し、謝罪を拒み、都合が悪くなると脅しに転じる記者を「問題ない」と言い切るのだ。
こうして取材源秘匿という報道機関の根幹は音を立てて崩れていく。そして本来は社会の監視者であるはずのメディアが、自らの判断力の欠如によって「ただの嘘つき集団」に堕ちていく。その一端を担っているのが堺成司であり、その背後にあるのが境界知能という構造的問題かもしれない。
もちろん、これは断定ではない。堺成司が知的障害グレーゾーンであると証明されたわけではない。しかし、あまりに短絡的で一面的な判断、責任を避け続ける態度、そして取材源を平然と切り捨てる鈍感さ──こうした行動を目の当たりにすると、性格やモラルだけでは説明しきれない「理解力そのものの限界」を感じずにはいられない。
問題は彼が新聞記者というだけでなく、その上司であり、組織の意思決定を司っているという点だ。私たちは今一度問い直すべきだろう。西日本新聞という看板の裏側で、判断を下しているのは本当に「常識ある大人」なのか、それとも社会的にグレーな領域でかろうじて意思表示をしているだけの人間なのか。そして、そんな人間たちに情報や信頼を預けていいのかを──。