文化を東京で終わらせる気かよ
私は地方出身者で、現在も関西に住んでいる。関西とはいえ片田舎だ。大学の研究者だった立場上、様々なところに住んだが、意外と関東に住んだことがない。
こういうバックグラウンドだという理由もあり、最近苛立っている潮流がある。それは、芸人が本を書いて読んでギャーギャー騒いでいる昨今のブームである。
公平を期すために書いておくが、私は芸人が書いた本をほとんど読んだことがない。読んだことがないと断定しようとしたところでオードリーの若林が書いたエッセイを読んだことをギリ思い出したのでこういう表現になった。芸人作家ブームの火付け役は又吉の『火花』だろうが、もちろん読んでいない。これからも読む気はない。この世には優れた本が溢れているのに、なぜ芸人の書いた本なんぞ読む必要があるというのか。
芸人によって書かれた本を便宜上「芸人本」と呼称するが、私が芸人本やその周囲を取り巻くムーブメントを毛嫌いしているのは、別に芸人本が低質だからではない。ものによるだろうが、質の高い本もあるはずだ。だがそこは問題ではない。重要なのは、芸人本を取り巻く潮流が「東京一極集中」による歪み、とりわけ文化的リソースの偏りによる格差を象徴するものだと感じているからだ。
東京という選択肢
嫉妬「できる」ことの意味
以前、バキ童チャンネルで以下の動画を見た。他者への嫉妬を素直に語るという、動画としては素晴らしいものだったと思う。
ただ、動画を見ていて本筋とは違う発見があった。それは、出演者のひとりである芸人の谷口つばさが、文芸評論家の三宅香帆に対する嫉妬を語ったことだ。
三宅香帆に嫉妬するというのは、実際のところ難しい。そもそも嫉妬は、自分が手に入れられるはずのものにしか生じえない感情だ。私であれば、うまいことやって大学で地位を占める研究者に嫉妬することはあり得るが、大谷翔平に嫉妬することはない。野球をやったことがないし、野球ができることに価値も感じていないからだ。
谷口つばさが三宅香帆に嫉妬「できる」ということは、裏を返せば、谷口は三宅のような活躍やそれによる名声を手にする可能性を現実的に考えているということだ。その発想はさほど馬鹿げたものではない。事実、谷口は春とヒコーキ・ぐんぴぃとピーター博士に関する書籍の執筆に携わり出版しているわけで、物書きという点では同じ土俵に立てている。
もちろん谷口と三宅の立場は大きく違い、同じ土俵に立てているだけ、とも言える。だが、私を含めほとんどの人は同じ土俵にすら立てない。文芸評論家とかどうやってなるの?という状態だ。こういう人は、そもそも三宅香帆に嫉妬するという発想すらない。それこそ、大谷翔平と同じ箱にしまわれる情報だ。
東京の可能性
谷口を始め、動画で嫉妬をする人々には共通点がある。それは、彼らが東京に住んでいるということだ。
東京に住んでいる人にはわからないことだが、東京に住むということには莫大なアドバンテージがある。芸人や作家として生きていける可能性がある、というのもそのひとつだ。
可能性の高さは、東京のリソースの多さに由来する。芸人になりたいと思えば、東京には芸能事務所が無数にある。どこかが拾ってくれるだろう。人も多いから相方も探しやすい。劇場も多いからどこかで出られるだろう。実際に売れるかどうかはさておき、売れるための道筋はある。
物書きとしても同じことが言える。東京には出版社を始めメディアが多い。どこかで書き手を募っていればそこに参加する機会がある。最近は遠隔で仕事をすることも多かろうが、リアルな人間関係があるほうが仕事を貰いやすいのはどの業界も同じことだ。
『ゆる言語学ラジオ』などで知られる堀元見は、しばしば自身が大学を出た直後のことを語っているが、そのエピソードには東京のリソースの多さが凝縮されている。シェアハウスをするための場所やシェアをする相手も、面白い若者を探して彷徨う謎の金持ちも、オフ会を頻繁に開くブロガーも東京に集中している。私はかつてブロガーだったが (いまもか)、オフ会を開くという発想すらなかった。堀元がオフ会で出会ってきた「全然面白くないブロガー」の中には、『九段新報』の閲覧数に全く届かない人も相当数含まれていたはずだが。
東京には発想の道筋がある
いや、それ以前に、そういう人生の選択肢があることを把握できること、しかもその選択肢がそれなりに現実的だと把握できることに、東京出身者 (ひいては都市圏出身者) の大きなアドバンテージがある。地方出身者はそもそも、多様な進路を想定する機会を絞られている。
私が犯罪学者になりたいと思ったのは中学生の頃だった。ただ、その理由は福山雅治が主演する『ガリレオ』を観たからだった。田舎の子供にとって、犯罪学への関心を現実的な職業像へ昇華する手段はテレビのフィクションしかなかった。幸い私の出身地は妙に教育熱心だったが、大人たちは大卒すら多数派だったか不明で、大学院を出ている人間を見る機会は皆無だった。私が出身地で初めての博士号取得者だと言われても驚きはしない。
もちろん、地方だからといって稀な進路の存在を知り、それを目指すことができる可能性がないというわけではない。第一、私がその稀な進路を目指した例だ。先に動画に登場する人々も、例えばぐんぴぃは九州の出身だった (ただし、福岡出身らしいので都市部の出だと考えてよさそうだが)。
とはいえ、ぐんぴぃが本当に芸人になろうと考え、実行に移せたのも、彼が関東に住んでいたことが大きく影響していると思っていいだろう。彼は青山学院大学の出身だが、そこの落語研究会で著名なプロの落語家に会う機会もあり、恐らく芸人になった人も見ていただろう。これが地方の大学なら、落研だったとしてもプロの落語家に会う機会があるかどうか……ということにもなりかねない。そういう環境にいる人間が芸人で食っていこうと思うだろうか。
いや、確固たる信念があれば地方出身でも困難を乗り越えて稀な進路を目指すだろう、という主張もありそうだ。が、その主張は的を外している。重要なのは、確固たる信念がなくても稀な進路を現実的に考えられるアドバンテージが東京や都市部にはあることだ。そして、進路の成否は信念の強固さとあまり関係がない。
もちろん、仮に私が東京出身だったとして、三宅香帆のような文芸評論家を目指していたとは思えない。たぶん東京出身だったとしても犯罪学者になろうとしている。とはいえ、文芸評論家とか何かしらのライターや作家とか、そういう人生の可能性が頭をよぎりすらしなかったことは考えてしまう。地方に生まれた私は、その選択肢を選ばないことすら出来なかった。
東京人文主義
年末ごろ、令和人文主義なるワードが飛び交っていた。別に令和人文主義の議論を追いかけてはいないが、傍から見ても冷める言葉遣いだ。
この記事は『九段新報+α』の連載記事です。メンバーシップに加入すると月300円で連載が全て読めます。
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金のない犯罪学者にコーヒーを奢ろう!金がないので泣いて喜びます。



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