公立学校の現場では、外国籍の子どもたちが増えている。その中には、将来は教師になる夢を抱いている子どももいるかもしれない。しかし現状では、たとえ日本の大学で学び、教員免許を取得して教員採用試験に合格したとしても、日本国籍を持っていなければ、一部の自治体を除き「教諭」ではなく「任用の期限を附さない常勤講師」として採用される。教師としての能力や主な職務内容は変わらないにもかかわらず、教諭ではないために主任などを担うことはできず、昇進も制限されている。日本国内で暮らす外国人の人口が増えている今、長年変わってこなかった外国籍教員を阻む「当然の法理」の妥当性を問う。
外国籍教員が感じる周囲の無関心
「私は小学4年生の頃から学校の先生になりたかった。でも、高校3年生のとき、国籍条項というのがあって教師になれないと知ったときは本当にショックだった。自分の努力が足りなくて教師になれないのならば納得できる。でも、日本国籍がないという理由で教師になれないのはおかしいと思った。だから、日本国籍を取ってまで教師になろうとは思わなかった。これは私が国籍を変えればいいという話ではない。日本が変わるべきことだからだ」
関東地方の公立高校で国語を教える李智子(り・ちぢゃ)さんは、4月の最初の授業の冒頭で必ず、目の前の生徒に自分の生い立ちを説明する。日本の炭鉱で働いていた祖父が、終戦後に韓国には帰れずに日本で商売を始めたことや、歴史的な事情で日本で暮らす在日朝鮮人の人々の存在について、そして、自分自身が高校生のときに知った国籍の壁。その後、1991年に実施された教員採用試験から日本国籍のない人も受験が認められるようになった。しかし、合格しても「教諭」ではなく「任用の期限を附さない常勤講師」として採用される。実際に李さんも、教諭ではなく「任用の期限を附さない常勤講師」だ。
しかし、生徒の前でも、職場の教員の間でも、李さんは同じ「先生」だ。授業や担任をはじめ、受け持つ業務の内容は他の教員と全く変わらない。ただふとしたときに、自分自身が「教諭」ではないということを突き付けられる。
例えば、ある書類に担当教員の氏名を記入する欄に、あらかじめ「教諭」と印字されていたことがある。その書類は教諭が記入することを前提としていて、「任用の期限を附さない常勤講師」を想定していないのだ。その「教諭」の部分を消して「講師」とわざわざ書き直さないといけないとき、「本人は他の教諭と同じだと思っていて、望んでもいないのに勝手につくられた制度で分けられているのに、なぜ書類の書式をつくった側ではなく、こちらがやらなければならないのか?」と疑問が頭をよぎる。
教員としてのキャリアは長くても「任用の期限を附さない常勤講師」であると校務分掌上の主任を担えない。そのたびに同僚に説明し、肩身の狭い思いをすることもある。「主任になること、なれることを私は選べない。それによって生涯賃金も変わってくる。実績や能力ではなく国籍が理由なのは、差別ではないか」と李さんは憤る。
同時に李さんは、公立学校に確かに存在するはずの外国籍教員に対する職場の無関心も感じている。現在の自治体に採用される以前、李さんは1年ほど関西地方の自治体で非常勤講師として勤務していたことがある。勤務先には自分と同じような在日朝鮮人の教員がいて、他の学校で働く在日朝鮮人の先生たちとのつながりも深く、人権教育にも熱心に取り組んでいた。何より、多くの日本国籍の同僚の教員が、この外国籍教員の問題に共感を示して、見直しを求める運動にも取り組んでくれた。しかし、現在勤務する関東地方の自治体では、そうした意識は希薄だ。
ここ数年、外国人に対するヘイトスピーチが日本の社会問題になっている。
「無関心であることが差別を放置することにつながる。外国籍教員の問題も同じで、どうしたら多くの教員に知ってもらえるか。あなたも同じ扱いを受けたらどうするか、想像してみてほしい」(李さん)
公立学校の教員への道は開いたものの、変わらない「当然の法理」の壁
そもそもなぜ、日本の公立学校では日本国籍がないと教諭になれないのか。そこには「当然の法理」という考え方が深く関わっている。
1953年に内閣法制局は政府の照会に対して「一般にわが国籍の保有がわが国の公務員の就任に必要とされる能力要件である旨の明文の規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は、国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とするものと解すべきであり、他方においてそれ以外の公務員となるためには日本国籍を必要としないものと解せられる」という見解を示した。
この「当然の法理」は国家公務員だけでなく地方公務員にも適用された。地方公務員である公立学校の教諭も、校長が行う校務の運営に参画することによって公の意思形成への参画に携わることを職務としているとして、日本国籍を持っていない人は教諭として任用できないとされてきた。
しかし、外国籍教員の問題を研究している元プール学院大学教授の中島智子さんは「憲法や法律に書かれているものではないのに『当然の法理』が今もまかり通っている。『当然の法理』と言ってしまえば何も説明しなくていいかのような魔法の言葉になってしまっている」と批判する。
特に、教諭に日本国籍が必要とされる根拠は曖昧(あいまい)だ。学校教育法に基づけば私立学校も公立学校と同じ公の性質を持った『一条校』であるにもかかわらず、私立学校は日本国籍がない人を教諭として採用できて、公立学校ではそれができない。しかも私立学校では、日本国籍がなくても管理職にもなれる。
また、国公立大学は82年から施行された特別措置法で、外国籍でも教授などへの任用が可能となり、それが今では当たり前の光景となっている。
つまり、初等中等教育の公立学校の教諭にだけ、国籍を条件とすることに固執し続けているとも言える状況がある。
外国籍教員を巡る問題のターニングポイントとなったのは、91年に日本と韓国の政府間で協議された「日韓覚書」だ。これによって、日本国籍を持っていない人にも教員採用試験の受験を認め、採用の道を開くことで合意した。覚書では「公務員任用に関する国籍による合理的な差異を踏まえた日本国政府の法的見解を前提としつつ、身分の安定や待遇についても配慮する」とされた。中島さんによると、この一文は日韓両政府で見解が異なっており、韓国政府はあくまで教諭としての任用を求めていたのだという。しかし、その後に出た文部省(当時)の通知では、外国籍の受験者が教員採用試験に合格し、採用された場合には「任用の期限を附さない常勤講師」とすることが示された。
「任用の期限を附さない常勤講師」は教諭に準ずる職務に従事し、授業や学級担任は担えるが、学校教育法施行規則で教諭を充てるとしている教務主任や学年主任はできない。給与は教諭と同じ2級とされたが、主任をできないことで受け取れない手当がある。主幹教諭や管理職への道も閉ざされたままだ。
6月に成立した改正給特法で創設が決まった「主務教諭」にもなれないことが予想される。主務教諭は主幹教諭などと異なり、かなり多くの割合を主務教諭にしていくことが想定されるが、定年まで職は講師で給与は2級に留め置かれる外国籍教員の処遇は、改善されずに固定されたままになる(参照記事:外国籍教員は主務教諭の対象外 教諭としての任用訴える)。
覚書は日本国籍を持たない人も教員採用試験を受けられるようになったという点で大きな前進ではあったが、外国籍の人が合格しても「任用の期限を附さない常勤講師」という立場で働かなければならない状態はその後も見直されることなく、30年以上の月日が経過してしまった。
この間、日本で暮らす外国人の人口は増え、国籍も多様化している。日本の文化に慣れ親しみ、日本の学校で学んでいる2世や3世の子どもたちも多い。彼らの中から公立学校の教師の道を目指そうとするとき、そこには「当然の法理」がついて回る。
「そもそも公務員であれば日本国憲法を順守し、全体の奉仕者であると宣誓する。さらに教員であれば、教育法規にのっとり、学習指導要領に準じた業務をする。そこまでしているのに、その人の国籍までも日本でなければいけない理由は何か。それが合理的に説明できないから『当然の法理』などというものをずっと用いているのではないか」と中島さん。「国籍で教育をするわけではないはずなのに、国籍で人を見ている。この意識を変えないといけない」と強調する。