朝7時出勤はしんどいよね【表現の大変さ】

※この記事は完成させようとしたものの、半ばお蔵入りと化したものであるため書きかけのものです。所々半端なものがありますが「訳ありお菓子」の感覚でご覧ください。


「朝7時だ8時だに通勤するのしんどすぎ!朝10時に通勤すればいいじゃないの!」

わかる。
出来る人はそうしたい。

しかし書き方によってこの意見はメラゾ〇マのごとく燃える事もあるのだろう。表現というのは難しいものだ。

立場+状況+書き方+観測者
これらの要素次第でものすごくつまらないラクガキにもなれば、誰かの脳天直撃になりうる表現にもなりうる。
今回のネタはそんな表現の困難さを扱おうと思う。


「ちがうよ!そんな意図で言ってないよぉ!!!」

「私は傷つきました!意図なんて関係ないですぅぅぅ!!!」


表現の要素

なぜ表現をするのか

「まず人はなぜ表現をするのか?」という話である。

孤独な人間は表現をしない。あるいは自分に向けての表現を始める。
動物でもそうだが、食う・寝る・働く、それだけで完結できる生物というのはかなり作りがシンプルである。大抵は他者への威嚇であったり、求愛であったり、本当にただじゃれつくだけという何らかの「表現」を行うものだ。

それらは主に他者に向けての発信である。

つまるところ、表現には必ず「受け手」が存在するという前提があるのだ。こと人間に関しては多くが壁打ちだけで満足できるようにデキておらず、結果として誰かに作用する行いをしがちである。


立場

「誰が何を言ったか・表現をしたか」
ヒトは特にこの部分を重視しがちである。本来であればどのような経緯があり、その表現がいかなる意図でなされたのかという背景を洗って評価すべきなのだがそういったサンクコストを多くの人間は払いたがらないものだ。とくに大して興味はないがたまたま目に・耳にした事柄についてはあまり深く考えたがらないものだ。

「どうしてちゃんと考えて表現を受け取ってくれないの!」

「はははっ暇なんだねぇ、その人はさあ」
「暮らしって、そんな事考えてる暇ぁないやね」


状況

「いつ、どういう場合に言ったか・表現したか」
これは立場の次に評価されうる要素だ。ただし多くの人間はここに関する想定力を備えていない。

例えばDさんが「まだ朝7時に通勤してるんですか?」と発言したとしよう。

殆どの人間はその時点で「なんすか、朝早く出勤してるのがそんなにバカらしいって事っすか?」と脳が反応してしまうものである。
(「まだ」という表現が特に加速装置である)

特になんの拍子もなくいきなり「まだ~してるんですか?」とか「まだ~してないんですか?」と言われればポジティブに捉える人間は少数だろう。

さらにその後も長々と持論を述べている状況を見て、観測した者はどういう評価をするだろうか。もし「人生を豊かにするために」というような議題の流れで同じような「まだ朝7時に通勤してるんですか?」と述べていった場合は多少のサンクコストを割いてもらえる可能性はある。

つまりは前後に「口述する・表現する必要性があったか」によって評価が変わりがちなのだ。

書き方

クッション言葉というビジネス用語(要出典感)がある。元々はコールセンターなどで相手を怒らせずやり取りを円満に行うためのテクニックであるが、これは文字文化にもてき面に作用する。

「まだ朝7時に通勤してるんですか?」という文言はおそらく最悪であった。

この「まだ」から始まる書き方というのは広告でよく用いられる「煽り口上」の一つだからである。

「まだ電子マネー使っていないんですか!?」

「なんだぁ?テメぇ……」

「まだ」というのは控えめに言って厳しい言葉である。職場で想像してみてほしい。「まだ作業終わってないの?」「まだ提出できてないの?」「まだその機材使ってるの?」「まだ3時なんだけど?」。
……普通に生活しているとまずいい思い出はないと思う。

先日なされたDさんのポストより抜粋になる。

「『何よりも大事なもの』を失っていますよ。」
「今は朝10時が常識なんです。」
「実践している人たちは簡単にやっていますよ。」
「自分でつかみ取ることができるんです。」

さて、少なくとも一般論としてはこれらの文章については書き方にかなり厳しい意図が含まれている。でなければここまでキレイにヘイトをかう書き方は出来なかっただろう。

・「『何よりも大事なもの』を失っていますよ。」
既に主張がデカい。これは比較する具体的なものがなく最大限の表現をすることで視線を集める事に特化した表現だが、これが意外と効果的である。
「何よりも大事なもの」とすることで以降の主張に誘導する効果があるが、それは「今あなたは人生を損している」という投げかけになる故である。


・「今は朝10時が常識なんです。」
「常識」ときたが、これも何処の常識かを明確化していない。因みに労働人口の15%を占める工場労働者諸氏にとっては明確な「非常識」であるし、おそらく朝10時に通勤する者といえばフレックス勤務のできるIT業や10時開店の小売業、3交代のシフト勤務者くらいだろう。因みにそれらも別に個人の事情ではなく会社や個人店の都合であって何かを得るための習慣ではない。


・「実践している人たちは簡単にやっていますよ。」
これもかなりの悪手であった。就労者の1割が何とかこの朝10時通勤を実現できる立場にあるだろうが、これも正直怪しい。自営業者にはお分かりかと思うが、そもそも24時間仕事があり得る体制にこの「実践」はかなり夢の生活に近い。


・「自分でつかみ取ることができるんです。」
上述のとおりかなり狭き門であることは明白なのだが、これを常識と言い切ってしまった時点で受け手にはヘイト意識が芽生えるのは必定であると言わざるを得ない。


総じて必要以上に煽り口上と受け取れうる表現が組み合わされており、本人の意図はともかく書き方については擁護が困難である。

以前、書き手の意図に関わらず受け手がどう感じたかが重要だという論調をみかけたが筆者はこの論調自体には「表現の自由」の観点から異を唱えてきた。
この詳細については後に記述する。


観測者

誰に向けたか?というのは明示しなければ分からないものである。基本的に衆目に晒すものであれば「目にしたもの全員に告げる」こととして処理されるのが一般的であろう。

例えば観測者Aが「その辺に落ちてたチラシを読んだら詐欺広告だった。気分が悪くなった」
としよう。

ここでAを批判する者はおらず詐欺広告に言及するものが殆どと思われるが、これはSNSでも同様である。そもそもSNSであればだれに向けて発信するかを制御できるし、広範囲に伝えるにしても冒頭にワンクッションとしてどういう相手に向けたものかは明示できる。

つまり「その辺の道端に朝10時通勤を奨励するチラシをまいた」ことで、それをたまたま拾った観測者からヘイトを買っている構図になるわけだ。当然ながら観測者が批判の対象になるのではなく、発信者が批判を受ける構図となるわけだ。

ただ、勘違いしてならないのは「観測者」にも多数の受け取り方があるために一意にして結論付けろというものでもない。あくまで受け取り方の中央値を評価すべきであり、意見Aが100個集まり一方で意見Bが20個集まったとしてもここでは意見Aの100個のケースを主軸に捉えるべきとしている。


表現という兵器


表現そのものへの批判か否か

「ペンは剣よりも強し」とは現代を代表する格言といえよう。
日本刀一振りでは8人斬れれば御の字であるが、紙に書かれた言論や表現によって数万人を斬る事は可能なのである。

先述した「書き手の意図に関わらず受け手がどう感じたかが重要だという論調」について述べよう。
ある具体的な例になるのだが、ココでは若干ボカす。

A氏が例えば「X氏に対して、(ミームを用いて)この表現で対抗します!」と発信したとしよう。この段階におけるミームとはちょうどブームの最中であり、一般的にその範疇を逸脱する想定が困難だとする。

数か月後、B氏が上記の発信を確認し何らかの懸念を覚えたとしてA氏を非難する。しかしそもそもA氏はX氏に向けたものであり、B氏にはミームを用いていなかった。

A氏の意図は「B氏には向けていない」としているが、いわゆる観測者B氏が懸念を覚えたとすると果たしてA氏に配慮義務があっただろうか?という話である。

ではここで先のD氏を当てはめてみる。

発信者D氏自身は「朝7時に通勤する者への侮辱等の意図はない」としているが、観測者たちの多くはそのように受け取っていないようである。

しかしここで要素が一つ加わってくる。それが「書き方」つまり文章そのものへの評価だ。
おそらくD氏の発信については、他の人間が同様に発信したとしても前向きに捉えられる事はなかったであろう。つまり表現そのものに問題があったというだけなのである。
(とはいえD氏の立場も表現の威力をエンハンスした点は否めないが)

先日も書いたが、憲法21条は表現の自由を保障している。
過分なケースを除き、問題のある表現であるとしてもその個人の思想を表現している限りにおいては誰もが制限することはできない。(その分批判を受けるという結果は発生するしそれらを制限することもできない)

今回の朝7時~というのは、表現そのものが大勢に理解困難なものであった上に仮に身内のノリであるとしてもその前振りが無かったがために表現として批判を受けたにすぎない。

一方、A氏の件では「ミームであること」が明らかであるにも関わらず非難を受ける形であった。これはどういうことか。


「立場」 と 「状況」 の無力さ

立場のセグメントで述べたが、つまりは「相手次第」で表現を評価している事が多いという話である。

表現の自由というのは死刑囚であろうと聖人であろうと、表現した物やそれに使われた技法その他に偏った規制論や統制が生じてはならないという前提がある。
これは筆者もそうだし諸氏もつい忘れがちな概念なのだが
「ある事実を写真に収めた者が二人いる。ひとりは普段からホラふきであり、もうひとりは誠実である。従って誠実な者の写真のみが真価を認める。ホラふきは写真を今後撮ってはならない」
という事を我々はやりがちである。

むろん社会的な側面では信用性というパラメータにより言論の質を評価されるのだが、これを表現の場にも適用してしまうことは言論統制などの重大な事態に繋がりかねない。


ひとつ矛盾があるように見えるだろうか。
発信者の意図に関わらず表現について評価すべき

観測者の受け取り方は批判されるべきではない
とは両立しないように見える。
たとえば観測者が発信者に対してネガティブな評価をしていて、その発信者の発する表現も同様にネガティブな評価を伴う……という具合だ。

これは先に述べた「死刑囚も聖人も同じものを表現すれば表現そのものを評価すべき」という原則から乖離している。

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