「宗教は危険」「宗教は争いを生む」という思考停止を、メタバースにまで持ち込んではならない。
「宗教は危険」「宗教は争いを生む」。この思考停止を、ついにメタバースにまで持ち込む人々が現れました。
私が受けたnoteの反論記事は、その構造的問題を象徴しています。
この反論記事は一見穏やかで理性的に見えますが、論理構造を精査するといくつかの重大な問題を抱えています。
ここで扱うのは、単なる宗教論ではなく、制度の公平性と思想表現の自由に関する問題です。
整理して解説します。
「別ライセンスを作ればいい」論法の自己矛盾。
筆者は議論の核心で、「VN3ライセンスを批判するよりも、新しいライセンスを作ればいい」と述べています。
一見、建設的に見える提案ですが、ここには二つの根本的な誤りがあります。
まず第一に、「別のライセンスを作れば解決する」=「既存の構造はそのままでよい」と想像ができる発想です。
つまり、問題の根源(=VN3が事実上の標準となっている構造)を温存したまま、個別に逃げ道を作る案です。
これは「改革」ではなく「分離」です。
制度が文化的に閉鎖的であることを是正せず、むしろ「異質な意見は別室でどうぞ」と追い出す論理です。
第二に、「淘汰に任せればよい」という放任主義。
宗教的・思想的な自由は、市場原理によって勝ち負けで決めるべき問題ではありません。
信教の自由は「需要」ではなく「人権」です。
「淘汰に任せろ」と言うのは、民主主義社会において人権を多数決で処理するのと同じ危うさを持ちます。
もし仮に私が新しいライセンスを作って、それが支持を集め、VN3から代替えされることになるならば、残った陣営が行き着く先は「文化的自己崩壊」です。
国際的規範との乖離によって、文化的孤立に至るからです。
私のライセンスは「VRChat利用規約に準拠した汎用的かつ公平なライセンス」として作るつもりですので、この陣営の「VRChat利用規約違反」を「正当化」するやり方が「時代遅れ」になることは目に見えています。
その立場にいる方々が「自滅の道」を進んでも良いのであれば、引き続き同じ主張を繰り返し、私に代替えライセンスの作成を推奨することができます。
それこそが「自由と責任」です。
自由は放任ではなく、他者の自由を守るための責任の共有です。
「争いを好まない日本人」論の文化相対主義的逃避。
筆者は後半で「日本人は争いを好まない」「グレーな共存を重んじる」と述べ、その結果として「宗教的立場を明らかにしない文化が日本では合理的」としています。
しかし、これは典型的な文化相対主義の罠です。
「文化的特徴の説明」が、「倫理的問題の免罪符」になっています。
確かに日本には「和」を重んじる文化があり、そこから争いを避けられたとはよく言われます。
しかし、それを理由に「思想表現の自由の制限」を正当化することはできません。
たとえば「争いを避けたいから女性の権利実現を遅らせよう」「トラブルを避けたいから黒人の言うことはスルーしよう」という言い分が通らないのと同じです。
文化の平穏は、思想の沈黙によって守られるものではなく、異なる立場が法の下で共存できる構造によって初めて成立します。
「宗教=争いの原因」という歴史観の単純化。
筆者はユダヤ・キリスト・イスラム、さらには冷戦構造まで引き合いに出して、「宗教や政治が争いを生む」という直感を日本人は共有していると主張します。
しかし、これは歴史的因果関係の誤読です。
争いを生んだのは宗教そのものではありません。権力が宗教を利用し、争いを正当化してきたのです。
実際、アンチキリストの常套句である「十字軍(クルセイド)」も、当時の中世の権力者たちが、キリスト教の名義を不正利用して正当化したことが事実です。
新約聖書は暴力を明確に否定し、「敵を愛しなさい(マタイによる福音書 第5章)」と信者に教えています。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
イエス・キリストにも、使徒パウロにも、「異教徒に対して暴力行為を行なったという証拠」は一つもありません。
したがって、学問的観点から見れば、十字軍は聖書的キリスト教の体現ではなく、中世の政治的・制度的力学の表れとして理解されるべきです。
そのため、「十字軍=キリスト教そのもの」という主張は聖書には明確に反し、現代のクリスチャンからは現在進行形で非難を浴びせられています。
思想そのものが争いを生むのではなく、思想を道具化する者が争いを生む。
この区別を無視して「宗教=危険」とする発想は、まさにVN3の条項が内包する無意識の偏見そのものです。
「宗教が争いを生む」という命題は、「人間は言葉を話すから嘘をつく」という命題と同じく、道具と動機の混同です。
信仰は争いを生むのではなく、争いの中で人間が信仰を口実にするのです。
そのため私は、アバターやデジタル資産の利用を、その宗教的関係性を理由として制限すべきではないと考えます。
「正義が争いを生む」という誤った倫理的結論。
筆者は最後に、「正しさが争いを生む」「何かを否定してまで正義を語るのは悲しい」と結びます。
これは感情的には理解できるかもしれませんが、論理的には倒錯しています。
人権・表現・信仰の自由という価値は、まさに「正義が争いを生む」ことを恐れずに確立されたものです。
黒人解放運動も、公民権運動も、戦後民主主義も、ローマのキリスト教国教化も、すべてが「正しさを主張したこと」によって世界を前に進めました。
「争いを避けるために正義を語らない」は、加害的な沈黙に他なりません。
「中立」を装った事実上の現状維持。
この記事全体は、表面的には中立を装いながら、実質的には現状維持の弁護に終始しています。
宗教禁止を「悪」だとは言わないが、「変える必要もない」と結論づける。
これは「非暴力の服を着た保守」です。
メタバースは「現実の延長」ではなく、「新しい社会空間」です。
そこに過去の商習慣や沈黙の美徳をそのまま持ち込むのは、未来の自由を古い安全の論理で縛る行為です。
「現代社会の古い常識」から解放されるために人々が集まったメタバースに、「現代社会の古い常識」を再び持ち込むのは、まるで「古い革袋」に「新しいワイン」を入れるようなものです。
結果として、イエス・キリストの教えと矛盾する構造を再現しています。
新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。
この反論の核心的問題。
筆者の主張の最大の問題点は、「制度を変える責任を、制度の外に追いやっている」ところにあります。
これは過去記事であしやま ひろこが陥った罠でもあります。
「変えたければ、自分で新しいものを作れ」
という言葉は一見自由主義的ですが、実際には制度の特権を温存する権力の言葉です。
真の自由社会とは、「言動者本人の自己責任」を条件に、他者に寛容になることです。
そうすれば、クリエイターはいちいちユーザーに何かを期待して疲弊することは無くなり、ユーザーもライセンスに神経質になってウンザリすることはなくなります。
そして、「VRChat利用規約違反」という極めて重大な問題を解決できます。
これは信仰論ではなく、制度論の話です。
「宗教は危険」は、そもそも「共産主義」から来ている。
宗教だから危険という論理は、共産主義の代表者「カール・マルクス」の「宗教は民衆のアヘン」と同じ構造です。
Die Religion ist der Seufzer der bedrangten Kreatur, das Gemuth einer herzlosen Welt, wie sie der Geist geistloser Zustande ist. Sie ist das Opium des Volks.
(宗教は抑圧されし生き物のため息であり、心無き世界での心であり、魂無き状況での魂である。つまり宗教は大衆のアヘンである)
しかし、先ほどから繰り返しているように、問題なのは宗教ではなく、宗教を利用して支配するカルトです。
しかも、マルクス自身は『共産党宣言』で、社会変革は「暴力的転覆」によってしか達成できないと書きました。
Die Kommunisten können ihr Ziel nur durch die gewaltsame Umstürzung aller bisherigen gesellschaftlichen Verhältnisse erreichen. Sie erklären ihre Absicht offen.
(共産主義者は、これまでの社会のすべての秩序を暴力的に転覆することによってのみ、自分たちの目的を達成できることを公に宣言する)
ならば、暴力を肯定する思想に「平和」や「理性」を語る資格はありません。
これはVRChatにおいてもそうです。
そして、マルクスは反キリスト(サタニスト)としてよく知られています。
結論。
この反論記事は、宗教や信仰を「危険だから避ける」という発想を、文化と平和の名のもとに正当化しています。
私の記事を頭ごなしに否定し、「哲学」というベールに包んで、優位性の誇示によって他者を沈黙させる言説構造で、宗教的ステルス差別を実現しているため、記事の意図を理解する対話姿勢が見られません。
「教会に通っていたことがある」と主張しながら、日本社会の思考停止の習慣の方を大切にするのは、新約聖書の「律法学者」と「パリサイ人」にほかなりません。
昔のことだが、自分は教会に通っていたことがある。1年間程度の信仰生活を送っているなかで、世の中の人たちと自分の考えの間のギャップに苦しんでいたことがある。毎日祈りを捧げるなかで心の安らぎを感じていた。
そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。
その構造こそが、メタバースの自由を最も静かに蝕むものです。
メタバースに必要なのは「無難さ」ではなく、共存の設計力です。
異なる信仰、思想、価値観がそこにあっても壊れない空間。
そこにこそ、次の時代のVN3ライセンスが生まれる余地があります。
メタバースは、現実社会の再演ではなく、その超克のために生まれた空間です。
私たちはそこに「新しい倫理」を書き込む責任を持っているのです。
参加も自由。脱会も自由。表現も自由。アバターも自由。楽しむのも自由。信教の自由。集会の自由。自己責任かつ他者に迷惑をかけなければ全部自由。
本来のメタバースは、そのような世界ではなかったのでしょうか。
「迷惑行為そのもの」ではなく「宗教」を規制することが、「日本の美しい文化」なのでしょうか。
「人権侵害」ではなく「信仰」を破壊することこそ、「日本人が古来から守ってきた誇り高き矜持」なのでしょうか。
私が望むのは、対立ではなく再設計です。
読者にも、全ての日本人にも、このような制度の見直しと再設計を担う責任があります。
私は、信仰を恐れる社会ではなく、信仰を語っても壊れない社会を夢見ます。
それが、デジタル時代の「新しい倫理」の第一歩です。
誰かを打ち負かすためではなく、誰もが安心して語れる土台を作るために、
私はひろゆきやホリエモンの真似はしません。
I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."
(私は夢を見る。いつの日かこの国が立ち上がり、その信条の真の意味を生きる日が来ることを。
「我々はこの真理を自明のものとして受け入れる。すべての人間は等しく創られているのだ。」)



とはいえ一神教と多神教の方達は相容れないのではないですか?
論点のすり替えです。 私は信仰内容の話ではなく、制度と自由の構造について論じています。 「相容れないから排除する」という発想こそ、私が批判している問題そのものです。