【期間限定web再録】春に、葬送【ジェイ監♀】
2021年6月に出しましたジェイ監本を、当時と全く同じ状態で再販不可な為、期間限定でweb再録いたします。
ただ、完全版データを私が消してしまった為、ちょっと修正出来ていないところがある不完全版です。
それでもよければ、暇つぶしに読んでいただけたら幸いです。
※死ネタではありません。ハッピーエンドだと思います。
web再録期間:2023/5/13~2023/5/21、2023/11/5〜2023/11/12
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静かに、他の誰にも知られずに、死に絶えるものの筈だった。
「監督生さん」
決して大きい声ではないのに、その声はユウの意識の表面をざらりと撫でた。
背後から投げかけられたそれに、人の意識を引っ張るのがうまい話し方をするヒトだという感想を抱く。
窓の外には雲一つない青空が広がっているし、今日は天気が良くてあったかいなと笑みを零して、授業が終わった後のつかの間の解放感に浸っていた。
明日は特に課題の締め切りもないから、いつもよりほんの少し楽でそれだけでもうなんだか楽しい気持ちになってしまう。夕飯は何をしよう、購買部でお買い得品があるといいなとそんなことを考えながら、両手で教科書とノートを抱えて少しばかり早足で廊下を進んでいた。
だというのに、ふわふわとした気分はあっという間に彼の一言で塗り替えられてしまった。少し甘さを含んだそれがユウの足を絡めとる。彼の片割れや幼馴染みの声も魅力的だと思うが、彼の声は人の意識を深い海の底に引きずりこもうとする人外の色をしている、とそんな言葉が脳内で弾けた。
くたびれたローファーのつま先に視線を落とす。気づいていないふりをしてこの場を去ってしまおうかと考えたが、ジェイドは自分が気づいたことを理解しているだろう。
一瞬の逡巡の後、ユウは薄く息を吐きだした、足はすでに止まっている。
エースやデュース、他の友人たち、それにグリムもいない時に限って声をかけてきた。
自分たち以外の気配はなく、窓の外、遠くから部活に励む誰かの声が風にのって流れてくる程度だ。授業も随分前に終わり、部活に所属していればもうとっくに始まっている時間帯な上に、教師の研究室からも離れている。
こんな中途半端な時間に、別の誰かがこの場を偶然通りかかるような奇跡はないだろう。
いつだって最悪を想定して動かないと痛い目をみるのはユウだ。自分の身は自分で守るしかない。友人たちや一部の先輩にもらった防犯グッズが右ポケットの中で存在を主張しているが、目の前の人には意味がないのだろうな、とそんなことを考える。
今日はなんとなくこの場を通っただけなのに、彼はそれすらわかっていたかのように現れて、意識の端を引いてきた。
その段階で、ユウの取れる選択肢は一つのみになってしまっている。
彼はぽつんと言葉を落として以来、何も音を発していない。先程までこの場は窓から差し込む光のぬくもりに満たされていたというのに、一瞬で海の領域になってしまった。
唇を開けて酸素を取り入れようと思うのに、息がしづらい。
どくどくと心臓が大きく跳ねている。甘ったるい何かからではなく、指先が震えるような恐怖からくるものだ。
あのジェイド・リーチと二人きりという状況がユウの精神状態を不安定にさせていた。
今すぐこの場を去りたい、しかし足は廊下に縫い付けられているかのように、動かない。
彼が何か魔法でも使っているのだろうかと考えるが、すぐに首を緩く左右に振ってその考えを否定する。
彼はユウの動きを止めるためだけにそんな無駄な力は使わないだろう。
(一体、何の用があるんだろう)
廊下に並んだ蝋燭型のランプに光が灯る。ぼうと視界の色が変わった辺りで逃げられないだろうなと再度そう判断し、薄く息を吐き出した。
視線をゆっくりと動かす。自分の動きの鈍さに彼が諦めてこの場を去ってくれないかな、とほんの少しの楽観を胸に抱いていたが、あっという間に粉々に砕かれる。
動かした視界の先で彼のつるりと磨かれた靴のつま先が見えて、そこからさらにゆっくりと視線をあげていく間も、彼はぴくりとも動かない。
ジェイド・リーチの色違いの瞳が少し薄暗くなった廊下の奥から自分を見つめていた。
この世界の人々は鮮やかな色合いを持つ人が多い。その中でもいっとう美しい色を持つヒトではないだろうか、とユウは思う。昼の海の一部を切り取ったような髪と日焼けなど知らなそうな白い肌。多くの言葉を持たない自分は、男の人に対する感想ではないかもしれないと思いつつ、美しいと彼を見る度に、そんな感想を抱く。
だが、彼が美しいだけのヒトではないことをユウは良く知っていて、彼の温度が透けて見えない二つの色違いの瞳に、落ち着かない気持ちになる。
普段廊下で出会った時に話しかけてくるのは片割れや幼馴染みの方で、目の前にいる彼は常に同じような笑顔を貼り付けて一歩下がったところに立っている。
すれ違えば礼儀正しく挨拶をしてくれるが、ジェイドの視界におそらくユウという人間は映っていない。
いや、言い方が悪かったなと自らの言葉を頭の中で否定する。言葉は交わしているのだから、映ってはいるだろう。
だが、それだけなのだ。
決まり文句の挨拶を交わして、会話はいつもそれでおしまい。意識を向け続けるつもりがない。ジェイドにとってユウはいてもいなくてもどうでもいい、そんなところだろう。
自分も、ジェイドが自分のことをどう考えていても、かまわないのでお互い様ではあるのだが。自分やグリム、マブたちに何か悪影響がなければ、それで良い。
そのようにずっと考えていたというのに、こんな場所で突然、彼が自分だけに話しかけてきた。
理由を考えたところで全く想像がつかない。
(一体、どうして?)
最初に頭に浮かんだのは『話し合い』だ。ひやりと背中を汗が滑り落ちる。
ユウ自身はアズールと契約を交わしてはいないし、グリムの様子もここ最近変わったところはなかった気がする。万が一契約を交わしてしまったらすぐに報告するようにとちゃんと約束しているし、親分は嘘をつくのは得意でないので、何かあれば隠しきれないだろう。
だから契約に纏わることではないと判断し、さらに思考を巡らせる。
契約関係でないのなら、一体どんな用事があるのだろう。
ジェイド・リーチという人魚について、ユウが知っていることは多くはない。
自信をもって言えることは一つだけ、彼は片割れとは違って、気分でたまたま見かけたからといって声をかけてくるようなヒトではないということだけだ。
ジェイド・リーチの行動一つ一つに意味がある。
だからこそ恐ろしい。
彼はユウが『魔力なし』という理由でつっかかってくる生徒たちとは違うということは理解しているつもりだ。目的があって近づいてきているだろうに、わからない。理由を推測しようと思っても、判断材料が少ない。
目の前で微笑むジェイドの笑顔をじっと見つめて、ユウは薄く息を吐き出した。
***
目の前に立つ、ガリガリの小さな存在を改めて視界に映し、ジェイドの胸を占めるのは、やはり何もわからないという疑問だった。
今から数ヶ月前のことだ、ジェイド・リーチはオンボロ寮の監督生であるユウという人間に最初は全く興味がなかった。
魔力がない、魔獣と二人で一人扱いの奇妙な生徒。
アズールの指示によって情報を集めている過程で知ったのは、彼は異世界からやってきた人間だということだった。そんなお伽噺のようなことがあるのだろうかと最初は考えた。だが魔法やツイステッドワンダーランドについて知らないという情報ばかりが手に入るので、事実なのかもしれないと考えを改めたが、ただそれだけのことだ。
彼の生い立ちがなんであれ、モストロ・ラウンジ二号店のオープン場所として狙っていた所に突然転がり込んできたひ弱な人間、その立ち位置は変わらない。
彼も、そして相棒のグリムも問題の塊みたいなものだから、すぐにアズールがオンボロ寮の権利を手に入れてそれではい、おしまいといつも通りの幕引きの筈だった。
しかし事実はジェイドの予想を大いに裏切り、予定調和が嫌いな自分でも想像がつかない方向へと転がった。
直接手を下したのは確かに、この折れてしまいそうな小枝のような弱い存在ではなかった。
契約書を砂にしたのは、サバナクロー寮のレオナ・キングスカラーだが、力を行使させるための道筋を作ったのはあのオンボロ寮の監督生だと、確かに彼は口にしたのだ。
怠惰な王。確かな能力はあるというのに、彼がそれを行使することは今まで殆どなかった。
前にアズールと契約した時も結局レオナは目的のものを手に入れた後に、対価を払うことを面倒だと一笑した。
(レオナさんは優秀ですからね、契約を遂行するかと思いましたが……)
他寮の寮長であり、王族出身ということを考慮し、アズールも他の雑魚たちに対するそれとは違い、それなりに条件を緩和していた対等に限りなく近い契約だった。
授業には出なくとも優秀であると聞いていたので、彼ならば条件を満たせた筈なのに何もしなかった。オンボロ寮を手に入れる過程でジャックという一年生は元々ユウと行動していたが、だからそこにレオナ、ラギーまで出てくるとは考えつきもしなかった。
勿論ジェイドたちとて相手が非魔法士で、あまりにひ弱に見える存在だからといって、全く対策をとっていなかったわけではない。
どこか緩みはあったかもしれない。自分たちが強者であるという驕りがなかったと言えば嘘になる。それでも最低限、対処はした。穴抜けらしい穴抜けもなかった筈なのにいつの間にか弱々しい、この学校では絶対の弱者である彼に出し抜かれた。
頭がうまく働かなかった。まさかオンボロ寮が手に入らないだけではなく、その上契約書が灰と化し、アズールがオーバーブロットするなんて考えつきもしなかった。
幼馴染みが元の姿に戻った後、アトランティカ記念博物館を訪れた監督生の唇から紡がれた言葉をジェイドの聴覚が拾った。
「努力することは、魔法を使うことよりも難しい」
ふにゃりと力の抜けた顔で笑うオンボロ寮の監督生を見つめる幼馴染みは、こちらに背を向けていてジェイドからは表情は窺えなかった。それでもほんの少し、彼の身体の強ばりが緩んだように見えた気がして、それが不思議で仕方がなかった。
アズールが努力家なことは自分もフロイドも知っていて、その証しがあの契約書だった。
弱肉強食、常に勝者だった自分たちが敗者にまわった、ただそれだけのことかもしれない。
しかし感情がうまく追いつかない。搾取されるだけの存在でしかないと思っていた彼に、負けた。
そう思うと、胸の奥底がざわめく。
フロイドが気に入るくらいなのだから、もう少し警戒しておくべきだったのかもしれない。 びくびくしてるけど、でも真っ直ぐこっち見てくんの。最近のお気に入りと笑う片割れの言葉を聞いた当初、ジェイドはまた誰かに名前をつけたのか、くらいにしか考えていなかった。
ジェイドのユニーク魔法を知らず顔を合わせた時、確かにオンボロ寮の監督生ユウは、こちらの目をまっすぐに見て話そうとしていた。
その一件が終わり、自分の能力を知った後に態度が変わるだろうと考えたが、相変わらずユウはジェイドを見かければ、目を見て挨拶をしてくる。
アズール・アーシェングロットの契約書をすべて灰にした悪役。そんな相手に対して、フロイドやアズールはあの事件以降もそれまでと変わらない、それどころか前よりも監督生と話す機会が増えたように見えて、ジェイドにはそれがわからなかった。
アズールのオーバーブロットの件から二週間ほど経った金曜の夜、新メニューの初お披露目会だったその日の営業も特に大きな問題もなく無事終了した。
明日は授業もないので、どこか緩んだ空気が三人の間に流れている。
アズールの慈悲にすがろうとする者は依然として多い。ポイントカード制を導入したアズールへの相談件数は増えたが、条件が緩和されて契約違反者は減った。その為、話し合いの仕事は減ったが、忙しさは前と大して変わらない。
照明の灯りが消されたモストロ・ラウンジの一角、カウンターチェアに腰掛けているアズールとフロイドの前に、ジェイドは今日のまかないであるサーモンとアボカドのレモンクリームパスタを盛った皿を置くいた。アズールの眉間の皺が一本増えたので、ソイミルクを使っているのでカロリーは控えめですとすかさず告げた。すると彼の手が動いたので小さく笑えば、じろりと睨まれる。
照明が絞られたほの暗い空間には自分たち三人しかいない。今までと変わらない筈なのに、目の前にいる彼らのことが前よりわからない気がする。
水槽越しに、室内を照らす光をぼんやりと見つめながら、ジェイドはゆっくりと口を開いた。
「……アズールは良いのですか」
何が、は口にしなかった。
だが付きあいの短くない彼は、ジェイドの言いたいことを汲み取ってくれたらしい。目の前に置いてあるグラスに入った桃とレモンの果肉の浮かぶアイスティーを半分ほど飲み干し、それから声を発した。
「正直に言えば、失ったものは大きかったですね。あれを集めるのにどれだけの時間をかけたかお前ならわかるだろう、ジェイド。……まぁ、授業料だったと思いますよ。ついでに、このフルーツにベリーを少し足してください」
ジェイドの質問に答えつつ、的確に指示を飛ばす幼馴染みの様子は今までよりもさらに研ぎ澄まされている。
フロイドも、アズールがそう言ってるんだし、いいんじゃない? と目を細めて笑っている。
本人がこのように言っているのだから、自分もこれ以上何かをいうべきではないのだろう。頭で理解しているつもりだが心の奥底で、すぐに受け入れられない。
あんなに細くて、シャツの袖からのぞく腕は骨と皮しかなさそうで、少し力をこめたら砂浜に落ちている小枝のように簡単に折れそうな人間が、アズールを出し抜いた。
どうしてそんなことが出来たのか聞いてみたい。けれど、同時に聞きたくない。
ぐるりぐるり、胸の中で渦が巻いている。
もうそんな状態が随分と続いていて、最初はどうしたものかと悩んだが、今のジェイドはこの摩訶不思議な何かを胸に抱えて、監督生を観察しながら生活している。
時折、片割れや幼馴染みが何か言いたげな目でこちらをじっと見つめてくるものだから、ジェイドは首を傾げるのだが、彼らは何も口にしてくれない。
今の自分の状態を引き起こしている原因ははっきりしているから、監督生に尋ねるべきなのだろう。答えは目の前に用意されている筈なのに、行動に移せない。その代わりと言っていいのかわからないが、ユウという人間を探すことが増えたある日、隣を歩くフロイドがはぁ、と小さく息を吐き出した。
(……、ジェイドの視線で小エビちゃんに穴開きそう)
そんなに見つめていただろうか。ただ思いついた時に見ていただけだし、フロイドだからそう思うのではと口に出そうとしたところで、片割れの眉間にきゅっと皺が寄っている上に口もへの字に曲がっていることに気づいた。
(ジェイドの目さ、キノコ見てる時とすっげぇ似てんの。やめてよ、小エビちゃんがキノコになっちゃう)
人がキノコになることなど、よほどのことがない限りないだろうに、うげぇとフロイドが舌を出していやだいやだと口にする。
(……そんなに、ですか?)
(見てる。結構遠くからだし、今は気づかれてないと思うよ、まだ)
最後の言葉に、ジェイドは苦笑を一つ零す。
フロイドのいうことが仮に正しかったとして、それだけ見ていたとしても、やはりあのアズールを負かすような人間には見えない。
これだけ観察しても駄目ということは遠くから眺めているだけでわかることはもう殆どないのだろう。
ただここで問題が一つある。自分はどうやら彼に警戒されているらしい。とは言っても、これまで数多くの生徒たちと『お話し合い』をしてきた自分だからこそ、ユウから欲しい情報を引き出すくらい出来るはず、とそう考えていた。
しかしここでもまたしても予想外のことが起きた。
何故か彼の目をどうしてか長時間見れず、ジェイドの方から早々に話を打ち切ってしまう。
どうしてと胸の内で自問自答を繰り返すが、答えをうまく自分の中から掬い上げることが出来ない。かと言って監督生の目を見ていると喉の奥に言葉がひっかかって上手く出てこないということを誰かに相談することは憚られた。
フロイドやアズールだとなんとなく面白がりそうで却下、クラスメイトのリドル辺りは真面目に聞いてくれそうな気もするが、大変申し訳ないことに答えを得られない気がする。その他には、と少しだけ考えてなんとなく誰かに問いかけるべきではない、という判断を下した。
こんなことばかりを考えていたいわけではないというのに、日に日にジェイドの胸の内にオンボロ寮の監督生に対する疑問は静かに降り積もっていく。
学業、副寮長としての仕事、モストロ・ラウンジや契約事、それに部活のこととジェイドの中にはユウ一人に割ける時間など無いのだ。もちろん、忙しさすらジェイドは楽しんでいる。けれど陸での生活時間は限られている。それらを余さず楽しなければ勿体ないから、彼のようなただの人間にかまっている暇などない。
そう考えているのに意識の端にあの細い腕と身体、それにまっすぐに自分を見つめる瞳がちらついて離れない。
***
ユウがこのツイステッドワンダーランドに迷い込んで、すでに数か月が経過している。
季節がゆるやかに移り替わり、オンボロ寮を多少なりとも住みやすいように少しずつ整備している。この学園で過ごす日々をそれなりに楽しいと感じるようになっていたが、一緒に暮らすゴースト、グリム、それに一部の教師しか知らない事実をユウは抱えていた。
ユウが、女子であるということだ。
そしてこの事実をユウはゴーストのおじ様方に話すと決め、早々に告げた。一緒に暮らす以上隠し通すことは難しいし、彼らに必死に隠す理由もないと判断を下した為だ。
透明な三人の向こう、少しだけ綺麗になったオンボロ寮が透けて見えて、やはり彼らは生きていないのだなぁと考えながら、ユウは言葉を紡いだ。教えてくれてありがとうと笑い、何かの魔法がかけられているのはわかっていたけれど、認識阻害の理由が性別とはねぇとゴーストたちはじっとユウを見つめた。
しっかし女の子を一人、こんなところに放り込むなんて、クロウリーも何を考えているのか、本当だよ、まったく! と彼らは天井近くをふわりふわりと浮きながら文句を口にする。
円になってまわる姿を見つめながら、ユウは小さく笑みを零した。
「お前さんなら引き取ってもいいという寮もありそうだが……。確かにいろいろと面倒か」
エースやデュースから話を聞いたリドルが一度オンボロ寮へとやってきた時に、少しばかり顔色を悪くしながら、こちらの部屋を一つ開けようか、と聞いてくれたことがあるのだ。
ユウとしてはハーツラビュルの皆にはたくさんお世話になっていて、これ以上の迷惑はかけられないと礼の言葉を口にしつつも、首を横に振った。
気にかけてもらえるのは嬉しいが、ユウにとってはやはりオンボロ寮こそが自分の居場所なのだ。
「グリ坊には難しい魔法に関することなら、ワシらに言うんだぞ、ユウ」
「そうだ、それがいい」
くるりくるり、少し埃を被ったルームライトの上を彼らはまるで泳ぐように移動する。
多少は手伝える筈だよと歌うように告げたゴーストに向けてユウはありがとうと感謝の言葉を口にする。
触れることはできないけれど同じ空間にいて、自分のことを心配してくれる存在がいる、それだけでほんの少し、胸に降り積もった何かが軽くなるような気がした。
この学校にはユウの存在を歓迎しないヒトたちが正直に言ってそれなりにいる。
(間違いで入った人間がそのまま出てかないのが納得いかないっていう気持ちもわかるし)
ユウだって、元の世界に帰りたい、切実に。
しかしどんなに嘆いたところで戻れない上にここを出て行ったところで、ユウにはこの世界の戸籍も、金も、常識も何もかもない。
だからこの学校に通う以外の選択肢はないとはいえ、後ろ向きな気持ちのまま通うのは嫌だ。
すぐに気持ちを完全に切り替えるのは無理にしたって、ただめそめそと泣いて状況が好転するわけではないとユウは何度も自らに言い聞かせた。
少しずつ、少しずつ、この世界のことがわかっていく。それと同時に、ほんの少しずつ胸の奥底に諦めという感情が降り積もっていくのだ。
***
ジェイド・リーチは笑顔の下、困り果てていた。
オンボロ寮の監督生であるユウをいくら遠くから観察しても手に入る情報には限りがある。かと言って、近づいたとしても授業中におしゃべりに興じるような人ではないし、食堂で近くに座っても、食事を終えるとさっと移動してしまう。
(ジェイド、避けられてんじゃん。ウケる)
けらけらと笑う片割れとて、同じようなものだろうとジェイドは最初は考えていた。
なんだったら自分の方が物腰が柔らかい分、多少なりともマシなのでは、と考えていたジェイドは、数日後に目を見張ることになった。
片割れが長い足を動かしてあっという間に小さな背中に近づくとユウを腕の中に囲い込んだ。その一連の動きはまさに見事という他なかったのだが、何よりも驚くべきはユウがフロイドの腕の中で身体から力を抜いたことだ。
どうして、何故という言葉がくるくると脳内でステップを踏んでいる。ジェイドのことは警戒心に溢れた目をして見ているというのに、自分なんかよりもよほど力に訴えている筈のフロイドの時に、力を抜くのかがわからない。
気になるが、胸の奥底に何かが引っかかっていて聞くことも出来ない。
片割れはユウを腕の中に納めながら、ご機嫌な様子で今日の授業の話、昨日買ったお気に入りのキャンディの話、来週届く靴の話など、とりとめのない話をしている。
それに相槌をうつユウの細白い首筋がちらりと見えて、あぁ、やはり簡単に壊れそうだという感想をジェイドは抱く。
ほんの少し力をこめたら、ポキン。それで終わりだろう。
あの小さな細い身体の中に何が詰まっているのかが、ジェイドは気になって仕方ない。
そんな折り、ユウがクロウリーからスマホを与えられ、マジカメを始めたという噂を聞いたジェイドは、アカウントを見てみた。
そこにはグリムや友人たちの姿、ゴーストたちの写真、ハーツラビュルのお茶会の様子、マジフト部の制服が干されている写真、そんなものが何枚もアップされていた。他にも授業のこと、日々の夕食のこと、お世話になった先輩のこと、彼の日常の欠片が二、三行で綴られていた。
どれを見ても、ユウという人間は自分と全く違う感覚の持ち主なのだと感じる。
彼が異世界から来たのだという話は、今のこの学園では公然の秘密だ。
彼には魔法を使えないだけではなく、この世界の稚魚でも知っているような、所謂『常識』的な知識が全くといっていいほど欠けていた。その上、獣人の尻尾や耳といった、大して珍しくない筈のそれを見るユウの目が、初めて楽しいおもちゃを与えられた子どものそれのように輝いていた。
さらに言えば、海でジェイドたちがユウたちを追いかけ回した時も逃げる彼の瞳には恐怖とともに輝く何かがあった。
きらり、海の底で煌めくそれからジェイドは目を離すことが出来なかった。
(あの時感じたものや今この胸に巣くう何かの名前が知りたい)
オンボロ寮の監督生であるユウという少年は、パンドラの箱のような存在だと思う。
彼に触れなければ、アズールは多くの契約書を失うことはなかった。何の変哲もない、随分とぼろぼろの箱だからと油断した結果、中から溢れ出した何かにのまれてしまった。
けれど、幼馴染み本人はそれで良かったのだという。
まぁ、いいかと簡単に差し出させるようなものではない筈なのに、それでも箱の中に残った何かをアズールは自分の心の中に大切にしまって、それで良しとしたのだ。
ジェイドにはその答えがわからず、またいくら一人で考えてみたところで答えにたどり着くことは永遠に出来そうにない。
ならば、別のアプローチをするしかないとジェイドは思考を切り替えることにしたのだった。
***
目の前で笑みを浮かべているジェイド・リーチというヒトは、ユウとこれから先たいした接点がないままなのだろうなと感じていた。
自分の感覚だから絶対とは言えなかったが、他のヒトたちと交わす言葉が増えていく中で、ジェイドの場合は増えるどころか、交わす言葉が減っていた気がしたからだ。
それだというのに、今、自分は彼と二人きりで向き合っている。
どうしようと困惑と共にそんなことを考えていると、今まで黙っていたジェイドがゆっくりと唇を開いた。ぽちゃんと静かな水面に波紋が広がるように、ジェイドの声がこの場を揺らす。
「……、実は監督生さんにお願いがありまして」
「ど、どんなことでしょう?」
これが仲のいい友人たちであれば、宿題を見せてほしい、明日の小テストの範囲を教えてほしいだとかそういったものだろうと想像がつく。
だが、相手はあのジェイド・リーチ先輩なのだ。フロイドならなんかお腹空いたから甘いものちょうだいとか、追いかけっこしようとか、まぁ、びっくり箱のように何かしら飛び出すかもしれないが、それでも多分、ここまで緊張しない。
注がれる視線の力にユウは手に力をこめてしまう。お互いの間に落ちた沈黙の時間があまりに長い。
もしかして今、自分は何か観察されている? 試されている? モストロ・ラウンジのスタッフが足りなくて臨時で働いて欲しいとかそういったことだろうか、しかしそれなら支配人であるアズールから話がありそうだし、とあらゆる考えが頭の中で泳いでいる。
「僕に陸での、人間のお付き合いというものを教えていただきたいのです」
彼の薄い唇から発された言葉に、ユウは目を見開いた。自分に向けて落とされた言葉の羅列は確かに言葉としての意味を持っていた筈なのに、頭が理解を拒んでいる。
何かの冗談だろうか、ドッキリ? しかし彼がそれを自分に仕掛ける理由が不明だと心の中で叫びつつも、ユウはなんとか、えっと、と言葉を絞り出した。声の端が震えている気がするが、それでもここで話さないわけにはいかない。
ここ男子校だよね? まさか自分にかかっている魔法が解けた? もしそうだとしたらマブたち(とくにデュース)の反応が違いそうだとそんな考えが頭の中で回っている。おそらくは自分にかかっている魔法はとけていない筈だ、多分。
一体、どうして彼はこんな提案を自分にしてくるのだろうかと思ったところで、ユウはとあることに気づく。
そうだ、何もお付き合いという単語が指すのは恋人関係だけではない。
ユウがジェイドに教えられるようなことは一つもない気がするが、こうやって声をかけてきたということは彼なりに何かしらの利点をユウに見いだしたのだろう。
(だけどなんで、よりによってジェイド先輩なんだろう)
別に他のヒトだから良いということはないが、正直、自分と限りなく遠い場所にいるヒトからのこの提案は、ユウの心臓を飛び上がらせるのにすごい効果を発揮している。
(なんだかおなかも痛い気がする)
「すみません、ちゃんと聞こえなくて。えっと……」
これはストレスから来るものに違いないと思いつつおそるおそる顔をあげれば、切れ長の瞳を僅かに見開いた状態でジェイドは固まっていた。
(あ、これは、最初の言葉から失敗したかも)
けれど一度口にしてしまった言葉を取り消すことは出来やしない。次の手を打たないといけないとは思うのだが、喉が貼り付いてうまく言葉が出てこない。
どうしようという感情で頭がいっぱいになり、脳がうまく回らない。
「失礼しました。もう一度、お伝えしますね。僕と恋人になってほしいのです」
先程と似た、けれどより求められている関係性が具体的に表現された言葉にユウの身体はぴしりと動きを止めてしまう。
「……、何故自分なんですか?」
回らない頭でなんとか導き出した理由は一つしかないが、それはユウから口にすることは絶対に出来ないし、やはり頭の中に疑問が残る。だから質問を投げかけたのだが、そうしたら想像していた答えよりも斜め上な回答が振ってきた。
「監督生さんは別の世界からやってきたのでしょう?」
ジェイドの言葉に数度、ゆっくりと瞬きをしたユウは首を縦に振った。
(一体、先輩は何を求めて、あんな提案をしてきたのだろう)
いくつか頭の中で予測を立ててみたが、どれも何かが違う気がして、ユウの中で明確な答えとはならない。
わかっていることはただ一つ、相手はあのジェイド・リーチなのだから、絶対に油断をしてはいけないということだけだった。
色違いの瞳がじぃと自分を見下ろしている。鮮やかなその瞳をいくら見つめたところでやはりユウには彼の考えていることは一ミリもわからず、僅かに首をかしげつつも視線を交わすこと数秒、ジェイドはどうやら答えを与えてくれる気持ちになったらしい。
言葉がぽろぽろと彼の薄い唇から落とされる。
「この学園にきて、人間と接する機会が増えまして。他種属の皆さんの話はなんとなく聞いていて納得する部分も多かったのですが、人口比率が最も多い人間のことがまだ僕にはうまく理解出来なくて……。前から気になっていたので、どうせなら陸にいる間に学んでみようかと思ったんです」
顎に指を添えて、ジェイドが僅かに首を傾ける。造形の整ったヒトはどんなポーズをとったとしても様になるのだなぁとそんなことを考えているのは、勿論、頭が現実逃避しかけているからだ。
「……そういうことが知りたいのであれば、もっとこう他に適任の方がいらっしゃるのではないですか?」
ユウの性別が女だと気づいて、この話をふっかけてきたのだとしたら、彼が自分を選んだ理由もまだなんとなく理解出来る。
だけどそうではないという。ならば彼の場合、外に出ればいくらでも候補になりたいと人間はいそうな気がする。街に降りるのは外出許可をとらないといけないので面倒なのだろうか。
彼の場合はその過程すら楽しみそうな気はすると思ったのだが、どうやら違ったらしい。
さて、どんな言葉を重ねれば、今この場を切り抜けられるだろうかと考えていたユウの思考は、コツリ、と彼の足が廊下を進む音によって、掬い上げられた。
一瞬でも視線を外すべきではなかったと頭蓋の中で警鐘が鳴っている。
笑みを深くしたジェイド・リーチの影がユウの真上に落ちる。
「僕、異世界からやってきたという人に初めて会いましたので」
黒の手袋に包まれたジェイドの手が包んで隠してしまう。怖いくらいに優しい触れ方であるというのに、ユウはもう逃げられないのだという恐怖に自分の心が満たされているように感じた。ちゃぷちゃぷと水面が揺れるような幻の音が耳元で揺れている。目の前でいつもよりも、鮮やかに笑みを深くしているジェイドの様子に、ユウは自らの失敗をたたきつけられたような気分になる。
自らを守るつもりで出していた情報によって、こんな風に興味を持たれるなんて全く考えていなかった。
過去の自分のバカ! と心の中で力の限りに叫んだが、それでも現状、自分の置かれている状況が好転するわけもない。
ユウは、目の前でにっこりとそれはもう楽しそうに微笑む青年の顔を呆然と見つめることしかできなかった。
「こんなチャンス二度とないかもしれないじゃないですか。……それに監督生さんも何かとこの学校で苦労されていらっしゃると思うので、僕で良ければ力になりますよ」
様々なことでお役に立てるかと、どうでしょうか? ともう一度首を傾げた彼の耳についたピアスがしゃらりと涼やかな音を立てるのがわかる程近い距離に、思わず息をつめる。
そしてもう一度彼の色違いの瞳を数秒見つめ、ユウは薄く息を吐き出した。
「……リーチ先輩のことですから、もう契約書も用意されているんですよね?」
問う態度は取ってはいたが、実質、ユウに拒否権はないのだろう。彼が現れた瞬間から、ここはもう地上ではなく、深海に住む彼の領域に変質してしまっていた。
足掻けば足掻くほど、何かがユウに絡みついて離れない。どうせもう逃れられないのならば、自ら飛び込んだ方がいいと判断を下した。そんなユウを見つめるジェイドの瞳が面白いものを熱心に見つめる時のそれであったことに互いに気づくことはなかった。
「えぇ、勿論。ありがとうございます、監督生さん」
どろりとまとわりつくような甘さを含んだ声がユウの上に降り注ぐ。本当にこの選択で良かったのかと問いかける自らに応えてくれる声はなかった。
立ったままというのも大変ですし、とジェイドはその長い足を動かしてまるで廊下の上を泳ぐように進んでいく。彼の後ろ姿を追って必死に足を動かす。立ったままが大変だからと言っておきながら、彼の歩くスピードはユウの歩幅を全く考えられていない。
ジェイドが教室の扉を開けて普段であれば授業を受ける椅子に座り、ユウの目の前に、鮮やかな青い契約書を広げた。
「どうぞ、よくよくご確認ください」
良く通る声が、ユウの意識にじわりと広がる。目の前のヒトの笑顔は変わらないまま、ただ、その色違いの瞳に自分を映し、微笑んでいる。しかし瞳に色があるようには見えず、それがまたユウを不安にさせた。
心臓がどくどくと大きく跳ねている。
視線を落として、鮮やかな水面のような契約書をじぃと見つめる。
ユウが提供するのは元いた世界の話題。これは特に隠して困るようなものでもなかったので良い。
だが次に書かれていたものには、最初、驚きのあまり彼の顔と契約書を何度も交互に見てしまった。
「リーチ先輩、これは一体?」
「恋人になるのですから、ジェイドと呼んでください。せっかく人間と恋人になるのですし、多少の触れあいくらいするでしょう、家族同士の挨拶の延長みたいなものです」
ユウの抗議の視線はさらりと流され、返ってきた言葉にユウは思わず唇を真一文字にした。
『情報提供の他に、身体的触れあいも契約の一部とする』
その一文の下には、手を繋ぐ、ハグの二つが記載されている。
確かに大きく騒ぎ立てることではないのかもしれないが、ユウの元いた場所ではこのような挨拶は殆どなかったし、性別を隠している以上こういった触れあいは避けた方がいい気がする。かといってあまり必死に拒否すれば、それはそれでジェイドの興味を引いてしまう可能性がある。ぐらぐらと危ういバランスでユウは今、この場に存在している。ゆっくりと息を長く吐き出して、心を落ち着かせる努力をしてから唇を開いた。
「……それで自分はジェイド先輩からどんな対価がいただけるのでしょうか?」
「そうですね。僕に出来ることで貴方の倫理観の中で許されると思うことであればなんでもこなしますよ」
差し出された対価の大きさに思わずユウは、え、と小さく声を発してしまう。
それは随分とこちらにとって好条件すぎないだろうか。
「た、たとえば、課題で躓いたら、質問しても?」
「えぇ」
「先輩の作るパスタのレシピをいくつか教えていただいても?」
「可能です」
「えっと、あと……」
いざ、何でもいいと言われてしまうと何を頼もうかと思考が定まらないと心の中で嘆いたところで、ユウはハッと気づく。貰えるものの大きさに目がくらみすぎていた自分が恥ずかしいと唸っていると、くすくすと笑い声が降ってきたのだ。
「リーチ先輩、何故笑ったんです?」
「ジェイドですよ、監督生さん。随分と無欲なので、つい」
「え、今、自分どう考えても強欲な感じでしたよね?」
「確かに頭の中にたくさんのお願い事が浮かんでいたようですが、どれももっと僕をうまく使えば楽にこなせそうでしたのに、そうではなかったので」
投げかけられた言葉をゆっくりかみ砕いて、それからユウは視線をジェイドに合わせた。
「確かに、ジェイド先輩に宿題をやってもらったり、全部作って貰ったりした方が楽ですけど」
でも、とユウは言葉を重ねる。
「それじゃ、何も自分の力にならないじゃないですか。多分ジェイド先輩が一人でやった方がずっと早いと思うんですけど、許してもらえると嬉しいです」
すみませんと顔を上げれば、目の前にいるヒトはなぜか片手は腹に回してもう片方の手で顔を隠していた。
「じ、ジェイド先輩?」
なんだか肩が少し震えている。自分は今何か変なことを言ったのだろうか。笑う要素は何もない筈なのにと思考を巡らせたところで、ユウは、あ、と小さく声を発する。
「結構時間かかっちゃうこともあると思うので、ちゃんと対価をお支払い出来るように頑張ります」
そう告げれば、何がおかしいのかわからなかったが、さらにジェイドが笑い出した。
怖いとか苦手だという感情よりも、何故笑われているのかがわからない不満と怒りが暴れ回るものだから、とうとうユウは僅かに頬を膨らませて彼の右手を軽くはたいた後、彼が差し出したペンで、契約書に自らの名前をサインしたのだった。
***
ジェイド・リーチと不思議な契約を交わした数日後、ユウはいつも友人たちと共にいる時にはあまり通らない廊下を一人で進んでいた。
何せ、この廊下の先にある部屋に行くのは二週間に一度。たまに他のタイミングで雑用を頼みたいからと呼び出されることもあるが、そういう時はだいたいクロウリーの方からユウとグリムの元にやってくる。
学園長室で行われるのは、クロウリーとの面談だ。
薄暗い部屋の中、壁にかけられたランプがぼうと天井近くに浮かんだ肖像画たちを照らしている。
この部屋に入る時、いつもユウは一歩、前に出ることを躊躇う。緊張する要素は殆どない筈なのに、いつも背筋が少し伸びて、足の指先に力が入ってしまうのだ。
お決まりの言葉が返されるとわかっているのに、それでもどうしたって胸の内に抱いた期待を打ち消せない。
クロウリーと向かい合い、彼の口から発される言葉を聞く瞬間を待つのがユウはどうしても好きになれない。
ここを訪れる時、いつもユウは一人だ。教室を後にする時、グリムの大きな空を切り取ったような瞳が、じぃとユウを見つめる。しかしそれきりユウの親分は何も言わず、この日はマジフト部に参加するか、ハーツラビュルに遊びに行く。
グリムはユウがどんなに帰る方法を求めているかを知っている。自分たちは二人で一人分の生徒して扱われているから、万が一ユウが元の世界へ帰る方法が見つかったらという不安が、彼の中にもある筈なのに、グリムは毎回、何も言わず見送ってくれる。
だからユウもまた面談が終わった帰りにミステリーショップで売っている、いつも買う物より少しだけ高いツナ缶や缶詰を買って帰って、ツナ缶パーティーを開く。
たまの贅沢、その為に綺麗なクッキーの缶に小銭を貯めて、その日が近づくのを待つ。
憂鬱な一方で、少しだけ楽しみな日でもある。
さらにいつもであれば、ユウがグリムを抱きしめて寝ようとすると、オレ様はぬいぐるみじゃないんだゾ! とするりと腕の間をすり抜けていってしまうのだが、この日ばかりはシーツをぱたぱたと尻尾で叩いた後に、彼の方からとやってきてくれるのだ。
グリムが側にいることを意識する度、申し訳なくなる。だけれどいつだって、元の世界に帰りたいという感情をユウは自分から切り離せない。
だって、ここは自分の常識の通じない異世界なのだ。
どんなに仲のいい友人や先輩たちがいたとしても、例えば会話の中で当たり前に使用され、意味を説明されない単語が出て、その単語を出すだけで周りの皆が瞬時に意味を理解した時、ユウは自分が異物なのだと色濃く意識させられる。足下が常にぐらついている恐怖は誰にも理解してもらうことは出来ないだろうし、逆にわかると言われたら、反発してしまうだろうなと思いながら、ユウは目の前に座る、全身を夜闇で包まれた男を見た。
「申し訳ないのですが、今回も、貴方の世界へと戻る方法はわかりませんでした」
毎回コピーされたように吐き出されるその言葉に一瞬ユウは息をつめ、それからわかりましたとこれまたお決まりの言葉を口にした。
クロウリーは飄々としているが、それでもこの学園で一番の魔法士なのだとクルーウェルが眉間に皺を寄せながらユウにそう告げたのだ。だから、あの男が見つからないというのであれば、相当難しいのだろうなと続けて投げかけられた言葉が脳内を巡る。
「……わかりました。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、それからユウは薄く息を吐き出し、部屋を後にする、滞在時間は長くても十分程度、それがもう何度も積み重なって、それがユウの胸の内に影を落としていた。
(今回も駄目だったなぁ)
なんとなくそうだろうなとは思ってはいたが、いざ言葉にされると、腹の奥底にくろい何かがじわりと滲む。
それをやりすごす為に、ユウは僅かに唇を噛んだ。
別にクロウリーにとってこれは義務ではない、それはわかっている、わかっているけれど、自分には他に何も手段がないのだ。
ギチリと握り込んだ手のひらに自らの爪が食い込む痛みを感じながら、ユウはなんとか笑顔を作って学園長室を後にした。
***
次の日、授業を受けながらユウはぼんやりと黒板に書かれている文字列を目で追う。ここに来た直後に比べれば、大分、黒板に書かれた文字の羅列をすぐに読み解くことが出来るようになった。
最初はそれがユウの心に充足感を与えていた。わかることが増えれば、この世界で息がしやすくなったような気持ちになったし、先輩や先生たちも褒めてくれる。小テストの結果が伸びれば、良かったと安堵することもあった。
だけど、次第にそれだけではいられなくなった。
知識が増えるということは、ここにきてからの年月が伸びていることも示している。それはユウの心に焦りを生み出してしまう。
クロウリーは一応元の世界へ帰る為の調査は続けてくれているらしいけれど、前に、調査だと言って、アロハシャツを着ていた現場を目撃して以来、あまり期待しないようにした方がいいのかもしれないと考えている。
こちらへやってこられたからと言って、再び同じ場所に帰れる保証はどこにもない。
身一つでこの世界へと迷いこんでしまったユウにとって、住む所と多少なりとも生活の為の資金を援助してくれているクロウリーにはなんだかんだ感謝している。
しているからこそあまり我が儘をいうのは申し訳ないので、ユウはとある作戦を立てていた。 どうやりくりしても、悲しいことに彼から支給されるマドルだけでは消耗品や必要最低限の食品分は購入しか出来ない。それ以外の、例えばグリムが大好きなツナ缶といったものや、ユウの制服以外の私服にかける費用は捻出できないし、ほんの時々でいいから買い食いとかをしたいな、とユウはそんなことを思う。
そんなに豪華なものを望むつもりはない。けれど、自分へのご褒美は、次の一週間もまた頑張るために必要だ。
(マドル稼ぐ方法もそろそろ考えないとなぁ)
授業を終えるチャイムが鳴る。今日はこの授業で最後なので、クラスメイトたちの大半は部活に参加する為に慌ただしく出て行く。その姿を見送って、ユウは手元に視線を落とした。
マドルに余裕がないのでハンドクリームを買うことも難しく、少しだけ指先がかさついている。今はまだ大丈夫だが、冬場は少し辛いかもしれない。
シャープペンを、紺色のシンプルな少し色褪せたペンケースにしまいながら、うんうんと唸る。
いざ働こうと決意しても、この学校外の世界について殆ど知らないユウがこの学園の外に出て働くことは難しいだろう。この学園で生活していく上で、元いた世界と似た感覚でいても大丈夫なのだなと日々暮らしていく中で安堵したのだが、それでも元の世界に獣人や妖精、人魚といった種属はお伽話の中の生き物であったし、そもそも魔法なんてものが実在していなかった筈だ、多分。
断定できないのはユウの中にある元いた世界の記憶が虫食い状態だからだ。
家族は父母、それに兄がいたことはわかる。学校に通っていたことも覚えているし、勉強としてはこんなことをしていた気がするというのはぼんやり頭の中に残っている、さらに授業を一緒に受けていた友人たちがいたことも覚えているのに、顔が思い出せない。
では他に思い出せることは、とユウはノートの端に頭の中にある知識を書きだしていく。人のことは駄目であれば、風景はどうだろう。
春になれば、家の前にある学校のグラウンドに植えられていた桜の木が満開になってそれを見ることが好きだったという思い出が頭の中に浮かぶのに、家の住所を思い出そうとすると記憶が霞がかって思い出せない。
他にも存在していたことはわかるのに明確に呼び戻せない記憶が頭の中に浮かんではぱちんと弾けていく。
記憶が虫食い状態なことにはここに来てからわりとすぐに気づいたが、やはり時間が経っても、穴が塞がる気配はない。その代わり、広がる気配もないからそれはそれで良かったのかもしれない。
はぁ、と小さく息を吐き出す。
最初はもしかしたら自分は夢を見ている状態なのかもしれないと考えたこともあった。
けれど、何度も同じ少し埃くさいベッドの中、ぼろぼろのカーテンの隙間からさす光で目を覚ますたびに、これは夢ではないし、いつまでも現実逃避をしているわけにはいかないのだと思う。
この寮の皆や、エースやデュース、それにジャックやクラスメイトたちと過ごす時間がユウは嫌いではない。他寮の先輩たちもユウやグリムのことを気にかけてくれている。それを少しだけ申し訳ないと思うが、同時にとてもありがたい。
ユウがこの学校に来てから願っていることはただ一つなのだが、なかなか叶うことがない。
『穏やかな日々を過ごしたい』ただその一言に尽きるのだが、悲しいことにこの願いは、この世界に転がり込んでから叶ったことが殆どない。
(ただ、日々の課題をちゃんとこなして、アルバイトでちょっとマドル稼いで、それで元の世界へ帰る方法を探しつつも学園生活をそれなりに謳歌したいなって思ってるだけなんだけど)
魔力がなくても、魔法をカリキュラムに組んだ学校に学生として通わせてもらっている以上、こんな経験は二度とできないだろうし、ユウだってそれなりに学園生活を楽しく過ごしたい。
けれど、楽しく過ごしたいと、日々の生活に刺激が欲しいは決して同じにはならないのだ。
日々穏やかに過ごしたいだけだというのに、ユウの周りにはなぜか刺激成分百五十パーセントみたいな人物たちばかりが集まっている気がする、と思ってしまう。
(しかもさらにすごいことになってしまったし)
穏やかに日々を過ごしたいと思っていた筈なのに、その対極に位置しそうな海にまつわるヒトと契約とは言え、恋人という関係になってしまった。
耳元で波がよせてはかえす音が聞こえる気がする。
ジェイドは対価に自分に出来ることならば、ユウが大丈夫と思うことであれば、大体のことはやってくれるというが、それこそ後が怖い。
怖すぎて迂闊に口に出すことも出来ない。
(あぁあ、やっぱり、あのときサインをしなければ……)
そう思うけれど、本当は口に出せないだけでユウの中にだって望みはある。だけれどそれをどうにかすべく動くのは自分でないといけないのだ、とユウは荷物を全部鞄に詰め、教室を後にしたのだった。
***
恋人としての契約期間がスタートし、今日が初めてのいわゆるおうちデートの日となった。玄関先で彼がくれた手土産をおそるおそるのぞき込めば、こんがりと焼けたチーズケーキがちょこんと透明なパッケージで入っていた。
「え、あ、いいんですか、これいただいても⁉」
思わずケーキが潰れないように胸に抱きしめて聞けば、ジェイドが目を瞬かせた後に小さく肩を震わせた。
「……勿論です」
「先輩、声が笑ってるのモロバレです。……すみません、飛びついてしまって」
「貴方への手土産ですので、そこまで喜んでいただけて良かったです、またお持ちしますね」
にこりと笑う笑顔はやっぱりつるりとした、温かみのないものでどうにも直視出来ず、ユウは、うろうろと視線を揺らしてから、あ、と小さく声を発した。
「今日のところはまず、自分が元いた世界のことについて話す、ということでいいですか?」
「えぇ、是非。よろしくお願いします」
微笑むジェイドの瞳がきらりと光った瞬間を確認し、やはり彼の興味の対象はすがすがしいまでに『異邦人』なのだろう。そう思えば、ユウも少し楽になる。
どうしても目の前にいる一つ上の人魚の先輩を怖いと思う感覚が拭いきれないが、それでも契約をすることを選んだのはユウだ。ならいい加減腹をくくるべきだろう。
「二十年ぶりに友人たちに会ってきたよ、っておや、人魚の坊やとは珍しいね」
ふわりと空中に姿を現したゴーストたちにおかえりなさいと声をかければ、彼らが両手をあげて、おどろいたとポーズを取った。
「お邪魔します」
「はいはい、どうぞ。ちなみにこの家は土足厳禁だからね」
そう自分の代わりに告げてくれる彼らの言葉を聞きながら、ユウは、そういえばお客様に出すお茶とか全くないかもと少しだけ頭を抱えた。
お客様用のスリッパはその棚の一番下だよと説明してくれたゴーストに感謝の言葉を口にして、ジェイドは僅かに腰をかがめた。
一番上の棚にはユウの、その下の段には彼と仲のいい一年生たちを連想させる色合いのスリッパが五つ置かれている。さらにその下の棚には赤や黄色のスリッパが置かれ、その横には白いものが置かれている。
おそらく使うべきはこれだろうと白いスリッパを手に取りつつも、自分はこれからここに幾度となく来ることになるのだから専用のものを持ってきて、この棚の一番上に置こうとジェイドは脳内のメモに書き足しておく。
談話室から移動しようとする監督生の背に何かお手伝いすることはありますか、と声をかけたが、びくりと背を震わせた彼に、少しだけ固い声で大丈夫ですと言われてしまえばそれ以上ジェイドから提案出来ることは現状何もない。談話室で座っていてくださいと言われ、ジェイドは少し色褪せた布のかかったソファに座る。ぐるりと視線を巡らせて観察してみると、初めてジェイドがここにやってきてから随分と様子が変わっているようだ。
ぼろ布だったカーテンがクリーム色のものに変わっており、それを止めるリボンは白と黒のストライプのものに変わっている。
暖炉の中では、炎の妖精がすやすやと眠っていて、おそらくは夜になれば自らの仕事をこなすのだろう。天井から下がっているシャンデリアは所々欠けているところもあるが、埃は綺麗に取り払われている。
異世界から来た監督生は全く魔法が使えないと聞いているので、これは全部、彼が自ら行っているのだろう。
生まれた頃から、魔法がともにあったジェイドにはうまく想像の出来ないことだ。
勿論、このツイステッドワンダーランドにも魔法を使えないものたちはいる。だがこの世界で生きる人たちは一定条件をクリアすれば、魔法の恩恵を受けることが出来るのだ。
だから魔力が一切ない世界で生きてきたというユウの話を聞きたいとジェイドは思った。そもそも地上で生きる人間と、深い海の下で暮らす人魚である自分では意識の奥底に敷かれている常識も異なる筈だ。
下地に魔力、魔法のある世界と無い世界、勿論それ以外にも異なる部分がたくさんあるのだろう。それらを聞くことが出来る、それはジェイドにとって何よりも知的好奇心を満たしてくれる素晴らしいもののように思えたのだ。
魔法はイマジネーションの強さで決まる。勿論、ユウの口から聞いた話そのものが魔法に役に立つということはないだろうが、それでも違う世界の話を聞き想像することは、自らの想像力を育てるいい訓練にもなるとジェイドは考えている。
自分から気まずげに視線を逸らす彼の様子に、自分に苦手意識を持っているのだなということをジェイドは理解していた。
ユウが自分を苦手とする理由はジェイドの優秀な脳みそを持ってしてもわからない。そのことを部屋にいるときにぽつりと呟いたら、フロイドがこちらを潰れたカエルを見るような瞳でこちらを一瞥し、そのまま眠ってしまった。
(フロイドを見る時と殆ど変わらない目で、僕のことを見ていたこともあったのに)
そう、きらきらと輝く瞳で自分を見つめていた彼の表情を思い出し、何故か今はない筈の背鰭の辺りがむずりとくすぐったいような感覚を抱く。何故、自分とフロイドで彼の対応は違うのか、何故アズールが契約書が塵になったことを良しと出来たのか、それらの答えに近づきたいと思ったからこそ、ジェイドはユウとの契約恋人という地位に収まってみた。
まずは情報を集めてからと思い、ユウの行動パターンを把握する為に彼をさらに細かく観察していると、時折、フロイドに見過ぎだと肩を叩かれたし、アズールに呆れたような瞳で見られた。
今までなら彼らの言いたいことはなんとなく言葉にされずともわかっていたというのに、今はさっぱりわからない。それがどうにも気持ち悪くて、二人と自分の間にある乖離をどうにかしてみようとして今回の契約を彼に持ちかけた。
廊下で見た彼の顔色はあまり良くなかった。自分としては、いっとう柔らかい笑顔で対応したつもりだったのだが、何がいけなかったのか。ジェイドは胸の内で僅かに首を傾げたが、すぐに考えることをやめた。
何せ、自分はユウではないのだ。考えたところでわかる筈もない。行動原理から何かしらの理由を予想出来るかと考えたが、それも出来ないとなれば、あとは本人の口から聞くしかない。
ただ今回の契約はあくまでジェイドが願ったものだ。ユウにとってもメリットがないわけではないとはいえ、ほぼジェイドの願望を叶える為のものであった。その為、彼が得だと感じるような条件をちゃんと盛り込んで提案したところ、彼は契約することを選んだ。だからやはりあれで良かったのだとジェイドは笑みを深めたのだった。
(とりあえず第一関門は突破という感じですね)
突破したというか、思った以上に簡単にいきすぎていて、本当にいいのだろうかとジェイドの方が思ってしまうくらいだ。
契約書に何か途中で書き足すようなことはオクタヴィネルの名に誓ってするようなつもりはないので、彼が熟読した契約書の内容が全てなのだが、今回はあくまでジェイドが依頼している側なので、ユウはもっと条件をつり上げることも出来たのだ。だが、それなりに優秀なジェイド・リーチという駒を手に入れた彼の唇から零れ落ちた言葉が、あまりにささやかすぎて思わず笑ってしまった。
(貴方はもっと困っていらっしゃることがあるではないですか)
これは口に出さなかったが、ジェイドはユウが抱えている問題を認識していた。
ある意味、仕方のないことではあるだろう。全寮制の、閉ざされた空間での学園生活。いくら部活やアルバイト、それに街へ出ることも可能だと言っても、生徒の中にはストレスをためる者も少なくない。
元々、この学校にくる者たちは皆、それなりに優秀で選ばれた存在なのだ。けれど、その中でも、いや、そんな中だからこそ明確な能力差が出てしまう。
そんな中に一人、魔力を持たない人間が混ざる。それは彼らにとって、少なくとも自分はアレよりはマシなのだという思考に陥らせる。さらにストレス発散方法として何かしらの方法でユウが害されたことがあるのは一度や二度ではないらしい。一年の友人たちやクラスメイト、交流のある上級生がそれとなく面倒を見ているようだが、それとて絶対ではない。
たまに気分が乗ったフロイドが助けてあげるんだ~と言っていたことがあったので、観察してみたのだが、やはり異常な回数だ。
皮肉なことに反比例するかのように、他の生徒同士の喧嘩は減っていることからも、ストレスのはけ口がユウに向かっているのは事実だろう。
だからこそ彼が真っ先に対価として求めるものはそれだろうと予測していたのだが、どうやら違っていたらしい。意外だと考えたところで、ジェイドは僅かに目を見張った。あくまで自分の予想だが、おそらくは間違いない筈だ。
(ジェイド・リーチという駒をそういう使い方をすると考えなかったのでしょうね)
普段、荒事をメインに担当するのは確かにフロイドだ。だけれどそれは、ジェイドに他にやることがある場合に限るし、場合によっては自分が一手に引き受けることもある。
だから、自分とて荒事をどうにかするだけの力はあるのだ。
もう少し熟考する時間を与えたら違う回答が出たかもしれないが、あの短い時間での回答が本来のユウ自身の性質を表すものなのだろう。
つくづくこの学園に無縁な人なのだ、とそのことをジェイドは自らの頭に書き加えたのだった。
確かになんとなく不思議な雰囲気の人間だとは思う。これが異世界から来た存在だからそう思うのか、もしくは別に何か理由があるからなのかといった謎はこれから解明されていくのだろうか。
まずは彼自身の口から聞かされる情報が楽しみだとジェイドはそんなことを考えながら、ユウが戻ってくるのをほんの少し落ち着かない気分を抱えながら待っていた。
少しして、談話室の奥にあるあまり広くない厨房に消えた監督生が戻ってきた。その手にあるトレーの上にマグカップ二つと少し縁の欠けた皿に盛られたチーズケーキとクッキーがのっていた。
「えっと、あの大変申し訳ないのですがお詫びしないといけないことがありまして……」
うろうろと視線を彷徨わせるその様子にジェイドはぱちぱちと瞬きを二度繰り返した。
(やはり今日はお話を聞くことは出来ないということでしょうか)
突然の話であったし、まぁ、無理もないだろうと、ジェイドがわかりましたと答えようとしたところでユウが机の上にマグカップを移動させながらぼそりと口を開いた。
「うちの寮、本当いろんな物が不足していて、あの紅茶とかもすごく安いし、マグカップも皿も縁は欠けてるし、おやつは先輩が作ってくれたチーズケーキの他だと、自分の作った口の中の水分をやけにもっていくクッキーくらいしかなくてですね」
一昨日、パンケーキの粉を使い切ってしまって、と彼の口からそろりと発された言葉を聞いたジェイドは耐えきれず吹き出してしまう。
「え、あ、そんな勢いよく笑わなくてもいいじゃないですかっ!」
「いえ、てっきり今日のお話会を無しにするといったようなことかと思っていたので、まさかお茶とお菓子のこととは思わず……っ」
あぁ、ダメだ。耐えきれないとジェイドがもう一度笑えば、ユウの頬が風船のように膨れたので、そのいかにも自分は怒っているぞという合図に再び声をあげて笑ってしまう。
じとりと注がれる視線に恐怖とかそういったものは見えず、それがまたジェイドの笑い声を軽やかにしたことをユウは気づかないだろう。
とりあえずその日は、まず彼の家族構成やあちらの世界では魔法道具が一切ないというので、ではどういったエネルギー源を使っているのかを聞き、オンボロ寮でのお茶会はお開きとなったのだった。
***
週に一度のおうちデートもとい情報交換会を二ヶ月ほど続けていく中で、ほんの少しジェイド・リーチというヒトにとっての恐怖みたいなものは薄らいだ。
ユウの中にひらひらと小さな花弁のように、ジェイドとの思い出が積み重なっていく。とは言っても、やはりあの貼り付いた笑顔は怖いし、彼はユウがびっくりして飛び跳ねる様を見るのを楽しんでいるらしいこともなんとなく理解している。その上、多分、自分がやめてほしいと主張したところでこのヒトを喜ばせるだけのような気がして、ユウは声に出して抗議することを諦めた。
相変わらず苦手だという意識を拭いさることは出来ていないけれど、それでも人とは段々と状況に慣れることの出来る生き物でもあるとユウは思う。
しかし目の前に広がっている状況を、ただ目を見開いて見ることしか出来ない。
「……先輩、そんな荷物を大量に持ってきてどうしたんですか。キノコグッズ大量に買ってフロイド先輩に捨ててきなさいって言われたんですか」
「それは良い考えですね、覚えておきます」
返された言葉に、ユウは、わーわーと両手を上下に動かし、覚えなくていいです! と声をあげた。
「と、そんな冗談は置いておいて、これは監督生さんへのプレゼントです」
そう涼やかな声で告げるジェイドが今どんな表情をしているのかユウからは見えない。なぜなら彼の両腕の中には色鮮やかに包装されたプレゼントが収まっているし、なんだったら彼の足下、さらに視線を移せば、後ろにも積まれている。
「え、無理です」
苦手な相手だと思っているのは事実だが、それでも二ヶ月近く、毎週会って二人っきりで話をすれば、慣れからするりと言葉が落ちてきたりするのだ。するとジェイドが手に持っていた箱をユウの足下の横に置いてしまったので、慌てて手で押し返そうとしたのだが、ジェイドが笑顔のまま箱から手を離さないので、箱は一ミリも動かない。
いくら性別の違いがあるとは言え、先輩、力強すぎない? とユウが心の中で震えていると、ジェイドがじぃとユウを見つめていた。
「……、どうして受け取っていただけないのでしょうか?」
ことりと首をかしげる百九十センチの自分よりも随分と大きな彼を見上げて、少しばかりユウの首が痛みを訴え始める。
「こんなにたくさんいただく理由がないです、リーチ先輩」
「ジェイドです」
自分の質問に答えず、そう笑顔で告げてくる彼の整っている顔を見つめ数秒、ユウは薄く息を吐き出した。
多分、ユウが彼のいう通りに呼ばなければ、このやりとりに時間を吸い取られてしまうだろう。しかも今の自分にはそれよりも聞かなければいけないことがあるのだ。
「……ジェイド先輩、どうして今日もまたそんな風に箱をいっぱい持ってきたんですか」
「もちろん、貴方へのプレゼントだからですよ?」
答えになっていない回答に思わずユウはふぅとため息を吐き出す。
「自分は何故、突然、謎のプレゼントを持ってきたのかを聞いています」
「恋人である僕が贈るプレゼントは受け取っていただけないと?」
なんとなく会話が噛み合わないなと思いつつ、ユウはとりあえず自分の主張をまず口にすることにした。自分と彼は住む世界が全く違うし、種属も違う。自分の当たり前が相手にとってはそうではないのだから、口にしなくても相手に伝わっているなんてそんな自分に都合のいいことを考えてはいけないということをユウはこのひと月半くらいの間に幾度となく学んでいた。
「あくまで契約上の恋人である自分にそんなことをしなくていいんですよ、それにこんなに大量のものをいただいてしまうと嬉しいよりも申し訳ないって気持ちが勝ります」
しかも高価そうなものばかり! と悲鳴のような声をあげれば、そうでしょうかと首を傾げられてしまい、ユウは思わず頭を抱えてしまう。この世界のことに明るくないユウの目から見ても、この自分への贈り物らしい山を構成する一つ一つが学生のお小遣いで適当に買えるものではないということはなんとなくわかる、ということはつまり自分の考えている相場よりももっと高いのだろう、というのがユウの予想だ。
「……ユウさん」
いつも良く通る、人を魅了するような声を持っているヒトだとは思っているが、彼はさらに通常よりも少し低い声に自分の名をのせた。すると日差しがよく入る玄関から、ばしゃんと水の中に投げ出されたような感覚がユウを包み込んだ。
契約を迫られた時と似たような状況だとユウは僅かに手に力を込めた。
視界も、嗅覚も、一瞬前と何も変わらない場所に自分は立っていると主張するのに、脳がここは海の中だと伝えてくる。契約した直後であれば、こんな状態になったら混乱してそれで彼の望むままの答えを口にしてしまっただろうなと頭の片隅で思う。ユウとて嬉しくはないが、何度も様々なヒトたちのオーバーブロットやらやっかい事に巻き込まれ続けてきたことによって様々な魔法にまつわる環境変化に身体も頭も慣れてしまっていた。
(深呼吸して)
鼻に届いた香りはつい最近乾かしておいておいたオレンジの香りだ。オンボロ寮という自らのテリトリー内であるということを改めて自らに言い聞かせ、それから、彼が今のこのユウの状態もじっと観察しているのだろうなというところまで思考出来るのは、ジェイド・リーチのヒトとなり(この場合は人魚となり、というのかもしれないが)が前よりはわかった気がするからだろう。これは長い期間、少しずつ静かに自分の中に降り積もった経験の欠片を拾い集めてきたおかげだろう。
(さて、どう言うのがいいのかなぁ)
彼は随分と凝り性なところがあって、自分がこれをやると決めたら、周りの意見は殆ど聞かない、らしい。
視線をゆるゆるとあげていけば、眉間に皺をきゅ、と寄せて不満だという色を瞳に思い切り映している。
自分がこれまで見てきたジェイド・リーチの笑顔がやはり、表面上のものであったのだということがよくわかる瞬間だった。ユウに向けられる笑顔の大半はそれなのだが、最近、こうやって彼の表情が剥がれる時がある。一枚、また一枚と鉄壁の笑顔が剥がれた先にある表情を見る度に、ほんの少しずつ、ジェイドに対する感情の色が変わっていくのをなんとなくユウは感じながら、じっと彼の瞳を見つめた。
「……陸のお付き合いというものを学びたいって言ったのはジェイド先輩じゃないですか」
「僕なりに勉強して情報を仕入れたのですが」
だから受け取ってくれてもいいではないですかという無言の圧力に屈してはいけないとユウは言葉を発する。
「プレゼントが悪いというわけではないんです。でも何事もやりすぎは良くないんですよ」
彼が持ってきているであろうものは服、帽子、化粧水、花束、クッション、時計、財布、万年筆、香水、様々なブランドバッグ辺りだろう。エースが読んでいた雑誌で見たことのある名前がリボンに印刷されているのを視線を下げて確認してから、もう一度ユウはジェイドの瞳をのぞき込んだ。
「今日は別に何かの記念日でもないですし、どう考えても対価に貰うには重すぎるでしょう?」
「でも監督生さんのお時間をいただいてるわけですし……。本当は靴とかもおすすめのブランドや形があったのですが、やはりサイズとか色々確認してからの方がいいかと思いまして」
「先輩、先輩、自分の話ちゃんと聞こえてます? だから時間の対価には重すぎるんですってば。正直に言えば、プレゼントいただけるのはものすごくありがたいですけど、でもそれにしたってやりすぎです。先輩の好きなキノコの栽培にだってちゃんと手順と適量というものがあるでしょう? それと一緒ですよ」
多分ここにフロイドやアズールがいたら、キノコと一緒とか言っちゃうなんて、小エビちゃんだいぶジェイドに毒されてない? 本当に、貴方監督生さんですか? とツッコミを入れていただろうが、ここに二人はいないので、話はそのまま進んでいく。
「たしかにそれはとても大事なことですね。……でも僕も色々と調べたんです」
自分とは全く違う貴方にあうものを探すのがそれなりに楽しくて、というジェイドの様子に、うぅとユウは小さく唸り声を上げた。
ここで負けてはいけない、いけないと思うのだが、もう仮面のような笑顔の下にある年齢相応の表情を見せてくるなんてずるいではないか、これもまた計算の上かもしれないと思いつつ、ユウはあぁ、もうと頭の中で叫んだ。
「……も、もし持ってきてくれるならジェイド先輩の手作りの食べ物が、嬉しいです」
「僕の、ですか?」
きらりと彼の瞳に光が灯った様子を見てユウは内心良かったような、悪かったような、なんて感想を抱く。とりあえず彼の意識を今あるプレゼントから動かすことに成功したらしい。
「監督生さんは、甘いものとしょっぱいものどちらがお好きで? 食材で苦手なもの、食べられないものは?」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、これは彼の気が済むまで徹底的に質問責めにあうのだなと苦笑しつつ、ユウはとりあえずジェイドをいつも通り、談話室へと案内する。
そうして一通り質問に答えたユウは、今週授業を受けた中で疑問に思ったものをまとめたノートを開き、今度は自分からジェイドに質問をぶつけたのだった。
ジェイドの伏せられた睫の長さに、自分の二倍あるのではと思いつつ、ユウは彼が与えてくれた情報を一通り書き連ねた。
とりあえずヒントをもらったのでここからさらに調べて、来週には答え合わせをしてもらおうと考えている間に、ジェイドが紅茶を淹れるからといったん休憩を告げられた。
ジェイドが厨房へと向かったのと入れ替わるように部屋へと続く扉のところにこのオンボロ寮に住むゴーストたちが重なってこちらを見て、それはもう輝かんばかりの笑顔と輝く視線を向けてきた。
(あぁ、なんかすごい期待をこめた瞳でこちらを見ている)
彼らの期待することは一ミリも起こらないと何度言ってもうまく伝わらないなとジェイドと付き合い始めてすぐのことをユウは思い返した。
ジェイドとの契約恋人関係については、彼の興味の延長線上、ユウにとっては利害の一致の上に成り立つもので、ここに個人の恋愛感情というものは含まれていない。
その上、ユウはこの学校に『男』として通っている、つまりジェイドと同性にあたる。同性カップルが悪いわけではないが、ただでさえユウは『魔力なし』だからと絡まれることが多い。そのいざこざにジェイドを巻き込むのは気が引けたので、二人の関係は言いふらすことではないという判断を下した、
ただしお話会を開くのはオンボロ寮になるだろうとゴーストのおじ様方には事情を説明した。彼らは顔半分を両手で隠し、きゃーとなんだか高い声をあげてふわふわと空中を飛び回ってユウの言葉を聞いていた。
「ロマンスだねぇ、まるで映画を見ているみたいじゃないか」
「契約恋人ですし、そんなおじ様方が期待するようなことは一切何も」
「いやいや、わからないぞ。なぁ」
「そうだとも、何か協力出来ることがあれば何でも言いなさい」
きゃーきゃーと三人集まってこちらを期待に満ちたつぶらな瞳で見ている。こちらの言葉は一切耳に入っていないであろう彼らに対して、ユウに出来ることと言えば、軽く肩をすくめることくらいだ。
彼らは優しいし、とても頼りになるけれど、ユウの話を聞いてくれない時にほんのちょっぴり困る。しかし悲しいかな、止める手立てもないので、もう彼らが飽きるまで放っておくしかない。
「とりあえず時折ジェイド先輩がこの寮にやってくると思いますので」
よろしくお願いします! と声をかければわかったよ~との返事にユウはほぅと息を吐き出したのだった。
「どうしました、ため息をついて」
お疲れですか? という言葉とともに目の前に差し出されたティーカップはジェイドが持ち込んだもので、いつの間にかユウ専用になっている。彼の髪の色と海辺の砂浜が混ざり合ったようなそれの中で揺れる紅茶はジェイドが拘り抜いて淹れたものだ。ユウが格安で大量に買い込むティーバッグと違って、グラム単位で買っている高いものだろう。これも僕の手料理に含みますと笑顔で言い切ったジェイドに負けてプレゼントの一部として厨房に置かれている紅茶缶の一つだ。
ふわりとオレンジの混ざった柔らかい香りを楽しみながら、視界の隅でいつの間にか姿を消していたゴーストたちのことを考え、薄く息を吐き出したのだった。
***
ジェイドと契約恋人になってから三ヶ月、最初は週に一度だったお話会はタイミングがあえば二度開催されるようになっていたし、他にも変わったことがある。
それは例えば授業の移動中に廊下で会ったら挨拶の他に一つ、二つと会話をするようになったこと、授業で一緒になった時にペアを組んでくれるようになったこと、食堂で会った時には、昼食を取る時もある。
最初はやはり身体がぴしりと強張る感覚があったが、それもオンボロ寮でのお茶会や日々の会話の積み重ねによって少しずつほどけていくような気がして、それと同時に自分の中にやはりまた降り積もるものがある。
とは言え、これはあくまでユウ側の変化であって、ジェイドの笑顔はこれまでと殆ど変わらない。
わかってはいたし、不満はない。
それでも、ほんの少し胸の奥側を刺す痛みはある。情報の交換会のようなこれを毎週行うにしても、はたして恋人という関係性をつける必要があったかと言われれば首を傾げてしまうが、ジェイドなりの考えがあっての行動だろう。
ユウとしても今のところ、やはり一瞬身構えてしまうということを除けば、これといって困ることもない。
ジェイドとの契約恋人になるということに了承はしたし、契約書は端から端まで細かくチェックしたつもりになっていたが、それでも突然の斜め上の方向に折れ曲がったような契約を持ちかけられたから気が動転していたのだろう。
交際期間の終わりは二人が了承をした時、というのはちゃんと確認をした。けれど、それ以外の明確な終わりの日時が書いていないことに気づいたのは契約をした数日後のことだったのだ。
とはいえ、その時はユウ自身にジェイドが興味を示すような話題を何ヶ月も提供出来るとも思えなかったし、ジェイド自身かなり忙しそうなイメージがある。そんな中、いつまでもユウに時間を割き続けるとは思えなかった。
長くて一ヶ月、もしかしたら二週間くらいで終わるかもしれないと当時のユウは一人でそう楽観的に結論づけてその問題を横に置いてしまった。
この時に機嫌のいいフロイドを捕まえて、もう少しジェイド・リーチという人魚について情報収集をすれば良かったのだと思わず額に手を当てて呻いたのだが、後の祭りだった。
二ヶ月経った辺りであれ、と首を傾げた。一向に契約終了を告げられないまま、ユウも段々とジェイドが日常に混ざり込んでいることに慣れ始めてしまっている自分に気づいて僅かに首を傾げたのだ。
だからこれはもしかして随分と予想と違う方向に進んでいるのでは、と慌てて、ミステリーショップに駆け込み、両手一杯のミントキャンディを買って、目当てのヒトのところへと駆け込んだのだった。フロイドは今日は中庭で昼寝の気分だったらしく、比較的簡単に見つけられてホッとしつつ近づき声をかけようとした瞬間、フロイドが腹筋に思い切り力をこめてベンチから勢いよく起き上がった。
彼の長い手足が勢いよく動いたものだから、びくりと反応してしまったのは仕方のないことだと思う。
「あっれ、なんでこんなとこに小エビちゃんいんの? めっちゃ飛び跳ねてんね、ウケる」
ケラケラと笑いながら迎えてくれた彼の声の波は穏やかな気がするから、多分今なら大丈夫と判断したユウは早速貢ぎ物を渡して、本題に入ることにした。
「フロイド先輩、これ受け取ったなら教えて欲しいんですけど」
「小エビちゃんって結構ぐいぐい来るよね。んーいいや、なぁに?」
目を細める、ここ最近よく見る彼と真逆の色合いが昼の光の中ぼうと浮かぶ。似ているのに、このヒトは光の下も似合うんだな、と少しだけ失礼なことを考える。
大きな手のひらがずいと伸びてきてわしゃわしゃとユウの髪の毛を混ぜるように踊って離れていった。やっぱりなんだかんだ先輩優しいなぁと思いつつ、ユウはずばりと本題を言葉にした。
「ジェイド先輩の興味の持続時間ってどれくらいですか?」
言葉を聞いたフロイドが器用に片方の眉を動かした。それから視線を左右に動かして、あlと妙に長い声を発した。
「……ジェイドが興味持ったらアウト、周りの制止も聞かないし、自分が納得するまでとことん追求する間、ひたすら突き進むよ」
フロイドはユウが差し出したミントキャンディを手の中でくるくると遊ばせていたかと思うと、セロハンをぴりぴりと剥がしてそれを口に含みながら、やけにはっきりとそう口にした。
「そ、そうなんですか?」
ガリガリとミントキャンディが削られていく音を聞きながら、ユウもまたひやりと背が冷えるような感覚を味わっていた。
「気に入っちゃうとダメ。オレも、アズールも止めらんないもん」
三ヶ月で違うのであれば、半年くらいかなと考え、どうせなら身内のヒトからもう少し詳しい情報を貰おうと思って彼の元を訪れたのだが、想定していたよりも随分と重い情報を聞いてしまったとユウは思わず背筋を伸ばした。だが今更条件の追記は無理であろうし、これは流れに身を任せるしかないなとユウは腹をくくることにした。
「フロイド先輩、色々聞かせてくださってありがとうございます」
これはおまけです、ともう一本棒付きの今度はグレープキャンディを差し出せばフロイドがやった、味違いだと嬉しそうに笑うので、ユウもんふふと笑った。
さて、この場を離れようと立ち上がった瞬間にょっきりと長い手がユウの腕へと絡まった。皆フロイドが絞めるというと怯えるが、
「小エビちゃんさ、なんかジェイドとあったんでしょー。教えて?」
フロイドがユウの行動をこんな風に止めたことがあるのは一度や二度ではない。だからある意味慣れきっている彼の行動ではあるのだが、ユウは一瞬、思考する。
契約の条文に関係を隠すようにとは書かれていなかったし、フロイドはジェイドの兄弟でもある。だから自分から伝えたところで問題はおそらく全くない。しかしジェイドがフロイドに教えていないことに、もしかしたら一ミリでも何かしらの意味を持っているかもと、ユウから話してしまうのもどうなのだろうか。
ねーねー教えてよと言いながらフロイドがさらにセロハンを取り、ガリガリとかじり出す。彼の鋭利な歯が透明でつるりとした飴の表面をすごい勢いで削っていく様を見守っていたユウは、棒の先から飴がなくなった瞬間、唇を開いた。
「フロイド先輩」
「んー?」
「ミントキャンディ二個目の対価、もらってませんよね?」
星空に浮かぶ月と濃い水面のような色違いの瞳をじぃと見つめれば、フロイドの瞳が影の中できらりと輝く。
「……んふふっ、計画犯だねぇ。小エビちゃん」
じゃあ、今日はそういうことにしておいてあげると笑った彼が長い足を動かしてあっという間に去って行く、その背中をぼんやりと見送ろうとしたユウの視界の中、くるりと彼が振り向いた。
「次にもらう対価上乗せしてね。もう一個だけ優しいオレが情報を教えてあげる。ジェイドってね、すんごい色々そつなくこなしてるように見えると思うし、実際その通りなんだけど、一通りのことを出来るようにして、それから好きなものにあったらひたすら打ち込むんだよね。アズールほどの完成度にはならない。だけどジェイドはいつだってオレやアズールが気づかなかったり、後回しにすることも全部こなすようになんの。すごいでしょ?」
フロイドから降ってくる言葉に、ユウは頷いた。陸に上がって二年だという彼の行動はいつだってユウよりもよほど地上歴が長いのではというくらい洗練されていた。
天才型のフロイドとも、努力で全てを凌駕するアズールとも違う、だけどすごいヒト。新しい情報がまた一つ、ユウの中に刻み込まれた。
まぁ、それくらいの集中力を好きなものに発揮するってことでもあるんだけど、と最後ににんまりと笑みを浮かべて今度こそ軽くステップを踏みながら去って行くフロイドを見送り、次のお茶会の時にはジェイドと何を話そうかと考えながらユウもまたその場を後にしたのだった。
フロイドから情報提供を受けた十日後、ユウはオンボロ寮でジェイドの到着を待っていた。
先週はモストロ・ラウンジで新メニューの販売が開始された上に、ポイント二倍キャンペーンを同時に行った関係で平日の予定が合わず、今日が久しぶりのお茶会日となったのだった。
(そういえば、こんなに日が開くの、初めてかもしれない)
これまでは約束をした日の次の日か、少し離れたとしても一週間程だった。
約束の日まであと何日となんとなく壁に貼ってあるカレンダーを見ながら考えている中でユウはこれまでと違うことを少しだけしてみようかとそんなことを考えつき、早速実行に移してみた。
たいしたことは出来ないけれど、これまでと違うことに手を出す瞬間というのは少しばかりドキドキする。
財布の中身を確認して、購買へと向かう。お目当てのものと、それと、ふ、と棚に置いてあるものを見つめ、数秒、ユウはそれも購入し、その場を後にした。
お茶会前日エプロンを巻いて、ユウは厨房に一人立っていた。いつもお茶会のお菓子はジェイドが対価の一部だからと寮で準備してきてくれるのだが、ユウも何か用意してみようと思いついたのだ。
とは言っても、難しいお菓子を作れるような技量はユウにはない。だから本当に簡単な、今回は購買で安く買えたチョコレートを使ってガトーショコラを作る予定だ。
トレイに少しばかりアドバイスと、それともう使わないからと計量器具をいくつか譲り受けた。お代を払うつもりでいたのだが、使い古しだし気にしないでくれ、たまにうちの茶会の手伝いにきてくれよと頭を撫でられ、ユウはこくりと頷いた。
トレイは下に兄弟がいるということは聞いていたのだが、なんというかかけられる声の柔らかさとか、触れ方が兄という感じがするのだ。だから頼りになって、理想のお兄ちゃんって感じすると言ったのだが、何故かエースとデュースの視線は少しばかり泳いでいた。何故か気にはなったが二人がそれ以上何も言ってくれなかったので結局疑問だけがユウの心の隅に残った。
いつも美味しいお菓子を持ってきてくれるジェイドへの少しばかりのお礼になれば、と思う。とは言え相手は店に出すようなものを作れるヒトなので、そもそものレベルが違いすぎるけど、それはそれ、これはこれと自らに言い聞かせ、ユウは調理を開始した。
バター、チョコレート、生クリームを鍋に入れ、弱火にかける。ヘラで混ぜながらもユウは、ジェイドと恋人として過ごす内に知った情報を頭の中で整理してみることにする。
魔法薬学が得意だとか、二本足を手に入れてから山を登るという行為や、キノコにとてもハマったこと、海の中では基本的に食事は生食で、火を料理に使うようになったのは陸にあがってから、そういった小さな情報をいくつもいくつも脳の引き出しにしまっておく。
鍋の中の材料が混ざり合って、綺麗なマーブルを描く。
(苦手だと思ってたんだけどなぁ)
美しいと思っていたことは事実だが、それよりもやはり恐怖が勝っていたのだ、付き合い出すまでは。
だっていつも変わらない笑顔が怖かったし、自分の器の容量は決して大きくはないから、自分に興味のないヒトに対して、ユウも意識を割く余裕もなかった。
だけど、突然距離が近づいた。
ゆっくりではなく、本当に、ある日突然一気に距離が近くなってどうしたらいいのかわからず混乱しかけたが、近づいたと思った彼は、ユウから少し離れたところでまた足を止めた。
そうして、そこから自分に話しかけてくるのだ。
今も彼の笑顔は少し怖いけれど、でも、怖いだけではないということがじわじわとこれまで彼と過ごした時間から事実として浮かびあがっている。
(一つしか歳、違わないんだよね)
ジェイドがあまりになんでもソツなくこなすものだから忘れがちな事実を思い出して、ユウはすごいとため息をこぼす。
ここにいるヒトは本当に皆すごくて眩しい。
彼らと同じようには出来ないけれどユウだって少しずつ、何かしら出来ることを増やしたいと考えながら、鍋の中身がすっかり混ざり合っていることを確認し、ボウルに溶いてあった卵にチョコレートを流し入れた。
それらを混ぜ合わせ型に流し込み、オーブンにいれる。
あとは焼けるのを待つだけ、今回はとりあえず一回分の材料しか買えなかったので、失敗がなるべく少ないレシピを使ったが、その内もう少し複雑なものにも挑戦したいなと考えながら、使った器具類を洗って、とろりと甘い香りを嗅ぎながら焼き上がりを待つのだった。
翌日、いつもと変わらず約束の時間にオンボロ寮に現れたジェイドの白い肌によく目立つ隈が出来ていた。二人でいつも通り、談話室へ移動する。
「では、お茶を……」
これまたいつも通り、淹れますねと立ち上がろうとしたジェイドを、ユウはドキドキする心臓を抱えつつ、口を開いた。
「先輩は、今日は座っててください」
ぱちぱちと瞬きをする姿はいつもの様子よりも少し幼い気がして、ふふと小さく笑い声が唇から溢れてしまう。
「監督生さん?」
「先輩、すごいお疲れでしょう? 先輩ほど上手に出来ないと思うんですけど、自分が用意するので、座っててください」
さぁ、どうぞと彼の定位置を指し示せば、ジェイドの視線がソファと自分をいったりきたりする。
「しかしこれも対価の……」
「そんなに細かく対価を決めていなかったじゃないですか、先輩のお菓子とお茶をいただけるのは確かに幸せですけど、ちょっと貰いすぎだなって思うので」
それに先輩、すごくお疲れでしょうと言葉を重ねれば、いつもであれば笑顔で綺麗に隠される表情が、僅かに動く。
「もう、いいから座っててください!」
そもそもジェイドが手土産を用意してくれている段階で、殆どユウに出来ることは多くはないのだ。さらにこまごまとしたことを疲れた状態でやろうとするジェイドに、ユウはそう言い放つと素早く、だけど丁寧に手土産を持って厨房へと向かう。
追いかけてきたら、ゴーストのおじ様に救援を頼もうかと考えていたのだが、どうやら彼はちゃんとユウの言葉を守ってくれるつもりらしい。
冷却魔法をかけてある旧型の冷蔵庫から昨日作ったガトーショコラを取り出し、自分用と、自分の二倍の大きさにガトーショコラを切り分け、生クリームを添える。
それからミステリーショップで材料の他に買った紅茶を机の上に置き、お湯を湧かす。
お湯を少し蓋の欠けたティーポットに注ぎ、パッケージに書かれている時間分、蒸らす。
かち、こち、と針が進む音が聞こえてくる。
今日のオンボロ寮はすごく静かで、ユウは瞼を下ろした。
こんな静かな空間で、過ごしたのは久しぶりな気がする。
これまではグリムやゴーストたちが遊びに出かけた夜、一人になることはあった。不安がひっそりと夜の中で染みこんできて、そういう日は頭から布団を被って、外からの気配を遮断してそのまま眠りに眠りに落ちる瞬間を待っていたのだが、今は穏やかな気持ちだ。
今、この場には自分と苦手で怖いと思っていた筈のジェイドしかいないというのに、随分と簡単に心は移り変わっていくのだなと口元を緩める。
勿論、まだ少し怖いけれど、でも怖いだけではないこともまたユウは知ったので、相手を知るということは大事なのだなと、ポットからふわりと漂ってくる香りを吸い込みながら強く意識する。
ポットを傾けて、ジェイド用にと買ったマグカップにそれを注ぎ、最後に蜂蜜を少し垂らす。彼が作ってきてくれていたのは、今日はこんがりと綺麗な色に焼けたマフィンとカップケーキだった。それらをオンボロ寮にある中ではなるべく欠けの少ない大きめな皿にのせ、自分のマグカップにも同じものを注ぎ、トレーに乗せる。
「ジェイド先輩お待たせしました」
そっと声をかければ、ぼんやりとしていたらしいジェイドがこちらを見て立ち上がろうとした。たいした距離ではないので大丈夫ですよと再び声を投げかければ、おとなしく腰を下ろす。どうやら本当に疲れているらしい。自分との約束を守ってくれようとするのは嬉しいが、そこまで眠いのであれば、もっと先に予定を延ばしても良かったのにと思う。
「今日は茶葉を買ってみたので、それを淹れてみました」
「カモミールですか?」
「当たりです、それからお菓子も自作してみたんで良かったらどうぞ」
お口にあうといいのですがと言いつつ差し出せば、ジェイドがぱちぱちと瞬きをしている。
「え、あ、ありがとうございます。いただきます」
「はい、召し上がれ」
ユウにとっては随分と大きなガトーショコラがあっという間にジェイドの口の中に吸い込まれていく。その間、彼は一言も声を発さないものだから、どきどきと心臓が大きく跳ねてしまう。
「……美味しいです」
多分、彼はいつもと同じ笑みを浮かべているのだろう。
だから、ありがとうございますと言葉を受け取って終わりにしようと思っていたのに、今日は違うことをいくつもしているからと言い訳するような言葉を並べつつ、ユウはそろそろと視線をあげて、それから僅かに目を見張った。
ジェイドの表情が少しだけ柔らかい。
もしかしたら眠いから、そう見えるだけかもしれない。それでも、なんだかもらってばかりの自分もほんの少し何か返せた気がして、ふわりと胸の内に感情が花のように咲く。
「カモミールティーもこれ、蜂蜜が入っているんですね」
「あ、はい、正解です。ちょっと淹れてみました。レモンとかもいいみたいなんで、今度試してみようかと思ってます」
そう伝えれば、いいと思いますと答えるジェイドの声はやはりいつもより少し柔らかい気がする。
「……ジェイド先輩、えっと、あのそういえばフロイド先輩にこの契約のことお話されていないんですか?」
なんとなく彼の声の柔らかさとか、ほのかに甘く感じるような声がなんだかくすぐったく感じて、ユウは慌てて話題を振ってみた。
するとジェイドが僅かに目を見張って、あぁ、そのことですかと吐息のような声を発する。自分で投げかけた質問であったが、己の言葉に、少しだけ心の隅に黒いものがじわりと滲む。
(まぁ、あんまり話したいことではないよね)
「いえ、フロイドには監督生さんと契約した直後に話しました。あとアズールにも」
「えっ、そうなんですか?」
となるとフロイドは自分とジェイドが恋人関係になっていると知りつつも質問を投げかけてきたということになる。では無理に隠さなくても良かったのか、ただあの時は判断材料が何もなかったわけだし、やはりあの時はあれが最適解だった筈だと一人で唸っている間に、ジェイドが手で口元を隠しながらくぁと一つあくびをこぼした。
「あぁ、すみません。どうしても眠気が……」
「先輩、今日はもうお開きにしましょう。寮に戻って休むべきですよ」
「でも元々約束していましたし」
「別に今日絶対にしないといけないことではないですし、疲れている時は相談していただけたらなって思います」
今、もうすごく眠いでしょう? と問いかければ、ジェイドがユウを見た状態のまま僅かに首を傾げる。いつもの彼よりもどこか幼さが透けて見える気がして、少し心臓が跳ねる。
「ジェイド先輩?」
自分を見つめたまま言葉を発さなくなってしまったジェイドに、ユウが言葉を重ねれば、ジェイドの唇からぽつぽつと言葉を落ちる。
「……あ、その、すみません。監督生さんとあまり先の予定を約束することがなかったので、その可能性が頭から抜けていました」
自分に投げかけられた言葉にユウは笑みを浮かべる。
「あまり先のこと予定がわからないかなっていうのはありますけど、……大丈夫ですよ」
正直に言えば、一瞬、頭をよぎったのは、自分が異邦人であるということだった。
だが現状何の手がかりはないので、唐突に状況が変わるとは思えなかったし、段々とこうやって回を重ねていく度に、ジェイドとのお茶会を楽しんでいる自分がいる。
帰りたいけれど、心のどこかで簡単に帰れないだろうという諦めの気持ちも持っているユウは、小さく笑みを浮かべた。
「だから先輩、今日は寮に戻って休んでください」
彼の美しい瞳が瞼の裏に今にも隠れてしまいそうで、これはすぐにでも夢に落ちてしまう気がする。
今日の分は、後日また日程を決めましょうと言えば、ジェイドがふるふると首を左右に振った。その様子は小さな子どもが駄々をこねる姿にしか見えず、口元が緩みそうになる。決して馬鹿にするつもりはなくて、なんだか可愛いなぁなんて感情が胸の内に一つ、二つと静かに咲き始めたのだ。だがここで笑えば彼の機嫌を損ねて帰らないと言い出しそうだからと、唇の内側を少し噛みしめて耐える。
ジェイドの頭がゆらゆらと揺れていて、思わず頭が倒れてきたら支えようとユウが両手を前に出した時のことだった。
「……監督生さん、今週末のご予定は?」
囁くような声は今にも夢に沈んでしまいそうな彼の状態を的確に表現していたが、二人しかいない空間には存外大きく響いた。
「何もないです」
「なら、街に出かけましょう」
問いかけという名の確定事項的な言い方に、ユウは、どんなに眠くてもジェイドらしいなぁとそんな感想を抱いて、小さく笑い声をあげた。
「……わかりました、また時間については明日相談でいいですよね?」
ほら、先輩今日は寮に戻りましょうと声をかけたところでジェイドの目の前に置いてあるケーキ皿とマグカップの中身がすっかり無くなっているのを見て、ユウは目元を緩めて笑む。
ジェイドの作ったお菓子の方がずっと美味しいだろうに、彼はちゃんとユウの作った分を先に食べ終えてくれたらしい。
「先輩、すごい眠いと思いますが気をつけて帰ってくださいね」
ジェイドがまた首を横にゆるゆるとふる。もう半分以上、夢に足を突っ込んでしまっているであろう状態に、これはフロイドかアズールに連絡して迎えにきてもらうべきだろうか、自分では絶対に運べないしと考えているとジェイドの口から、かんとくせいさん、と先ほどよりさらに舌足らずな声が発された。
「はい、どうしました。ジェイド先輩」
「すみません、限界で……」
ぐらりとジェイドの上半身が傾いだので慌ててユウは手を伸ばす。ぐら、ぐらりと揺れたジェイドの腕を引き、なんとか自分の肩に彼の頭をのせて、ほうと息をはく。当然ながら、距離が近いし、首元ですーすーと呼吸音が聞こえてきて、これは本格的に寝入ってしまったなぁと苦笑する。
オンボロ寮は他の寮と違って、外泊時に申請書を書いたりしない、というかユウもグリムもその辺りはよくわかっていなくて、まぁ、いいかと二人だけの気軽さでカレンダーに外泊した日を書き込んでいるだけに留まっている。
オクタヴィネル寮は違うだろうが、本人がここまでぐっすり眠ってしまってはもうどうにも出来ないだろう。
今は五時半、とりあえずジェイドの上半身をソファに横たえ、ユウは、青年の顔をのぞき込んだ。なめらかな白い肌は日焼けなどこれまでしたことがないという程白く、すぐに日焼けしてしまうユウは羨ましいと考えながら、声を発した。
「ジェイド先輩、先輩っ!」
ほんの少し肩を揺らせば、眉間にきゅっと皺が寄って、瞼がゆるゆると持ち上げられた。
「かんとくせいさん?」
「先輩、ここで寝てもいいですけど、体勢寝づらいと思うので、せめて足をソファーの上で伸ばしてください」
とは言っても、身長の高いジェイドにはどちらにしろ狭いだろうが、こればかりは諦めてもらう他ない。ジェイドが足を上げたことによって、ぽとりと彼の足からスリッパが抜けて床に落ちる。それを整えて置き、友人たちが泊まる際に使う毛布を取りに行くために部屋を一端離れる。よく考えてみれば一年の友人たちと、学校から依頼があって先輩を泊めたことはあったけれど、個人的に友人以外をこのオンボロ寮に泊めたのは初めてのことだった。
胸の内側をふわふわと柔らかいものが軽くくすぐって過ぎ去っていった気がした。毛布をジェイドにかけて、スマホを操作して先日連絡先を交換したフロイドへとメッセージを送る。
明日は授業も休みなので、もういっそ朝まで寝てもらってもユウとしては別にかまわない。
(朝ご飯用の食材、多めに昨日買い込んでおいてよかった)
卵とベーコン、それに粉物のセールをすると聞いて昨日はエースやデュースにも手伝ってもらって大量に買い込んでおいたのだ。
ジェイドとは空いている時間に少し遅めのお茶会をすることはあっても、そういえば、食事を一緒に取ったことがなかったな、とユウはそんなことに今更ながらに気づく。
前よりは知識が増えたとは言っても、それでもまだ自分は、彼のことで知らないことがたくさんあるのだなぁと感じつつ、ユウは机の上に置いてある食器を片付ける為に、厨房へと移動したのだった。
随分と早い時間に眠りについたから目を覚ますかと思ったが、結局ジェイドは朝までソファーで眠り続け、起きた時には、鮮やかな昼の海みたいな髪に僅かな寝癖をつけた状態だった。
しばらくぼんやりとしながらも視線を部屋のあちこちに巡らせ、最後にユウを見たかと思うと、ゆっくりと目が見開かれていく。
「……っ、え、か、監督生さん?」
彼の鮮やかな瞳が眠りから引き戻される瞬間なんて貴重なものを見てしまったな、と思いながら、ユウは軽く頷いた。
「ジェイド先輩、おはようございます」
朝ご飯食べますかと尋ねれば、おはようございます? と小さな声が彼の薄い唇から零れ落ちた。随分驚いているなぁと観察していると、すぐに彼の顔にいつもの笑顔が貼り付いた。
「失礼しました、監督生さん。ソファーと毛布貸してくださってありがとうございます」
「いえいえ、寒くはなかったですか? 自分にはさすがに先輩を運ぶ力はなくて。フロイド先輩にはそこで寝かせておいて~って連絡がきてたので」
ジェイド転がしておいていいよ。普段眠りが浅い分、一回深く寝たらもう絶対朝まで起きないからという言葉と共にオレももう寝る、小エビちゃんおやすみ! と見事に会話を断ち切られてしまったのだ。
「本当にご迷惑をおかけしました。このお礼は必ず」
「いや、そんなかしこまる程のことは特にしていないので……」
頭を下げたジェイドに向けてユウがそう告げた瞬間、彼の腹がぐぅと大きな音を立てたものだから、ついつい彼の腹部に視線を下げてしまう。それから視線をあげれば、ジェイドの白い頬が、水に絵の具を落とした時のように赤が広がっていく。
「先輩、かなりおなかすいてます?」
「……はい、とても」
じわじわとジェイドの頬が、耳の先が、項が赤くなっていくのをじっと見つめてしまう。
また一つ、新しい一面を知ったなぁと色づくジェイドの肌を見ながら、ユウは、朝ご飯をたくさん用意しようと考える。
とりあえず顔を洗ってきてくださいね、タオルは右の棚の物を使ってくださいと案内した。いつも背筋を真っ直ぐ伸ばして歩く彼の背が少しだけ丸まっている様を見送ったユウは、スクランブルエッグの山とベーコンをカリカリに焼き上げてジェイドを迎え撃ったのだが、それらは全てジェイドの胃袋の中に五分で消えてしまい、ユウが驚きのあまりに固まってしまったのはまた別の話である。
***
土曜日、街にいきましょう。午前九時半、オンボロ寮の前にお迎えにいきますというジェイドからのメッセージに、やはり確定事項なんだよねと考えながら了承の返信をし、ユウは、エースやデュースとともに食堂へと向かっていた。
今日のユウは少しばかり緊張をしていた。何故なら今日はエースとデュースにジェイドと付き合っていることを伝えようと決めて行動しているからだ。
正直ジェイドとのこの契約関係はすぐに終わると考えていたので、ならば言わなくてもいいかな、と考えていたのだ。契約で恋人になり、さらに二週間で別れましたなんて言葉がエースたちからトレイやケイトはともかく、リドルにまで伝わったら大騒ぎになってしまう気がしていた。
だけどジェイドと契約とはいえ、付き合いだしてから随分と時間が経っている。それと最近ジェイドと廊下であったりして話すことが増えた、気がする。
ユウの気のせいかもしれないが、エースは鋭いところがあるので、違和感をすでに抱いているかもしれないし、いつも一緒にいるとても大切な友人(なんとなく照れてしまうのでなかなか口に出来ずにいるのだけど)に隠し事をしているという状態がなんとなくユウの心を落ち着かなくさせていた。ならば二人には自分から話そうと決めたのだ。
ジェイドにも先日それとなく聞いてみたら、いいと思いますと笑顔で答えられたので、その後押しもある。
三人で食堂の奥にある席に座り、ユウは持参した弁当箱を開ける前に二人に向けて、実は、と言葉を紡いだのだった。
正午前後の食堂は活気に満ちていて、なんだったら人気商品の奪い合いも日常茶飯事だったりするから、周りに気をつけていれば、ある程度の内緒話はある意味しやすい場所だったりする。
ユウの発した言葉を聞いた二人の視線が交わされ、言葉を先に発したのはエースだった。
「……あの物騒先輩と付き合ってるって、監督生正気?」
「何か脅されたりしてるのか、そういうことはやっちゃいけないやつだぞ!」
続けて投げかけられたデュースの言葉に、ユウは思わず、ふはっと息を吐き出して笑ってしまう。
男同士で付き合うとかそれ以前の問題で二人の感想が全て、ジェイド・リーチという人魚単体に向かっていることが少しだけおかしくて笑ってしまう。
自分が彼の提示した契約に了承した時のことを思い出してみても、あれは結構脅しに近かったのではと思わなくもない。しかし最終判断を下したのは自分自身なので、脅されたから了承したというのは違うと判断したユウが首を左右に振った時のことだった。
目の前にいる二人の表情がぴしりと固まった上に、なんだか顔色も悪くなっている。
なんで、今ここでその反応? と僅かに首を傾げたところで、上から声が降ってきた。
「皆さん、楽しいお話をされていらっしゃいますね」
いつの間にか背後にぬるりと立っていた彼の、僕、傷つきましたと言ういつも通りの声を聞いたユウは薄く息を吐き出して身体をひねり、背後にいる彼を視界に映した。
そこにはやけに楽しそうな様子のジェイド・リーチがユウの想像通りの笑顔を浮かべて立っていた。
フロイドとアズールはどうやらまだ席に座っているようでそちらを見て頭を下げれば、フロイドが大きく手を振ってくれた。が、どうやら動くつもりはないらしい。
目じりを指の背で拭うジェイドの口元は笑みの形に染まっていて、面白いおもちゃを見つけた時のそれだとユウは感じた。ちなみに彼の視線の先にいるマブたちの顔色は白を通り越して、土気色になっていた。
「お前、突然背後にくるんじゃねんだゾ」
「おや、グリムくん、失礼しました」
オレ様はもう慣れたけど、こいつらびびってんじゃねぇかとくあとあくびを一つこぼしたグリムはどうやら眠くなったのか、ユウの膝の上で丸くなっている。
最初はジェイドがオンボロ寮に来る度に毛を逆立てていつの間にか姿を消していたグリムも今ではジェイドが寮に来てもソファの上で丸まってどかないので、ジェイドが抱えて移動させたりすることもある。なんだかんだうまく付き合っているようだと考えながら、これはいけないなと判断したユウは薄く息を吐き出した。
「リーチ先輩、二人で遊ばないでください」
「ジェイドです、監督生さん。貴方も酷い人ですね、今、傷つきました」
どうして名前で呼んでくれないのですかと嘆いてみせるその様子に、ユウは、ここオンボロ寮ではないので、と言った後に言葉を加える。
「傷ついたっていうなら、もっとそれらしい表情を作ってください」
「監督生さんは僕に厳しすぎやしませんか?」
全然全くもって悲しげな表情ではないですとすかさずツッコめば、目の前にいたエースがはぁと大きな声を出した。
「絶対騙されてるからやめとけって言おうかと思ったけど」
心配して損したと肩を僅かにすくめるエースを見て、彼の隣でぱちぱちと瞬きをしているデュースと視線を交わし、二人でことりと首を傾げた。
「エース?」
「一体どういうことなんだ、エース」
「もー、この話題は終わりで! リーチ先輩だって気づいたらいないし!」
引っかき回すだけ回して全部押しつけられたんですけど! とエースの小さな悲鳴が食堂の端っこで響いて弾けて消えた。
結局エースが何故悲鳴をあげたかユウとデュースにはわからなかったが、彼は二人に明確な答えを与えてはくれなかった。どうして、何がわかったの、一体なんだ? いくつも言葉を重ねたところで、エースは自分の胸の前で手を交差して、それ以上の情報開示を拒んだ。
「オレが言えることもうないからっ、ていうか、デュースも監督生と一緒に聞くのやめてくんない?」
「気になるものは気になるもんね」
「あぁ、そうだな」
デュースにそうだよねとユウが頷けば、もう解散、これ以上はダメ絶対! とエースが席を立った瞬間、予鈴が鳴ってしまった。ユウは僅かに唇を尖らしたが、この話題は結局強制終了となってしまった。
翌日の朝、グリムは今日はマジフト部の練習に混ぜてもらうとユウより先に寮を出て行った。部活動を楽しんでいるのならばとてもいいことなので、街で何かお土産を買ってくるねと見送り、鞄の中身を確認しているとチャイムが鳴る。続けてノックが三回、その後にジェイドの声が聞こえ、ユウは蝶番が錆びた少し音の鳴る大きな扉を開けて外へと出た。
「おはようございます。早速向かいましょうか」
ぬぅとのぞき込む彼の姿にやはり一瞬びくりと背を伸ばして飛び跳ねたユウだったが、すぐににこりと微笑み、朝の挨拶を返した。空は晴れて、きらきらと光が落ちてきている。
お出かけ日和で良かったと考えながら、ジェイドに並んで今日の予定を確認する。
「先輩は、登山グッズで見たいものがあるんでしたっけ?」
ユウの言葉に頷いたジェイドによると、新しいリュックサックがほしくて店舗を二つほど見たいらしい。それに頷くと、監督生さんが見たいお店はありますかと尋ねられ、実は、とユウは言葉を発した。
「街に降りるのが初めてで、どういったお店があるのか、よくわかってないんですよ。なので、色々な場所を見て回れたらなくらいです。あぁ、でもグリムにいつもとちょっと違うツナ缶を買って帰ってあげたいなーとは計画してます」
だからそれは買いたいですと告げれば、じぃとジェイドの視線が注がれていることに気づき、ユウは僅かに首を傾げた。
「先輩?」
「……いえ、もっと早くお誘いすれば良かったと思いまして。街には月に二回くらいマルシェが開催されているので、またそれにあわせて来ましょうか」
ジェイドの言葉にユウは瞳を一瞬輝かせ、あ、と小さく声を発した。
「何か問題でもありますか?」
「いえ、問題というか、そのっ」
ユウは口をもごもごと動かし、それから深呼吸した。結局ここでは隠してみたところで、結局彼にはすぐにバレてしまうと判断したからだ。
ならば、自ら素直に口にしてしまった方がいい。
「お恥ずかしい話なんですが、生活費にあまり余裕がなくてですね」
視線を下げた足を包むのはくたびれたローファーではなく、この間なんとかマドルを貯めて割引になっていたのを購入したスニーカーだ。
学校に通う以外で持っている唯一の靴。軽くて、色がオレンジで可愛くてお気に入りなのだ。まだまだユウが自分の為に購入したものはあまり多くないので、そういった意味でもこの靴には思い入れがある。それが視界にあるというだけでなんとなく少し力をもらえる気がして、ユウはさっさと本題を口にしてしまうことにした。
「勿論、マルシェに行きたいなとは思うので、こう見て回るだけなのに先輩を何度も付き合わせてしまうのは申し訳ないといいますか……」
言葉を発し終えて視線を上げれば、ジェイドのいつもより深い笑みが視界に広がっていた。
人形のように整った顔に浮かぶ笑みにはやはり迫力がある。という感想を抱くと同時に、ジェイドのこれがいつもの笑顔とほんの少しだけだが違うことを胸の奥底で喜ぶ自分がいることに気づいたユウは僅かに目を見張った。
「監督生さん、モストロ・ラウンジで働きませんか?」
「え、えっと、面接を受けさせていただけるんですか?」
思わぬ突然の提案と、自分の感情の動きに動揺してしまい、声がうわずってしまう。
「えぇ、僕からアズールに話しておきますね。多分、すぐに許可が下りますと思います」
にこりと笑うジェイドの表情を見つめ、少しだけいつもと違う彼の様子にユウは瞳を緩ませる。
「ありがとうございます。正直、自分がアルバイト出来る場所はかなり限られると思うので」
「監督生さんは別の世界から迷い込んでしまったんでしたよね」
ジェイドの言葉の端がほんの少し柔らかい。あぁ、気遣われているんだなとそんなことがわかるようになったのは、多分彼と契約恋人になったからだ。
一緒にいることで様々な情報がユウの中で積み上がっていき、それを少しずつ整理して自分の知識とする。その過程をいつの間にか楽しんでいる自分の心の内を感じながら、ユウは視線を少しあげた。
「そうなんです。あと何故かは不明なんですが、記憶があやふやな部分があるんです。家族がいるということはわかります。他にも一つ上の兄がいて、共学の学校に通っていて、家の前には綺麗に花が咲く場所があって」
ぽつぽつと言葉を落としながら、ユウは目の前に広がる風景を見つめる。店に並べられている野菜、フルーツ、飲料、はたまた何かを編んで作ってある籠とところ狭しと並べられているそれらのことを半分くらいはどういったものか、あるいは使用用途がわかるが、もう半分はわからない。
この世界は実は夢で、自分は長い夢を見ているだけなのでは、と最初はそう考えていた。
けれど一度、二度、三度と朝、目を覚ます度に埃を被った天井を見て、これは現実なのだという諦めがユウの中に根付いていった。そうしている内にひっそりと静かな夜に眠るのが怖くなった。
眠らなければ、朝の柔らかな光の中、絶望せずに済むかもしれないと考えたこともある。
最初はどうなることかと思ったが、なんとか生徒として学校に通うことも許可してもらえた。全く知らない知識を得ることが出来ることは楽しくあったが、魔力なしとユウ自身にはどうにも出来ないことで乱暴な言葉や、時に力をぶつけられたこともある。
行く場所など他にどこにも無いというのに、ここはユウにとっての安息の地ではなかったのだ。
とりあえず生活出来る場所を手に入れることには成功した、しかしユウがずっといていい場所ではないという感覚がずっと抜けずにいる。
「学園長が帰る方法を探してくれてるんです。でも手がかりはまだつかめなくて……」
帰るとも、帰りたいとも、帰れないかもしれないとも言えず、ユウの唇は空気を吐き出すことしか出来なかった。
ジェイドはただ静かに横にいる。それが今のユウにはありがたかった。
エースにも、デュースにも、グリムにも言えない胸の奥底にしまった小さな、鋭い欠片。
優しい彼らに解決の出来ない問題を投げかけて、困らせたくない。きっと優しい友人たちは言葉に詰まるだろう。
だけどジェイドはきっと、ユウの言葉をあの笑顔で聞き流してくれると思ったのだ。
だって彼の中でユウはあくまで『異世界から来た情報提供者』で、それ以上でも、それ以下でもない。
だから今だけ聞いてくれれば良いと考えているユウと、横を歩くジェイドの間に沈黙が落ちる。
周りの人々は活気で満ちているというのに、自分たちを包む空気は暗く、星が見えない夜空のように重たくのしかかっていた。
(こんなところで話すことじゃなかったな)
もっとタイミングをはかるべきだったと後悔するが、つい口から言葉が零れるまま、感情を乗せてしまった。
「ジェイド先輩、突然すみませんでした」
こんな話を突然されてはさすがのジェイドも困っただろうとへらりと笑った後に、ユウは僅かに目を見張った。
ジェイド・リーチは笑っていなかった。
眉間に皺を寄せて、小さく唇を開閉する様は陸で呼吸出来ず苦しむ魚のようだが、何故彼がそんな表情をしているかがユウには理解出来ない。
何もわからないまま、皮膚と肉と骨の下にある心臓の鼓動を聞きながら、自分を見下ろしている色違いの瞳を見つめ返す。
(まさかこんな時に、先輩の笑顔以外の表情を見ることになるなんて思わなかった)
自分の力だけではどうにもならない話なのだ。ならばユウは次善を常に選んで行動する必要がある。だからあの時、ジェイドに契約を迫られた時も、ユウは承諾した。自分がこの世界で少しでも日常を送りやすくする為の手段の一つとしてジェイドの手を取った。
だから周りに脅されたのか、大丈夫かと心配される度、ユウは苦笑するしかなかった。
自分もまた彼を利用しているのだから、お互い様なのだ。その事実に僅かにだが胸の奥が軋む。さらにその下には、淡い色の花弁にも似た感情がずっと、静かに降り積もっている。他の皆に対するもののように、最初は棚にしまっていたけれど、もう気づけば溢れて入りきらなくなって、今ではもう足下すら覆い尽くされてしまった。
はらはらはら、静かに降り積もるそれが止む気配はなくて、ユウはどうしようかと悩む。悩んだところで勿論いい解決方法は見つけられないので、一日、また一日と降り積もるそれらをユウは見る事しかできないのだが。
「……色々と聞かせてくださってありがとうございます」
ジェイドの口から落とされた言葉に、あぁ良かった、これも彼の中では収集した情報の一部として処理されるんだなと思えば、心も少しだけ軽くなる。
「皆には秘密にしてくださいね」
段々と昼が近づいてきたせいか、往来にヒトが増えてきている。ここで立ち止まっては迷惑だろうとユウが歩きだしたところで後ろから声がかけられる。
「ユウさん」
「っ、はい!」
まさか名前を呼ばれるとは思わず、ユウは勢いよく振り返った。
「人が増えてきましたので、良かったら手を……」
貴方は小さいですから見失いそうですので、と告げたジェイドの顔にはいつもと少し違うがそれでも笑顔が戻っていてユウはほうと息をついた。
怖いと思っていたくせに、彼の表情が笑顔であることに安堵するなんてどうにかしている。
矛盾した感情がユウの中で混ざり合って、ぱちぱちと爆ぜている。
(考えちゃだめ)
胸の奥底に息づく何かの存在に気づきたくなくて、ぎゅうと瞼を閉じる。
すると瞼の裏で色違いの瞳が光った気がして、ユウは胸の内に甘ったるく苦い絶望が広がり、足下を浸しているような感覚を抱いたのだった。
***
次の日、早速ジェイドが話をつけておいてくれたアズールの面接を受け、ユウは週二日、モストロ・ラウンジでのアルバイトに入ることになったし、ついでにグリムも厨房での皿洗いをすることになった。
最初はユウ一人のみの予定だったのだが、ジェイドがグリムを見下ろしていたかと思うと、次の瞬間、体育座りのようなポーズになった。ユウは僅かに首を傾げつつも、大きな背中を見守る。一体何が起こるのだろうか。すっかりジェイドが近くにいることに慣れたグリムは二本足で立った状態で、視線が近くなったジェイドを見返している。ぴくぴくと動く耳と尻尾を見るの楽しいですよね、と笑うジェイドの声がユウの頭の中で響いた。
「グリムくん」
「……オレ様は働かないんだゾ」
「モストロ・ラウンジで働けば、買えるツナ缶がさらに増えますよ?」
ジェイドの声は柔らかく、グリムも一応聞くつもりはあるらしい。ぱたりぱたりと尻尾を左右に揺らしながらも、特に口を挟むことなく耳を傾けている。
時折ぴくぴくと動くグリムのそれを見るのが実はジェイドのお気に入りで、最初はグリムがそれをいやがって逃げ回っていたのももう随分と前のことのように感じる。
「いつもよりちょっぴり高級なツナ缶だって数多く食べられますし、ラウンジで働くとまかないも出ますよ」
機嫌のいい時のフロイドやたまーにアズールが作りますが、これがすごく美味しいと評判なんですよと重ねられる言葉に夏の昼空を切り取ったような瞳の視線がうろうろと動き出す。
(あ、揺れ出した)
今、気持ちがぐるぐると揺れ動いているであろうグリムは見事にジェイド先輩の手の上で踊っているなとユウは二人を観察した。
グリムには悪いが自分だけではなく親分も働いてくれるのであれば、負担も少し軽くなるだろうと思うと、ぜひこのまま押し切ってほしい気持ちが大きい。
(先輩何卒お願いします!)
心の中でそう願いながらじっとジェイドの横顔を見ると、彼の視線が動いてにやりと三日月のように目が細まる。おそらくユウの思惑は届いたのだろう。
現状、揺らぎつつもグリムの意識は働くのがめんどくさいというのが強いに違いない。
さて、ここから彼はどのような手段でグリムを説得するのだろうかと見守っていると、時々は僕がドリンクを奢りますよと発された言葉に、ユウは僅かに目を見張る。
さすがにそこまでお世話になるわけにはとユウが立ち上がろうとしたところで、グリムがオレ様もやるんだゾ! と尻尾をぴんと伸ばして、ジェイドの手を取った。
アズールに契約書を用意してもらいましょうねというジェイドの言葉に返事をしてグリムが部屋から去って行くのをユウは見送り、彼へと振り返った。
「ジェイド先輩、グリムのドリンク代は、自分が払います」
「おや、大丈夫ですよ」
ジェイドがにこにこと笑うので、ユウはふるりと首を左右に振った。
「そんなわけにはいきません。だって、」
「貰いすぎというのではあれば、これもまかないの一部だと思っていただいて結構です」
投げかけられた言葉に、ユウは唇を僅かに尖らせる。柔らかく、自分の選択肢を奪う彼の手段はわかっていた筈なのに、またも絡め取られてしまった。
「……やっぱり釣り合わないと思うんですよね」
「おや、強情ですね」
僅かに目を見張った後に笑いだすその声の軽さになんだかふわふわと心が浮ついている感じがする。
良くない傾向だと、頭の奥底で囁く声が聞こえるけれど、それを遮るようにユウは言葉を発した。
「先輩相手に貰いすぎって状態が怖いんです」
「監督生さんも結構すっぱりと言いますよね。でも本当にお気になさらず」
なんとか彼から主導権を奪い返そうとしたが、結局笑顔で押し切られてしまった。掴んだところでするりと見事に腕の中から抜け出されてしまい、もうこの話はおしまいですとばかりのとどめの笑顔を向けられてしまった。
それでは来週からはお二人ともどうぞよろしくお願いしますね、と微笑むジェイドの姿勢は今日もぴんと真っ直ぐだ。これ以上の問答は無駄と判断したユウもまたよろしくお願いしますと頭を下げたのだった。
***
深海の紳士の社交場で働き始めて一ヶ月が経ち、ほんの少しずつだが、仕事にも慣れてきたかなと頭の中で思い浮かべながらユウはふぅとため息をはいた。
飲食店で働くのが初めてだったことと、これまでの日常活の上にアルバイトを増やしたばかりの頃はさすがに毎日疲れすぎて、すぐに帰ったら寝てしまうを繰り返してしまった。
ジェイドとのお茶会は基本的に金曜または土曜だったのでなんとかこなせていたが、その時間以外は溜めてしまった掃除や洗濯、それから課題をこなすのに必死だった。
モストロ・ラウンジでは接客方法や厨房で働く時の注意点、器具の使用方法、食品等に関しても丁寧に教えてもらえたし、先輩たちや同僚も厳しいと同時に優しく対応してくれるので、皆に迷惑かけないように頑張ろうとユウは心の中で決意した。
しかもアルバイト先で知り合った同学年の別クラスのヒトやこれまで殆ど関わりのなかった先輩たちも、ジェイドやフロイド、アズールのように学内で声をかけてくれるようになったのだ。部活に入っていないユウにとって知り合いが増える機会というのは殆ど存在しないので、こういった環境の変化はほんの少しくすぐったく、しかし嬉しくもあった。
それと同時に前から胸の中で小さく疑問として存在していたことがある。
ジェイドと契約恋人になり話す機会が増えるにつれ、ユウが名前も知らぬ生徒に絡まれることがほんの少しずつだが減っていったのだ。エースやデュース、他の友人たち、それにハーツラビュルの先輩たちが何かと気にかけてくれていたが、それでもユウが悪意に晒されたのは一度や二度ではない。勿論、この学校に来た時よりも回数は減っていたが、これはもう自分がこの学園を去るまである程度自衛しないといけないな、とユウは冷静に受け止め分析していた。
友人たちも完全に守ることが出来ないからせめて、と防犯グッズをいくつも与えてくれていた。
しかしジェイドと話すようになって、最初は、あれ? と意識の端に引っかかる程度のことだった。いつもなら皆と一緒に教室移動をするのだが、その日は移動先の教室についてからユウが忘れ物に気づいたのだった。慌てて教室を出ようとした時にデュースが一緒に行くぞと言ってくれたのだが、授業が始まるギリギリまでに戻ってこられるかどうか、というような時間で大丈夫、ありがとう! と答えてユウは一人廊下に出た。
廊下の両脇に並ぶ教室の扉はぴっちりと閉められており、しんとしている。
(せめてグリムについてきてもらえばよかった)
これまでの経験上、こういった場所で絡まれることが多かったからだ。しかし提出課題を置いてきてしまったからには取ってこないといけない。身体を少し固くしながらユウは本当はいけないとわかりつつも、廊下を走り出した。
目的の物を取り、慌てて移動先の教室に滑り込めば、三十秒程経って担当教員が教室へとやってきた。
「良かったな、監督生。間に合って」
デュースの言葉にぱちぱちと瞬きをしてからユウはこくりと頷いた。今日は運の良い日だな、と思ってその時はそれで終わったのだが、それから意識してみるとやはり絡まれることが随分と減ったことに気づいてユウはほっと安堵の息をはいた。
そう、ジェイドと契約してから目に見えて絡まれていたことが減り、そうしてアルバイトを初めてからは一度も絡まれることがなくなった。
(まかないも出るし、お給料も出るし、本当に嬉しい)
心の中で届かない感謝を捧げていたユウの耳に、変なところで真面目だよな、監督生はさ、と笑うエースの声が届く。沈んでいた意識を戻すと、そこそこやればそれで良いじゃんとエースが言葉を続けるものだから、でもとユウは言葉が重ねた。
そんなに器用じゃないから気合いいれて頑張らないと、と返せば、デュースが、僕もそれでいいと思うぞと頷いてくれたので、味方を得たユウは大きく頷いた後に笑った。
「あー、はいはい。お前らほっんとう真面目すぎない?」
「エースは器用だからさ、なんでもすぐこなせてすごいよね。羨ましいし同時に尊敬してる」
思ったことをそのまま口にすれば、エースが眉間に皺を寄せた状態で、唇を真一文字に結んだかと思うと、はぁ、とため息をこぼす。
「んなマジレス求めてないっつうの」
「……もしや照れてる?」
「そうなのか、エース」
尋ねれば、あーお前ら、ほんとそういうところがさぁ、とエースが頬を僅かに染めて視線を逸らすものだから、ユウとデュースは視線を合わせた後ににんまりと口元に笑みを浮かべた。
やっぱり彼らと一緒にいるのは楽しいと頭に浮かぶと同時に思い起こすのは笑顔が怖いと思っていたあのヒトのことで、最近は一緒にいなくとも、ふ、とした時にジェイドのことを考えてしまっているな、とユウは苦笑を静かに落としたのだった。
アルバイトを終え、本日のまかないとして海老とポテトのバジルパスタ、それにパイナップルトロピカルティーが出された。パスタソースと絡めてあるごろごろと大きな具材を一つ一つ噛みしめて幸せに浸る。自分の横に座るジェイドの皿にはどう考えても三倍程の量のパスタがのっているが、それがあっという間に消え去っていくのはどう考えてもマジックのようだな、とユウは小さく笑みを浮かべてしまう。
最後に、パイナップルとソーダ、さらにミントが混じり合った爽やかなお茶を味わって、挨拶をしてグリムと一緒に寮へと戻る。
早くシャワーを浴びてしまわないと今にも眠ってしまいそうなグリムを小脇に抱えてバスルームへと急ぐ。ジェイドからプレゼントとしてもらった海の香りのシャンプーとリンス、ボディソープを使い素早く疲れと汚れを洗い流す。
グリムの毛並みを旧式のドライヤーで乾かし、ふわふわになったことを確認して彼をベッドへと寝かせる。すでに夢の中なグリムの小さな寝息を聞きながら、ユウもまたベッドへと身体を滑り込ませた。
ルームランプの灯りを落として、ユウはベッドの中で身体を僅かに丸めた。
身体にじわじわと疲れが巡り始めて、瞼が重くなる。
そんな中、今日も大盛りパスタをいつもの笑顔よりさらに少し輝かせながら食べていたジェイドを思い返して、ユウは小さく口元を緩めた。
最初は恐怖よりも利益を取って契約で恋人になった。彼に怖いところがあること、いや、怖さで彼が構成されていることは間違いない。だけど年齢相応なところがあると知ってしまった。
(とは言っても、まだまだ知らないところたくさんあるんだろうけど)
現状、自分とジェイドの恋人期間は終わりが決まっていない。
怖さに身体が飛び跳ねることも段々と減ってきて、もう少し先輩について知りたいとそう思ったところでユウは僅かに目を見張った。
自分の中に降り積もっている淡い感情は気づけば足首どころかもっと高く降り積もってしまっている。心臓の辺りに服の上から触れて、薄く長く息を吐き出す。
(ばかだなぁ)
ただ、怖い先輩だと思っていられれば良かった。
興味のあるものにはとことん向き合う。色々なことをそつなくこなせて、怖いところもあって、でも綺麗なところもあったりして、それでいて面白くて自分と一つしか歳が変わらない。可愛いヒトだと自らの中に降り積もったそれをかき集めて言葉にのせたらそうなってしまった。
「ばかだなぁ」
頭の中を占めている言葉を今度は口に出してみる。
溶け出た息に滲む感情にははっきりと色がのっていた。
ジェイド・リーチにとってユウはあくまで『異世界からやってきた』ということが大事なのであってそれ以上でも、それ以下でもない。
変な期待をしてはいけない。わかっていたし、こんな感情を自分が抱く日が来るなんて夢にも思っていなかった。
海の強者で、でも地上を歩く姿勢が美しいヒト。それだけで、この感情が変化する日がくるなんて、夢にも思っていなかった。
「……ばか」
さらにもう一度呟いて、ユウはそっと薄い毛布を頭から被った。
安らかに眠るグリムの寝息が耳元をくすぐる。
小さな声が遠くから聞こえるが、おそらくゴーストのおじ様方がパーティーでも開いているのだろう。
今のオンボロ寮のそこかしこにはユウにとって大切な気配がつまっている。
(長い夢であったらと思っていた筈なのにな)
怖くて、寂しくて、膝を抱えて眠る日もあった。ボロボロのカーテンの隙間から入り込む月の光を恨めしく思ったこともある。
朝を迎える度に、あぁ、まだ目が覚めないんだと矛盾したことを考えたことも一度や二度ではない。
寂しさが色濃く出る夜を数えて、朝が来る度に絶望して、それでも心が折れるのだけは絶対にいやで、そうやって日々を過ごしてきた。
あっという間に過ぎていく日々になんとか追いつくだけで精一杯で、この生活は変わらないとそう思っていたのに。
昼の海と月と落ち着いた若葉の色。それがユウの思考をさらっていく。
グリムのことも、友人や先輩たちも大切で、でもそれとは違う感情が自分の中にあると意識してしまったらもうダメだった。
自覚したところで、勿論、自分たちの関係は変わらない。いやこの自覚した感情を口にした瞬間に全てが終わってしまう可能性だってある。
いつもと同じ笑顔ではないそれを向けてもらえるようになったことは嬉しい。だけれど、ただそれだけなのだ。
勘違いしてはいけない。
想うことは自由な筈だからと、瞼を閉じて思考を無理矢理切ってしまう。
どくどくと心臓が大きく音を立てている。耳の先が熱くて、はふ、と口から小さく息をもらした。 毛布に閉ざされた自分だけの世界で、ユウはひっそりと息をこぼす。
ユウの方からジェイドの側を離れるという選択肢は選べないだろうな、と瞼を閉じて考える。
(誰かを好きになって、こんなに苦しく思う日がくるなんて……)
ユウはこの世界の人間ではないし、ジェイド・リーチというヒトは人間ではない。何もかもが違う二人のちぐはぐな、いつまで続くかわからない関係だ。
現状、ユウはジェイドに情報提供を行っているが、話せることも決して多くはない。お話会を重ねていく度に、記憶の穴抜けの部分がはっきりとしていくが、それを抜きにしても元々の自らの知識量があまり多くなかったのだな、とユウは冷静に考えていた。
だけど仕方のないことだろう。退屈な日常が何度も繰り返されるのが当たり前だと思っていた。だからそれが唐突に崩れ去ってしまう日が来るなんて、欠片も考えていなかった。
自分の無意識を、常識を形作るものがこの世界では異質で、それを一つずつ口にすることになると誰が考えつくだろうか。それに今更過去を嘆いたところで何も変わらず、だからユウは、日々少しずつ知識を切ってはジェイドへと与えていた。
少しずつ減っていくそれと比例するように、重なり合い増えていく叶うことのない感情をどうするのが正解なのか、ユウにもわからない。
それでもいずれ、死に絶える感情だとわかりきっているので、ほんの少しだけ終わりを遠ざけたいと考えながら、ユウはゆるりと眠りに身をまかせたのだった。
***
アルバイトにもすっかり慣れてきて時々レジ締め作業までまかされるようになり、その日のまかないが何かを働きながら予想出来る程度には心の余裕が出来てきた。
今日のまかないはタマネギとベーコン、ズッキーニにパプリカと色鮮やかなトマトパスタと、かぼちゃのポタージュ、それとカットフルーツの残りを乗せたフルーツティー。今日のフロイドの機嫌は、ユウがアルバイトに入った時にはすでに最高潮で、キッチンからは彼の鼻歌が時折、近くを通ったユウの耳に優しく触れる程だった。だからメニューとして出された料理の評判もいつもより良く、まかないで使用されているトマトソースの味も太めのパスタに絡んで全体を引き立てていて最高だった。おなかいっぱい、何ならはち切れんばかりに食べたのに、もっと食べておけば良かったと思う程には美味しかったと思いつつ帰宅しようとした瞬間のことだった。
「お疲れ様でした。すみません、帰る前に。よければ今月末、少し遠出をしませんか?」
相変わらず、ジェイドとユウの契約恋人として過ごす日々は続いてしまっている。結局ユウは自分からはこの関係を手放せない。時折ギシリと心が悲鳴をあげるが、それに気づかないふりをしてユウは視線を落とす。足下にある靴は、高くはないけれど、新調してつるりと綺麗なつま先のローファーだ。これは初めて出たアルバイト代で買い換えたもので、ユウの日常は少しずつ変質していて、そのあちこちにジェイドの気配がある。そのことに気づきながらも、ユウはジェイドの問いかけに少しばかり考えるような素振りをした。
答えは決まりきっていたがすぐに返事をしなかったのは、この聡いヒトに少しでも自分の感情を隠しておきたいからだ。
彼にとってユウは知識欲を満たしてくれる、それなりに良い契約相手だが、それだけの存在だろう。この世界のどこにも何の記録もない知識を持つ喋る機械くらいに考えているかもしれない。
いつかユウの感情に気づかれてしまう日はくるだろう。そしてその瞬間がきっとこの関係の終わりで、だからこそ少しでもそれを引き延ばしたい。
(とは言っても、多分、長くてあと一年くらいかな)
ナイトレイブンカレッジに所属する生徒は、四年になると研修の為に校外で活動するようになるらしい。そうすれば自然と二人のお話会は出来なくなるだろう。
そうなればジェイドにとって、ユウと契約恋人関係である必要性は皆無となって、そこでおしまい。長いようで、きっとあっという間に来てしまう終わりの瞬間だ。
だからこそ、あと少しと願わずにはいられない。
心が沈んだ時、ジェイドとの時間を思い出すときらきらしたもので胸が満たされる。勿論、彼が優しいだけのヒトではないことはユウも自ら体験しているので理解しているが、彼が自分に向ける視線全てが嘘ではないことも感じていた。
「……、予定は大丈夫ですけど、何かありましたっけ?」
パキン、パキリ。
まるで硝子が砕けるような、そんな音が自らの心臓から聞こえると思いながら、ユウはジェイドとの時間を過ごす。この音を聞き続けていたら、一体どうなるのだろうか。砕け散れば、この感情を無かったことに出来るのかと一瞬考えて、ユウは苦笑する。
そんな簡単になかったことにできるのであれば、今、こんなに苦しんではいなかっただろう。
ひらり、ひらり、胸の内に舞い散っている感情で、もう足下が見えない。重なり合っている花弁のような感情は、ある意味、海にも似ていて溺れてしまいそうだ。
「実は仕入れの関係で、珊瑚の国に行く用事がありまして。監督生さんはあまり海に行く機会もないと思いますし、一緒にいかがでしょうか?」
ジェイドの言葉に僅かに目を見張って、ユウはうみ、とぽつりと呟く。アズールのオーバーブロットの事件以来、海に行くようなことはなかったし、現状一年の授業のカリキュラムも海で行われるものもない。
ユウの世界とは全く異なる世界が広がっていて、それをまた見にいけると考えると気持ちが少しばかり浮き足立つし、ジェイドが気にかけてくれたということも嬉しい。
「一緒に行ってもいいんですか? あ、でも対価……」
自分が海に潜る以上、水の中で呼吸が可能になる魔法薬の服用が必須となる。だが今の自分に対価となるような物を用意出来るだろうかと腕を組んで唸っていると、ジェイドがくすくすと軽やかな笑い声を発した。
「先輩?」
「実は僕、海に行く前日に山に登って色々取ってくる予定なんです。それを一緒に調理して食べてくださると嬉しいのですが、これが対価でいかがでしょうか?」
僅かに首を傾げて問いかけてくる彼のつけているピアスがしゃらりと涼やかな音を立てる。
(本当にずるいヒトだなぁ)
対価だなんていうが、結局それだってユウにとっては貴重で美味しい食事でプラスにしかならない。
だからこそ対価とならない。それは彼の方がよっぽどわかっているだろうに、それでもジェイドはこの条件を提示してきた。
そういうところが本当にずるくて、ユウは少しずつ足を絡め取られて、海の深い底に手招きされているような気持ちになる。
ジェイドにはそんな気持ち一ミリもないだろうに、ユウが勝手に深みにハマってしまっている。
けれど共にいられる時間は有限で、終わりは遠くはない。だから少しでも多くの思い出を重ねたくて、ユウは今日もまた美しい人魚の手を取ってしまうのだ。
一日、一日が過ぎていくのはあっという間なのに、一週間が経つのは中々に長くて落ち着かない。エースとデュースにはせめて移動中には転ばないでくれと言われるし、ジャックにはお前いつも以上にふわふわしてるな、と、エペルには苦笑されてヴィルサンに見つからないようにと忠告され、セベクには人間、たるんでいるぞ! と活を入れられてしまった。
せめて課題はちゃんとやらないとと頬を軽く両手で叩き、ユウはグリムと一緒に提出課題を終わらせた。その他にも当然アルバイトはあるので、些細なミスもしないようにとずっと緊張していたせいか、働き出してすぐのような疲労感が身体に溜まってしまった。
日々をそうやってなんとかこなし、とうとう訪れた月末の約束の日。
鏡の前で差し出された薬を飲み干し、ユウは眉間に皺を寄せて、舌をべぇと出した。喉を落ちていった苦さに、うぇとあまり綺麗ではない声が出てしまった。その味だけはどうにも変えられないようなんですよと苦笑しつつもジェイドは当たり前のようにユウの右手をとった。
そのまま光る鏡をざぶりとくぐれば、自分の口からは大小大きさの違う水泡が漏れて水面に向けて浮き上がっていく。ジェイドは、ユウが視界を取り戻す頃にはすでに元の人魚の姿に戻っていたので、ユウは思わず見つめてしまう。
「監督生さん?」
じろじろと見過ぎてしまったかと思った時には繋いでいた指先を引かれ、彼の尾鰭に背を押されて距離が近くなる。
少し薄暗い水中で、ジェイドの身体が薄く光るさまも幻想的でユウはほぅと息をついてしまう。すると色違いの瞳を持った彼の表情が笑顔に染まる。
まずいと思った時には右手だけではなく、左手も絡め取られてしまった。
「聞いていらっしゃいますか? 海の中でそのようにぼんやりしてしまっているとあっという間にぱくりですよ」
「は、はひっ」
ぴんと背筋を伸ばして答えれば、その跳ね方、本当にエビのようですねと笑うジェイドの手の中に、自分の手は捕らわれたままだ。ジェイドは学園ではいつも指定の黒の手袋を着用しているのでヒト型の時とは少し違うけれど、手を見れるのが新鮮でつい見てしまう。
頭上からごぼりと泡が生まれる音が一つ。それと同時にジェイドの手がユウの手から離れていき、あれ、と目を丸くして顔を上げれば、ジェイドと視線がぶつかる。
彼はヒトの時よりも鋭い形態のそれを持ち上げて、そして指の腹でユウの頬をつねった。
「ひぇいどせんぱっい?」
突然のジェイドの行動に思考がついていかないが、相変わらず彼の尾鰭の中にいるユウは身動きもとれず、彼の攻撃を甘んじて受け入れる他ない。
むにむにむに、と頬をつまんでは引っぱられということを数度繰り返したかと思うと、ジェイドが小さく笑みを零した。
「……ここは、深く暗い海の底です。お連れしたのは僕ですが、貴方にも警戒心というものを持っていただかないと困ります」
「すみません。気をつけます」
静かに、柔らかく降ってくる声に、ユウはこくりと頷いた。前にも、陸以上に海の中は危険に満ちているということを聞いたことはある。
ユウとて、ジェイドから離れるつもりはないが、それでも警戒心を持たない状態でいるのは危険なのだろう。笑顔が取り払われた彼の表情からそのことを改めて理解し、すみませんともう一度謝罪の言葉を口にした。
「わかってくださればいいのです。さぁ、いきましょうか」
ジェイドの尾鰭の囲いがとけ、ユウは彼に手を引かれつつ足を動かしながら、水の中を移動する。少し泳いでいる内にゆらゆらと揺れる海藻と珊瑚礁の後ろに街が広がり、人魚たちがゆらゆらとすぐ近くを泳ぎながら去って行く。
(やっぱりすごいなぁ)
水底にも街があって、人魚や魚たちの生活が広がっている。地上とは全く異なる、ユウの世界には存在しないそれに、失礼かもしれないと思いつつ、ついきょろきょろと眺めてしまう。
するとジェイドがその度、くぃとユウの右手を軽く引くものだから、ごめんなさいと答えて前を向く。自分の手を取って進むジェイドが泳ぐ度に、彼の身体の表面に光を反射して、輝いて、ユウの視線を奪う。
あぁ、この瞬間をいつまでも忘れたくないと願いながら、ユウはゆらゆらと水の中を進んでいた。
ジェイドが元々訪れる予定だった店での手続きはあっという間に終わってしまった。まさかこんなに早く終わるとは予想していなかったユウがぱちぱちと瞬きをしていると、ジェイドが振り返り笑う。
「さて、どこに行きたいですか、監督生さん」
どこでもいいですよ、具体的な場所でなくてもこういう物が見たいとかそれでも平気なので、と言ったところでぐぅと大きな音がユウの耳に届いた。
一秒、二秒と経って、ジェイドの頬がじわりと赤く染まる。
「先輩、まずごはんを食べましょう?」
そういえば海の中では基本生食なんだっけと思いつつ提案すれば、彼の尻尾の先が小さく左右に揺れている。ジェイドと視線が絡まる。
「……お恥ずかしい限りです」
「いいじゃないですか。先輩いつも美味しそうに食べているので、見てるの楽しいですよ」
思ったままに口にすれば、僅かにぽかんと口を開けた状態で目を丸くしているジェイドがいる。そんなに驚くことだろうかと疑問に思いつつ、ユウは言葉を重ねた。
「あと、先輩がキノコのこと話している姿見るのも楽しいですよ、本当に好きなんだなってのが伝わってくるので」
なんでも出来るスーパー秘書で、常に少しばかり怖い笑顔をぴったりと貼り付けて笑むジェイド・リーチは自分にとって得体の知れないヒトだったけれど、静かに降り積もっている感情がある。そしてそれは静かに色づいて、胸の内に咲いている。
もう、これは止まらない。咲いて、そして、腐り落ちるのを待つばかりだ。
(告白みたいにならないように気をつけないと)
口から吐き出す言葉は真実であっても全てを口にしないようにと、ユウは言葉を選択する。
好きでいたいけれどこれは自分の中で咲いてくれていればいいもので、彼に伝わってほしいわけではないのだ。
「……ありがとうございます。キノコのこと邪険にしないでいてくれるの、もう監督生さんくらいなんですよ」
アズールもフロイドも全然聞いてくれませんと唇を尖らせるジェイドに、ユウは言葉を渡す。
「もしかしなくても、新しいキノコを見つけた時にずっと先輩たちに語り聞かせたりしたでしょう?」
しかも一時間や二時間レベルじゃない感じでと付け加えれば、ことりとジェイドが首を傾げている。
「どうしてわかるんですか?」
「うーん、今までの先輩の行動から考えてみてですかね?」
多分、フロイドたちが拒否の姿勢を見せても、ジェイドがおかまいなしに話して、最後には喧嘩にでもなっていたんじゃないですかと予想を口にすれば、監督生さん実は魔法を使っていませんか? とジェイドがいうものだからユウはくふくふと笑う。
「実は使えるかもしれません」
「そうですね、新しい発見です」
二人で顔を見合わせて笑いながら、ジェイドに案内された店でマリネやカルパッチョを食べる。
「やっぱり生食なんですね」
どれも美味しいがやはり火を使った料理はないのだなと思いつつ、口へと運ぶ。
「えぇ、海の中で火を使った料理を作るには特別な設備が必要で、かなりの費用がかかります。なので、こういった街中で学生が食べられる店となると生魚がメインですね」
お嫌いですか? と聞かれてユウはふるりと首を左右に振った。
「自分の元いた場所では生魚って結構食べてて好きだったんですけど、買おうと思うと高いじゃないですか」
試しにミステリーショップでサムに聞いてみれば、あるというが、それなりの値段だったのでお財布と相談して諦めたのだ。人とは不思議な生き物で軽い気持ちで聞いてダメだと言われてしまうと何故だかさらに食べたくなってしまうのだ。
「サムさんに聞いた時は予算オーバーだったんです」
買ったところで捌けないことに後で気づいたので、買えなくてある意味正解だったんですけどと言葉を繋げば、ジェイドが尾をゆらゆらとかすかに動かしてみせた。
「次からは僕に言ってくださいね、とっておきの魚を使った食事を提供しますから」
「じゃあ、新しいキノコ料理のメニューを増やしておくので、それでいかがでしょう?」
ユウの言葉にジェイドの笑みが深まる。
「それは素敵な提案ですね、デザートもおまけします」
そんな軽口を叩きながら、レストランを後にした二人は街の中を見て回る。
海に来ることは前からわかっていたのだから、もう少しちゃんと調べてからくればよかったと後悔したが、すぐに今日を迎えるまでの自分の状態を思い返してみて、無理だった気がすると納得する。
中央通りに位置する目の前の通りには岩場で区切られた店がずらりと並んでいる。前に街で見たマルシェと似た雰囲気だが、並べられている食料、日用品、装飾品等はやはり地上のそれと異なる品揃えで、それぞれに存在を主張している。
いくつもの店を見ている中で菓子専門店を訪れたユウは、ぎゅうぎゅうにキャンディの詰まった硝子瓶を一つ購入した。拳二つ分程の大きさのそれは珊瑚の海限定の味も二種類ほど入っていてさらには季節限定商品とまで聞いて、つい誘惑に負けてしまった。ジェイドも食べたことがあると聞いたのも大きかった。おすすめはマスカットレモン味らしいと聞いたユウはにこりと微笑んだ。キャンディとグリムへのおすすめであるチョコレートもいくつか一緒に買ってオンボロ寮に届くように手続きをした。
店を後にし、再び移動している内にユウは足下の水を蹴っていた足を止めた。
きらきらと輝くそれは現状ユウの生活の中でおそらく一番必要のないものだ。そう頭では理解しつつも、つい宝飾品を扱った店の前で止まり、つい机の上をのぞき込んでしまう。
(綺麗だなぁ)
真珠や貝殻に鉱石の合わさったそれが光を受けて静かに輝いている。
「何か、気に入ったものがありましたか?」
いつの間にか背後にいたジェイドに、ユウの背筋はぴしりと伸びてしまう。まさにデザインも色合いも可愛くていいなと思ったバレッタを見てしまっていたのだが、この学校での自分の性別は男な上に髪も短い。
綺麗で珍しいものがいっぱいあるなって思ってと、そこまで言ったところでユウは、あ、と小さく声を発して横にいる美しい人魚を見た。
「……いりませんよ?」
かなり自意識過剰な台詞が零れ落ちてしまったとユウは自分の耳の先がじわりと熱を発しているなと感じながら、それでもジェイドの色違いの瞳をじっと見上げた。背後にいるジェイドの尾鰭がいつの間にかユウの足下に横たわっていて、なんとなく腕も使って水中に浮く。
前にプレゼントの山を渡してこようとしたのを断って以来、時折何か言いたげな瞳でじっとユウを見つめていることもあるが、これまで気づいていないふりをしてきた。
ジェイド・リーチは一つ許せば、なんだかんだ理由をつけて十は許されたと解釈するようなヒトだから、極力、意味を拡大解釈出来ないような言葉選びをするようにしている。
多分ユウが気になったと言えば、彼はそれを渡してもいいと言われたとの判断を下してしまう。それゆえの先手だったのだが、言った後に段々と恥ずかしい気がしてくるのは仕方のないことだろう。
「……、プレゼントの一つくらい良いじゃありませんか」
「いやいや、常に随分といただいてしまっているので」
それに、どれもこれも高価なものばかりじゃないですかとユウは値札を見て首を振る。
学生の、しかも本物ではない恋人に送るようなものではない。ジェイドもわかっているだろう、その証拠に一度そう返せば、それ以上踏み込んでこないのだ。
やはり自分はあくまで『異世界からやってきた人間』以上でも以下でもないのだということが胸の奥底に焼け付く。ふ、とした時に思い知る事実に傷つく資格はないと理解しつつも、心の柔らかいところに刺さった破片が抜けない。あくまでこれまで通りのやりとりを心がけながらも、ユウは小さく息をこぼした。
ジェイドがユウにプレゼントを渡そうと思ったあの頃と違って、正直に言えば、彼から何かを受け取るという行為に当時のような怯えはない。だけど当時はなかった感情が今のユウの中には生まれてしまった。
(プレゼントなんてもらったら手放せなくなりそうだし)
食品と日用のこまごましたもの以外の、高価なプレゼントの類は一つ受け取ってしまえば、もう次からジェイドの差し出すそれを断りきれない気がする。
「……珊瑚の海の装飾品はとても綺麗ですね、見れて満足です」
先輩、ありがとうございましたと告げて、店の前を離れようとしたところで、ユウは腹の辺りを優しく、けれど有無を言わせないような力でひっぱられた。
「せ、先輩?」
「ユウさん、こちらへ」
彼に促されるままに、大通りを少し離れた岩場へと座る。周りに人魚はあまりおらず、一体自分はどうなるのかと首を傾げつつも、ここは海で自分に出来ることは決して多くはないのだという思考に辿り着いたユウは身体から力を抜いた。
すると、ジェイドが僅かに目を見張ったかと思うと、何故かいつもより嬉しそうな笑みを浮かべる。一体、何が彼のお気に召したのかはユウもわからないが、そのまま彼の言葉を待つことにした。
座っているユウと岩場の周りをジェイドの身体が取り囲むような形になる。
「……僕が言うのもどうかと思うのですが怖くはないのですか?」
力を込めたらあっという間に、とそこでジェイドが言葉を切るものだからユウは僅かに首を傾げて自分から問いかけることにした。
「そんな瞬間はいつだって、自分の隣にあるじゃないですか」
考えていることを素直に口にすれば、ジェイドの色合いの異なる瞳がとても大きく見開かれて、ユウはそれを良く磨かれたコインのようで美しいなと思いつつ見つめ続けた。
***
ユウの言葉に、ジェイドは全身を強く殴られたような衝撃を受けて、一瞬呼吸を止めた。
契約恋人関係に収まった頃よりジェイドの差し入れを食べる、あるいは自らモストロ・ラウンジで定期的に働くことによって得た収入とまかないで食生活も潤ったのか、細い小枝のようなユウの身体も多少はマシになった。とは言え、マシになっただけで、周りに比べれば彼の身体はまだまだ細く、最近ジェイドは少しばかり不安を感じている。しかし前に手を取った時、骨と皮しかないのではと思った彼の手は触ってみれば想像以上に滑らかで柔らかかったのでそのことには少し驚いた。
それでもやはりユウが友人たちと並ぶとやはり簡単に折れそうに見えてしまう。その為、まだまだ栄養価の高いものを食べさせねばと考えていることは彼には秘密だ。
そんな計画を一瞬で頭の中で組み立てたジェイドは視線をユウへと向けた。今の彼はジェイドの尾鰭の中に囲われても逃げたり、あるいは少し前の時のように身体を強張らせて視線を外すこともなく、身体から力を抜いてこちらを見ている。
海でそれはどうなのだと説教じみた言葉が脳内を占めるが、同時に背鰭の辺りをぞわぞわと駆け巡るものがある。
カラメルのように甘くて苦くてどろりとした感情の名前をジェイドは自分の中にある知識の内から探してみるが、うまく拾えない。だけど今すぐにこの状況を見せて、説明して大切な片割れに聞いてほしいとそんなことを考える。
ユウのこの状態はおそらくは海の中という相手のテリトリーの中で逃げても無意味だという諦めからくるものだろうが、それでもジェイドにとってはなんだか胸の奥底がほわりと暖かいもので満たされる。冷たい深海にはない暖かさに戸惑いつつもジェイドは思考を切り替えることにした。
ここにユウを座らせたことには勿論、意味がある。
「ユウさん」
彼の名前を呼べば、まるい瞳がジェイドを映し、ことりと細い首を横に傾げられる。
尾鰭に触れて一つ、二つ、三つと鱗の形を確かめ、少しばかり力をこめた。するとぱきん、ぱきんと硬質な音がして、自らの手の中にはきらきらと輝くターコイズがある。それらに指で触れて硬度を確認し、ジェイドは笑みを深めた。
少しばかり下げていた視線をあげれば、まん丸に見開かれた瞳と視線がぶつかる。
唇を開こうとしたところで、ユウの小さな手がジェイドの尾鰭に向けて伸ばされた。
鱗を自分で取らせた方が、珍しい経験になって良かっただろうかと気づいたジェイドがユウさん、自分で取ります? と聞こうとしたところで、切羽詰まったような声が耳に届いた。
「先輩、突然どうしたんですか! 血とか出ないんですかっ」
「あぁ、大丈夫です。それよりウツボの人魚の鱗はなかなかに珍しいものなんですよ」
ジェイは手を伸ばして、ユウの手を掴みそれを渡そうとするが、彼の小さな手は閉じられている。
「ユウさん、ダメですか?」
自分の鱗はそれなりに美しいという自負があっただけに彼の拒絶反応が想定よりも強くて、ジェイドは少し俯く。胸の奥に黒い染みがじわりと広がるような感覚に、ユウといると自分の感情の振れ幅を上手くコントロール出来ないな、とそう感じてしまう。
「……、ジェイド先輩、それは本当に痛くないんですか?」
「はいっ! 鱗のみを取ってますので、大丈夫です」
こくこくと慌てて頷けば上目遣いの瞳がじぃと注がれて、ぷくりと頬が膨らむ。いつもより少し幼いその動作がなんだか面白くて、ジェイドは彼と視線を合わせてどきどきと鼓動を早くしながら、続きの言葉を待つ。
「もう、プレゼントはダメって言ったじゃないですか。返せるものがありません」
少し悲しげな表情で呟いた彼の様子にジェイドは首を左右に振った。
「……プレゼントではないです」
そうこれはプレゼントでは決してない。不思議そうな顔をして僅かに首を傾げるユウを映しつつ、ジェイドは言葉を告げる。
「僕のつけているピアス、これはチョウザメの人魚と戦って勝った証しとして手に入れたものです」
突然告げたジェイドの目の前で疑問を解消出来ないのであろうユウがえっと、と小さく声を発した。
ジェイドの笑顔が取り払われた顔を見つめ、ユウはこくりと息を呑んだ。
彼のつけているピアスが、勝利の証しであるものだということは前に上機嫌なフロイドに聞いたことがある気がしたが、それと今目の前で起こっている状況が結びつかない。
ジェイドはフロイドとまた違った意味で思考が読めないところがある。
多分、フロイドよりも目の前にいる彼の方が、人魚の価値観が強く出ているのだろう。だからちゃんと彼の言葉の意図を確認しないといけない。まずは目の前にある尾鰭から鱗を剥がした時の痛みはないということを確認出来たので安堵した。
正直に言えば、彼の差し出す鱗はジェイドの髪のように昼間の海を映す様が綺麗で見惚れてしまう。
名前を呼ばれ、鱗から再びジェイドへと視線を戻せば、彼がゆっくりと唇を開いた。
「貴方は僕たちを負かした、だからこれをお渡ししたいのです」
水かきのある大きな手が伸びてきて、ユウの拳をゆっくりと開いていく。とっさに手に力を込めたが、ユウの小さな抵抗はあっという間に敗北してしまう。あと純粋に驚きすぎて、手から意識が外れてしまったのも敗因かもしれない。
「……、えっと、自分にはジェイド先輩に勝ったことなんて無いですよ?」
そう、まず前提条件がおかしすぎて展開についていけない。
このヒトは陸でも、海でも自分なんかより遙かに強い。ジェイドに勝った記憶なんてないし、これからもそんな予定はない。
思わず岩場から腰を浮かし、自由な方の手をジェイドの額に当てると彼の瞳が上目遣いのようになった。
「これはどういう意味があるのでしょう?」
「え、なんかジェイド先輩体調が悪いのかと思って」
額に手を当てて熱を測ることがあるんですけど、とユウは言ってからふにゃと笑う。
「水の中にいるせいか、ちょっとよくわかりませんでした」
服薬した薬のおかげか水温の冷たさに身体がダメージを受けることはないが、その分、感覚が少し遠いとでも言えばよいのだろうか。ジェイドが元の姿に戻っているので、人魚の体温が低いといった要素もあるのかもしれないが、ジェイドの熱が高いかどうか、ユウには判別がつかなかった。
目の前にいる彼のターコイズの美しい身体がユウの足下に横たわっている。
(世界が違うんだよね)
改めて目の前に突きつけられた事実に、じくりと心が泣き始める。もう何度も、何度も思い知らされたことだというのに、また心が小さく悲鳴をあげるが、今は聞くべき言葉がある、とジェイドの言葉に意識を戻した。
「ねぇ、ユウさん」
「はい」
「オンボロ寮の権利を手に入れることが出来るとあの時疑っていませんでした。アズールも、フロイドも、勿論僕も。でも貴方は無事、オンボロ寮を取り返した」
「自分の力ではないですよ」
そう、それは違う。これだけは訂正しないといけないと判断したユウは唇を開いた。
いつだってユウ自身に力はなくて、誰かの力を借りてなんとかその場を凌いでいるだけだ。 だけど、それを聞いたジェイドがくすくすと笑い出すものだから、何故笑うのだろうと疑問が頭の中に浮かんで弾ける。
「あの学校で、誰かの力を借り続けることが出来るということはそれこそ力なんですよ」
「……そんなことないと思いますが」
否定の言葉はジェイドに綺麗にスルーされてしまい、なんだか釈然としないがこれ以上押し問答を続けても、きっとジェイドも自分も答えは変わらない。
ならば、と彼の言葉の続きを促すことにした。するとジェイドもユウの言いたいことを汲み取って再び少し低いなめらかな声で喋り出した。
「策略を打ち破り、僕たちの攻撃もかいくぐり、そしてアズールのオーバーブロットも収めた。……僕たちは完敗したんです」
歌うように届けられるジェイドの言葉を否定するのは何かが違う気がしたのでユウは全身で彼の言葉を受け止めることにした。まっすぐにジェイドの瞳を見つめ、紡がれる言葉を逃さないように意識を集中させる。
「だからこれはプレゼントではないのです。貴方が勝ち取った、その証しを渡したいと思ったんです」
このタイミングで思いつくなんて、僕もタイミングが悪かったですが、という言葉とともに、ユウの手の上にのせられたそれは軽いはずなのに、手の中でずしりと重みを主張し始めた。
「貴方が自分の力で手にいれたものだ」
ひたりと向けられる視線に、からかうような色はない。
ジェイドの言葉が浸透して、頬に熱が走る。ただ与えられたのではなく、自らの力で手に入れたと言われたそれはユウの瞳にはさらに輝いて見える。
この世界にやってきてから、ユウが自分の力で手に入れたものは、あまり多くはない。だからこそ確かに自分の力で手に入れたものがあるのだと考えると、胸の内にじわりと柔らかな光が広がった。
「……っ、ありがとうございます」
胸からじわりと熱が全身に広がっていくのを感じながら、なんとか言葉を発する。ナイトレイブンカレッジにきてから、いつだってユウは焦燥の中にいた。
どうにかしないといけない、一人で出来るようにならないといけない。
そう考えれば考える程、苦しかったし、魔力がないことで様々な言葉を投げかけられることもしょうがないと口で言いつつも、ずっと苦さを噛みしめていた。
それが少し解けた気がして、じわりと身体中を熱が覆う。
この溢れてくる感情をどうやって言葉にしたらいいのかがわからない。
「ちなみにウツボの人魚の鱗はそれなりに貴重な上に、再生までに時間がかかります」
突然投げかけられた言葉にユウはぱちぱちと瞬きを繰り返してから視線を落とした。
彼の美しい尾鰭の表面で僅かにとは言え、鱗がない部分が目立っている。
「え、あ、はい。それはありがとうございます」
目の前にいるジェイドの笑みが、目が細まる。
「……人魚にとって鱗というものは特別なものなんです。それを渡そうとして受け取っていただけなかったと、周りに知られたら僕は人魚の端くれとしてどんなことを言われるか」
たっぷりと間を置いてそう告げた後に、しくしくと悲しげな表情を作る人魚の声はそれはもう楽しそうで、ユウはもう、と声をあげた。
「ちゃんと受け取るのでそういう言い方をするのはどうかと思います」
ありがとうございます、大切にしますから! と少しばかり大きな声で叫べば、ジェイドがにこりと満面の笑みを浮かべる。
ジェイドの表情はいたずらが成功した少年のようなそれだったものだから、ユウもまた笑って手のひらにある鱗をきゅうと優しく握ったのだった。
***
ジェイドから渡された鱗はその場でジェイドによって保護魔法をかけてもらい、鱗の加工を専門とする店に持ち込んだ。
そこの職人に、なんだか柔らかな光をたたえた目で見つめられた。こんなひ弱な人間が人魚の鱗を持っていることが不思議なのだろうかと疑問を抱きつつユウは手の中にある鱗を差し出した。
ジェイドのものとよく似た、しかし彼がつけているものよりも少し明るい昼の海を切り取ったようなそれは結局ブレスレットにすることにして、二人の海でのお出かけは幕を閉じたのだった。
ベッドの中、柔らかな日差しの気配に刺激され、ユウはゆっくりと瞼をあげた。朝の光の中で絶望を感じることは減り、今日という日をどう過ごそうかと考えながら起きる日が増えた。
ジェイドと共に海に行った日、ユウにとって宝物が増えた。
一つはまだ手元にはないが、ジェイドから渡された鱗をあしらったブレスレット。そしてもう一つはジェイドが常にユウの名を呼んでくれるようになったということだ。
(ユウさん)
少しだけ柔らかなその声に名前を呼んでもらえる瞬間を、大切にしようと思う。
あの後もジェイドとのお茶会は続けているし、月に一回は街に出かけている。
今ではひと月、ふた月先の予定を決めて、オンボロ寮に置いてあるカレンダーに記載している。小さな約束がいくつも重なっていくのがくすぐったいけれど、楽しくて嬉しい。自分って単純だなと考えながら、カレンダーの予定を確認して、またユウの一日が始まるのだった。
ブレスレットの加工にかかると言われた期間は二週間で、明日には届くらしい。そわそわとしつつもその日の授業が全てこなし、友人たちと別れて植物園へと向かう。
エースもデュースも部活があるからついていけないけど、大丈夫かと問われてユウはこくりと頷いた。
「ここ最近あまり絡まれてないから大丈夫!」
ユウの言葉に、確かにと友人たちが頷き、何かあればすぐ連絡しろよと心配してくれる友人の言葉を背に受けつつ、ユウは課題を終わらせようと植物園に向かった。
「さて、やろう」
魔法薬学の課題で必要な材料を確認する為に、ユウは教科書を開いた。名前はなんとなく覚えているが間違えてしまえば、全ての作業が無駄になってしまうので緊張が身体に走る。
一つ、一つ植物の特徴を確認しながら、持ってきたケースへと植物をしまい、それからユウは、今度は背の高い植物の花を採取しようと顔を上げて、目を見開いた。
薄桃色の花弁が美しいそれは、ユウの胸にとある感情を呼び起こす。
(……ぁ)
「おや、ユウさん、どうかされましたか?」
ユウの心臓が思い切り飛び跳ねて、ほぼ同時に口からはぎゃっという酷い声も多分出た気がする。くるりと振り向いたところにいた切れ長の目を楽し気に細めたジェイドの姿に薄く息を吐きだして、それからユウは僅かに頬を膨らませた。
「課題で使う植物を取りにきたんです。……先輩、背後に気配を消して立たないでください」
びっくりして飛び上がっちゃったじゃないですかと抗議するが、彼の笑顔は崩れない。これ以上の問答は無意味と判断したユウは花に視線を動かした。
「驚かせてしまってすみません、お手伝いしましょうか?」
「あとこの花を採取したら終わりなので、大丈夫です。ありがとうございます」
ユウはあまりこの植物園という場所があまり好きではない。
元いた世界にもあったものと同じような空間に、ユウの全く知らないものがみっちりと詰まっているというのが受け入れられないのだろうと自らの心を推察する。
「そうですか。それでしたら、この後、良かったらお茶でもしませんか?」
ジェイドの言葉を聞いたユウは、小さく笑みを浮かべて頷いた。
採取した植物の種類をもう一度確認し、植物園を離れオンボロ寮へと移動する。
今日はアイスココアにしませんかとのユウの提案によりアイスココアとクッキーが机の上に用意され、二人は談話室のソファに向かい合って座る。
準備が整い二人の会話は課題の話から始まり、話題は日々の情報交換のような会話へと流れる。フロイドが、アズールが、エースが、デュースやグリム、ジャックが、とそんな話をいくつかしたところで、ジェイドが唇を開いた。
「先ほど、熱心に妖精の傘の花を見ていらっしゃるようでしたが、……ユウさんの世界の花に似ていたのでしょうか?」
耳に届くジェイドの柔らかな声に、やはり気づかれてしまっていたか、とユウは苦笑を零す。
「春に咲く薄桃色の花弁の花で、サクラという名前なんです。自分の元いた世界で田んぼの神様を迎える為の木と言われていたり、一本の木を観賞用として交配して作られたクローンだったり、あとは木の下には死体が埋まってるなんて逸話もあったりしますね」
「ユウさんのいた世界はすごい場所ですね?」
一通り説明を聞いたジェイドから返ってきた感想に、あくまで逸話です、本当じゃないです、とユウは慌てて首を左右に振ってから、苦笑をしながらもう一度声を発した。
「……春に一斉に咲いて、それを花見って皆で見て、木の下でわいわいご飯を食べたり遊んだりもしました。開花期間は短いんですけど、毎年、全国の満開予想がテレビで流れたりとかして……元いた世界に妖精といった存在はいなかったので、その花が咲くのが春の象徴といえるような、そんな花でした」
瞼の裏側に、記憶の中にある風景を思い浮かべる。
ユウの家のすぐ近くにある学校のグラウンド沿いにずらりと並んで植えてあったそれらが咲き誇っているのを見るのが好きだった。
桜という花の種類もどれほどあるかをユウは調べたことはなかった。だけど春に限らず、花というと、ユウの中ではまっさきに桜の花が連想された。一気に咲いて花弁が散ると、毎年、母親や兄と一緒に大変だと言いながら家の前を箒ではいては、風がふいてまた散らばってを繰り返して笑っていたな、とそんな記憶がユウの頭の中に浮かび上がってくる。
懐かしいと僅かに目を細めていると、ジェイドから声がかかり、慌てて彼へと視線を移動させる。すると眉間に僅かに皺を寄せて、笑顔の消えた少しばかり苦しそうな表情をしたジェイドがゆっくりと声を発したのだった。
「……ユウさんの言うサクラという品種に似た植物について聞いたことがあります。少し遠いのですが極東の国の山で、同じく春になると見られるらしいのです。……良かったら一緒に見にいきませんか?」
ジェイドの色違いの瞳がとろりと柔らかな光をたたえて自分を見つめていて、ユウはゆっくりと小さく頷いたのだった。
***
(一緒にサクラに似た花を見にいきませんか)
まだ半年以上も先の約束をするのはこれが初めてのことだった。
ぐるり、ぐるり、自分の中の感情が交ざり合って、元の色がわからなくなる。
ジェイドにとっては山を一緒に登る人間がいたら面白くて、契約恋人という関係性を抜きにしてもそれなりに仲の良い後輩と思ってもらえているのかもしれないと、受け取った約束を胸に抱いてユウはそんなことを考える。
カレンダーを何枚もめくり、二人で約束の日に山の名前を書く。
「春先とは言え、少し難易度の高い山なので色々装備も見にいきましょうね」
にこにこ、うきうき、そんな言葉を背負ったジェイドの瞳は輝いていて、もしかしてこれは罠だったのかもしれない? とユウは気づいたが一度約束をしてしまった以上、もう撤回は出来ないだろう。
それにユウ自身、ジェイドが連れていってくれるというその山に行くのがすでにとても楽しみなのだ。
「わかりました。そういった装備の相場やおすすめとかよくわからないので、今度教えてください。貯金しておきます」
じぃと無言で自分を見つめる視線とぶつかったので、ユウはふるりと首を横に振った。
「ちゃんと自分で買いそろえます。なので、学生でも手の届きそうな価格帯でよろしくお願いします」
そう告げれば、ではもう少ししてシーズンの商品の入れ替えが終わったら一緒に見に来ましょうねとカレンダーに新しい約束が書き込まれる。
ジェイドとユウと時々グリム、あとゴーストたちの文字が書き込まれたカレンダーをユウはゆるりと目を細めて見つめたのだった。
お茶会を終えて寮に一人になったユウは自分のベッドの上で転がっていた。
ジェイドとした、随分先の約束のことを想う。
今の自分は多分、心の奥底で帰ることを諦めている。ジェイドと契約恋人になってからも二週間に一度、クロウリーとの面談は続いていたが、いつだって答えは決まって『ノー』だった。
恋に溺れるつもりはないし、ここは自分が本来いるべき場所ではないことは理解しているつもりだ。
だけど、もう少しだけ側にいたいという考えで思考が堂々巡りになってしまう。
そして元の世界に帰ることこそが何よりも優先されるべき事項である筈なのに、それ以外のことを考えている段階で、随分と深い場所にきてしまっているとユウは自分をわらった。
瞼をおろして、頭蓋の内側にオンボロ寮を思い描く。
この寮のあちこちに、深い海の気配がある。
例えば夏の水面のように美しい色をしたティーカップとポットのセット、貝殻の模様が入ったクッション、壁掛けのカレンダーには彼の筆跡でメモがたくさん残されているし、ジェイドが持ち込んだ大きなマグカップの存在感が強すぎて、最初ユウは声をあげて笑ってしまった。
他にもこまごまとしたものがたくさんあって、それらはユウの住むこの場所に静かに根付いている。
数え切れない程の海の気配を切り離すことはもう出来ないだろう。思わずジェイドに相手の内側に入るのが上手すぎませんかと言ってしまった時のことを思い返す。
その時、ジェイドは僅かに目を見張ってそれからにっこりと微笑んでいた。
「……まぁ、そこそこ得意ではありますが」
彼の膝の上では、最初は怯えきっていたグリムがお茶菓子をおなか一杯食べて、ぷすぷすと寝息をたてている。
「過度な謙遜もどうかと思います」
あんなに怖いと思っていたのに、今では別の感情を彼に抱いてしまっているユウがいうのだから間違いないと思いつつ、口を開けば、ジェイドが何故か苦笑した。
「僕よりもずっと得意な人を知っていますので」
頭の中に浮かぶ景色がまるでカメラのシャッターを切ったかのように切り替わる。
この記憶はジェイドの新しい一面を知って、とても嬉しかったことのことだとユウはぼんやりと思い返す。
ジェイドの特大マグカップの横にはそれより二回り程小さい同じデザインのユウとグリムのマグカップが置いてあり、三個のマグカップが行儀良く棚に並べて置いてある。
「ジェイド先輩、紅茶用の砂時計……」
その日はジェイドがいつも通り、お話会の時に飲むお茶を準備してくれることになっていた。彼がいつも使う紅茶用の砂時計をグリムが割ってしまい、新しいものを用意したことを忘れていた、とそれを伝えにきただけのことだった。
そんな彼の手元にあるのは、ユウが安く大量にまとめ買いしたティーバッグの包みだった。
二人の間に数秒の沈黙が流れると同時に、少しだけ視線を逸らした彼の頬がじわじわと染まっていく。
「ユウさん、これはその……。今日は、ちょっと疲れていまして……いえ、すみません、言い訳をしました。茶葉を用意します」
ジェイドのその言葉に、ユウはそのままで大丈夫です! と慌てて言葉を重ねて、彼の手がティーポットに伸びる前に両手で捕まえる。
「たまにはいいじゃないですか。自分なんていつももっと適当です。実は昨日ミルクをいつもより安く多めに買えたんで、たっぷり淹れましょう」
今日出そうと思っていたクッキー、チーズ入りで少し甘さ控えめなのでちょうど良かったと笑えば、ジェイドの口元がもにもにと動き、いつもより口元が緩んでいるように見えた。
勿論、これはユウの気のせいかもしれないが、やっぱりいつもよりも少しだけ柔らかいそれに、心臓が脈打つスピードが速まった気がした。
はら、はら、はらり。
いくつも鮮やかな感情がユウの内に積もっていってしまう。
例えば、水かきのついた鋭い爪を持った大きな手が柔らかく自分に触れた時の熱だとか、自分の好きなものを見ている時に瞳が小さな星屑をとじこめたように輝く様だとか、新しい一場面を見つけてしまう度、頬の上に柔らかな熱が灯っていた。
ジェイドの自分を見つめる瞳の熱はだいたいいつも同じで、そのことに心臓がぎゅうと痛むと同時に、ユウは安堵していた。
契約で恋人になろうという提案をしてきたのが、ジェイドだったからユウは引き受けた。
彼ならば契約を違えることはないだろうし、何よりあの平坦な瞳が自分を何か特別な存在として映すところを想像できなかったのだ。
今では時折、柔らかい光を見るが、それなりに長いこと共にいたら誰だって道具にだって、愛着を持ったりする、そういうものだとユウも理解しているつもりだ。
思ったよりも長く続いてしまっているこの関係も、もうすぐ終わりが訪れる。
次の春に、最後に一緒にサクラに似た花を見に行ける約束が出来たのを嬉しく感じている自分がいる。
あんなに怖い、文字通り生きる世界の違うヒトを可愛いと思ってしまう日がくるなんて夢にも思わず、ユウは自らの全身にすでに甘い猛毒が巡っていたのだということを自覚し、それと同時に一つ涙を落として、静かに眠りについたのだった。
***
その日、ナイトレイブンカレッジ内では、あちこちで騒ぎが起きていた。
中心人物はオンボロ寮の監督生であるユウだった。
今日は魔法薬学の小テストの日で前から発表されていた薬を時間内に作成するというもので、まさにあとは最後の薬草を投下し、五分間撹拌すれば完成という最後の行程に入った瞬間のことだった。
教室内に黒い羽が舞い、いくつかの鍋の中にそれが入って、あちこちから悲鳴があがる。とっさに鍋に入り込みそうになった羽を拾ったユウの手も止まってしまい、これは失敗だと青ざめた瞬間のことだった。
「授業中に失礼します! 監督生くん、貴方元の世界へ戻れますよっ!」
授業中にいきなり教室の中へと飛び込んできたクロウリーへ冷たい視線を投げた担任教師が彼を追い出そうとした瞬間、放たれた言葉に教室の中が一瞬静まりかえり、そして声が爆発する。
あちこちで監督生やったじゃん、まじで、本当に? ちょ、すっげぇめでたいと祝福の声が飛び交う中、ユウは大きく目を見開いて、ぽかんと口をあけて立っていた。
突然のことに思考がうまく回ってくれない。
「おや、感動のあまり言葉も出ませんか、無理もないですね」
とりあえず私は準備を進めていますので、あとでいつもの部屋に来るように、いいですね! それではお邪魔しました! と入ってきた時と同じような唐突さで彼は部屋から出て行ってしまう。
始まりも唐突なら、終わりもあっけなさ過ぎて、思考が麻痺してしまっている。
祝福してくれるクラスメイトたちやマブたちに感謝の言葉を返し、子分よかったんだゾ! と笑ってくれたグリムを抱きしめて、ユウはここにいないヒトのことを考えていた。
***
「ジェイド、小エビちゃんが元の世界に帰れるんだって! カニちゃんに聞いた!」
次の授業の準備をしていたジェイドの元へすさまじいスピードで近寄ってきたフロイドの言葉にジェイドは僅かに目を見張った。
一瞬、呼吸が止まる。
変身薬が切れているのかと、手元に視線を落としてみても、変化は特に何も起こっていない。
それだというのに頭に酸素が届いていないのか、ぼんやりと思考に霞がかっている気がする。
「おいっ、ジェイドってば!」
ぐわんと上半身が揺らされ、ジェイドは思わず止めていた息を吐き出した。
「……すみません、フロイド。ありがとうございます」
「ん、大丈夫ならいいけど。……詳しいことはオレもわかんないけど、クロウリーがそう言ってたみたいだからさ」
小エビちゃんと話してきたら、という大切な片割れの声が遠い。
授業開始を告げるチャイムが鳴ってしまったので、ジェイドは目の前に教科書とノートを開いた。
いつもと変わらない筈の教師の声が今日は全く頭の中に入ってこない。
(ユウさんが元の世界に帰れる?)
いつだって、起こりえる可能性のある選択肢の筈だった。
だけどジェイドは気づかないうちに、この選択を自らの中から排除してしまっていたらしい。こんな時になって気づくなんて愚かすぎて笑うことすら出来ない。
ジェイドとユウの関係に明確な契約終了の期間は設けていない。契約をするときに一瞬ジェイドも考えたが、正直に言えば、その時にはすぐにこの契約は終わるだろうと予想していたのだ。
しかし最初は自分が声をかけるだけでも怯えて身体を強張らせていた彼の表情が少しずつ柔らかくなっていく様を見るのが楽しかった。
ユウが自らを苦手と感じていることは理解していたし、彼を取りまく環境が穏やかでないからこそ、ジェイドの手を打算的に取ったこともわかっていた。
契約上の恋人ならばそれくらいでちょうど良いと思いながら、ジェイドはユウの元へと通っていた。
しかしそんなジェイドの中に、少しずつ変化が起き始めた。
ユウの唇から紡がれる数多の異世界の話はジェイドの心をくすぐり、想像のつかなかった世界が少しずつ自分の頭の中で形作られていくのが楽しくて仕方なくなった。
他にも例えば彼はジェイドが話すテラリウムやキノコの話をいつも聞いてくれた。幼馴染みや片割れにはすっかり敬遠されるようになってしまった趣味を誰かが受けいれてくれる。それはジェイドの心の柔らかい部分に静かに染みこんでいった。
ユウはジェイドの一挙一動にびくりと反応するが、その一方で、ジェイドの瞳から視線を逸らすようなことはなかった。
あまりにまっすぐに見つめてくるものだから、ユウさんは僕のユニーク魔法の効果を知っていますよね、とジェイド自身が問いかけてしまったくらいだ。
するとぱちぱちとこの世界では珍しい深い黒みがかった円らな瞳を見開いて、ユウはくすくすと笑い出した。
「知ってますけど、どうかしました?」
「いえ、ならば……」
どうしてそんなに自分の目を見つめることが出来るのかという言葉が喉の奥にひっかかって一瞬言葉に詰まる。
こうやってユウといる時、些細だけれど、確実にジェイドの挙動は少しおかしくなってしまう。その原因を知りたくて彼と契約で恋人になったというのに、時間が経てば経つほど、挙動はおかしくなる一方で、原因は掴めない。居心地が悪いように感じるのに、それでもいつの間にかユウの側を離れることが出来なくなっている事実から、ジェイドが目を逸らしていると気づいたのはいつのことだろうか。
「だってジェイド先輩ならユニーク魔法を使わずとも自分から欲しい情報を得ることなんて簡単に出来そうですし、一回しか使えない能力をそんな簡単に使うこともないでしょう? それに先輩の瞳ってつい見たくなっちゃうんですよね」
そう笑ったユウの声が耳の奥で反響しているせいなのか、なんだか耳の端が熱い。
ほら、また彼といると自分はおかしくなってしまう。
原因不明の何かがあるというのに、それでももっと彼と話してみたいと思ってしまう自分はもうとっくに壊れてしまっているのかもしれない。
しかし、それでも良いかと思う自分をジェイドは胸の内でわらって、そうして、またユウの言葉に耳を傾け続けた。
少しずつ、ユウの声がジェイドの中に降り積もっていく。
故郷のことを話す彼の言葉は柔らかく、そしてほんの少し寂しさを含んでいた。
彼は記憶の断片をかき集めて、それをジェイドの前に差し出している。
「……両親と兄がいるんです。あとは友人もいて……たくさん楽しいことあった筈なのに、良く思い出せないんですよ」
ユウの声がオンボロ寮の空気を静かに震わせる。
自分から望んだこととは言え、ジェイドは失敗した、と途中で思った。
最初は知的好奇心からの提案だったが、彼の心の柔らかい場所に土足で踏み込んでしまっている。
今までだって相手が隠しておきたかったことを、散、力の限りに暴いてきた。そんな自分が今更こんなことを考えるのかと自らの思考の変化に驚くと同時に、ジェイドは自分の胸が軋む音を聞いた気がした。
自分は確かに普段、親元を離れてはいるが、大切な幼馴染みと片割れと共にいられるし、帰ろうと思えばいつだって帰ることが出来る。
だが彼は違う。
どうしてこの世界に紛れ込んでしまったのか、理由がわからない。帰る方法も不明で、頼れる存在もいない状態でこの世界に放り出されてしまったのだという。
今は穏やかに話しているが、それでもどうしたって、元いた場所に帰りたいと強く願っているだろう。そんな相手に、わざわざ故郷のことを話させて、帰りたい気持ちを増強させているのではないだろうかということにジェイドは気づいた。
ユウの話す言葉の端々に、様々な感情が滲んでジェイドの耳に届く。
日々、ユウの心の一部が自分の中に静かに染みこんでいくのを感じながら、ジェイドは彼との時間を過ごしていた。
そんな中、ユウは大したことを話していないというが、彼の心の柔らかい部分に触れてしまっているという罪悪感とオンボロ寮の状態、ユウの懐事情を知ったジェイドは多少となりとも支援をしたいと考え、ユウへのプレゼントを色々と選んでみた。
一年の頃からモストロ・ラウンジで働いていた分の貯金があったし、彼は自分の山登りやキノコに関する話を嫌がらず聞いてくれる数少ない人ということもあり、服や装飾品から始まり、様々なものを取り寄せたり、実際、街まで出かけて購入してみたりした。
まだ自分を見ると少し身体を強張らせるが、それでもほんの少しずつだが笑みを見せてくれるようになったユウが、このプレゼントを見て、あの笑顔をまた見せてくれたらとそう思って選んだプレゼントの数々を見た彼がゆっくりと唇を開いた。
どきどきと心臓が肋骨の内側で跳ねている。
しかし、まっすぐに自分の瞳を見つめたユウの唇から放たれたのは否定の言葉だった。
好きじゃないと言われる可能性も考慮して様々な物を選んで持ってきたというのに、彼はどれもいらないのだと言う。
ガンと頭を鈍器で殴られたような、あるいはフロイドと大喧嘩した時に喧嘩両成敗だとアズールに思い切り振り落とされたゲンコツくらいの衝撃だった。
「え?」
一瞬、頭が考えることを拒否するが、すぐにジェイドは笑顔を貼り付けた。ショックを受けているという事実に、心の中で一人ショックを受ける。
だがすぐになんとか心を持ち直し、ユウの言葉を聞いて、貰いすぎは困るというユウの主張になるほどと納得はしたけれど、なんだか面白くない。
せっかく貴方のことを考えて選んだのに、という感情をこめて彼を見ていると、視線をうろうろとさまよわせたユウの唇から、ぽろりと言葉が発された。
「……ジェイド先輩の作ってくれた食べ物を食べたいです」
まさかそんな事を言われるなんて思わず、ならば一体どんなものが食べたいのかと矢継ぎ早に質問を重ねて、ジェイドは彼の好むものをたくさん作ろうと一人決意したのだった。
毎回お茶会の度にユウの好みそうなものを、あるいはキノコを作った食べ物を作り、それを持って彼の元へと訪れた。
ユウが美味しいと幸せそうに微笑む瞬間を見ると、なんだか背中の辺りがむずむずするけれど、いやな感覚ではない。ユウと過ごす時間が増えていく度、彼の心の内側が少しずつ透けて見えるようになった気がした。
いつでも望郷の念に駆られるわけではないらしい。彼の生活に近しい話を口にする時、ユウの心に触れることがあるのだろう。
彼の声の端に滲む寂しさを感じる度に、ジェイドの胸は、ぎゅうと締め付けられる。
とは言っても、彼との関係はあくまで契約の元に成り立っているものだ。
そこらへんの雑魚よりは共にいて心地は悪くない、だがアズールやフロイドのように大切かと問われれば、それは違うと断言出来る。あの二人とは違う。
契約を結んだ、そこそこ一緒にいても良いと思える相手。
ジェイドにとっては契約を結んだだけ、ただそれだけの筈だ。
だが、元の世界に彼が帰ると聞いた瞬間、視界が僅かに暗くなった気がした。
これまで彼から、数多くの異世界の話を聞いて、ジェイドの中の空想の世界は随分と広がった。ユウも時折、申し訳なさそうにもうお話し出来ることは殆どないと思いますと言っていたし、自分も来年には実習でこのナイトレイブンカレッジを離れることになる。
そうなればこの時間は自然消滅するとジェイドは考えていたし、おそらくユウも気づいていた、だけど終わりの気配を感じながらも、二人は約束を重ねた。
(春に、花を見に行こうと言っていたのに)
ユウが僅かに声に水の気配を含みつつ話してくれた思い出の花に似たそれを見に行く約束。
今までで一番遠い未来の約束だった。その山に登る為の必要なものを一緒に買う約束もしていた。
それだというのに、彼は帰るのだという。
自分との約束を破って、彼は元いた世界に帰る。
(約束していたじゃないですか……)
口には出せない。
だって、彼がずっと待ち望んでいた元いた世界へ帰ることが出来るのだ。
そろそろジェイドのレパートリーも少なくなっていたし、もう聞き出せるような情報もないという。
ちょうど良かったではないかとジェイドは心の中で自らに告げる。学年が上がり、さらに日々の学園生活、モストロ・ラウンジでの業務は忙しくなっていた。来年どういった実習先にいくか、そもそも研究職に進むか否かを選定し、その為の準備もしないといけない、そろそろ潮時だったのだ。
(両親と兄がいて、友人も)
ふわりふわりと彼の言葉が脳内に浮かんで弾けた。
そもそも終わりは決まっていて、それが早まっただけで、後はユウとの契約を解消する、それだけで良いではないか、と自らに言い聞かせ続けている間に、どうやら随分と時間が経っていたらしい。
授業の終わりを告げる教師の声の後、隣に座っていたリドルから、顔色が酷いから帰って休んだ方がいいと言われ、ジェイドはふらりと教室を後にした。
顔色が酷いと言われたが、自分は特に体調が悪いところもない。ユウは今日はアルバイトの日ではないから、モストロ・ラウンジへはやってこないだろう。
どこかで彼と話をしなければと思うと途端に足が重くなる。まるでぬかるみの中を歩くように、一歩、また一歩と足を進める。
ふ、と珊瑚の海で彼に自らの鱗を渡した時のことを思い出す。
人魚の鱗は、自分たちが戦って相手に勝利の証しとして身につけることもあれば、人魚の魔力は鱗にこもる為、お守りとなるので大事な相手に渡したりするのだ。
ユウはそんなことを知らないだろうと理解しつつもジェイドは彼に自らの鱗を差し出した。
彼に言った言葉に嘘はない。
ひ弱な筈の彼が自分たちを破ったからこそ、自らの鱗を渡した。それを加工したブレスレットを後日受け取った彼の瞳が輝いたのを見た瞬間、ジェイドは自らの胸の内に花が咲いた気がしたというのに、今はもう何も感じない。
そもそも契約だけが繋がりの相手にそれ以上を求める方がおかしかったのだ。
ジェイドは自らに言い聞かせ、ゆっくりと視界に映るオンボロ寮へと足を向ける。
ユウの口から聞いたわけではないけれど、世界を渡るなんて大魔法、よほど成功率が高くなければ、学園長は出来るとは口にしないだろう。
窓から差し込む光が階段の踊り場を照らしている。その光の中に足を一歩踏み入れた時に、前にユウと並んでこの階段を歩いたことを思い出す。
一緒にいた時間は決して長くない筈なのに、ジェイドの無駄に優秀な脳みそはこの学校での彼との記憶を鮮明に視界に描いてしまう。
足を踏み出す度、オンボロ寮が近づいてくる。終わりの時がひたひたと近寄ってくる。
早く契約を解消しよう。そしてユウとの予定を入れていた日は違う予定を入れてしまえばいいと頭では理解している筈なのに、足はとうとうぴたりと止まってしまう。
ユウという存在がいる限り、ジェイドにはいつだって不具合が生じてしまう。
その答えをまだ得ることは出来ていないというのに、彼はこの学校を、この世界を去るというのだ。
「ジェイド先輩っ!」
背後から突然かけられた声に、ぎしぎしと錆びきったブリキのおもちゃのようなぎこちなさで振り返れば、そこには彼がいた。
「あのジェイド先輩、その……」
視線を自分から逸らしたユウの姿に、ジェイドは自分が聞いた話が間違いなかったのだと確信する。
いつだって自分の瞳をまっすぐに見ていた彼が、視線を逸らす程の気まずさを感じることと言えば、それくらいだろう。
「……元の世界へ帰るのだと伺いました。ユウさん、今までありがとうございます。楽しい時間を過ごす事が出来ました。来年の春の約束は果たせませんでしたが、そういう巡り合わせだったということですね」
自分の唇から零れ落ちた言葉は今、どんな声で発されたのだろうか。自分はいつも通り、笑えているだろうか。
わかりきっていた終わりだというのに、いざ、その時になると何も感じないものだなとジェイドは考えた。
元々、契約上の利害の一致で生まれた関係だったから、いつの間にか心地よく思っていたのはきっと自分ばかりだったのだろう。
胸に巣くう何かはユウといる内に結局解消されることはなく酷くなるばかりであったが、それすら笑顔の裏側に押し込んで、ジェイドはユウの側にいた。
共にいる時間が増えて彼の口から紡がれる話を聞いてもアズールが何故契約書が失われたままでいいと思うようになったのかをジェイドは理解出来ず、それでも日々は緩やかに過ぎていった。
生ぬるい、柔らかな日差しを浴びているような心地の悪さだった。
ジェイドの生まれた海では感じ得なかった温度に、背鰭の辺りが震えていた。
海をたゆたう小枝のように細いユウを見続けているうちに、段々と、ジェイドの中にこれをどうにかしなければいけないと思うことが増えていく。
彼の声に名前を呼ばれて、足を止めて振り向く瞬間が楽しくて仕方がなかった。
(貴方は僕にたくさんのものを与えた)
例えば、ボロボロのオンボロ寮の談話室でユウとグリム、それにゴーストたちと過ごす時間の穏やかさ。オンボロ寮の裏庭に干したブランケットをかけて寝るととても心地がいいこと。ユウが貯めていたマドルで買った布で作ったクッションカバーに小さなキノコの刺繍をしてもらって、それをジェイド用だと言ってもらえたのがとても嬉しかったこと。それらは静かに、柔らかく降り積もっていたけれど、それを踏みつけてぐちゃぐちゃにしたのもユウだ。
そう考えた途端、ジェイドの中で何かが冷えた。
(彼とは契約関係があるだけだった)
馬鹿みたいだと思った。
彼のことはまだまだわからないけれど、これからしばらく側にいれば、何かがわかるかもしれないと考えていた自分の考えの甘さに吐き気すら覚える。
ユウはずっと帰る為の方法を探していた、それが見つかったのだ。
元から選択肢などない。
彼は友人たちよりも、相棒よりも、自分よりも元の世界を取る。何故なら、そこに愛すべき家族が、これまでの彼の人生全て慈しんできた全てがある。
「……ユウさん、今までありがとうございました」
自分の喉から零れ落ちた言葉の欠片は随分と硬質な、冷たい音を含んでいた。
ユウの大きな目が見開かれていて、ゆらゆらと揺れているように見えた気がしたが、ジェイドは視線を逸らしてしまった。
胸の奥底に濁った色の感情が溜まって、ジェイドの内側で暴れ回っている。
うまく言葉に出来ないそれが一体どんなものなのか理解出来ず、けれど口を開けば、彼に対して強い言葉を重ねてしまいそうで、ジェイドはそれきり唇を強く噛んで俯いたのだった。
***
もっと側にいたい、もう少しだけこのままでと願ったすぐ直後に元の世界へと帰れる道が繋がるなんて随分とひどい話だとユウは呆然としながら思う。
あの後学園長室へと向かい、聞いた話だと一週間後に条件を完全に満たすことが出来て、元いた世界に帰れるとのことだった。
ツイステッドワンダーランドにやってきてから一年以上時間が経過してしまっているが、元いた世界に戻る際には多少でも時間の巻き戻しも行います、私優しいのでといつものお決まりの文句と一緒にそう告げた。
「あちらに帰るまでにやりたいことをたくさんして終わらせておくといいですよ」
そんな言葉と共に学園長室を後にしたユウの足取りは重かった。
ずっと、ずっと帰りたいと願っていた。
ここにはユウの大切な家族も、友人も、頼れる人もおらず、自らの世界の常識は通じず、いつだってユウの精神はすり減り続けていた。
だからこそ、自分は今、誰よりもクロウリーの言葉を喜ばなければいけない筈なのに、頭が混乱している。
「……かえれるんだ」
あらためて声にのせて呟いて、それからユウは長く、胸の奥底に溜まった息を吐き出した。視界は暗く、心臓がばくばくといやな音の鼓動を立てている。
「ジェイド先輩に、言わなきゃ」
彼に会うにはどこに行けばいいのだろうかと考えながら、ユウは廊下を歩き出した。
早く会って言わないとと思うのに、会いたくない。
だって、会ったら自分は帰ると言わないといけない。
もし自分が大人であったならば、この世界に残るという選択を出来たのだろうか。親も、兄弟も、知識も、常識も欠けたこの世界で生きたいなんて夢物語を口にしても許されたのだろうか。
言えない、言える筈もない。そんなことを口にすれば、数多くのヒトたちに迷惑をかけてしまう。
世界が滲む、呼吸が浅くなる。どうしようと唇を噛みしめたところで、ふ、と視界に昼の海が映って、ユウは呼吸の仕方を忘れてしまう。
「……ジェイド先輩っ」
喉の奥から絞り出した声は震えている気がした。彼の顔をうまく見られず、とっさに逸らしてしまっていた。
(もし、もしジェイド先輩が、引き留めてくれるようなことがあったら?)
自分はどうするのだろう。
そんなことは無いとわかっているというのに、もしものことを考えてしまう。ぎゅうと手を握り合せて深呼吸をし、それからなんとか視線をジェイドにあわせて、ユウは目を見開いた。
ジェイドがあの、いつも通りの笑顔を浮かべてそこにいた。
あぁ、なんて自分は浅はかな期待をしてしまったのだろう。
あくまで自分は彼にとっての契約上の恋人であって、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
自分の中で勝手に育てた感情が、今にも咲きそうだったそれが静かに死んでいくのを感じながら、ユウはなんとか笑顔を貼り付けた。
「ユウさん、今までありがとうございました」
耳に届いた硬質な声を受け止めて、ユウは自分の心が死に絶える瞬間の悲鳴を聞いた気がした。
***
ジェイドの言葉を聞いた後、ユウは自分がどうやってオンボロ寮に戻ったのかすら覚えていなかったが気づけば、また柔らかな日差しを浴びて目を覚ました。
朝の日差しが瞼を、胸を焼く絶望はいつ以来だろうか。
胸の奥につもりにつもった感情はもうぐちゃぐちゃに汚れてしまって、それがまた悲しくて、ユウは唇を噛んだ。けれど、泣くまいと思った。
最初からわかりきっていた結末に泣くなんて出来る筈もない。
深呼吸を一度、二度としてユウは鏡に向けて笑ってみせたが、歪なそれは泣き顔にも等しかった。
クロウリーから告げられた日から一週間の間、ユウは様々な人と言葉を交わし、様々な場所に足を運んだ。先輩たちにも出来る限り会い、感謝の言葉を告げて、ユウはとうとうこの世界を離れる日を迎えた。
結局、ジェイドとはあれ以来会っていなかったが、契約は解消ということで間違いないだろう。
最後の日、ユウは式典服を着ていた。少し早い卒業式ってことでいいじゃんというエースの言葉に、それがいい案だと自分を見送る為に来てくれた皆もまた式典服を着た状態で部屋に集まってくれていた。
最後に彼らの前に立ち、ユウは一言ずつ言葉を交わしていた。
エース、デュース、グリムとは昨日の夜にオンボロ寮で最後のお泊まりをした時にたくさん話をした。勿論、ゴーストのおじ様方も一緒にいてくれた。
それからジャック、エペル、セベク、リドル、ラギー、ジャミル、カリムと順々に話している最中に、今日は来るのが難しいかもと告げていたアズール、フロイド、ジェイドが姿を見せたものだから、ユウは僅かに目を見開き、それから微笑んだ。
もう彼ら三人が最後の相手だった。
「アズール先輩、お世話になりました。モストロ・ラウンジでアルバイトさせていただけてとても助かりました。先輩のような人の側で働けて良かったと思います。尊敬しています」
「……こちらこそ、なんだかんだ貴方に働いてもらえて助かりましたよ、お元気で」
アズールと握手をし、隣にいる人へと視線をユウは向けた。
「フロイド先輩がなんだかんだかまってくれるの、楽しかったです。時々絞まってるなぁとは思いましたけど、先輩に小エビって言ってもらえるのなんだかんだ嬉しかったです」
ユウ以外につけられた唯一のあだ名、それをゆっくりと噛みしめる。
「……ん、小エビちゃん元気でね」
フロイドの手を取って、ユウはもう一度、ありがとうございましたと告げて、それから静かに、視線をずらした。
静かに、しかし確実に育っていた、淡い感情は花開くことはもう永遠にない。
元々叶う筈はないと理解していたし、苦しくて、でも、それでも恋をしなければ良かったとは思わなかった。せめて、最後に彼と桜に似た花を一緒に見て、それでこの気持ちをちゃんと死なせてあげたかったことだけが心残りではあるけれど、それもまた彼が言っていたようにそういう巡り合わせだったのだろう。
ジェイドに見せてもらった花の画像はとても美しかった、あれをジェイドと共に見たならば、それを自分の中に焼き付けて終わらせることが出来るのでは思っていたけれど、いくらもしもを考えたところでしょうがないことなのだ。
もうどうにも出来ないことだ。ならばせめて最後くらいは、綺麗に、この場を去ろうとユウは、薄く息を口から吐き出してそれから声を発した。
「ジェイド先輩、ありがとうございました」
本当なら言いたいことはたくさんある。しかしどの言葉を一つ口にしても、自分の中にある感情が滲んだ言葉が零れ落ちてしまいそうで、ぐっとユウは唇を噛んだ。
ぎゅっと瞼を一瞬閉じて、それから目の前に立つ彼を見る。
恋人役として側にいる間にユウはたくさんの思い出をもらった。きっとジェイドにとってはどうでもいいような、些細なことの積み重ねが嬉しかった。
「……どうか、お元気で」
なんとか吐き出したその言葉には水の気配が混ざってしまった気がしたが、ユウは口元に淡く笑みを浮かべ頭を下げて、彼の前を離れたのだった。
「お別れはちゃんと済みましたね、それなら結構!」
目の前の鏡には本来自分と斜め後ろに立つクロウリーが映っていないとおかしいはずなのだが、鏡面がゆらめている。
「ここをくぐれば、貴方は元いた世界に戻れます。時間もこちらに来た時とのズレが少なくなるように調整したつもりですが、多少はご容赦を」
私優しいので、ちゃんと頑張りましたよというクロウリーの言葉すらもう二度と聞けないのかと思うと、少し寂しい気持ちになってユウは笑った。
「学園長、ありがとうございました!」
精一杯の感謝をのせて言葉を紡ぎ、一歩踏み出す度、足が重くなるのを感じる。
あんなに帰りたいと思っていたというのに、いざ帰れるとなったら、こんなにも躊躇うことになるなんて夢にも思わなかった。
楽しいことだけではなかった、それでもここにきたことをユウは後悔していない。
だから明るい気持ちと共に、この場を後にするのだと思った瞬間のことだった。
「……こぶん」
背後から聞こえてきた細い声に、ユウの足は止まった。
振り返ってはいけないと思うのに、駄目だった。
くるりと式典服の裾を翻しつつ、身体の向きを変える。
視界の端に海が映るが、それはもう決別した色だ。
今、ユウが映すべきは彼ではない。視界に映すべきは、ずっと一緒にいたユウの大切な親分たちと友人だ。
振り向いた先にいるエースの目の端にわずかに水が溜まっていて、鼻の上が少し赤くなったデュースの腕の中にグリムがいる。
重かったはずの足が急に軽くなる。口をぽかんと開けたクロウリーの素顔が一体どんな表情だったのか、ちょっと見てみたかったな、なんてそんなことを感じながら、ユウは地面を蹴った。
頬の上を熱くて、冷たいものが流れ落ちる。
出会いはあまり良くなかったし、馬鹿なことばっかりして、ユウに迷惑をかけてくるようなこともしたから、どうしてやろうかと思ったこともあるが、それでもユウにとって大切なヒトたちだ。
腕をおもいきり伸ばして、二人と一匹に抱き着く。
「ユウ、お前! おどろかせんなよっ」
「監督生っ、ありがとうっ」
「こぶんん」
大切な友人たちの声に、涙の気配が混ざり合っている。それが胸が裂けそうになるくらい辛いけれど、それでも嬉しいと感じてしまう自分は酷い人間なのだろう。
腕に力をこめる。
この瞬間に、自分の中に育った感情すべてをのせられる言葉は見つからないけれど、それでも自分の中にあるものをなるべく多く伝えられますようにと考えながら、ユウは唇を開く。
言葉が喉に貼りついてうまく剥がれ落ちなくて、ユウはひくりと喉を震わせた。
「……みんな、大好きっ」
ありがとう、大好きと繰り返して、笑って離れる。
ジェイドにラウンジでの接客の延長線で教わったダンスのステップを思い出しながら、なるべく軽やかに一歩下がり、くるりとターンを一つ。
式典服の裾が翻る。
さようなら、とマブたちには言いたくなかった。
これは永遠の別れだ。自分には魔力なんてものはない。
そもそも自分の世界とこのツイステッドワンダーランドをどうやって繋げたのか、授業の合間にユウも世界を行き来する為の方法を調べてはみたけれど、わからない単語と計算式がずらりと並んでいて、それらの呪文はユウの中に刻み込まれることはなかった。
だからこの鏡をくぐってしまえば最後、もうユウに彼らと会う術はない。
視界が真っ白に染まる。
友人やグリムの顔を思い描き、そしてほんの少し昼の海のような色合いのことを考えながら、ユウは瞼をぎゅっと閉じたのだった。
***
「みんな、大好きっ」
その言葉を告げて、二人と一匹に抱き着いていたユウが離れる。
目がゆらゆらと揺れるように見えるくらい涙を溜めて唇を噛んでいた彼の表情が、ふわりと柔らかくなる。
頬と鼻の頭を赤くしながら、三人へと甘く柔らかい感情を向けている。
おそらくジェイドもユウの視界に映っただろう。
最後の最後、彼と交流のあった生徒たちが並んでいる中、一瞬、彼と視線が合ったと思った。
確かにエースやデュース、グリムといった面々はずっとユウと共にいた。その三人へと最後触れたのはわからなくもない。
そう頭では理解しているというのに、ギシリと手元から鈍い音と共に僅かな痛みを感じて、ジェイドは視線を下げた。
掌を赤い、鉄錆くさい液体がつたっている。
一滴、二滴と磨かれた床の上に落ちたそれを、ジェイドはぼんやりと見つめてから視線を戻した。
そこにはただ静かに風景を映す鏡があるだけで、部屋の中には彼女の友人たちの静かな嗚咽が響いていた。
視界がぐらりと歪む。
一瞬遅れて自分の瞳に薄い水の膜が張っているのだと、ジェイドは理解した。
頭の中でごうごうと波が荒れている。
グリムを除けば、それこそマブと呼んでいたエースやデュースと同等くらいの時間を過ごしていた筈の自分を、最後、ユウはその瞳に映すことはなかった。
(どうして、ユウさんは僕には何も言わなかったのだろう)
他のメンバーには何かしらの言葉をかけていたにも関わらず、ジェイドには社交辞令のような挨拶のみだった。
どうして、どうしてと疑問がジェイドの中で暴れ回っている。
「ジェイド、すんげぇ顔してる」
横にいるフロイドの声にジェイドは僅かに目を見張った。
「……そんな顔を、していますか」
「その顔のお前をこのまま寮に戻すわけにはいかない程度には」
アズールの言葉が重なり、一体どんな顔を今自分はしているのだろうとジェイドはぼんやりと考えた。
ギチリと奥歯がぶつかる音をさせながら、ジェイドは鏡の間を後にする。
足を進めてオンボロ寮へたどり着き、ジェイドはノックをした。ふわりと現れたゴーストたちの何か言いたげな視線にジェイドは笑顔のみを返し、通い慣れた扉をくぐった。
棚に置かれたままのスリッパに足を通したところで一瞬、ジェイドは足を止めた。もう彼はいないのだから土足でもいいのではないだろうかという考えが頭をよぎったが、結局ジェイドはスリッパでオンボロ寮へとあがった。
談話室はジェイドの記憶の中のものと殆ど変わらない。まだ、ユウがジェイドの名前を呼んでその場に座っていそうな錯覚すら抱いてしまう。
ふるりと首を左右に振って今度は厨房に移動して棚を見ても、彼が使っていたものがそのまま残されている。
いっそユウが使っていたもの全部がなくなっていたのなら良かったのに、とそんなことを考えながら、ジェイドは廊下に出て二階にある彼の部屋へと向かう。
ギシギシと階段が悲鳴のような音を立てる。
廊下の突き当たりにある彼の部屋の前で一瞬、勝手に部屋に入るのはどうだろうか、と考えて、それからジェイドは苦笑を零した。
だって彼はもうこの世界のどこにもいない。だからこそ勝手に部屋に入ったとしても、何の問題にもならないのだ。
ギチリと拳を握りしめ、それからジェイドは扉をくぐった。
そして、ぐ、と喉の奥で小さく呻き声をあげた。高価なプレゼントを受け取ってくれなかった彼も、次第にハンカチといった小さな物は受け取ってくれるようになっていたのだが、それが綺麗に折りたたまれて棚の上の籠に置かれていた。その他にも渡していたものは様々だったが、それのどれもが、部屋の中に残っていた。
彼はこの世界で手に入れたもの全てを置いていったのかもしれないと考えると、ごうごうと耳元で嵐のような風が吹いている気がした。
片付いた部屋の中、教科書やノートは机の上にブックスタンドの間に置かれている。ノートが机の上に数冊のっており、近づいてぱらりとめくれば、彼の字が隙間無く書かれていた。
「……いつも必死に机に向かっていらっしゃいましたね」
わからないなりにいつだって彼は必死に知識を得ようとしていた、その姿を思い浮かべて、ジェイドは目を細める。
ここにはまだユウの存在が色濃く残っている。
ジェイドはノートから手を離し、学園を見渡すことの出来る窓際に置いてあるものへと近づいた。
それは前にユウが、ジェイドと出かけた時に買っていたキャンディの硝子瓶だった。しかし中のキャンディはもう残っておらず、包み紙が小さく折りたたまれた状態で入っている。
(何故、紙だけ残してあるのでしょうか)
僅かに首を傾げつつ、コルク栓を抜いてひっくり返す。ひらひらと紙が手の中に落ちてきたので、それを開いてジェイドは僅かに目を見張った。
包み紙の裏側には見慣れたユウの字で誰かに宛てたメッセージが書かれていた。違う紫の包み紙を開けば、今度はまた違う誰かへのメッセージが見える。
他人へのメッセージを見ることに胸の奥底で僅かな罪悪感を抱きつつも、それでもジェイドは手を止めなかった。いや、正しくは止められなかった。
だって、自分へのメッセージがまだ見つからない。
硝子瓶の中のメッセージが減っていく度に、ジェイドの心は黒く、暗く染まっていく。
そして最後の一つはジェイドのクラスメイトであるリドル宛だった。
一つ、一つ丁寧に書かれたであろうそれはジェイドの為には用意されていなかった。
ぐしゃりと机の上に置いたそれらを握りしめる。
「……何故っ!」
グリムやエースやデュースといった一部の人物を除き、誰よりも長く側にいたのは自分の筈だったのに、彼はジェイドにだけ何も残していかなかった。
目の前には数多くの、彼に関わるヒトたちへのメッセージが、マスカットレモン味以外の包み紙に書かれている。
ジェイドの中で、感情が煮詰まる音がする。
自分は彼の為を想って、あの細い、小枝のような手を離したのだ。
一度は尾鰭の中に招き入れた人間を、慈悲の心を持って見逃していたというのに、彼の行動は、ジェイドの心を抉り続ける。
視界の隅に映った彼の制服の一部が足りないことに気づき、周りを探してみるが、彼がグリムとおそろいなのだと嬉しそうに腕につけていたリボンがない。先ほど会ったグリムは持っていなかった、つまりユウが持ち帰った可能性がある。
そして、ふ、とジェイドはとあるものの姿を見かけていないことを思いつき、部屋の中を探す。 しかしどこを探しても見つからず、ジェイドはじぃと机の上に視線を落とした。
「……僕、悲しいです。ユウさん」
ぐるぐるぐる、思考が空回る。
あの笑顔を見るのが嫌いではなかったというのに、今、ジェイドの胸の中には暗い感情が咲いている。
最後、あの瞬間に彼が駆け寄るべきは自分ではなかったのだろうか。
何故、このように酷いことを彼は自分にするのか、ジェイドの心が嘆いている。
だからもう一度、ユウに会って問わなければならない。
とあるものがこの部屋に無い理由と、彼が何故ジェイドに対して何も残さなかったのか。
その問いの答えを得る為、自分がすべきことを頭の中に並べて、ジェイドは口元の笑みを深くしたのだった。
***
瞼を押し上げれば、真っ白い天井がユウの視界いっぱいに映った。
一度、二度とゆっくり瞬きをして起き上がろうとしたところで、自分の腕に細長い管のようなものがついているのが見えたユウは視線を彷徨わせた。
声を発そうとしたところで、喉からはか細い息しか出ずパニックを起こしそうになる。どうして一体何がと疑問が頭の中でぐるぐると回るが、相変わらず体を動かすことが出来ない。
頭上から慌ただしい人が行ったりきたりするような足音と声が聞こえたかと思うと、誰かが自分の顔をのぞき込んだ。
「あぁ、良かった! ユウ、目が覚めてっ」
はらはらと涙を流す女性を見て、ユウは目を僅かに見開いた。この人は自分の母親だ。でもここは自分の家ではないし、母親以外の慌ただしく動き回る人たちが医者や看護師であるということにようやく気づく。
(ここは病院……?)
疑問が胸に湧き上がったが瞼が再び落ちてきて、ユウは引きずられるようにもう一度眠りへと落ちていったのだった。
次の日、目を覚ましたユウには以下のことが説明された。
学校に行く為に乗っていたバスが交通事故に巻き込まれ、外傷が殆どないにも関わらず、三ヶ月程意識不明の状態だったこと。ユウの身体の筋肉は衰えており、まだしばらくはベッドの上で一人で起き上がることも難しく、少しずつリハビリを通して筋力の回復に努めないといけないこと。その間に母親から連絡を受けたのであろう、父と兄が慌てたように病室に駆け込んできたものだから、ユウはぱちぱちと瞬きをした後へにゃりと笑った。
ユウは元いた世界へと帰ってきた。
一瞬、あの世界での出来事は自分が見ていた長い夢だったんじゃないかと頭をよぎったが、ユウは自らの着ているパジャマのポケットに触れて微笑んだ。
(夢じゃない)
ポケット越しに存在を主張しているのは、自分があの世界から持ち帰った宝物だ。
ツイステッドワンダーランドの友人や先輩たちにもう会えないのかと思うと寂しい。だがそれでもこれは自分が選択した結果だ。
ならば、マイナスなことばかり考えていてはいけないとユウは自らに言い聞かせた。
意識を取り戻してから一週間後、人はただ眠り続けただけでもこんな風になるのかと驚く程にユウの身体は全く動かない。少し身体を動かすことすらかなりの労力がかかる。そのことに驚きつつも、毎日、理学療法士の先生と身体を動かす訓練を重ねる内に、ユウの身体は少しずつ元の動きを思い出していった。とは言ってもまだまだ自分一人で身体を動かすことは難しいので、朝にやってくる看護師さんにベッドの上半身部分を起こしてもらう。
ユウはその体勢で、換気のために開けられた窓の外を見るのが好きだ。病院の庭に植えられた桜の木が花を咲かせていて、さぁさぁと柔らかい風と共に散った花弁が一枚、二枚と舞い込んでくる。
ユウはゆっくりと指を動かし、爪の先でそれに触れた。
(ユウさんの住んでいた場所では、そのような花も咲くのですね)
頭蓋の中で柔らかい声が響く。自分の中に積もった感情はまだ鮮やかで、その色合いがユウの胸をじりじりと焼く。
繋いだ手の大きさも、人とは違う姿も、怖い笑顔も、柔らかい声も、どれもまだユウの中で咲き誇っているけれど、これはもうどうにもならない感情で、実ることは永遠にない。
自分の中を埋め尽くす感情を抱きしめて、ユウは目を瞑る。
(ジェイド先輩、あなたのことが好きでした)
心の奥底で、ひっそりと告げる。もう永遠に届くことのない無意味な告白の言葉だ。
まだぎこちなく殆ど自分の思い通りにならない腕を動かしてポケットに入っているそれに触れる。チャリ、と金属のぶつかる音にユウはほぅと息を零した。
(これを持ち帰ったところで苦しいのは自分なのにね)
ユウがあの世界へ転がり込んだ時には何も持っていなかったから、てっきりあの世界のものは全て置いていけと言われるかと思っていた。けれど夜闇を切り取ったようなあのヒトは好きなものを持ち帰っていいと言ってくれたのだ。
(卒業式で本来は、カレッジリングをお渡しするんですがね。急で間に合わないので代わりに許可しましょう)
その言葉に背中を押され、悩みに悩んで二つのものをユウは選んだ。
(こちらから転送する際に、いくら優秀な私が術式を施すとはいえ、絶対に成功するという保証はないので、そこは頭に入れておいてくださいね)
とても、本当に、とーっても難しい術式なのですよ、これは! と口にした彼の声は真剣だった。いつだってどこか道化じみた振る舞いをするクロウリーであるが、重ねられた言葉に嘘はないのだろうなとユウは小さく頷いた。
だから、持ち帰れなかったらそれはそれで仕方がない。いや、どこかで持ち帰れなくてもいいと期待していた自分がいたけれど、この賭けは自分の負けだった。
終わらせてしまった恋心、もう咲くことなく眠りにつく瞬間を待つしかないそれをまだユウは胸に抱きしめている。
本当に大切だった、あちらの世界でひそりと絶望に涙しそうになるユウに力をくれた感情だ。
だから大切に、大切に、さようならの準備をすると決めている。
窓の外、咲き誇っている桜の花弁がはらはらと落ちる様を見るユウの耳元で、ざぁんと波の音が聞こえた気がした。
***
リハビリを重ね、無事退院したユウは休学していた高校へと再び通い出した。とは言っても本来よりも一つ下の学年への編入という形になった。
出席日数の関係である意味当然のことだったが、しばらくはクラスメイトとどう接したらいいのかわからず戸惑ってしまった。それは彼らも同じだったのだろう。微妙な雰囲気を作り出してしまうことに申し訳なさを感じる日々がひと月ほど続いた時に、ユウは自らの意識を切り替えることにした。
自分に出来ることからやっていくしかないのはナイトレイブンカレッジでも、この学校でも変わらない。やれることを全部やってそれでも駄目ならその時は次の策を考えようという思考の元、行動を開始したのだ。
何もかもわからない状態で放り出されたあの時に比べれば、今の方が全然マシだ。それに、退院してから毎日学校に通って、授業も真面目に受けて偉い偉いと自らを褒めながら日々を過ごす。そして時折少し心が弱くなった時に、ユウは机の奥にしまっていた宝物をそっと引っ張り出すのだ。
一つはグリムとおそろいだったリボン、それともう一つ、ジェイドの鱗を加工して作ったブレスレットをユウは持ち帰っていた。
彼にプレゼントとして貰ったものは全部置いてきたが、これだけは持ち帰ってしまった。
与えられたものではなく、ユウが自らの力で手に入れたものの象徴であるこれを手放せなかったのだ。
(貴方が自らの手で得たものだ)
自分に出来ることなんて殆ど無いと感じていたあの時にジェイドがくれたその言葉は、今もユウの胸の内できらきらと輝いて、前を向くための力をくれるのだ。
あの学園で過ごしていた日々の事はあまりに鮮烈すぎて、忘れることなんて出来ないだろうと思っていたけれど、それでも段々と記憶は端の方から静かに色褪せていく。
その事実に対して思うことは悲しいとか苦しさよりも、安堵が心を占めていた。
緩やかに時間が経つにつれ、ユウの胸の内に積もっている感情の色も褪せていく。好きだという気持ちは残っているが、それは段々と良い思い出として変質し始めていた。
恋情を胸に抱きつつユウは高校卒業後、大学に進学をして、海にほど近いアパートで一人暮らしを始めた。
家から通える距離にもいくつか自分の行きたい学部を持つ大学は存在していたが、結局ユウは家を出ることを選んだ。
海の音が聞こえるアパートで暮らしながら大学に通い、時にアルバイトをして生きていく。 ざぁざぁと耳に届く波の音に混じって尾鰭が水面を叩く音が聞こえないだろうかと最初は考えることもあったが、学年があがりゼミや就職活動が始まり慌ただしい日々が続くにつれ、そんなことを考える回数も段々と減っていった。
気づけば机の引き出しを開ける回数も減って、たまに宝物をしまっていたと思い出す程度になっていた。頭蓋の中で響く声もだいぶ形があやふやになっていたが、それでも彼の二色の異なる瞳の色が時折、ユウの記憶の中で輝く。
ツイステッドワンダーランドを離れ、季節が幾度となく巡った。
テレビで開花予想を見たユウは海沿いの道を歩き、アパートから程近い公園に咲くサクラの木を見に来ていた。
はらはらと舞い落ちる薄紅色の花弁の下に立つと、何故か彼の昼の海のような色が脳裏にちらついた。
さよならを告げられたくせに、まだユウは自らの気持ちとの別れを終わらせられていない。
(駄目だなぁ)
ユウの胸の底では、今もまだあの世界での恋がひっそりと息している。
友人にも大学でかっこいいと思う人はいないのか、好みのタイプでもいいとそんな言葉を受け取ることがいつの間にか増えていた。
その度、いつもユウは決まりきった言葉を返していた。
「ずっと好きなヒトがいて……。だから、今はまだ他の恋って考えられないんだ」
静かに、静かに降り積もったそれはまだユウの中で、色褪せてはいるが息している。自分でも諦めるのが下手だなと苦笑してしまうが、仕方がない。
もう五年以上もこの恋と共に生きてきた。
でも、とユウは瞼を閉じて想う。あと一年で自分は大学を卒業する。
来年からは社会人として働くだろうから、その時は今住んでいるアパートの部屋も引き払って、海から遠い街の中心部に住もうと思っている。
海とサクラ。ユウの中であのヒトを象徴する組み合わせの片方からとうとう離れることになる。
ユウにとって面白おかしく時に怖く、馬鹿なことをして先生に思い切り怒られて、そしてあのヒトに恋をしたとびきりの幸せが詰まっていた夢。
いつまでもそれに甘え続けるわけにはいかない。
ユウは自らの恋情の死を優しく見守り、新しい一歩を踏み出すのだ。
「……紅茶でも、飲んで帰ろうかな」
ぽつんと声を落としたユウは良いアイデアだと思った。
アパートのすぐ近くにある小さなカフェで出される紅茶はとても美味しく、それとセットで頼む小さなケーキがユウにとっての細やかな贅沢で、今日もついつい誘惑に負けてしまった。
この場所にあともう何回、自分は訪れるだろうかと席に座り、注文して出てきた紅茶を見つめながらユウは考え、口をつけた。ふわりと漂ってくる香りを楽しんでからこくりと飲んだ紅茶はすっきりとしてストーレートでもとても飲みやすい。
さらにひと口、ふた口と飲んで、カップを机へと戻す。
美味しいけれど、どこか感覚が遠い。
こちらに戻ってきてから誰かに言ったことはないが、自分の胸にはぽっかりと小さな穴が空いてしまっている。きっと、もう何年経ってもこの穴が塞がることはないという確信がユウの中にはある。
(ユウさん、今までありがとうございました)
ジェイドの声を聞き、彼の笑顔を見た瞬間、ユウの感情の一部は死んだ。
ユウが勝手に育てて、期待して、殺してしまった恋心。
あの時は辛く苦しかったし、今もなお心の一部は失われたままだなと考えながら、これが一番良かったのだとユウは考えている。
だってあの場に一時の熱に浮かされて残ったところで、ユウはきっと駄目になっていた。
人が何もしないまま海の中で暮らすことが出来ないように、あの世界で異物だった自分があの場に残ったところで、いずれ耐えられなくなる時がきただろう。
帰れなくてあの場所にずっといるということと、帰ることは出来るのに帰らないというのでは全く訳が違う。
だからジェイドに何を言われても、選択は変わらなかったと理解しているのに、それでも頭の隅で、小さく丸くなって、花びらのような感情を両手で抱きしめて声もあげずに泣いた自分がいる。最初の二年程はずっとそんな感じであったが、徐々にユウも自らの感情と向き合うことが出来るようになっていた。
(段々と朧気になって、それで最後には綺麗に消えるんだろうな)
毎年少しずつサクラを見る時期になると、ユウはジェイドとの思い出を整理していた。
例えばあの時の表情が好きだったなとか、この時の声の柔らかさが嬉しかったなとか、うっかり夜に話し合いの帰り道であった彼の瞳の鋭さに見惚れてしまったなとか。一つずつ手に取って、そうしてユウはそれを心の奥にある海に沈めていた。ここに沈めば、もう思い出すことは殆ど無くなるだろうと、不思議なことにユウはそう理解していた。
心の奥底にあるその海は昼の海のようにいつも鮮やかな色でそこにある。
その場で感情を手放す瞬間、手が僅かに強張るが、それでもユウはこの動作を止めることはしなかった。
(あと、どれくらい続くかなぁ)
そんなことを考えたユウは、頼んだミルクレープにフォークを刺したのだった。
カフェで穏やかな時間を過ごした後、ユウは海岸へと足を伸ばしていた。今日の足元は白のレースのソックスにお気に入りのピンクベージュのサンダルで、砂がついてしまうかなと一瞬考えたが、結局ユウは吸い寄せられるように、波打ち際を歩いていた。
ツイステッドワンダーランドへ渡る方法はどこにもない。
もう終わったものだと頭では理解しているが、なかなか上手く進めない。
(いつまでも引きずってても仕方ないのにね)
ざぁんと波が足元すぐ近くへと伸びてくる。あちらでは衣服が濡れたとしても乾かすのも一瞬ですごかったなとそんなことを考えた瞬間のことだった。
「……お久しぶりです、ユウさん」
「……っえ?」
色褪せてしまった記憶を一気に呼び起こす声色に、ユウは思わず足を止めてしまった。 ざぁざぁと寄せてはかえす波の音しか聞こえない筈のユウの聴覚は全く別の音を拾っていた。
幻覚ではないだろうかと、まず始めに自分の耳を疑う。
だって、あんな甘く絡みつくような声をもう聞くことはないと考えていた。けれど視界に映るヒトは相変わらず昼の海を切り取ったかのような色彩をまとっている。
「監督生さんにお会いしにきました」
にこりとあの時と変わらない笑みを浮かべたジェイド・リーチがそこに立っていた。
***
「まさか先輩たちがこちらの世界に渡ってくるなんて、夢にも思いませんでした」
目を細めた彼、いや、正確には彼女を見てジェイドは僅かに視線をさまよわせた。
「先輩、どうかしましたか。ってあ、もしかしてこの姿のことですか?」
「は、はい。ユウさんは、雌……いえ、女性だったのですか?」
ジェイドの言葉を聞き、にぃと笑うその表情は確かに学生時代のユウを連想させて、あぁ、彼女は間違いなくあのオンボロ寮の監督生なのだなと思う。
「そっか、先輩にも気づかれていなかったんですね。なんだかんだやっぱり学園長はすごかったんだ」
どういうことかと尋ねれば、名門魔法士養成学校に、たった一人の魔力無しの女子が紛れてしまったとは大問題になる。ならばせめて性別を男子ということにしておこう! って話になって、男子として通うことになったんですよと記憶の中の彼女より少し柔らかい声がジェイドの耳に届く。
男子にしては随分と細いと思っていたが、それはある意味当然だったのだ。
「それで、アズール先輩とフロイド先輩も一緒なんでしょう?」
ことりと首を傾げつつ、告げた彼女の言葉に僅かに目を見張った後、ジェイドはゆっくり息を吐きだし、にこりと微笑んだ。
「ここには僕一人で来ました」
「そうなんですね。新しいビジネスの視察ですか? あちらになくて、こちらにあるものをたくさん買って帰ったりします?」
今度は、あちらの世界の記憶があやふやですが、それでも多少はお力になれると思いますよ、と笑う彼女の薄いブラウスの袖から出ている腕はあの時以上に細くて、今ここでジェイドが掴んだら簡単に骨が砕けるだろう。それはこまると思いながらジェイドは口を開いた。
「いえ、今回はビジネスでこちらへ渡ったのではなく。貴女に会いにきました」
いつかの
――彼女と同じように、まっすぐに彼女の、深い海底のような黒を見つめる。
彼女の目が大きく見開かれる。
驚きを含んだその表情を見て、ジェイドはさらにその目に注目する。
嫌悪の色はない。怯えの色もない。
彼女に気づかれないようにそっと安堵し、ジェイドは息を吐きだした。
さすがに彼女と付き合い始めた当時のような反応をもし返されていたとしたら、ジェイドの嗜虐心を刺激されてしまっていただろう。
だが当時、彼女が自分に向けていた、淡い柔らかな感情の影もない。
そのことに、ジェイドはぎりりと奥歯を噛み締めた。
あの時、自分はそれを手放してしまった。
今更後悔したところで遅いが、完全に手遅れということはない筈だ。
あの時と同じ色が見えなかったとしても、大丈夫な筈だ。
「もう一度お会いしたくて、やってきました。迎えに来たんです。ユウさんは僕のこと、最初は苦手だと思っていたと思いますが、嫌いではでしょう? 皆さんも、貴女の帰りを待っているんです」
自分の喉から出たとは思えない程、甘ったるい声が出た。最初は怯えていた彼女も段々と穏やかな表情を見せてくれるようになっていた。彼女は表情が外に出やすかったから、自分を嫌いだったということはない筈だ。
自分の言葉を聞いたユウは僅かに目を見開き、そして静かに口元に笑みを浮かべて唇を開く。
「……ありがとうございます。でもごめんなさい、自分はもうあの世界へはいけません」
そして言葉を紡いだ彼女の自分を見つめる目は静かで透明だった。
ジェイドは拳を強く握ってなんとか胸の中で暴れ回る感情を制御しつつ、唇を開いた。
「どうしてか、お伺いしても? 大切な方が出来たから、とかでしょうか」
それならば、自分がすべきことの優先順位が変わってくることになるとジェイドは妙に冷えた心の奥底で考える。
「いえ、そういうわけではないんです」
ジェイドはじっと彼女を見つめ、嘘を言っているわけではないと判断を下して言葉の続きを待つ。視線が一瞬絡まり、ユウが静かに再び唇を開いた。
「あの時、自分は、ジェイド先輩に恋していました。でも、もう終わったことなんです」
ユウは笑顔だった。しかし綺麗に貼りついたそれは、ジェイドを柔らかく拒絶する。
誰も他に好きなヒトはいない。ならば間に合ったと思ったのはジェイドの妄想に過ぎず、さらにユウの唇は多くの言葉を紡ぐ。
「貴方に恋をして、たくさんの感情をいただきました。どれも大事なものです。だからこそ、ちゃんと葬ってあげないといけないと思っています」
ジェイドの耳に突き刺さる柔らかい声が、あまりに穏やかすぎて、だからこそもう遅いのだと言外に告げている。
「……こんな自分に会いに来てくださって、ありがとうございます」
会釈したユウがジェイドに背を向けて、自分の手の届かないところへ行こうとする。
ジェイドは慌てて足を動かした。二本の足が急激に自分の思い通りに動かなくなった気がしならがも、もつれる足をどうにか動かす。
ジェイドの背を冷たい汗が滑り落ちていく。
「ユウさん、まって、待ってください」
あの時、彼女は自分に恋をしていて、今は他に好きなヒトはいないというのであれば、自分の手を取れば良いのに、どうして彼女は緩やかに自分を拒絶するのかがわからない。
何故、どうしてという言葉が頭の上で弾けて消える。
いつだってユウはジェイドの思惑の外にあるような行動を取る人であって、当時はそれが面白かったが、今は苛立ちばかりが募る。
「自分のこれはもう過去の優しい思い出なんです、人間は忘れる生き物です、あと少ししたらそんな感情があったこともあまり思い出さなくなるでしょう」
ユウの言葉に、ジェイドは言葉を失ってしまう。
「……、僕は、いやです」
自分に関係するものが、彼女から失われるという事実がジェイドには耐えられなかった。
それだというのに、彼女は全部を捨てるのが当たり前なのだとそう軽やかに告げて、自分を切り捨てようとする。
それが信じられなかった。予定調和は好きではないけれど、心の奥底で、自分が迎えに行けば、彼女は喜んで手を取ってくれるだろうと思っていた。そんな楽観的な考えが頭を占めていたことに気づいたジェイドは己の愚かさを呪いたいような気持ちになる。
降り積もってぐちゃぐちゃになっていたものはまだ全部、ジェイドの中に残っている。
彼女にも自分と同じようにいて欲しかった。
「……、どうしてユウさんはあの時、僕には見せてくれなかった表情を、グリムくん達に見せたのですか。どうして僕にだけ言葉を残してくれなかったのですか。ずっと一緒にいたじゃないですか、どうして」
どうして、どうして、そんな疑問がジェイドの口から溢れて、開いて、足元に散らばってしまう。
全部吐き出したその奥から、ジェイドの願望が顔をのぞかせた。
「……っ僕、ユウさんとサクラに似た花が見たかった。いいえ、ずっと約束を重ねながら側にいたかったんです」
もう、それは何年も変わることなく、ジェイドの胸に咲き続けていた願いだった。
***
ジェイドの口から落ちた言葉に、ユウは目を見開き、そして唇を噛み締めた。
どうして今更そんなことを言うのだろうとユウは泣きたくなりながら顔をあげて驚きのあまりぴしりと動きを止めた。
勝手すぎる意見を口にしたジェイドの目からほろほろと滴が零れ落ちていたのだ。
当たり前のようにユウが帰ると疑っていなかったり、自分が声をかければツイステッドワンダーランドに戻ると思っていた。そんな自分勝手なヒトが声を上げることもなく、ひたすらに声もなく泣いている。
「……、なんで今更こちらの世界へやってきたんですか」
あんなに自分との関係を簡単になかったことにした酷いヒトだと思うのに、彼がどう感じて考えたのか、それをちゃんと彼の言葉として聞きたいと思ってしまった。
「だってユウさんは帰りたがっていたでしょう。……大切な人たちに二度と会えないというのは、苦しいなと思ったんです」
降り注ぐ声は、あの頃の面影を残したまま、柔らかく、ユウの心の内側を撫でる。
あまりに酷いヒトだと思った。
毎年、ユウはサクラを見る度に一つ、また一つとジェイドとの記憶と恋心をそっと葬ってきた。もう二度と交わらないそれを簡単に捨て去ることは出来なくて、何年もかけてゆっくりとお別れをする瞬間を待っていたのだ。
(一年後には海の側を離れて、少しずつ新しい環境に順応していく内に忘れられると、そう考えていたのに)
どんな方法を使ったのかユウには全く想像がつかないが、彼はこんなところにまでやってきてしまった。
ぱしゃん、と自分をぐるりと取り囲む、美しい尾鰭の先が水面を叩く音が聞こえた気がした。
あぁ、駄目だとユウは胸の前でぎゅうと握りしめた。
少しずつ穏やかに、いつか素敵な思い出をありがとう。貴方を好きになれた自分は幸せですとそんな美しい言葉で飾り立てて、時折思い返すようなものに出来るなんて、なんでそんなことを考えたのだろう。
「……っ、どうして、あの時、そのことを少しでも……」
少しでも言ったからといって何も変わらなかっただろうことを一番理解していたのはユウなのに、随分と勝手すぎる願いに思わず眉をひそめてしまう。
だけれど言わずにはいられなかった。
感情を思い出にして、静かに、静かに眠りにつく瞬間を何度も見て。そんな自分の苦しみを知らずに彼はなんて酷いことを口にするのか、ユウは叫び出したい衝動を抑えるために、ぎゅ、と唇を噛んだ。
するとそのかわりというのもおかしな話だが、目からぼろぼろと大粒の涙が落ちて、足元の砂に沈み、色を変えていた。
***
「……ずっと、契約前からユウさんのことが気になっていたんです。それで契約を持ちかけて、一緒にいることが楽しくなって、でも当時の僕はそれが恋だなんて全く気づかなかった。フロイドとも、アズールとも違う、何かの答えがわからずにいた」
ジェイドはユウの表情が苦しげに変わったことを、口にはしなかったが心の内で喜んでいた。確かに過去のことになっている部分もあるのだろうが、それでもまだ自分への感情は彼女の中で完全に死んでいるわけではない。そのことがわかっただけ良かったとジェイドはぐ、と拳を強く握りこんだ。
一度は無意識のままに尾鰭の中に囲んだというのに、それを逃がしてしまったのは本当に愚かだっただろう。だがやはりあの時、彼女の手を一度離したことは間違いではなかったとも思う。
「……、マスカットレモン味とブレスレットのことなのですが」
そう口にすれば、ユウの身体が昔のように思い切り飛び跳ねる。
あぁ、これはいけない。相手につけいる隙を見せてしまっている。今はない背鰭がざわりと震えるような感覚を抱きながら、ジェイドは言葉を紡ぐ。
「そのことについてお伺いしたいな、と思っていたのですが、今は良いです」
涙をぼろぼろと零している彼女の頬に、持っていたハンカチで軽く触れれば、彼女の身体が僅かに強張る。目を細めて見つめたジェイドは、ゆっくりと口を開いた。
「また会いに来るので、その時に聞かせてください。僕はその為にこちらの世界へやってきました」
そう告げれば、水を溜めた彼女の美しい目がまん丸に見開かれ、ジェイドを映していた。
「え? で、でもあれは学園長は、とても大変な魔法だと言ってました」
自分をただ一度、再びいた世界に戻す為に、彼や先生たちが多くの時間と能力を費やしてくれたことをユウは知っている。
だけど、ジェイドはまた来週会いましょうと、まるであのときのような気軽さでユウと約束を重ねようとする。
親しい人の葬列を見送るようなそんな悲しさともう別れられると思っていた。そんな矢先に突然現れたジェイドはあの頃と同じように確定事項として未来の約束を取り付け、ユウが静かに手放したものの上から新しいものを積み重ねようとする。
「しばらくは大丈夫なので、会いにきます」
***
ジェイドの言葉を聞いたユウはぱちぱちと瞬きを二度して、眉をつり上げた。
そうやって笑顔の下になんでも隠せると思ったら、大間違いなのだ。
ふつりふつりと胸の内で感情が熱を帯び、爆ぜてしまった。あまりに感情が暴れ狂うものだから、涙もぴたりと止まってしまった。
「何も、大丈夫じゃないでしょう! そうやって何もかも笑顔で隠せると思わないでくださいっ!」
自分の喉から放たれたそれは、想像の数倍鋭さを帯びていた。まずいな、と思うけれど、一度出てしまったものはもう戻せない。
ならば全部、吐き出してしまおうとユウは深く息を吸い込んだ。
「そんな大がかりな魔法を気軽に使おうとするなんて、ジェイド先輩、アズール先輩か、それとも全く違う誰かと契約したんでしょう! 対価は何を支払うんですか。なんで、あれに気づいちゃうんですかっ、ブレスレットのことだって、どうして、……気づいちゃったんですか」
皆へのメッセージはなんとなく大切なヒト達に気恥ずかしくて言えず、しかし自分の内に留めておくのも辛くて文字にして満足していたものだった。
マスカットレモン味の包みにも、他の誰かにあてたメッセージを残そうとして、結局、ジェイドが好きな味と思うと使えなかった。挨拶は最小限にというのは元から決めていたけれど、メッセージくらいは残そうかと思って、何度も書こうとして、そして失敗してしまった。
何を書いたとしても、自分の胸の内に咲いてしまった感情の一片が滲み出てしまうと思ったのだ。
だから全部、失敗したものは捨ててきた。けれど、そんなことに気づかれるなんて夢にも思っていなかった。
ブレスレットは自分で手に入れたもので、ジェイドが自分を認めて渡してくれたものだということが嬉しくて、手放せなかった。
それでもこの感情と別れるであろう最後の日に、海にかえそうとそう思っていたというのに、ジェイドは全部、ユウが捨て去ったものを拾い集めようとする。沈めた感情の花弁を泳ぎ集めて、ユウの心情などおかまいなしとでもいうように当たり前のように差し出してくる。
捨て去れなかった感情の欠片が、ユウの頭上で美しく咲きほこり、その花弁がまた足元に音もなく降り積もっていく。
どうして、葬りされると思ったのだろう。あと少しでさよなら出来るなんて思ったのだろう。
「……僕にだけ何も残されないのが苦しくて仕方がなかったんです。ユウさんの友人達には当たり前に与えられたそれは、本来であれば契約とは言え、恋人だった自分にまずは渡されるものだと思って。何もない筈がないって必死に探したからです。ユウさんの欠片を」
耳に飛び込んできた声にゆっくりと視線を上げれば、ジェイドの耳元が、頬が、赤く染まっている。
「だけど何もなくて、それを受け入れられなくて会いにきました」
フロイドとアズールのあの呆れかえったような目、忘れられませんと告げたジェイドの声がほんの少しだけ小さくなる。
ただ、まさか女性とは思っていなくて、その勝手に部屋に入ってしまったことは謝罪します、すみませんと耳に届いた言葉に、思わずユウは声をあげて笑ってしまう。
「謝るところそこじゃないです」
本当に、何もかも自分とずれていておかしなヒトだ。でも、自分から一方通行だと思っていたものが違っていた、それを嬉しく思ってしまっている自分も確かにここにいる。
(しょうがないなぁ)
今の自分はまだ完全に大人だとは言えないけれど、それでもこれから先を自ら選択するべき年齢になったとも言える。
「勝手に部屋をのぞいて、追いかけてきて、自分が一緒にあちらの世界に帰ると思いこんでいたって……ちょっと酷すぎませんか?」
改めて言葉にすれば、本当に酷い。それはジェイドも少しは自覚しているのだろう、気まずげな表情で、ユウから不自然に視線を逸らしている。
(やっぱり、可愛い)
もう何年も経っているのに、自分の中に浮かぶ感情がそれなのだから、酷さで言えば、お互い様だろう。
ジェイドの手にそっと触れて、ユウは薄く息を吐き出した。
「……行動だけだと酷いことしかわからないので、ジェイド先輩の望みをもう一度ちゃんと言葉にして聞かせてください」
ひらり、ひらり、感情がまた降り始める。目の前にいるヒトの行動をしょうがないな、とただその一言で自分の中で片付けてしまおうとしている段階で、ユウの敗北は決まっていた。
だけれど負けっぱなしはいやだとも思う。
(とことんジェイドはのめり込むよ)
いつだったか彼の片割れが教えてくれた情報が鮮やかに脳裏で蘇る。聞いていたけれど、実際にまさか自分がその対象となるとは想定していなかった、ユウの負けだ。
(追ってきてくれて嬉しいって思ってるのはもう少し内緒にしておこう)
少しくらい反撃しても許されるだろうと思いつつ、ユウはジェイドの瞳をじっと見つめた。
昔、ユニーク魔法のことを知っているのに、何故見るのかと聞かれた時からユウの答えは変わらない。美しいこの瞳をのぞき込む瞬間が好きだからだ。
「……たくさん約束をしながら、僕と一緒にいてください。あなたのことが好きです」
だから、お願い、僕を選んでと耳元で弱々しく囁かれた言葉に、ユウは手に力をこめて微笑む。
彼を選ぶということは今度こそこちらの世界を捨て去ることになるのかもしれない。
大事なヒト達にもう会えなくなるのかもしれない、それを今、ユウはもう一度、自らの感情に基づいて選び取る。
だって世界を渡るなんてことをする為に、ジェイドは多くの時間と、対価を払っている筈だ。
その努力を知ってしまった自分の答えはもう決まってしまっている。
それにジェイドがまた会いにくると言っていたから、家族と今度はちゃんと挨拶をして、色々な準備をする時間を取ることは出来るだろう、とそんなことをユウは冷静な頭の隅で考えた。
「はい、ジェイド先輩。……自分もあなたのことが、好きでした」
自分の言葉を聞いたジェイドの瞳が見開かれ、それからぎゅと眉間に皺が寄る。笑顔でうまく取り繕うこのヒトのこんなに感情豊かなところを見られる人間は多くないだろう、それが嬉しくて胸の内がふわりと暖かくなる。
「……そしてこれから、もっと好きになります」
だからよろしくお願いしますと伝えれば、彼の色違いの目が柔らかく細められる。
その瞬間を、ユウは自分の中に焼き付けながら微笑んだ。