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学園創設者

東洋英和女学院卒業部⾨

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マーサ J. カートメル

1845-1945年。カナダ東部、現在のオンタリオ州ソロルドで生まれる。トロント官立女子師範学校卒業。ハミルトン官立女学校の教員および校長を務める。1882年、カナダ・メソジスト教会婦人ミッション初の海外派遣婦人宣教師として来日。1884年東洋英和女学校を創立し、初代校長となる。二度の来日を経て、カナダに帰国。晩年はハミルトン、トロントで暮らし99歳で逝去。

カナダから派遣された東洋英和女学院の創立者

生い立ちから日本に派遣されるまで

すみれを蒔いたら

麦を刈り取ろう

収穫したら、倉に納めよう

鋤をとって

朝まだき、畝を作ったら

命あるうちに、来世の種を蒔こう


これは、ミス・カートメルが気に入った詩や文章を書きためていた小さな手帳の冒頭に記された、英国の女流詩人エリザベス・バレット・ブラウニングの詩です。


英和の卒業生であれば、誰でもミス・カートメルの名前を知っているでしょう。宣教師としてカナダから日本に派遣され、東洋英和女学院を創立した人物です。


ミス・カートメルは、英国からの移民だった両親のもとにカナダで生まれましたが、幼くして母を亡くし、伯父夫婦に引き取られて育ちます。しかし、その伯父と実父も相次いで他界。自立して生きることを考えた彼女は、公立女学校卒業後、教員を養成するトロントの女子師範学校で学びました。そして、ハミルトン市の官立女学校の教師になり、同校の校長に就任します。


その頃、日本では長かった鎖国の時代が終わり、1854年には閉ざしてきた扉を開きました。欧米諸国の教会や宣教師たちは、堰を切ったように日本への宣教活動を始めます。


1872年、ミス・カートメルはカナダ・メソジスト教会の海外宣教活動講演会の場で、開国後の日本にキリスト教の教えを伝道する使命を果たすために、女性の宣教師が必要とされていることを知るのです。


その後、女性宣教師による全世界への宣教活動を支援する「Woman’s Missionary Society(WMS=婦人ミッション)」がメソジスト教会内に結成され、日本への女性宣教師の派遣が決まりました。そして、その任務にふさわしい人物として選ばれたのが、神からの召命を心に秘めていたミス・カートメルだったのです。


3カ月後、38歳のミス・カートメルはシティ・オブ・トウキョウ号に乗船し、日本を目指します。約3週間の船旅を終えて、横浜に上陸した彼女は、当時、東京の外国人居留地だった築地のカナダミッションの宣教師館で暮らすことになりました。彼女はここで聖書の会や英語の授業に尽力し、そこから始まった集会は、のちの築地教会へと発展していきます。

東洋英和女学校の開校から一時帰国まで

日本での宣教活動を通じて、ミス・カートメルはキリスト教の教えに基づく、自由で平等な女子教育を実践する学校が必要であるとの考えに至ります。その当時、日本国内にはすでに約20校の女子ミッションスクールがありました。彼女がカナダの本部に依頼したのは、寄宿舎を備えて生徒と教師が生活を共にする女学校の開校でした。


1883年、ミス・カートメルの熱心な訴えが認められ、カナダ婦人ミッションからの寄付によって東鳥居坂町に女子の学校を建設するための土地を入手することが叶いました。そして、校舎の竣工は間に合わなかったものの、1884年10月20日、2名の生徒と4名の教師によって、東洋英和女学校が開校したのです。


東京府知事から正式な認可を受けた11月6日を創立記念日と定め、東洋英和女学校は英国流の堅実な教育を行う女子校として上流階級の家庭を中心に評判を呼びます。翌1885年には校舎を増築して寄宿生50名、定員170名と急速に規模を拡大させました。


東洋英和女学校では、朝8時10分からカートメル校長による短い礼拝が始まります。彼女は「聖書」の授業も受け持ち、夜には寄宿舎の校長の部屋に教師と生徒、用務の職員とが大家族のように集まって、温かな礼拝のときがもたれました。


また、学校経営の実務と教育活動に加えて、ミス・カートメルは心身に悩みを抱える一般の人たちにも手を差し伸べ、女性のための聖書の会も始まります。


学校の急速な発展にともなって校長としての仕事量も増していき、ミス・カートメルは、過労によるストレスから心身の不調に苦しむようになります。強い使命感に支えられ、異国の地で学校の設立のために激務を続けてきたことによる疲れが、一気に出たのかもしれません。


1887年、カナダ婦人ミッションは、ミス・カートメルに帰国静養が必要であることを認めました。生徒たちや教師全員による送別会が開かれ、彼女は4年あまりの在日生活に別れを告げてカナダへと帰国します。


カナダに帰って健康を取り戻したミス・カートメルは、カナダ各地をまわって東洋英和女学校について語り、教師となる宣教師の派遣が必要であることを訴えました。その熱心な働きかけが、その後のカナダから日本への長きにわたるさまざまな支援につながります。

伝道と女子教育に捧げたミス・カートメルの生涯

ミス・カートメルの聖書

5年後の1892年、伝道活動のために再来日したミス・カートメルは、東洋英和女学校だけでなく、甲府の山梨英和女学校とも交流を持ちます。


再びカナダに帰国した後はハミルトンで従姉とともに暮らし、晩年はトロントに移ります。そして1945年3月20日、100歳の誕生日を前に、ミス・カートメルは天に召されました。


カナダに帰国した後も、彼女がつねに東洋英和のことを心に留めて祈っていたことは、遺された膨大な書簡や手帖などの記録から明らかです。


冒頭で紹介したミス・カートメルの手帖の3ページ目には、このような一文が記されていました。


神さま、私の命を自分のためではなく、

他の人たちのために捧げることができたら!

私の命をその人たちの中に注ぎ込み、

その人たちのためだけに生きることができたら。

「ああ、日々の生活習慣の誘惑は恐るべし!」


ミス・カートメルが多くの苦難を乗り越えて土地を耕し、ようやく蒔いたひと粒の種から豊かに穀物が実り、今日の東洋英和女学院へと育ちました。私たちは、遠い異国の地にわたり、女学校設立のために力を尽くしたひとりのカナダ人女性のことを決して忘れることはないでしょう。

参考文献

参考文献:『カナダ婦人宣教師物語』(東洋英和女学院、2019年改訂版)、『東洋英和女学院 資料集 第5号 M.J.カートメル関係史料』(東洋英和女学院 史料室委員会、2017)

※記事中の所属・役職等は各記事掲載当時のものです。

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