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詩壇の掃きだめ化について

 詩壇について、しばしば不審に思うことがある。それは「みんな本当に詩が好きなのだろうか」ということである。というのも、たまに詩壇を覗いてみるとほとんど誰も詩の話などしておらず、しているかと思っても「この間の何々さんの本は面白かった」「何々さんのイベントは良かった」などという業界の内輪話ばかりなのだ。むしろ詩人などと自称しながら、詩の話よりも漫画やアニメ、ポップミュージックや映画などの話をしている時の方が楽しそうに見える人が多いのは気のせいだろうか。
 これはなぜかと考えてみる時ふと思い当たるのは、「どうして詩を書き始めたのですか」というインタビューへの回答だ。誰と言うわけでは無いのだが、そういう感じのインタビューの中で「もともとは違うことをやりたかったのですが、楽器も弾けず絵も描けなかったので、詩なら簡単だと思って始めました」という回答になっていることが珍しくないように思われるのである。つまり、詩壇とは言いながら詩の愛好者の集まりではなく、「絵も描けないし楽器も弾けないけど、表現者になりたかったので詩を始めました」という胡散臭い人たちの掃きだめになってしまっていることが疑われるのだ。

 どうしてこんな事態になってしまっているのだろう。個人的には、この問題の根底には「形式の廃止とそれに伴う技巧の消滅」が関わっていると思う。つまり、形式という概念が無くなって「とにかく何でも好きなように書いたら良い。自分が詩だって思ったらそれが詩なんだ」という考え方が広まったせいで詩がこんなに胡散臭いものになってしまったのではないかということだ。
 話だけでは伝わらないかもしれないので、詩における形式と技巧の関係がわかりやすい例として、いくつか実際の詩を引用する。極端な方がわかりやすいと思うので、まずはヴィクトリア朝の英国で「史上最低の詩人」と呼ばれ笑いものになっていたウィリアム・マゴナガルの"The Tay Bridge Disaster"と、当時の桂冠詩人だったテニスンの代表作"In Memoriam A.H.H."の冒頭数行をそれぞれ抜き出してみる。

The Tay Bridge Disaster
William McGonagall

Beautiful Railway Bridge of the Silv’ry Tay!
Alas! I am very sorry to say
That ninety lives have been taken away
On the last Sabbath day of 1879,
Which will be remember’d for a very long time.

’Twas about seven o’clock at night,
And the wind it blew with all its might,
And the rain came pouring down,
And the dark clouds seem’d to frown,
And the Demon of the air seem’d to say—
“I’ll blow down the Bridge of Tay.” 


In Memoriam A. H. H.
Lord Tennyson

Strong Son of God, immortal Love,
   Whom we, that have not seen thy face,
   By faith, and faith alone, embrace,
Believing where we cannot prove;

Thine are these orbs of light and shade;
   Thou madest Life in man and brute;
   Thou madest Death; and lo, thy foot
Is on the skull which thou hast made.

Thou wilt not leave us in the dust:
   Thou madest man, he knows not why,
   He thinks he was not made to die;
And thou hast made him: thou art just.

  内容はひとまず脇において、形式の部分に注目してほしい。マゴナガルの詩は韻律がちぐはくで、"9"と"time"のところは韻も怪しい。さらに語彙も子供のように乏しく、何の工夫もない簡単な文法で歌われているので、いかにも滑稽な印象を与えている。一方のテニスンの詩は、一見するだけでもその形式の完璧さが明白であり、読んでみれば韻律も流麗である。文語を用いた文体は格調高く、この作品がきっかけで桂冠詩人に選ばれたのにも納得できる。
 こうやって並べてみれば、どちらが下手でどちらが上手いかは一目瞭然なのだ。「とにかく何でも好きなように書いたら良い。自分が詩だって思ったらそれが詩なんだ」などという考えが一般化したのは本当にごく最近のことで、もともと詩には明確に上手い下手があり、下手なものは笑われていたのである。

 上にあげたのは英語の例だが、ここ日本にも一応、短歌という伝統の形式があり、今でこそ口語で字余りに詠むのが格好良いようなことになっているが、昔は形式に伴う技巧と格式が重視されていた。だから、そこには当然、上手い下手があったのだ。
 それではわかりやすい例として、昔から歌が下手なことで有名な本居宣長もとおりのりながと、新古今時代を代表する大歌人式子内親王の歌を五首ずつ抜き出して比べてみよう。


本居宣長

つねゆけに白雲かゝるみよし野の御舟の山は花ざかりかも

なみの清き川瀬の月見れば涼しくもあるか夏の夜の空

わが屋戸やどの荻の下葉も色づきて日にけに寒し秋の夕風

玉くしげ明けむあしたはとく見てむ今宵の雪はいほへふりしけ

敷島のやまと心を人問はゞ朝日に匂ふ山ざくら花


式子内親王

この世にはわすれぬ春の面影よおぼろ月夜の花のひかりに

秋風をかりにや告ぐる夕ぐれの雲ちかきまでゆく蛍かな

みじか夜の窓の呉竹くれたけうちなびきほのかにかよふうたゝねの秋

身にしむは庭火の影にさえのぼる霜夜しもよの星の明方の空

見しことも見ぬ行く末もかりそめの枕にうかぶまぼろしのうち


 宣長の歌は万葉集を意識した擬古調がいかにもわざとらしく、何が言いたいのかよくわからないか、あるいはわかっても別に面白くもない普通の事しか言っていない。最後の「敷島の」の歌も、政治を抜きにして冷静に鑑賞すれば、本歌と思しき宗尊むねたか親王の名歌「言はでおもふ心の色を人とはゞ折りてや見せむ山吹の花」と比べて技巧的には落ちると言えるだろう。
 一方、式子内親王の歌は技巧的に洗練されており、夕暮れの雲に向かって舞い上がってゆく蛍の姿、窓の外に靡く竹の葉の音を聞きながらうとうとする秋の夜の感覚などが一読して鮮烈な印象を与える。また空の月から花のひかりへ、あるいは庭に焚く火から明け方の星空へと一行の中で視点が移ってゆくように書かれているのも見事である。やはり、形式があってこそ上手い下手の区別が生まれるのだ。

 テニスンや式子内親王の作品には、現代詩に見られるような胡散臭さが微塵もない。それもそのはず、現代詩の場合は内容以前に「そもそもこれ本当に詩なのか?」という疑問が生じるが、彼らの作品にはそのような疑問が一切生じないからだ。
 言わば、詩人にとって「形式に基づいて韻文を書く」という能力は、音楽家にとっての「和音を理解して楽譜を書く」という能力や、画家にとっての「物の形を正確に素描する」という能力と同じくらい基礎中の基礎なのである。だから口語自由詩しか書かない現代詩の人々がお互いの作品を指して「うーむ、ここの改行が上手いねえ」とか「最後ポンッて場面が飛んで海が出てくるでしょう。あそこなんて本当に上手だなと思う」などと言い合っているのは、例えれば楽譜の読めない人々が交互にピアノの前に座り、感覚を頼りに即興でシュトックハウゼンの物真似のような曲を弾いて、互いに「あのテュランッてところがすごく良かった」とか「あの後半ドーンって遅くなるところあったでしょ。あそこ心に沁みたな」などと言い合っているのと同じなのだ。意味がないのである。

 現代詩の閉塞を打開するためには、詩の中に形式と技巧を取り戻すべきなのではないだろうか。口語自由詩も一昔前ならば「まだ見ぬ可能性を求めての言語実験」などと言って正当化できたのかもしれないが、今はもう正直そんな可能性など誰も信じておらず、ただ「現代詩とはこういうもの」というステレオタイプとして定着してしまっているだけのような気がする。
 あるいは「まだ見ぬ可能性」というものが本当にあるのだとすれば、それは個人の夢や空想ではなく、古典の中にこそ眠っているのではないだろうか。古典に学び、「形式に基づいて韻文を書く」という基礎を身に着けた上で技巧を磨いてゆくようにすれば、怪しい新興宗教と化してしまったこの詩という芸術も再び生命を取り戻すことができるのではないかと思う。

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