ビーノは箱をフロアに置いたな
ら結構積載取れる。
ベスパではできない方法(笑
市内で一番繁盛している24時間
大型安売りスーパーへ買い物。
ここ、朝も昼も夜も夜中も、客
がかなり多い。大昔は古い建物
の2階エリアにゲームコーナー
があった。高校の頃、広島に遊
びに来た時寄ってた。市内でゲ
ーセンなんてここだけだったか
ら。ピンボールマシンで1台滅
茶苦茶面白いのがあって、東京
生まれ育ちの7才年下の小学生
のイトコと高校の時ハマった(笑
そいつが小学生の時、40日間
三原に都内から遊びに来てて、
俺も、30日程三原に来てた。
その時、一つ年上の東京の看
護学生だった俺の当時の彼女が
学校の友だちと二人で三原に旅
行で泊まりに来て、俺の両親が
住んでるうちに泊まってた。
買い物頼まれて出たっきり、イ
トコの小学生とゲーセンで油売
ってて母親に大目玉くらったっ
け。当時の彼女の友人の女性に
は高2の時に作った自主製作映
画に出演してもらった。俺らが
作った映画はなかなか面白い出
来で、高校生がよく作ると、翌
年東大本郷五月祭で学際期間中
上映されてた。フェリー二のよ
うな映画だった。だが、核は実
存主義。カミユの影響大。サル
トルではないってとこがミソ。
小学生ってすげーね。そのイ
トコは東京生まれ東京23区育
ちなのに、すぐに地元の小学
生といつの間にかどこで?と
いう位に仲良しになって、カ
ブト取りに行ったりとかして
た。
8月末に東京に帰ったら真っ
黒に日焼けしてそいつの母親
が「どこの子か判らなかった」
とか言ってた。
ホントに偶然、おれがかみさ
んと結婚して住んだ家がその
イトコ(叔父の家)と同じ町内だ
った。区内ではなく町内。
いわゆる「スープの冷めない
距離」てやつで、歩ってすぐ。
「うちの近所に来ようと思った
んでしょ~」とか叔母は言って
たが、いや、ほんとにたまたま
の偶然。叔父もうちのすぐ近所
のラーメン屋によく行くとか言
ってた。歩ってすぐだから叔父
宅とはよく行き来しただよな。
都内でこういうのは結構珍しい
かも。
叔父貴は民間歴史研究者で企業
の社長でもあったが、庭に別棟
の書斎があって、そこは結構居
が心地よかった。古代史研究の
書籍がドドドッとあって。俺は
文系ながら古代史専攻ではなか
ったが、いろんな話は勉強にな
った。
その家には飼い猫がいて、ミス
タートムという名前だったが、
実はメス猫だった(笑
性別判らない頃に保護してトム
と名付けてしまったので、それ
から死ぬまでずっとミスタート
ムと家族で呼んでいたらしい。
俺が結婚するので叔父貴宅の近
所に引っ越す時、息子のイトコ
兄弟が二人で手伝いに来てくれ
たが、「なんでKTCのこんな工
具セット持ってんの?」とか
驚いたように言ってた。
二人とも四輪をかなりやる奴
ら。
これまたホントに偶然の偶然
だが、三原市内でうまい焼き
鳥屋の店長やってるバイク仲
間が、その三原40日間滞在し
た東京のイトコ(弟)に瓜二つで、
初めて会った時にたまげた。
おんなし顔してるよ。体型も
だけど。ゆるキャラみたいで(笑
おいらの代で本家の名跡は途
絶えるけど、うちの苗字は東
京のそのイトコの家と、広島
市内の薬草学者とその息子の
東大大学院のセンセの家には
残るから、ま、いっか、と。
血脈は残っている。今どき血
脈とか関係ない時代だけどさ。
笑えるのがその東大のセンセ
だ。そのゆるキャラいとこの
兄貴(俺の5才下)と顔がソック
リ(笑
さらに、別な都内のイトコ姉
の子ともソックリ。
いやぁ、血筋って争えない。
ちなみに偶然だろうが、遠い
いにしえの我らが一族であろ
う元GPライダー本間ちゃんは、
そのゆるキャライトコの親父
(俺の父の弟=叔父)に顔がソ
ックリだ(笑
動画見ていて、両者は若い時
も似てれば、現在の本間ちゃ
んも齢とった時の叔父貴に似
ていて毎回笑える。
叔父貴は生前は「俺は裕次郎
だ」とか言ってたけどさ(笑
わが父のきょうだいの中では
一番明るくいつも笑顔ではっ
ちゃけた人だったが、若くし
て病気で他界した。
中学の時に都内渋谷区の伯母
(戦後乗用車を乗り回すデザイ
ナーで、結構な邸宅を渋谷区
恵比寿に構えてた)を頼って三
原から転住し、東京で一貫教
育を受けた人だった。
なお、私のその父方祖母は、
宮本武蔵に顔が似ていた(笑
これまたクリソツ。
それを言うと私の親父は大笑
いしていた。
母方祖母のルーツは呉市の古
い神社の神官だったが、絵に
描いたような優しく知的な女
性だった。俺のおふくろとは
ありゃちゃうで(笑)
母方祖母の姉は戦前、男爵家
に嫁いだ。
その男爵は、母姉妹は幼い頃
に「おじさま」と呼んでいた
らしい。今もおじさまと言う。
白いスーツに白いハット等を
普段から着こなし、かなりダ
ンディだったらしい。
母の言葉では「ハイカラ」と
言ってたが。そりゃ死語だべ(笑
通っちゃうのか?みたいな。
父方も結構二輪乗りがいるが、
母方の一族は戦後直後からモ
ーターサイクル愛好者が異様
に多かった。
だから、私が生まれて初めて
オートバイに乗っけてもらっ
たのが、生まれて初めて東京
都内から広島県内に遊びに行
った時の1962年の3才になる
前だったのだ。
これは別な子、別なマシン、
高橋国光さんが操縦する写真
だが、こんな感じで乗せても
らった。
でも、記憶は鮮烈で、その時
の事を明瞭に覚えている。
祖父の弟=大叔父に車種を後
年確認したら、それはヤマハ
のYD1だった。当時国内最速
のオートバイ。
その生まれて初めてバイクに
乗った時、私の世界は一変し
た。
記憶というのは不思議なもの
で、その時の状況と大叔父の
言葉を私が母に言うと「よく
そんな昔の事覚えてるね。そ
の通りだったよ」と言う。
だが、母の記憶も尋常ならざ
る記憶なので侮れない。
母が小学生の時に空から降っ
て来る焼夷弾の燃えカスの
残骸の形状等は克明に図に描
いて教えてもらった。
私の記憶はたかだか60数年
だ。母の記憶は80年。
おれ、90才手前でそんなに覚
えているだろうか(笑
戦後激動の1960年代70年代を
タイムリーに生きて来たとは
いえ。
母はことし89才になるのに、
今でもバイクに乗って、イン
プレッサを転がし、私と時事
問題を議論する。
先ほども俺がプラグを交換し
たバイクに乗ってどこかに出
かけてた模様。
母が亡くなったら、周辺あら
ゆる全てを整理して東京に妻
と転居帰国しようと構想して
いるが、こりゃ無理っぽい。
俺のほうが先に死にそうだ。
ビール他、飲み物どっちゃり。
これでもビーノ運転オッケー
よ。
ベスパはモノコックフレーム
ゆえ、強度確保のためセンタ
ーCチャン型アングルフレーム
折りがあるので、フロアに物
は置けない。真ん中四角貫通
えぐりで特製のプラ箱とかを
作れば別だろうけど。
この点はビーノ、てか国産ス
クーターの圧倒的な勝ち。
フラットイズベスト。
人と人との関係、社会構造も
そうだよ。