伊藤詩織さんBBDへの批判の整理と疑問、映画は売名やビジネスか?人生をかけた表現か?
この文章は伊藤詩織さんの映画作品 Black Box Diaries の内容に関するものではなく、それを取り巻く報道やSNSでの書き込みに関するものです。なお、筆者は伊藤さんと一切面識はありません。
BBDの上映館の増加
伊藤詩織さんのドキュメンタリー映画『Black Box Diaries(BBD)』の上映館が全国に増えたことを、よかったと思っています。観たい人が観られる環境ができることはよいことだからです。
筆者が定期的に出演しているポリタス(1/11放送分)でそのことを少し話しました。
「ポリタスで藤井が話したのは番組としてのバランスを取るためでは」という指摘がSNSでありましたが、個人の意思で話したことです。
映画を観にいけない方には、書籍が出ていますが、出版時よりも伊藤詩織さんの考えや状況は変化していることでしょう。
支援、被支援という関係
まず、筆者は長年にわたるDVの被害者として、自身の経験から、以下のような前提を想定しています。
被害者が支援者を見つける難しさ(もちろん職業的な対価は支払ってですが、自分と伴走してくれる弁護士、ソーシャルワーカー、精神科医などを見つけるには、多大な時間と手間と運を要します)
支援関係における遠慮
日本語での会話における上下関係
支援者(この場合は弁護士)の感情労働としての負担
被害者の、時間の経過による価値観の変化、事件の受容、成長
進まない事件解決による被害者の疲労の蓄積、精神疾患の発症 など
法的な瑕疵か? 感情の問題か?
伊藤詩織さんの元弁護士の先生が記者会見を開かれた理由は「法的な瑕疵」ではなく「クライエントへの感情の問題」がもしかして大きいのではないでしょうか。
映画BBDについて訴訟は起こされていないことから、筆者はそう読み取っています。
弁護士の先生の心情は、先生のご回復のためにケアされてしかるべきですが、ケアする責任があるのは伊藤詩織さんご本人ではありません。
記者会見での公表には、弁護士という職業倫理の観点から問題はなかったのでしょうか。
映画はすでに修正されている
伊藤詩織さんと制作サイドは、弁護士の先生からの要求に応えて映画の修正を行い、映画の公開も延期しました。法的には修正義務はなく、つっぱねることも可能だったはずです。
それ以上を求められても議論は平行線となり、対応のしようがなかっただろう、と公表されている文書から推察します。
彼女のまわりから人が消えていく、とは?
伊藤詩織さんは別の弁護士に委任して、元の弁護士の先生との交渉をつづけていたものの、2025年末にはあきらめて案件を終結させています。なお、それを相手方に通知する弁護士発信の文書にも、伊藤さんから元の弁護士の先生に向けた「感謝の意」が表明されています。
しかし、この委任契約の終了についてさえ「伊藤詩織さんのまわりから人が去っていく(新しい弁護士にも愛想を尽かされた)」かのように思わせる書き方もあったようです。
弁護士に委任している以上は費用もかかります。進展のない件について委任を終了させるのは、おかしなことではありません。
周囲の顔ぶれが変わってくのは自然なこと
実際には、人生において、また困難な問題を抱えている人にとって、周囲にいる人たちが少しずつ入れ替わっていくことは、ごく自然なことです。
ましてや弁護士のようにビジネスで依頼した関係であれば、それが終了する時期がくるのは、当然です。
わたしの目には、困難な状況にあっても映画を公開させ、上映館を少しずつ増やしている伊藤詩織さんは「人に囲まれている」ように見えます(もし彼女が孤独を感じていたとしても、です)。
告発を難しくするのは誰?
「こんな映画の公開が許されるなら今後、性暴力者を告発することが難しくなる」「告発の際に協力者を求めることが難しくなる」という主張も、伊藤詩織さんへの活発な批判によく見られる言説のひとつです。
しかし、被害の表明や告発を難しくしているのは誰でしょうか?
一連の、記者会見、東京新聞の報道、SNS等での著名な方たちの意見表明からは、筆者はむしろ、次のように認識しました。
感想ではなく、アドバイスや警告
「つまらない」「好きではない」といった感想なら理解できます。
しかし、伊藤詩織さんやBBDに向けられているのは「法的な問題が解決されていない(しかし弁護士が記者会見をしていながら、訴訟も起こしていない)」「ドキュメンタリーの制作方法をわかっていない」「本当の被害者ではない」「人格の問題」といった「アドバイス」や「警告」であり、「重大な人権侵害」「いつかわかる」「許されるものではない」のように作品を観ること自体が倫理的な罪に加担するかのようにほのめかす著名人・年長者も多く、やはり日本という社会は、男性による女性への被害を訴えることや、自身の被害経験をもとに作品をつくって発表することが難しい場所なのではないでしょうか。
伊藤詩織さんが日本で生きていくことをやめたのは当然だ、と思いました。
弁護士は心理支援のプロではない
職業的な対価を支払って過去に弁護をお願いした弁護士の先生から、世間に対して案件について公表されるというのはおそろしいことです(委任している期間、弱みもなにもかも見せているわけですから)。
BBDについて「こんな映画が出たら告発する際の協力者探しが難しくなる」という批判も多いのですが「こんな記者会見を開かれてしまうのだから、性被害事件を告発する際の弁護士探しがさらに難しくなった」というほうが妥当ではないでしょうか。
このような残念な結果になってしまうのであれば、弁護士の先生はご自身をお守りになるために、受任した案件を辞めることもできたはずです。
弁護士という職業は、心理支援や性暴力被害者支援の専門職ではありません。しかしながら感情労働の部分も非常に大きくなります。疲弊してしまわないように、たとえば弁護士の先生が心理支援を受けて守秘義務を守りながらご相談するなどできればよかったのではないか、と皮肉ではなく思います。
なぜ東京新聞の誤報記事が出た?
現在の批判の「映像の許可が……」「弁護士の先生がかわいそう」「ホテルが……」といった論調の大きな発端のひとつが、弁護士の先生のよる記者会見であり、また、もうひとつが、東京新聞による誤報記事です。
記事の内容は、撮影と放送の許可が事前に得られていた集会の内容であったにもかかわらず「許可なく撮影して伊藤詩織さんがBBDに使った」「映画BBDに映っている体験を語った女性が苦情をいっている」という趣旨のものでした。しかし直後に、どちらも誤りだったと判明しています。
東京新聞は訂正の補足文書を掲載し、記事を一部修正しましたが、見出しは「伊藤詩織さん監督の映画、性被害めぐる集会の映像を一部許諾なく使用 非公開集会、発言者が削除求めたのに…:東京新聞デジタル」です。
多くの人には訂正までは届きません。誤報や飛ばし記事の影響というのは大きいものです。
東京新聞は訂正を下に移動させ、掲載継続
当初は、見出し下にあった訂正部分が、2026年1月13日現在では文末に移動されています。下までスクロールしない人(多くのネットユーザーがそうでしょう)にとっては、この記事にある伊藤さんによる権利侵害が正確なものであるかのように見えます。
BBDをめぐる批判でよく聞かれるのが「公益性」という言葉ですが、Googleで伊藤詩織さんの映画について検索すると、誤った印象を与える東京新聞のこの記事が出てくる、これは公益を損ねているといえるでしょう。
多くの記事は有料会員でないと全文が読めないのに、この記事は無料で全文公開されています。東京新聞はなぜこのように公益を損なう行為を1年近くもつづけているのでしょうか。
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現在の状態がこちら。読者に誤った印象を与えつづけています。
当初の筆者の印象と、その変遷
当初は、実績のある弁護士の先生が告発するような記者会見をするのだから、なにかあったのだろう、と筆者も思っていました。それどころか、ホテルが訴えてこの先生がホテルの代理人になったのか、とすら一瞬勘違いをしました(そのような雰囲気での報道だったと思います)。
しかし、いつまで経っても裁判が始まる様子もありません。
ということは、弁護士の先生にとって「BBDを題材として訴訟を起こし、勝てる見込みがあるほどの法的な瑕疵は、作品制作・公開過程にはなかった」と判断するのが穏当です。
もちろん、法的に問題がなければ作品として問題がない、とは思いません。しかし公開を止めたり、作品の内容を改変させることも、他者にはできません。
なにかしらの問題はあったのかもしれませんが、「法的に問題がある作品を公開」というセンセーショナルな煽りや匂わせのようなコメントが著名な方から継続的に、一様に出ている(主張がさまざまではなく、どれもよく似ている)という昨年からの状況は、筆者には理解できません。
ネットのミソジニーとの結びつき
BBDへの過剰にも見える批判は、結果的に、ネットでのマジョリティであるミソジニーを助長する構造になっています。そこまでして映画を非難したい情熱は、どこからくるのでしょうか。
また、映画への反応にはジェンダーバイアスを感じます。もし、男性被害者による作品であれば、このような熱狂的批判のムーブメントは生じないように思います。
BBDの公開に際して日本でだけ起きているこの状況こそが、被害者が沈黙させられる日本社会(ブラックボックス)を図らずも浮かび上がらせているといえるでしょう。
結果的に映画の宣伝をしている?
ところで、叩けば叩くほど、伊藤詩織さん本人はほぼ沈黙に近いかたちで日本で封切りされたこの映画に注目が集まり、「見たい」「応援したい」と思う人たちを映画館に足を運ばせる結果になっているようにも見えます。
そもそもは2025年アカデミー賞ノミネート直後(長編ドキュメンタリー賞に日本人監督として初めてノミネートされています)に日本で公開されることが一番、作品にとっては幸福なかたちだったとは思います。
もしくは逮捕状が出ていた通りに、加害者・山口敬之氏が刑事逮捕されていれば、このような作品をつくる必要さえなかったかもしれません。
筆者には、制作手続きや人権上の問題をはらんだ日本のドキュメンタリー作品はいくらもあるように見えます。たとえば是枝裕和さんを批判なさっている、かつて被写体となったご家族もいらっしゃいます。
映像作家ならどう見えるか考えないのか?
法的な問題と制作上の問題について今回熱心に訴えているドキュメンタリー映画の関係者には、「叩けば叩くほど映画に注目が集まるかも」という構図が、見えていないのでしょうか?
そうとはわかっていてもやめられないほど、彼・彼女らを突き動かすなにかが伊藤詩織さんとBBDという作品にはあるのでしょうか?
彼・彼女らはいったいどこで(ある期間の国際線の飛行機の中、もしくは海外の上映館で?)修正前の映画をご覧になったのでしょうか?
筆者の本業は「広報」ですので、そのような「自分たちの『見られ方』の見えていなさ」は作品制作において欠点とならないのか、とふしぎに思います。
防犯カメラとはなにか?
わたしたちは普段、あらゆる場所で防犯カメラに撮られています。かつては「監視カメラ」といいましたが、設置台数を増やしたいネットワークカメラ業界や警察等によって「防犯カメラ」という名前に置き換えられ、この名称がすっかり浸透しました。その人権侵害についてあれこれいう人はすでにいなくなりましたが、防犯カメラは実際にはすでに起きた犯罪の容疑者を追跡するために使われており、防犯効果があるのかはあまり問われないまま、その画角に入る人すべてを撮影し、一定期間、その映像はネットワーク上に保管されています。
安全のためなら自由や人権は制限されてもしょうがない、ということが、この30年ほどかけて世界中で浸透してきています(震災やテロを経て、また当局や産業界の意思もあって、そのように社会が変わりました)。
今回はホテルという商業施設であり宿泊施設でのカメラ映像が、事件においても映画においても重要だった、といわれています。
ホテルの倫理と社会の倫理
ホテルには顧客の安全を守る義務がある、というのは一般人の考え方で、格の高い(と自認する)ホテルであればあるほど「ホテルマンの倫理」のような、お客さまが客室のドアを閉めたらそこはプライベートな空間であり絶対に邪魔してはいけない、といった不文律もまた、存在します。
よいホテルであればこそ、常連の宿泊客や、よいクレジットカードの持ち主なら不審な状態でもチェックインさせる、ということは容易に想像がつきます。
ホテルが映像使用を黙認するベネフィット
カメラの映像の使用をもしホテルが問題にすれば、「昏倒して引きずられている女性を見ても不審に思わず止めないホテルのフロントの責任」が国際的に問われかねません。
その際、ホテルの名称も改めて報道されることになり、ホテルチェーン全体のイメージに影響を及ぼします。
ホテルとしては、映画BBDについては、防犯カメラ映像の使用を禁止したり、使用について訴訟を起こせばリスクが大きいーーそう考えるのがビジネス観点から妥当だといえるでしょう。
本件に関しては、映像の使用許可は出せなくても使用を黙認することが、ホテルにとってのベネフィット(利益)となっているはずです。
なぜかホテルの不利益を代弁する人たち
もし仮に、ホテルがその点をあげつらうなら、ホテルの評判を下げるだけでなく、「宿泊客の安全を確保しない(=悪事の現場としての利用を黙認した)にもかかわらず、そもそも誰のために防犯カメラを設置しているのか?」「そのようなホテルに、顧客の姿を撮影して一定期間、映像を保持する正当性がはたしてあるのか?」という問題にもなってくるはずです(防犯カメラの設置は建前としては「安全のため」のはずなので)。
にもかかわらず、自主的にホテルの不利益を代弁し、映像使用を大きな問題であるかのように指摘している方たちが散見されます。
ホテル代は経費?という個人的疑問
加害者の山口敬之氏(当時はTBSのワシントン支局長であり、安倍晋三の伝記本を2冊も書くほど政権に近しい存在であり、いまも現役ジャーナリストとして参政党の有料セミナーの講師などを務めています)は、はたしてプライベートのクレジットカードで支払いをしていたのか? ビジネス用のカードを使ってはいなかったのか? と筆者は疑問に思います。
なぜかというと、筆者はやはり20代前半の若い頃、エントラップメント型で(意識はありましたが)偉い人に、高いホテルに連れこまれたことがあるからです。そういう「遊び」に慣れた人はビジネス用カードを持っている印象があるので、ただの想像です。
いまならTBSも加害者をクビにしたはず
経費でホテル代を落としていたとしても、そうでないとしても、加害者の山口敬之氏の雇用主であるTBSが、事件発覚後に処分しなかったという判断はおかしいと、2026年のいまなら多くの人が思うはずです。
現在なら絶対にクビになっていたはずーーテレビ制作と松本人志氏、中居正広氏に関する性加害疑惑報道のあとでは、そう考えるのが当然です。
が、そもそも、松本人志氏、中居正広氏の問題が世に出てきたことも、筆者は伊藤詩織さんや五ノ井里奈さんが性被害を実名・顔出しで告発したという実績があってこそ、だと思うのです。
一生「そういう人」と見られる覚悟
筆者は、伊藤さんも五ノ井さんも世の中を変えた大きなおひとりおひとりだと思っています(その前にも多くの女性の努力があったことは当然として)。
被害に遭って、それを告発するかどうか、という決断はとても大きな分かれ道です。支援的であっても好奇の目にさらされます。「あなたがあのレイプされた人なのね。応援しているわ」といわれるわけです。
被害者としてのパーソナリティではなく、一人の人間として生きたいと思ってもオートマティックに「そう見られてしまう」ことになる、それはつらいことです。
ただ単に女性への暴力に反対する文章を書いて発表するだけでも、少なからぬ苦情の電話や、匿名の放火予告や殺害予告がきます(筆者の体験です)。実名で実名の人間を訴える、しかも社会的地位のある人間を相手に、というのは、どれだけの覚悟が必要かと思います(もちろん、そこに伴走された弁護士の先生のご尽力も大きいでしょうし、そのことには伊藤さんも何度もふれています)。
伊藤詩織さんは「成功者」「持てる人」なのか?
筆者は、伊藤詩織さんへの強い批判の中には、彼女を特別な人、持てる人、海外で成功した人、とみなす論調があることが気になっています。むしろそのような認識こそ、批判が盛り上がる背景にあるとすら感じます。
でも、報道での伊藤詩織さんの写真を見ていると、筆者の目にはうつ病や適応障害などなんらかの精神的コンディション不調で服薬が欠かせず、人前に出るときだけなんとかテンションを張ってぎりぎりで生きている人に映ります。
それを「詐病」や「仮病」と呼ぶ人もいるかもしれませんが、いつまでも解決しない問題(加害者はなんの罪の意識もなく平然を日常を送っている)とつきあいつづける困難は、少しずつエネルギーを削りとり、実際に人間を文字通り「ベッドから起き上がることすらできなく」します。時には人を自死に至らしめます。
事件さえなかったら
伊藤詩織さんご本人もですが、たとえば彼女のご両親からすれば、「あの事件さえなければ」と思わない時はないのではないでしょうか。事件さえなければーー有名になんてならなくてもいいーーいまごろ11年分の着実なキャリアを積んで(事件は2015年です)、健康に活躍していたのに、と想像してしまうのではないでしょうか。
でも、もうそこには戻れません。事件の被害を受けたあとの自分で生きていくしかありません。
人は重大なダメージを受けたときに「なぜ自分がこんな目に」と考えます。そしてそこから立ち直る過程でなにかしらの「意味」を経験に付与します。
受容と回復としての作品制作
これは単に筆者の想像ですが、伊藤詩織さんは自分が被害を受けたことを受容する中で、「この体験を記録し、再構成し、誰か一人でも多くの人に伝えることが自分の使命だ」と考えたのではないでしょうか。
そして伊藤さんには、ご自身を走らせつづけるエネルギーと、協力者を見つけるパーソナリティと、実現する能力とがありました。
それは誰にでもあるものではなく、伊藤さんがある意味で「恵まれた人」なのは事実です。しかしそれは、制作や創作を生業とできている人はみなある意味で恵まれた人だというのと同様に、です。
彼女が体験をひとつの作品に結実させることは、他の被害者やサバイバーをおとしめるようなことにはなりません(なぜそのような言説が出てくるのか疑問です)。
これをつくらないと先に進めない
BBDという書籍と映像作品は、演技的な作品でもなければ名誉や有名になるための手段でもなく、ただ「これを出さないとこの先に進めない」と伊藤詩織さんが覚悟を持ってつくった、切実な表現なのでしょう。
チームで制作している以上は、映画と興行を成功させるために例えばある種の表現技法や技巧、マーケティング的手段が使われていても当然のことで、責められるようなことではありません。
きっと伊藤さんにとっては、自身の被害体験とその後の警察や社会の対応を作品にするより、他の対象を取材して書いたりまとめたりするほうが心理的疲労の面ではずっとたやすかったはずです。しかし、 Black Box Diaries は、伊藤さんにしかつくることのできなかった作品なのです。
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