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ナント

フランスの都市ナント (Nantes) は歴史的にはブルターニュ地方の要であった。ブルターニュ地方はフランス北西部の突き出た半島部分であり、ナントはその根本にある。

この地方はローマ帝国崩壊から 1532 年にフランスに併合されるまでは、半ば独立した王国・公国の集まりであった。ブルターニュの名前はイギリスのブリテンと同根であり、ブルターニュブルトンブルトン語ケルト系の民族・言語である。英語ではブルターニュ地方をブリテンとも呼ぶ。ナントの市名はケルト系部族のナムネテス族が語源である。ブルターニュ地方は840年頃にブルターニュ王国として統一され 940 年頃にフランスの庇護下に入り公国になった。1488年の狂った戦争 (仏: Guerre folle) でフランスに負けた後に弱い立場に置かれ、最後の女公アンヌ・ド・ブルターニュは政略結婚で色々あった後フランス国王に嫁いだ。アンヌの死後(1514)暫くして、ブルターニュはフランスに吸収された(1532)。アンヌはナントのシンボルの一つであり、お土産屋にはアンヌが描かれたお菓子などが並んでいる。

現在はナントはロワール・アトランティック県の首都であり、行政的にはブルターニュ地域圏とは切り離されている。代わりにロワール・アトランティック県はペイ・ド・ラ・ロワール地域圏の主要県になっている。ちなみに、ロワールは川の名前で、アトランティックは大西洋のことである。ナントはロワール川沖積平野にあり、市内をロワール川が流れている。

ナントにはブルターニュ公が拠点としていたブルターニュがあり、今では美術館になっている。本来はより大きな範囲がブルターニュ城だった、というよりヨーロッパでは異民族から住民を守るために街ごと城壁に囲まれているのが歴史的に普通だった。

ナントは港町としても栄えた。港跡地には造船所跡があり、其処に歴史のある巨大なクレーンが残されている。クレーンの車輪の周りには今では雑草が生い茂っている。このクレーンもナントの街のシンボルの一つになっている。造船所跡地にはメリーゴーランド (仏: carrousel) や、"機械" の動物園などがあり、機械の象は人を乗せて歩き回ることができ、名物の一つになっている。他に、透明の巨大な法律事務所のような政府機関(?)などもあった。ちなみに、街を一巡する緑の線が駅からずっと引かれていて、港跡地にもずっと緑の線が繋がっている。その緑の線に沿って、(港周りに限らず街の中の) いろいろな所に現代アートのオブジェが置かれている。フランス人は現代アートを置くのが好きなようだ。歴史的人物の銅像までもが現代アート的なポーズを取っていたりする。噴水のいわゆる小便小僧自由の女神も其処に混ざっていてもおかしくない雰囲気である。実際、小便小僧も自由の女神もフランス起源である。ナント駅の前にある植物園にもオブジェが色々置かれている。他に、町中の第二次大戦の犠牲者の祈念施設には、フランス国旗のトリコロールに因んだ (※Wikipediaによると俗説らしい) 自由・平等・友愛 (仏: Liberté, Égalité, Fraternité) を高らかに謳う言葉が様々な言語で書かれていた。

クレープ (仏: crêpe) は実はブルターニュ地方が発祥だそうだ。元々はガレ (仏: galet) と呼ばれる蕎麦粉で作ったクレープの形の料理であり、それのデザートバージョンとして小麦粉で作った物がクレープだそうだ。ガレ料理の店に行くと、先ずはガレを食べて、デザートとしてクレープを食べる。他のテーブルのフランス人はクリームの載った大きなクレープを食べていたが、ガレを食べただけで既にお腹が一杯だったのでシンプルなクレープにした。いつかあの大きなクレープも食べてみたい。フランスでは普通の(コースでない日常の)食事でも、メインの料理に加えてお菓子を食べるのが習慣のようである。駅のキオスクで食べ物を買う時も、バゲットのサンドイッチと一緒にブリオッシュなどのデザートを皆買っていく。

ナントには伝統的なビスケットの大きな会社 LU がある。会議のお土産はこの LU のお菓子詰め合わせだった。ブルボンのアルフォートの元になったであろうビスケットとチョコレートを合わせてチョコレート表面に彫刻を施したお菓子もたくさん売られている。ちなみに調べてみるとアルフォール村 (仏: Alfortville) というのがフランスの内陸にある様だ。また、最近日本でも流行った (というか森永製菓が売り出した) 塩キャラメルはこの地方の伝統的な飴のようである。LU も塩キャラメル飴を売っている。韓国に行くと日本のお菓子をコピーしたようなものが売られているが、結局のところ日本の菓子会社も欧米のお菓子をほぼそのままコピーしているのである。とは言え、日本は多少なりともアレンジを加えている。因みに、中国はそのままコピーしている物もあるが、ちゃんとアレンジしているものも多い気がする。

ナント駅の前には街路樹の植わっている少し大きめの茂みがある。高速鉄道 inOui (TGV) を待ってうろうろしていたら、その茂みのなかでオコジョが走り回っていた。自分でも何故オコジョだと思ったのか分からないが、最近見たブログか何かで誰かが飼っているオコジョの写真を見た気がするのでそのせいだろう。気になったので検索してみた所、奇しくもブルターニュはオコジョに縁がある。ブルターニュ市内の色々な所に掲げられているブルターニュの紋章はオコジョ (仏: Hermine, エルミーヌ) をモチーフにしているそうだ。さらに最後の女公アンヌが狩りに出た時に、泥沼を背に追い込まれた白いオコジョが立ち向かって来たという逸話があるそうだ。それにアンヌが感銘を受けて、「穢れるよりも (不名誉よりも) 死を」という現在のブルターニュの標語を作った、という伝承である。どうにも武士道らしい…このような気概を日本の武士の特徴のようにいうこともあるが、実のところ高潔な貴族階級にとっては世界共通の心構えだったのかもしれない。さて、茂みのオコジョがまた姿を表さないかと待っていたが、葉っぱが時々がさがさと動くだけでなかなか姿を見せないし、現れても素早いので姿を捉える前に別の茂みに入ってしまう。実のところ、茂みにいたのは実際はオコジョではなくて別の小動物かもしれないが、オコジョだったと思うことにする。ナント駅の前の茂みの中で走り回って過ごす人生はどんなものだろうと思いながら去った。

霊隠寺

杭州市にある霊隠寺五山の一つである。五山十刹南宋の時代に中国で成立した禅宗における制度である。日本にもそれに倣って京都五山鎌倉五山があるが、オリジナルの五山は全て当時の南宋の首都であった臨安、現在の杭州市に存在する。ちなみに、京都五山鎌倉五山は全て臨済宗の寺院であるが、その選定には室町幕府による政治的な影響が強く、例えば現在最大宗派の妙心寺派の本山、妙心寺は除外されている。

霊隠寺は飛来峰という区画の中にあり、飛来峰に入るのに45人民元、更に霊隠寺の拝観料として30人民元払う必要がある。30元は名目としては御香代であり、入場したすぐの場所で御香を受け取ることができる。目の前の広場にある灯籠で御香に火を点けて、お辞儀をしながら祈りを捧げ、その後に大きな御香台に供える。これは丁度、東大寺と同様の形式である。目の前の大きな御堂の中には大きな仏像があってこれも東大寺と類似の形式である。他の建物には大きな四天王像もある。どうも東大寺毘盧遮那仏を本尊とする華厳宗であり、霊隠寺も華厳殿という建物で華厳三聖 (毘盧遮那仏文殊菩薩普賢菩薩) を奉っている。霊隠寺の本尊は釈迦であり宗派も禅宗で異なるが、それでも共通点がある。或いは宗派は関係なく、中国仏教ではこれが普通の形式なのかもしれない。何れにせよ、1300年の歴史的隔たりを経ても猶その伝統を保ち、互いに似通っているのには感じ入る。正統な教えを中国から導入し、しっかり確実に悠久に伝統を作ってきたのである。

或いは、現代人が古代人を侮りすぎなだけかもしれない。奈良時代というとぼやけたイメージしかないので、古代人は適当に生きていたのではないかとも思ってしまうが、現代人に引けを取らず正しく知識を導入して正しく物事を行っていたのだろう。色々な国の古い建造物を見ると何処か微妙に歪んでいたりして歴史を感じるものだが、一方で法隆寺の歪みのない精緻な作りを見ると本当に1300年前のものなのかと思ってしまう。しかし、実のところ技術は向上しても人間は余り変わっていないのだ。いい加減に作ればいい加減な作りになるし、ちゃんと作ろうと思えばちゃんとした作りになる。それは古代でも現代でも変わりない。技術は単に労力を軽減するだけで、出来栄えは最終的には作り手の人間が決めるのだ。

霊隠寺には空海も参拝したらしい。霊隠寺の一番奥にある華厳殿の前の庭、華厳殿から見て右手の階段を下ったところに空海大師像がある。意外と大きい。台座には中日友好と書かれていて日本語の解説がある。つまり、中日友好の証として日本が送りつけた空海の像が其処に設置されている。中国人はそれが一体何なのか分かっているのか分かっていないのか、深くお辞儀を三度してお祈りをして通り過ぎる。何れかの仏の像と思っているのだろう。考えてみれば、霊隠寺の他の像は全て神仏の類であり、空海の像だけが少し浮いている気がする。日本は友好のつもりで空海の像を贈ったのだろうが、贈られた方としてはどういう位置づけで何処に設置するのか苦慮したのではないかと想像してしまう。

また近くには般若心経が大きく壁に掘られている。簡体字ではなく伝統的な字体で書かれているので歴史のあるものだろう。当たり前のことだが、その漢字の列は日本で目にするものと全く同一なので、それにも少し感じるところがある。勿論、発音は異なるだろうが。般若心経の原本は梵語 (サンスクリット語) であるが、それを玄奘 (三蔵法師) が 天竺(インド) から持ち帰り、当時の中国語に翻訳・音の当て嵌めをしたとされる。中国と日本は共にこの玄奘版を使っている。浄土宗系では般若心経は余り重視されないが、禅宗では般若心経が日々のお勤めにも使われるなど重要な位置にある。ということから禅宗としての共通点も見られて、その点にも繋がりを感じる。ちなみに、伝説では禅宗南天 (現インド周辺地域) から中国に渡ったとされる達磨(ダルマ)大師によって開かれた。ダルマさんのモデルである。取り敢えず般若心経の記念として、日本人なら誰しも聞いたことのある色即是空空即是色の文字に触ることにした。ただし色即是空の部分は背が届かなかった。今更だが、スピン流体をやるのだったら不生不滅の部分にも触っておくべきだった。渦の不生不滅の定理は恐らく般若心経から取ったものだろうから。

cpprefjp の報酬と人間模様

cpprefjp の報酬が何か試練のようになっている。受け取りたい人・辞退したい人は表明してください方式になっているために、その行動から人間性・思慮深さが公の下に曝露されてしまう恐ろしい会場になっている。去年もそうだったが、今回は自分もプレイヤーになったので断然気になる。

そもそも cpprefjp に貢献している人はみんな別に報酬が欲しくてやっているわけではない。そんなことは万人承知である (今後報酬目当ての人が増えるかもしれないが)。そもそも報酬が発生する前からアクティブプレーヤーの顔ぶれは余り変わっていない。cpprefjp に貢献する具体的な理由は人それぞれだろう。純粋に楽しいから、執筆自体が勉強になるから、人に貢献できることが嬉しいから、自分が後で参照するのに役立つから、typo が気になる、とか。少なくともお金をもらうためにやっている訳ではないのだ、という矜持がある。ここに矜持と金欲の相反が発生する。

一方で報酬を支払うことの意義は、コミュニティーを維持することにある。新しい若い参加者を獲得し、また既存の参加者を繋ぎ止めてコミュニティーを維持する。あわよくばもっと大きくしたい。個人的にはそのように思っている (別に、もっと短絡的に "なんかお金もらえた、ハッピー" で終わって悪いわけではないのだが)。はっきり言って「お金で釣ろう」という邪な意図があるのである。このコミュニティー維持の企図に照らすと、報酬を受け取るために追加のプチ試練が図らずも課されているのは滑稽な状況である。

「あなたはお金に釣られて自分の矜持を捨てちゃうお魚ですか? 」 (衆人環視の下)

この場合の個人の行動としての最適解は何だろうか。

もし《誰が報酬を受け取って誰が辞退したのか》や《どれだけの割合の人が受け取ったのか》という情報が公開されない場合は、黙って受取or辞退をシステムに申告するか、黙殺して自動的に失効するのを待つのが正解である。例えば若い学生にとってはプチ報酬でも嬉しいだろうし、お金が欲しいという気持ちを恥じることはない。cpprefjp 側も邪な気持ちがあるのでお互い様である。或いは自分の矜持を大切にしたいのであれば無理に受け取る必要もない。

しかし、このゲームには何故か《辞退を公に表明するというカード》が用意されている。更に、《受取を申し込むとそれが一般大公開される》というルールも後で判明した (本当は申請の事実は個人情報では…1)。そうするとゲームが一気に地獄の試練へと変貌する。

まず報酬を受け取らないのなら黙殺一択である。 《辞退表明カード》 は明白なトラップである (いや個人的にはそう思ってたんだけれど違うのかな…)。一見して自分の矜持を守るために、そして他に金欲を疑われないために有効なカードのように感じて跳びついてしまうかもしれない。しかし落ち着いて考えると、このカードはあらゆる意味においてやばい。

  • まず、自分の矜持を守りたいのであれば、集計期限になるまでは黙っていれば良いのである。辞退表明すると、何故わざわざ表明したのかという疑惑を持たれることになる。現に受け取らない人の大半は黙っているので、表明することによって集計の見通しが立つわけでもない。自分の矜持を満たすためであれば自分の中で閉じていれば良い。もしそれが他人からの承認を必要とするならば、それは矜持ではなく依存だ。人は支え合うものだから別に堂々と依存すれば良いし、実際そうでも皆それを隠して澄ました顔をしているだけであるが、それはそれとして、殆どが黙っている中で鳴いてしまうのは恥ずかしい。雉も鳴かずば撃たれまいに。
  • 或いは、金欲がないことを他の人に対して証明したい気持ちがあったとしたら、それに負けてしまうこと事体がまた恥ずかしポイントである。糾弾されている訳でもないのに、ほんの少額のお金のために、何故わざわざ自らそれを他人に証明する必要があるのか。がめついと思われたら嫌だなという葛藤が心裡にあることが語るに落ちていて、これもまた澄まし顔に失敗している。
  • 上二つは取り繕うのが拙いというだけの話で、別にかわいいものである。いよいよ良くないのは、辞退表明をすることによるコミュニティーに対するインパクトに思い至っていないことである。悪気があるわけじゃないし、単に考えていないだけだろうが、最初期に辞退しますなどと書いたら他の人が受け取りづらくなる。特にライトな参加者は報酬を受け取れなくなる。これは、コミュニティーを盛り上げるための報酬システムに対して、無垢なる蹴りを入れている。或いは、お金で釣ってコミュニティーを大きくしようという欺瞞に対する無意識の反感からやっているのだとしたら、気持ちは分からないでもないが、反感が行動に顕れてしまうのは幼稚だ。
  • そもそもの話として、トップ層を除くほとんどの貢献者にとって大した金額の報酬でないし、コミュニティー維持という観点からは、この報酬分配はセレモニーみたいなものである。其処にわざわざ出張って来て、納得できる説明もなく、辞退表明するのは、瓦に伍する気はないぞという宣告にも取れる。その気がなくても。辞退表明をするとしても、せめてみんながなるほどねと思う説明を入れるか、或いはコミュニティーの発展を願う挨拶ぐらい入れたい。

別に長々と言葉で説明しなくてもこのぐらいのことは何となくみな肌で分かって避けるものと思っていたが、このトラップに嵌められた犠牲者が既に複数現れて、何とも言えない。或いは金で釣ろうという態度に対する細やかな抵抗かもしれないし、馴れ合いはしないぜという表明かもしれない。そうでなければ C++er はやってられないのかもしれない。

もらう人は別に言葉で表明しなくても良いことになっている気がするが、ここで颯爽と現れて、自分はもらいますと宣言した人たちはとっても偉い。

自分的には、もらいます宣言をするのが一番大人な選択で、黙ってもらう申請をするのが次点。黙殺で貰わない選択をするのも悪くはないが、実際のところそれで金額が微小に増えても他の人は別に嬉しい訳じゃない。辞退宣言は悪手である。と思う。或いは、コミュニティーの発展とか小煩いことを押し付けて、閻魔大王を気取っているのが一番いやらしいのかもしれない。

何が大人な対応なのかはさておき素直になるのが一番良い。自分はお金をもらって嬉しいし、同時に労力の割に他の人より多くもらうことに対して引け目もある。本当は減ポイントしようとも思ったけれども、もし高橋さんの心遣いで技術料としてこっそり上乗せしてもらったのだとしたら、それを無下にするのも申し訳ない。一方で、30円とか馬鹿にしたような金額をオファーされている人たちがいて、これは見るに忍びないので、有効活用しようと思ってポイントを分けてもらうことにした。こういうのを目立とうとしているとか難癖つけてくる人がいるのは知っているが、これは自分が純粋にしたいことだって自分で分かっているから、気にしない。あと、まあ受取表明はしない。自分は別に大人になりたい訳じゃないし、この記事を書いている内に大人がたくさん現れて辞退表明を中和してくれたので (というか既にトップにリストされているし)。

来年以降は参加ポイントと称してその年に一回でも貢献したら定数ポイント付与するか、それが嫌なら、或る一定以上のポイント稼がないとそもそも受取資格が発生しない(満たなかった人のポイントは次の年に持ち越し)みたいにするべし。


  1. 公開されるということ事前に何処かに書いてあったっけ…。現 cpprefjp に殊更に騒ぎ立てる人はいないと思うけれど、せめて cpprefjp メンバーだけが見られる場所で行うのが穏当だったのではないかという気がする

東大理物 五月祭展示 Physics Lab. の歴史

Qiita を見たら Physics Lab. 2024 でアドベントカレンダーをやっている [1]。計算物理班が今もあって、しかし記事を見ると 2017 年を最後に 7 年ぶりなのだそうだ。

各年でどのような班があったのかを掘り出してみるのも一興と思って調べてみることにした。

編集 (2025-05-13): X(旧Twitter)上で言及があったので更新した。2024と2025の班一覧がものすごく同じだ。

発表年度 班の数
2007 宇宙物理班、プラズマ班、粉体班、パラメトリックスピーカー班、レーザー班、経済物理班 6
2008 宇宙マイクロ波背景放射超流動超伝導、臨界現象、流体シミュレーション、EPRパラドクス 6
2009 宇宙班、エントロピー班、摩擦班、計算機班、非平衡班、流体班?(マグナス力)、超伝導班?(マイスナー効果) 7
2010 生物物理班、プラズマ班、流体ブラックホール班、一次元電子系班、宇宙班、計算機班、リニアモーター班 7
2011 液体班、粉体班、低次元物性班、宇宙班、メタマテリアル 5
2012 プラズマ班、超伝導班、BEC班、メタマテリアル班、非線形科学班、計算機班 6
2013 物理定数班、スピンカレント班、非平衡相転移班、計算機班 4
2014 宇宙素粒子班、スピントロニクス班、情報熱力学班、計算機班、生物物理班、BEC班 6
2015 テラヘルツ班、加速器班、経済物理班、BEC班、計算機班、電波望遠鏡班、相転移 7
2016 透明マント班、真空ゆらぎ班、BEC班、超伝導班、量子情報班、計算機班、加速器班、物理ショー班 8
2017 低温班、計算機班、シンクロ班、量子測定班、宇宙班、スピン班 6
2018 物理ショー班、相転移班、宇宙班、生物物理班 4
2019 計算物理班、物性班、量子情報班、宇宙班、光学ショー班、生物物理班 6
2020 非平衡班、量子情報班、宇宙班、ゲージ理論班、生物物理班 5
2021 アクティブマター班、物性班、量子物理学班、数理物理学班 4
2022 幾何班、量子物理学班、生物物理班、トポロジカル物性班、宇宙班 5
2023 経済物理班、宇宙班、量子班、生物物理班、数理物理班、統計物理班 6
2024 量子班、統計物理班、宇宙班、数理物理班、計算物理班 5
2025 量子班、統計物理班、宇宙班、数理物理班、計算物理班、生物物理班、実験班 7

実は 2010 年以降は理学部のページにスペース (https://event.phys.s.u-tokyo.ac.jp/physlab<発表年度>/) をもらってそこで公開しているみたいなので、わざわざ「掘り出す」必要もなかった。自分が活動したのは Physics Lab. 2008 と 2009 なのだが、この2つの年の発表ページは散逸してしまってもう見つからない (当時は Yahoo! ジオシティーズ・したらば掲示板・FC2などに分散して活動していたはず)。次の年から理学部の公式ページにスペースがもらえてそれが続いているというのはうらやましいことである。

さて、自分たちがメインでやった 2009 年は班の一覧すら Web 上に見つからない。自分が参加していたのが摩擦班・非平衡班・計算機班だった。一方で、宇宙班へのリンクは残っている。エントロピー班の言及もWeb上に残っている。全部で7つあったらしい。残りの2つは、超伝導によるマイスナー効果を実演した班と、野球ボールだかソフトボールによるマグナス効果を実演した(しようと試みた)班があったように思うが、名前は覚えていない。さしずめ超伝導班と流体班としておく。

2006年以前は Physics Lab で検索しても出てこないし、物理学科 五月祭 で検索しても出てこない。自分が参加した2008年の時点で伝統的な行事であるかのような印象を持っていたので、2006年以前は存在しなかったということはあるまい。2007年に初めて Physics Lab. という名前を使ったのか、或いはそれ以前はそもそも Web を活動の場としていなかったということなのかもしれない。

計算機班は実は自分ともう一人の同級生と一緒に初めて作った (因みに、彼はもう偉くなって隣の京大理学部にいる) のだが、その後コンスタントに計算機班が続いているのは嬉しい。ただ、改めて考えてみると計算機班とはネーミングセンスがないなと思う。というか元々「計算機シミュレーション班」と言っていたのだが長くて面倒だということで計算機班に縮まったのだった気がする。一方で、後続が 2017 年までずっと計算機班という名前を踏襲していることを思うと、結構伝統を気にしてはいるのかなと思う。因みに計算機班を初めて作ったとは書いたが、実は 2008 の流体シミュレーション班を引き継いで拡張する形で計算機シミュレーション班としたので、本当に最初に始めたのは一つ上の先輩である。

ところで Google 検索しても 2009 年の計算機班の発表ページが見つからないのは妙だと思ったが、どうもジオシティーズから GitHub Pages に引っ越した時に Google のアンテナから外れたようである。ちゃんとリンクを何処かにおいておかなければならないのでここに置いておく [2]。

各年度のページへのリンクを以下に列挙しておく。

スパコン電力消費

スパコンの維持費についての話があった。スパコンの維持費はほとんど電気代である。富岳は 20 MW から 30 MW 消費する [1] ようで、原発一基の X% 消費するみたいな表現をするのだという。実際に原発の電力を調べてみると 500 MW から 1 GW 程度らしい [2,3] ので 2-3% に過ぎない。そこまでではない。一方でスパコンは基本的には 24 時間 365 日動かすのが普通である。色々な人が断続的に大きなジョブを投げるので、夜は営業しないだとか土日は営業しないだとかいうことはできない。そうすると電気代が物凄いことになる。20 MW だと一時間に 60 万円で一日で 1440 万円である。一年続けると 52 億円かかる。富岳に隣接してガスタービン発電機もあるらしいがそれでは到底賄えないそうだ (緊急用だろうか)。

水力発電は 10 MW から 100 MW まで幅が広い [4]。最近は 1 MW 程度の小水力発電をたくさん作るというのが趨勢らしい。ダム水路式という方式は原発一基に匹敵する 1 GW の出力を持っている [4] が、これらは揚水式発電だそうで、電力を作り出している訳ではないということと長時間持続できるものではないだろうということに注意する。

一方で加速器の消費電力はどの程度だろう。BNL AGS は 70 MW で CERN SPS は 150 MW で J-PARC は 100 MW という資料があった [5,6]。LHC は Web 上で探してみると 120 MW, 180 MW, 200 MW, 230 MW など様々な数値が見つかる [7-9]。RHIC は冷却に 5 MW [13,14]、計算機システムに 4.5 MW [15,16]、20-30 MW という情報 [17] もある。スパコンよりも加速器の方が断然電力を食う。一方で加速器は年がら年中動かしている訳ではない。様々な設定で実験するために毎回止めて整備をするし、そもそも予算の都合で動かす期間を調整している。というか話が逆で、予算が先にあってそれが動かす期間を決める。

東海道新幹線は一編成の理論最大出力は 17 MW (N700) らしい [10]。500系は 18 MW 程度 [11]。つまり富岳は新幹線1編成の最大出力と大体同程度ということになる。しかし実際には常に最大出力で走っている訳ではない。東京大阪間 2時間24分 で 10 MWh 消費するらしい。平均で 4 MW なので新幹線5編成の平均消費電力が富岳と同程度である。JR東海の営業時の電車全体の電力消費は 200-400 MW 程度のようである。新幹線のエネルギー消費はやはり空気抵抗が一番大きいのだろうか。調べると 500 系が最も効率が良かったのだろうか [12] (でもこの記事は怪しい)。

(2023-11-25 追記) 旅客機のエネルギー消費も気になる。文献 [18] によると旅客機は 3000-9000 L/h の灯油を消費する (これが平均なのか最大なのかなどの詳細は不明である)。文献 [19] などによると灯油は 36.7 MJ/L だそうだ。灯油を仮に効率100%で電力に変換できたとすると、30-90 MW と同等の消費ということになる。ジェットエンジンはどうだろう。文献 [20] によると離陸時 431 kN で、巡航時 TSFC = 13.5 g/kNs なので、灯油の密度 800 g/L と合わせて、単純計算で最大 267 MW になる。離陸時の効率は巡航時よりも悪いだろうから、実際はより大きいだろう。GE9X は XWB よりも 5% TSFC が良いが最大出力が 470 kN らしい [21] ので、277 MW になる。

最近は予算削減などで基研のスパコンもいつまで継続できるかわからないという話も聞く (実際はどうか分からない)。Yukawa-21 はどの程度の電力消費だろう。

野良猫とマスク人間たち

先程京大の構内を歩いていたら道の脇――道の端という訳でもなく真ん中という訳でもなくその間ぐらい――にダンボールか何かが横たわっている。気にせずすぐ横を通り過ぎるつもりで歩いていくと、横たわっているのは何だかダンボールじゃなくて…なんだ…猫だ、と思った瞬間に猫もこちらが遠慮なしに近づいていくるのに気づいて、びっくりして背筋を伸ばし立ち上がりかける。僕もびっくりした。猫もびっくりした。お互いにびっくりした。目が一瞬合ったが、微妙に進路の角度を変えて速度は変化させず何事もなかったの如く通り過ぎる。猫はそのまま再び道の真ん中に寝そべった。

猫は人間を大きな猫か何かのように思っているという話がある。嘘か本当かは知らない。目があって鼻があって口があって、だから人間が自分の顔と猫の顔が対応していると思うように、猫も人間の顔を自分の顔に対応付けて理解しているのだろう。人間同士が互いの顔の共通要素を認識するように、猫同士も互いの顔の共通要素を生来の本能で認識している筈で、だとすれば人間と猫の間でも相互に共通要素を認識してしかるべきなのである。

しかし昨今は人間は皆一様に外ではマスクをしている。猫はマスクをしている人間をどのように認識しているのかかなり謎である。野良猫はマスクの下に鼻や口があるとは知るまい。だとすれば、のっぺらぼうか何かがずんずんと歩いているぞといった具合に捉えているのかもしれない。以前からマスクをしている人間は少なからずいたと思うが、最近になって皆マスクになって口や鼻がなくなってしまったことを、野良猫たちがどの様に受け止めているのか気になる。

森と林の境目

駄文。筆遊び。


記憶が定かでないが、学校で習った英語では林は woods と訳し森は forest と訳すことになっていた気がする。しかし、英語の woods は本当に日本語の「林」という概念に完全に一致するのか、または、森と林の区別は woods と forest の区別と同じなのか、と考えると多分違うのだろう。

では森と林を外国の人に説明するなら、それぞれどのように述べることができるか。素朴には森と林の違いは規模の違いの気がする。しかし、その境目をどの程度の規模とするかは人によるのだろう。個人的には民家数軒分の敷地面積ぐらいであれば森とは呼ばない。グラウンドぐらいの大きさになれば、漸く小さな森という感じがする。然し、本当に規模だけの違いなのかと、自身の感覚に問うてみるとそうでもない気がする。森と林はそれぞれ異なる種類の概念であって、規模の違いは概念の違いから副次的に生じる違いなのではないか。

よく分からなくなったので他の人が何と言っているのか調べてみた。分かったことは、さまざまの分野の人が挙って異なる説を主張していて、それぞれにそれらしい理由付けが示されているということである。特に、どの人も独特の自説が確実であるかのように記していて、少々不健康ではないか。一通り様々の異なる説を見た後に、改めてそれぞれの理由付けを見るとそれぞれこじつけに見えてくる。

色々の説を較べて気づく重要なことは、「森」と「林」の対立概念は文脈や使われ方毎に存在するようであるということである。

和語としての成り立ちから迫る考え方がある。森(盛り)と林(生やし)ということから色々想像できる。或るページによると、林は人が木を "生やし" たものだから人の手が入ったものを林というのだそうだ。然し、別のページでは全く逆のことを主張している。林は木を "生やし" たままに放置したものであるから、人の手が入っていないものを林というのだそうである。結局、古代の日本語において "もり" と "はやし" がどのように使い分けられたのかを現代の日本語を用いて憶測しても詮無いことである。更に、古代の使い分けがそのまま現代に生きている訳でもないことにも注意しなければならない。

森や林の字を含む熟語から意味の違いを量ろうという立場も見られる。ここに【シン/リン】の別と【もり/はやし】の別を混ぜた怪しげな議論が多く見られる。【もり/はやし】にそれぞれ【森/林】の字を当てたのは、当時の中国語での【森/林】の概念の違いが【もり/はやし】の概念の違いに近かったからだろうが、さりとて両者が完全に対応する概念だったとは思われない。丁度【forest/woods】が【もり/はやし】に厳密に対応する訳ではないように。所で、日本語の【シン/リン】と現代中国語の【森/林】にも同様に隔たりはあるのだろう。

更に、「熱帯雨林」「針葉樹林」「原生林」のような、地理や林業において使われる術語を参照して「林」の概念に迫る議論も見られるが、これは尚も怪しい。林業が対象とするような木の集合を「林」というのだと結論づけているが、これはおかしい。そもそも地理や林業では「森」ではなく「林」が専ら使われ、そもそも使い分けもないので話題に上る全てが自明に「林」になってしまう。

「林」という語から浮かぶイメージに「林の中の小径」がある。しかしこれは西洋文学の訳によって齎されたイメージではなかろうか。「森」も西洋文学のイメージがある。そう考えると、実は【forest/woods】という概念も現代の日本語には影響を与えているのではないかと思われてくる。

しかし、由来だの理由付けだのといったことを離れて、実際に人の中に生きている「森」と「林」の概念を考えてみると、様々な熟語や用例を見るのは理に適っていると言える。実際に人が「森」「林」という単語や字を使うときに、わざわざ古代の語源を思ったり、それが音読みか訓読みかを意識したり、或いは生活で生じた語か学問的に導入された語かを区別したりはしない。ただただ実際に使われている用例が概念を形作るのである。そして、その概念の境目は歪で容易に言葉で記せるものではないはずである。

この立場から考えると、用例から両者の意味の区別を言葉として抜き出そうとするのは物事を単純化し過ぎである。「森」と「林」の概念は、長い歴史の中で様々な言語・地域・分野で形成され、互いに影響を与え混ざり合いながら発展してきたものであり、そして今も変わり続ける生き物である。結局、外国の人に説明するときには適当に誤魔化して説明するしかない。