第246話 愛と父
―宇垣視点―
「来てくれましたね」
坂道を登った後、妻の墓前で愛は待ってくれていた。ここは、瞳が好きだった海の近くの場所だ。落ち着いた波の音が心を少しだけ落ち着かせてくれる。何度もここに一人で来たが、誰かと一緒に来るのは初めてだった。
その相手が愛と英治君というのは、ある意味で運命と言えるものだろうな。さきほど、あいつの墓前に行ったばかりで、ここに来た。自分は、大事な人に先立たれる運命にあるかと何度もそれを呪った。
そして、最後には愛娘を一人ぼっちにして残すことになる。
妻の墓に愛と一緒に来るなんて想像もしていなかった。本来なら毎年来るべきだったのに、それから逃げていた。天国で妻が怒っているかもしれない。
英治君は少し遠い場所で見守ってくれている。いつの間にか移動していたみたいだ。気を使ってもらっているな。
愛は落ち着いた色のワンピースを着ていた。
少しずつ、瞳に似てきている。若いときの妻の姿を重ねて、心がざわついた。
そうか。もう高校生だからな。それに、娘は親のひいき目なしに魅力が増したような気がする。それは、きっと英治君のためだと思うと、寂しさと嬉しさが同居する不思議な気持ちになる。
「久しぶりだな」
英治君に持ってもらっていた桶を受け取って、水道に向かう。水を汲んで、軽く墓の掃除を始める。あえて、無言を続けた。すでに、愛がほとんど掃除をしてくれていたようだ。すぐに、その儀式も終わってしまった。
まるで、自分は死刑台に上る囚人のような気分だ。ここで、絶縁を突きつけられてしまったほうがいいと思う。私まで失うことに、愛が耐えられるはずがない。
そんな心の中の弱い自分が必死にそう叫んでいる。
「お父さんと一緒にお母さんのお墓参りするのは、初めてですね」
愛はぽつりとそう言った。思わず泣きそうになるのをこらえて、短く「ああ」とだけ答えた。それ以上に何と答えるべきかわからなかった。きっと、瞳には怒られるだろうな。自分でも情けないと思う。
その反応に、愛は少しだけ寂しそうに笑って、それでも優しく伝えてくる。かなり緊張した様子がわかった。愛は緊張すると、瞬きが多くなる癖がある。今回も同じようなしぐさを見せていて、目の前の彼女が本当に自分の娘だと実感させられてしまう。
「聞いてほしいことがあります」
少しだけ震えた声が弱々しくこちらに呼び掛けてくる。私はゆっくりと頷いた。
愛は緊張しながら続ける。ゆっくりと、それでいて真摯に。
「ここに来るまでに、たくさんのことがありました。誰にも頼れなかった私を助けてくれたのが、青野英治さんです。彼がいなかったら、たぶん、私はここに立つこともできなかった」
「……」
私は軽く頷いた。それしかできなかった。
「私は、弱い人間だから。だから、ずっと逃げてきてしまった。あの事故の後で、お父さんと溝ができてしまったあとも、本心を伝えるのを避け続けました。お父さんから明確な拒絶の言葉が出てきてしまったらどうしようかって、ずっと怖くて、前に進めなかった」
その言葉によって、私の胸は締め付けられる。
悪いのは愛じゃない。そんなことはわかっている。だからこそ、何も言えない。出すべき言葉が見つからない。
もう自分は無言を続けることしかできなくなっていた。なにか、言葉にしてしまえば、愛の決心を邪魔することになってしまうかもしれないから。
「でも、それじゃあ、あの日のお母さんの行為を否定してしまう。ずっと、悩んでいました。心が壊れそうになるくらい悩みました」
娘を苦しめてしまった。その覚悟は持っていたつもりだ。だが、直接、言葉にされるとその覚悟はもろいものだったとわかる。
娘と向き合う覚悟を固めて、愛の方向をしっかりと向いた。久しぶりに視線が合う娘からは、小さい頃の面影と亡き妻の面影のどちらも感じられる。
愛はすでに目に一杯の涙を浮かべている。
娘はもうすぐ泣きそうだとわかった。思えば、愛はよく泣いていた。卒業式や誕生日で感極まって涙を流しているのを何度も見ていたはずだった。なのに、私は気づけなかったのだ。いや、気づこうとしていなかったと思う。
あの事故にあった日から、一番つらいはずの愛が泣いていなかったことに。
こちらの見えない場所で泣いていたのかもしれない。本来なら、父親である自分が受け止めるべきだった。だが、それができなかった。
おそらく、それを受け止めてくれたのは、英治君だろう。
愛は限界だったのか、深呼吸をして言葉を紡いだ。
「私をもう一度、あなたの……お父さんの娘にしてください」
彼女は力強く、そしてすがるようにそう言った。目からは大粒の涙が流れていた。
それに対して思わず、抱き着きたくなるのを必死に抑えた。
もう逃げることはできない。
瞳の方向を見て、私はすべてを伝える覚悟を固める。
そして、一歩前に踏み出した。
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