俺、東京生まれだけどタイ
ガースファン。5才の頃から。
1965年、5才の時に初めて
一人で新幹線に乗って東京
から大阪の親戚の家まで遊
びに行った時から、かなり
の阪神ファンだど。
熱狂的ではないけどさ。
当時の阪神は、絶対王者巨
人に立ち向かう、てなとこ
が良かった。
その姿勢がタイガーマスク
伊達直人と重なった。
これが絶対王者が阪神であ
り続けたら、俺は阪神好き
にはなっていなかっただろ
う。
タイガースのチャレンジャ
ーとしての姿勢はバイクの
カワサキみたいで好きだ。
飛燕を作っていた頃の川崎
ではなくね。戦後の二輪の
カワサキ。
阪神以前の大阪タイガース
時代の公式帽子が、これま
たなかなかいけてるマーク。
おいらが生まれた1960年時
には確か阪神ではなく大阪
タイガースだった。
私は広島県人が嫌いだ。
私の父方の家の親戚一同も
含めて、その県人の性根が
嫌いだ。
5才の時、初めての一人旅
で大阪に行った時、母方の
親戚のおじさん(後に学校の
理事長と長年の議員として
の論功行賞か、天皇から勲
章貰っていた。当時は府の
お偉いさんだった)は手厚く
歓迎して掛け値なく自分の
子のように可愛がってくれ
た。父は私が6才の時から
正座で論語を読ませる厳し
い人間だったが、おじさん
は「何これ?」みたいに可
愛がってくれた。
子どもがいなかったからか
も知れない。後に私の弟を
養子に懇請していたらしい。
だが、弟は残念ながら生き
永らえなかった。
大阪で暫く滞在してからそ
の足で、広島県三原の父方
の実家に初めて一人で行っ
た。大阪のおじさんに買っ
てもらった阪神の帽子を被
って笑顔で。
広島県三原では継嗣である
長男の子ではない子がよそ
から何しに来たか、という
感じでとても世知辛い思い
をした。
東京に戻る時、大阪のおじ
さんに買ってもらった阪神
の帽子が無い。
父方祖母に尋ねても「知ら
んで。どっかに忘れて来た
んじゃろう」と言う。
落胆したまま帰京したが、
後に母が祖母に質すと、祖
母は「あんぎゃーな(あんな)
もん被って広島におられる
と思ってか。なぬぅ考えとる
んな。ありゃ捨てたど」との
言だったという。
よくやるよね。5才の子ども
の帽子を隠れて盗って捨てる
とか。俺自身は5才だったが
傷つくより呆れ果てて「あっ
そ」だったが。
そして祖母の言いざまは例に
よって広島県人体質全開、フ
ルスロットルだ。
1965年の事であるが、今でも
そうした広島県人の気質は広
島県においては一切変化は無
い。
それが広島県のデフォルトだ。
はっきし言って、嫌いである。
よくやるよ、そういう事。
よく考えるよ、そういう発想。
広島県は日本国内にあって、
まったく他の土地とは異なる
異国である。
同じ日本人なのか?
それがあらゆる方面で21世紀
の現在でも継続しているとい
うのが恐ろしい。
うちの父方の一族は典型的な
広島県人体質で、筆頭格で私
は嫌いだ。
そういう気質と土地柄が嫌い
で父も母も若くして広島を抜
け出して東京に住んで結婚し
たが、人生の皮肉、父は私が
15才の時に広島の実家本家を
継ぐという大失敗をやらかし
た。親族会議での決定だった
らしいが、蹴る事はできなか
ったようだ。
私は抵抗して16才で一人で東
京に残ったが、私もほだされ
て数十年後に広島県に東京か
ら家族で転住するという大失
敗をやらかした。
死ぬまでには人生の岐路を回
復、軌道修正する。必ずや。
ガキの時ツッパリ君だったか
ら、ヤンキーゴーホーム!で
オッケオッケーだ。
俺は俺のホームタウンに帰る。
俺自身のフルサトへ。
松の廊下ではないが、私の
「覚えたか!」は絶対にただ
では済まさない。
当家の現当主は私となった。
家屋敷もすべて法的に私の名
義となった。30年以上かかっ
たが。
私の代で長年続いたこの広島
の本家の名跡は完全消滅させ
る。
一切、親戚親族血族一同には
口を挟ませない。それは赦さ
ん。
それが私の長年着々と計画し
た決裁だ。
敵は本能寺にありではない。
足下にある。
私の最後のいくさはこれから
始まる。
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