蘇枋くんは優しかった。
それはもう砂糖でも吐いてしまうんじゃないかってくらいに。
それはそれは幸せだったけど。なんでも度がすぎると毒になってしまうわけで。
蘇枋くんは嫉妬深かった。いつ誰と会ったの確認はもちろん、もしそれが事実と違えば注意なんて可愛いもので済まない。
普段は本当に優しい。当たり前のように車道を歩いてくれるし、重くもない荷物だって持ってくれる。
なのに、なのに少し私が他の誰かと時間を過ごそうものなら。ましてやそれが蘇枋くんの許容範囲を超えた人なら。まるで私は喧嘩相手かのように冷たい目を向けられる。
なんの知恵も武力もない私にはそれに抗う術なんてなくて。
愛されているなんて言われれば聞こえは良いけども。何度も言うが度が過ぎれば溜まったものではない。もうすり減った精神は、跡形もないほどに削られている。
蘇枋くんなんて素敵な人と付き合えたのは奇跡だったけど。もうこれ以上蘇枋くんに怯えて暮らすなんて耐えられないから。
こっそり手に入れた睡眠薬。
とても効き目が強いものらしくて。本当に寝ることができないと苦しんでいる人がぐっすり寝ることのできるほどのお薬。そのくせ安全だけは保障されているそれは、このまちでは当たり前の防犯グッズの一つだ。力のない無抵抗な人が連れ込まれても逃げることができるように、と。
どうせ彼に真っ向に向かっても敵わないのはわかっているから。せめて私が口だけでも達者であれば、優しい彼に太刀打ちできたのかもしれないけれど。そんな能さえもない私はどう足掻いてもどうすることもできないから。
今だけはこのまちに生きてて良かったとさえ思う。じゃなきゃこんなもの手に入れられるわけもない。
隙のない蘇枋くんだからこそ。本当に逃げられないって嫌でもわかっているから。
こんな汚い手段を使うしかない。これで蘇枋くんが眠っている間に遠くに逃げる。
それで私は自由になれる。この恐怖から、焦りから。
そう思うと蘇枋くんのカップに薬を注ぐのになんの抵抗もなくて。
家に遊びに来た蘇枋くんに薬を注いだカップを盆に乗せ、歩み寄る。いつものように微笑みの絶やさない彼は世間一般的に本当によくできた彼氏なのだろう。
「ありがとう。言ってくれたら手伝ったのに」
「…ううん、今日は私が淹れたかったから」
なんて嘘も当たり前につけてしまう。今のこの数分さえ乗り切れば、と思うとなんの抵抗もなくて。嘘みたいに抵抗もなくて口から溢れる虚偽がとまらない。
「わ、私慣れてないから上手くできてるか自信ないけど…」
「◯◯ちゃんが淹れてくれるってだけで十分。幸せすぎてどうしようってくらいだよ」
だから、ね?冷める前に飲んじゃおうか。なんて言われると心臓が痛いぐらい締め付けられるくらいには私も蘇枋くんのことが大好きなわけで。
単純で臆病な私はすぐに意思がぐらつく。
「あっ…まっ、」
疑うことなくカップを口に近づける蘇枋くんに罪悪感が溢れ出して。思わず声が漏れてしまった。
そんな私に気づかないほど蘇枋くんは鈍くはないから。
「?どうかした?」
「あ、ちがっ…」
けど今更飲まないで、淹れなおすって疑われることなく展開を運ぶ言い訳もできない。
それに逃げるために飲ませようとしたことがバレてしまったら。
私は蘇枋くんに何されるかわからないから。
「、あ、おかし、そう、お菓子買ってて!お茶に合いそうな!…持ってくるね」
結局何もできない私はその場から逃げることしかできなくて。
勢いよく立ち上がり、台所に向かおうとした時だった。
「◯◯ちゃん」
「な、なに」
「俺に隠し事、してないよね」
そう私を見つめる目は私の苦手な瞳で。
全てを見透かされているような、不気味な感覚が全身を襲うと同時に、瞬時に思い出される蘇枋くんに躾けられてきた記憶。
「あ、…」
「…ふふっ、なんてね。◯◯ちゃんが用意してくれたお菓子、楽しみだなぁ〜」
そう楽しそうに微笑む蘇枋くんに私は上手く笑えなくて。
あぁ、本当に逃げなきゃ。と揺らぐ意思に背き覚悟を決めた。
適当に取ったお菓子を手に蘇枋くんのもとに戻ると優しいことにまだ彼は一口もカップに口をつけていなかった。
「あれ、飲んでない、の?」
「せっかくなら一緒がいいからね。ほら、はやく飲もう」
そう急かされ座ると蘇枋くんがカップに手をつける。私もカップに手をつければ蘇枋くんはお茶を口にして。
「…うん。美味しい!とても美味しいよ」
「あ、ありがとう…」
…飲んだ。飲んでくれた。
あとは時間が経つのを待つだけ。そうすれば逃げられる。
そう思うと力が抜けて。私もカップに口をつける。
口内に広がる茶葉の香りが心地よくて。
「幸せだね」
「…うん」
今蘇枋くんが口にしている幸せは私と二人でお茶を飲むことに対してなんだろうけど、私はそうじゃなくて。
逃げられる幸せを噛み締めながら、最後になるであろう彼とのお茶会を楽しむことにした。
…けどそれも、数分前の話しで。
蘇枋くんは一向に眠らない。それどころかどれだけおしゃべりしても声のトーン一つさえ変わらない。
「…ん?眠いの?」
それなのになぜか私は眠たくて。
「夜更かしでもしたの?…だめだよ身体を大事にしなきゃ」
「して、ない…」
じわじわと襲ってくる眠気に目を擦りつつ違和感を覚える。
…なんだろう。けど、よくわからないけど、
まるで無理やり眠らされているような。
そんな違和感がどうしても抜けなくて。
「…なんで眠いんだろ、昨日はちゃんと…「そりゃあ、キミが睡眠薬を飲んだからだよ」……え、」
その言葉は私の意識を覚ますには十分すぎる言葉で。見開いた瞳で蘇枋くんを見上げる。
「俺に薬盛ろうとしてたみたいだけど。バレバレだったよ?」
よっと、と立ち上がる蘇枋くんが私を見下ろす。それはあの薬を飲んだとは思えない人の動きで。
そんな蘇枋くんの動きと今の私の有様に、本当に私があの薬を飲んでしまった、と嫌でもわかってしまうけど。そう自覚すればするほど強烈な眠気が全身を再び襲う。
もう立つ気力も湧かない体に、起きなきゃ、と思う意思に反して下がる瞼。思考もままならない。
そんな私の様子を蘇枋くんはまるで筒抜けかのようにわかっているようで。
「…ま、◯◯ちゃんが抜けてて可愛いってのはそのくらいにして、」
ゆっくりこちらに歩み寄ってきた蘇枋くんは私のそばに来ると視線を合わせるようにしゃがみ込む。逃げられないよう頬に添えられた手はびくともしなくて。さらに脳に警鐘が鳴り響く。
「…これ、俺に飲ませてどうするつもりだったの?」
「、ちがっ」
「なにが?俺はまだ何も言ってないよ?」
あー、でも◯◯ちゃんおねむだもんね。早く寝かせてあげたいから長くお話しできないか、なんてどこか楽しそうに笑いながら言う蘇枋くんが恐ろしくて。
どこか蕩けたような、それでいて鋭い瞳が私を捉えて離さない。
「◯◯ちゃんはさ、俺から逃げたかったんでしょ?」
そう口にされたのはこれまた見透かされた思惑で。
肯定ししようが、しなかろうが。もうこんな状況じゃ何を言っても意味がないし、口もうまく動かない。
ただ、ただ体に残るは焦りと恐怖からくる言いようのない浮遊感で。
「大丈夫。寝てる◯◯ちゃんに手を出すなんて可哀想なことはしないからさ。…けど」
ぎゅう、と抱きしめられた途端、大好きな蘇枋くんの匂いに包まれる。途端、こんな状況なのにどこかで必死に耐えていた力が抜けてしまって。
「起きたらたーくさん。嫌と言おうが嫌いと喚こうが。俺の気が済むまで抱き潰してあげるからね」
まるで糸が切れたかのように意識が落ちる私には蘇枋くんの恐ろしい言葉など、もう届くわけもなくて。
「あー……"幸せ"だなあ」
瞳を閉じた時に頬に流れた涙でさえ、もう気づくことができなかった。