山元一ほか編『憲法学と憲法学者の<アフター・リベラル>』について
2024/08/10
宍戸 常寿
まず冒頭に断っておきたいが、本書は、憲法学ないし憲法学者に対する内在的・外在的批判を集約した一冊であり、憲法学の一つの画期をなすものとして学術的に評価されるべきである著作である。そのことは言うを俟たない。私自身も、共編者やゲストの方々と問題意識を共有するところも多く、また、その指摘の多くは一研究者として自戒してきたところと重なる点がある。その上でなお、本書には伝統ある法学専門出版社が発刊する学術書としての価値を守るためにも、該当箇所に必要な修正を行わねばならないほどの重大な瑕疵があることを、指摘したい。
問題となるのは、369頁以下の次の箇所である(以下、当該記述という)。
「山元 …それから日本公法学会の事務局が必ず東大法学部に置かれているとか、こんなことは本当にどうでもいい話かもしれませんが、存外、こういったことというのは私たち憲法学者の行動を暗に陽に、事実上規制するんですね。特定の大学学部に必ず事務局が置かれるのは、珍しいのではないでしょうか。だから、そのことを発話しないと、すごく陰湿で内向的な集団になってしまうと思うんです。」
この発言は、本書全体の通奏低音をなす、「リベラル」な日本国憲法理解=「リベラル」な憲法学=「東大憲法学」の「権威」性を批判する文脈で、それを基礎づける事情の一つとして、日本公法学会(以下、公法学会という)のあり方を取り上げたものである。
本書における「リベラル」あるいは「権威」は、共編者やゲストの間でもそれ自体として明確な輪郭が共有されておらず、かつ、そのままでは反論しようにも方法がないから、かえってそのような表現を旗印に同調し続ける側こそ、「陰湿で内向的な集団」ないし「閉鎖的な社会集団」化が昂進するであろう。むろん、本書では共編者やゲストが具体的に特定の研究者の論文や活動等を取り上げて批判する記述も多く、そこに学術的な意味もあり、繰り返しになるが私も同様の見解を持ち、公にしたこともある。憲法研究者の内在的な批判としても、例えば、共編者の1人である曽我部教授の冷静な分析や、誤解に対する公正な反論、同じく共編者である栗島准教授の清新な感覚に満ち、かつドイツの学問のあり方を踏まえた問題提起は、いずれも今後の憲法学の自己刷新にとって傾聴すべき点ばかりである。
「東大憲法学」については、私自身が山元教授と同じくその研究室の出身であるだけでなく、現職の東京大学教授でもあることから、私個人に向けられた批判でなくても、自らを省み律する糧として受け止めるべきであると考えている。少なくとも現時点では、東京大学の研究室を経て憲法研究者として活躍されている江藤教授がゲストとして、そしてかつて同様のキャリアを辿られた山元教授自身が、本書で「東大憲法学」について自由闊達に論じておられ、それが弘文堂から刊行されている一事が、「東大憲法学」の「権威」性なる評価それ自体を自己反駁しているのではないかと思われるが、いずれにしてもこのような集団を抽象化してその傾向や構造を指摘する言説の当否は、研究者共同体と健全な世論によって、今後評価されるべきものと考えている。
あえていえば、本書の論法を借用すれば、「慶應憲法学が権威的な出版社及び憲法学界外の関係者をも動員してヘゲモニーを奪おうとする試み」と本書を非難することだって、できないわけではない。これがいかに荒唐無稽であるかは、慶應義塾大学の憲法研究者の方々の個性と学風を知る方であれば当然にわかることであろうが、法学研究者以外の読者にとっては、注意して読まねば、誇張を裏付ける記述を本書内の各所に発見して、その先入見が強化され続けるであろう。憲法に関する言説に職業的に関わる者の狭いサークルの中での「東大憲法学」の「権威」性に威圧される云々以上に、一般読者に対する研究者自身の「権威」性についてこそ敏感であることが、望まれるゆえんでもある。
閑話休題。私が本書に対して異議を申し立てたいのは、当該記述が「東大憲法学」そのものではなく、「東大憲法学」と公法学会のあり方をむすびつけている点にある。
まず第1に、公法学会は、「公法(憲法・行政法・国法学及びこれらに関連する諸部門を含む)に関する研究及びその研究者相互の協力を促進し、かねて外国の学界との連絡を図ることを目的とする」(同会規約3条)組織である。歴代の理事長、ないし理事の構成も、憲法と行政法を専門とする研究者がおおむね同数であり、かつ、毎年開催される総会も、憲法・行政法のテーマや報告者がおおむね均等に扱われるよう配慮されている。「リベラル」な憲法学のあり方を問題にするのであれば、憲法プロパーの複数の学会、とりわけ、憲法学の学問性に批判的な行政法の研究者を含まずに、「護憲」を強く標榜しており「リベラル」な憲法研究者の集団として取り上げられるにふさわしい学会――その中には、山元教授の同僚が代表や事務局を務めた例もある――こそが優先的に取り上げるべきであろう。しかしそうでなく、殊更に公法学会が選ばれたのには、第2ないし第3の外形的な事情により、「東大憲法学」との紐付けが可能であったからであろう。
第2に、規約上、「本会の事務所は、東京都文京区本郷七丁目三番東京大学法学部研究室に置く。」(2条)とされている。ここでいう事務所とは、権利能力なき社団である公法学会の住所であり、例えば、郵便物の送付先として表示する、あるいは会費収納等の銀行口座を開設する等のために必要なものであって、学会の事務局とは区別される。そして、このように事務所を特定の大学に置くと定め、それが固定されている公法学会以外の他の法学系の学会として、例えば、日本私法学会や日本刑法学会がある。他方、先述したある憲法プロパーの学会では、事務局長が交代するたびにその研究室を学会の所在地として変更する規約改定をした上で、口座変更等の手続をしているが、そのいずれがよいかは評価の分かれるところであろう。
第3に、最も肝要な点であるが、公法学会の「事務局」は規約等に定めがなく、理事会によって選出され本会を代表する理事長及び理事長の指名により理事会で承認され理事長を補佐する常務理事(庶務担当、会計担当)の業務を手伝う会員のことをそのように呼ぶならわしである。そして「事務局」ないし「事務局長」が通例1名、交代期には2名であり、現役の東京大学大学院法学政治学研究科・法学部の憲法ないし行政法を専攻する教員(多くの場合は若手の教授または准教授)が務めてきたことは、紛れもない事実である。しかしこの点については、「事務室」と「事務局」を峻別し、東京大学に「事務局」が「必ず」置かれる結果にならないよう、すなわち、東京大学の教員が手続なく当然に事務局を務めさせられることのないように――この御時世にかかる身分制的な押しつけがあるならば、学会全体による若手研究者へのアカデミック・ハラスメントとして大問題であろう――、事務局の交代に当たって、理事長から理事会に報告をして了承を得ている。この点は、規約とともに、毎年刊行される学会の紀要である「公法研究」の学会記事欄に明記しているところでもある。また、佐藤幸治・京都大学教授(当時)が理事長になった際には、事務局を関西の大学に移してはどうかという話も出たが、引き続き当時の体制を維持することとなったという経緯を、個人的に聞いたこともある。
第4に、他の憲法プロパーの学会と異なり、事務局に学会運営についての独自の裁量権・提案権があるわけではない。さらにいえば、総会テーマの選定や報告者の選出などの学会の最重要事項に関しては、理事長及び常務理事も全く同じ状況下にあって、まさしく学会が自由な学術の場であり続けることを確保し、間違っても「陰湿で内向的な集団」に堕さないために守るべき一線が伝統的に形成されてきている。
具体的には次のとおりである。総会テーマは、理事会の同意を得て選任された理事長の諮問機関(10名程度、理事長と同じ任期3年)である総会テーマ企画委員会が複数のテーマ案を用意し、理事会が決定する。そして理事会が毎年、総会運営委員(10名程度)を指名し、その運営委員が具体的な報告テーマと報告者となる会員・非会員を選出し、依頼を行い、総会に至る準備や当日の総会の運営に当たる。この企画委員及び運営委員の選任に当たっては、先ほど述べたとおり、憲法・行政法という専門分野の均衡はもちろん、会員の年代・性別・地域の多様性、そして何よりも出身研究室や現在の所属大学についてバランスが取れるよう、十分な配慮がなされ、その構成もまた公表されている。理事を務める「大家」による「権威」的な学会支配という批判はまだあり得るとしても、「東大憲法学」の「権威」なるものが介在する余地はない。
最後に、このような理事会の構成については、まず全会員が資格を有する直接投票により理事の半数程度が選ばれ、残る半数程度が選挙で当選した理事による選考委員会で選考され、最終的には総会で選任される。選挙結果についていえば、上述したところからもわかるとおり、公法学会の構成の多様性を反映して、「東大憲法学」なるものが多数になるようなことはあり得ない。さらに選挙外で選考される理事についても、企画委員及び運営委員の選任と同様の多様性に配慮した選考が行われている。例えば、特定の大学に所属する憲法研究者ないし行政法研究者が選挙で理事に選ばれる場合には、同じ大学で同じ分野を専攻する研究者を選挙外で選考することは避けるのが通例である。特に慶應義塾大学のように、山元教授をはじめとして有力な研究者が集中する場合――これは、法科大学院設置後の法学教員人事の流動化により、顕著な傾向となっている――には、結果的に、理事として学会をリードするにふさわしいと思われる研究者が、たまたま理事の選任から外れる事態も起こるが、これも特定の大学の研究者の集団が、理事会で突出して影響力を行使することを避けるための工夫と考えられる。なお、2024年7月時点での公法学会の理事長及び理事40名のうち、憲法を専門とする研究者が21名、行政法を専門とする研究者が19名である。東京大学の教授として籍を置いている/置いたことのある研究者は5名(憲法3、行政法2)である。東京大学の研究室の出身者は12名(憲法6、行政法6)である。
以上のことから、「東大憲法学」の「権威」性なるものと公法学会のあり方を結びつけることが不当であることは、合理的に見ればもはや明らかであろう。そして、いまここで説明した内容の詳細は、学会運営に関心の乏しい会員にとっては十分正確に承知されてはいないかもしれないが、その概要及び結論は、「公法研究」に掲載される規約や学会記事、総会議事の報告、そして何よりも総会に参加したり報告したりという経験を通じて、会員に対して公にされていることである。
そして、何よりも先の発言をされる山元教授自身が、公法学会理事を長年務めておられるが故に、このような事情は十分に承知しておられるはずである。さらにいえば、理事として、理事会及び総会において、あるいは理事長等に対して、公法学会の事務局を東京大学に所属する会員に委嘱するならわしの是非を公に質し、問題提起する自由は、事務局を務める一介の若手研究者よりもはるかに「権威」ある理事を務める山元教授には、ある。しかし少なくとも、事務局及び理事を相当年数務めた私は、そのような機会に接した記憶がない。いささかなりとも事務局にかかる負担――まさに当該記述に見られるような、実態からかい離したイメージを持たれかねないことも含めて、その教育・研究活動を「事実上規制する」事態が現実かつ具体的に生じ得る――を知る立場にある者としては、そのようなご提案があれば、一も二もなく諸手を挙げて賛成したいところである。そのような機会を利用されず、「東大憲法学」を批判するという文脈において当該記述を公にされたことは、駆け出しの頃より親しく山元教授の謦咳に接してきた者として、心から残念に思っている。
当該記述を含んだまま本書を出版した弘文堂に対しても、私は疑問を呈せざるを得ない。弘文堂は法律学を専門の一とする、伝統ないし「権威」ある出版社であり、私自身もいわゆる助手論文を専門書として刊行させていただいたほか、いくつかの刊行物に寄稿したり、編集に関わってきたりした。いずれの編集部員も誠実に、法学の発展に向けて、企画の提案や執筆のサポート、記載内容の確認や校正作業を懇切丁寧に行ってこられた。およそ物書きは気ままであるが、とりわけ学術書は、編集者と研究者の共同作業の側面が強いことを指摘しておきたい。
また、同社の役員や編集部員は、長年にわたり、多くの各法分野の研究者と多彩な交流があり、その中にはいわゆる「東大憲法学」に限られず、公法学会の過去・現在の会員も大勢含まれている。毎年の公法学会の総会の前後には、同社の編集部員が会員に対する企画の相談や原稿の依頼・督促、若手研究者の発掘などに勤しまれていることも、よく目にする光景である。
要するに、「ポスト・トゥルース」の時代にあって、意図的に挑発的な表現を多用する商売的ジャーナリズムや、「内ゲバ」ものの刊行で日銭を稼ぐような出版社と、既存の学説に挑戦する緊張感ある知的営為としての法学の発展に長年にわたり貢献し、公法学会ないし法学研究者の生態に通暁している弘文堂(及びその編集者)とは、訳が違うのである。第1の点で触れた他の法学分野における学会の規約や運営といった事情についていえば、自分の専門分野のみを「内向的に」見る研究者よりも、遙かに横断的に精通した方々でもあろう。その弘文堂の学術的出版物において、「東大憲法学」の「権威」性の証左として「日本公法学会の事務局が必ず東大法学部に置かれている」という記述を漫然と掲載したということが、私が本書から受けたもう一つの衝撃であり、この一文を急ぎ認めさせた理由でもある。
ここまで読まれて、殊更に公法学会に関する当該記述という、「どうでもいい」ただ一箇所をあげつらって、本書と出版社に難癖を付けて貶めようというものだと感じられる向きもあるかもしれない。そうではないことは、改めて強調しておきたい。およそどれほど独創性・新規性のある、そして既存の通説に果敢に挑戦する研究論文でも、ただ一箇所、決定的な引用ミスや先達の文章の誤読で、学術論文や学術書としての評価はすべて台無しとなり得る。それは、読者を欺くだけでなく、研究者本人の思い込みを強化し、ミスリードしているおそれもあるからである。そのような怖さは、若手の研究者以上に、学術専門の出版社の方々が、よく存じておられるはずであろう。当該記述に関して言えば、先述したとおり、「リベラル」な憲法学批判と「東大憲法学」の「権威」性を結びつける言説の当否は、正確な事実関係に基づき議論されるべきであり、不正確な事実を拡散させて議論のあり方自体を歪めるべきではない。弘文堂が、多くの法学研究者が信頼してきた定評ある学術専門出版社であるが故に、あえて苦言を呈さざるを得ないのである。
今後、本書は、その他の適切ないし学術的な意義のある記述が豊富に含まれるだけに一層、「東大憲法学」の「権威」性を明らかにするために公法学会に言及する典拠として、いわゆる「現実の悪意」すなわち「誤りであることを知りながら、あるいは言明が真実であるか誤りであるかどうかを全く気にもかけない」ような読者に、とりわけ憲法学の外側で利用されるおそれが高い。学会理事であるという発言者の立場及び出版社の「権威」が、そのような、公法学会及びその過去・現在・未来の会員をおとしめる言説の再生産を可能にする。改めて強調したいが、山元教授による、かつて東京大学に籍を置いている/置いたことのある憲法研究者の個別の学説や活動に対する批判は、本書に限らずであるが、私自身も的を射たものと思うものもあり、また、完全に賛同しないにしても、少なくとも研究者同士の学術的な批判として十分に意味のあるものが含まれると思っている。なればこそ、本文で指摘したとおり、当該記述の瑕疵は際立っており、山元教授及び本書の評価を大きく損なうものであることを、同教授及び弘文堂との長年の恩義にもかかわらず、むしろそうであるが故に指摘することが、私自身の責務でもあると思う。
恩義といえば、私がこのような問題を、例えば「飲み会」の場でカジュアルに、弘文堂の方に伝えるという方法も、当然に考えた。私個人にしてみれば、当該記述の後に続く「わざわざそんなことを言って自分の立場が悪くなるようなことはしない」方が安全であり、また、山元教授をはじめ本書に関わった共編者・ゲストの方々へのダメージをも避ける、「賢さや巧みな処世術」の発揮でもあろう。ハレーションを起こすことは本意ではないし、私としては、引き続き学問共同体のcolleagueとして、健全な相互の批判を通じた研鑽を積み、公法学会を含む、憲法学界がまさに自由で開かれた学術の場としての機能を高めていくことに、本書に関わられた方々と協働を続けていきたいと願っている。
しかし、当該記述及び本書の通奏低音との関係では、先のような「巧みな」方法を採ることが、かえって「東大憲法学」による「権威」の「陰湿」な行使だと見られかねないことを、私は怖れる。さらにいえば、当該記述が内外で受け入れられる雰囲気があるのだとすれば、その背景には、本文で述べたような事情をあたかもnoblesse oblige視し、直接の当事者に沈黙する(させる)ことを美徳とするがごとき日本的文化の内面化があったのではないかとも考えた。急いで付言すれば、これは公法学会の「事務局」ないし理事長等に限られた話ではない。山元教授を含む理事・監事、各種の委員、そして毎年の総会開催校の会員は、すべて手弁当で、公法学会の業務を負担している。これも会員の負担転嫁を抑え、コスパよく学会を運営するためなのだが、本文のような事情を詳らかにしないことがかえって「極めて閉鎖的な社会集団」と非難される遠因だとすれば、山元教授がそうされたように、公明正大に発言すべきときであろう。
それ故に、本書の価値を救うためにも、公に、当該記述の言い回しを借りれば「発話」することがより適切と考えたので、本文を「弘文堂スクエア」上に公表する次第である。
以上
宍戸常寿先生へのリプライ
山元 一
宍戸常寿先生から,上記の文書の通り私の発言について批判的コメントを頂戴しました。それに対するリプライとしまして,以下の通り,宍戸先生が問題とされた箇所における発言の趣旨を説明させていただきます。
私がこのような発言をした背景には,憲法に直接的・間接的に関係する二つの学会で事務局に関係していた私の経験があります。一つは憲法理論研究会であり,もう一つは国際人権法学会です。前者においては私は大学院生時代に事務局員を務め,その後事務局長を務めました。後者においては,事務局長を務めた後,現在は理事長です。理事長も事務局の一員ですので,学会における事務局経験は計9年となります。どちらの学会も事務局は多数の大学の所属者・出身者によって構成されてきました。このうち憲法理論研究会は事務局自体がいわば企画委員会を兼ねている点に特色がありますが,国際人権法学会の事務局は,ほぼ純粋に学会の諸事務の処理だけを行っています。一般に学会事務局の仕事は極めて地味なもので,何かの事務的なミスがあれば会員の方からお叱りを受ける辛い立場にあります。しかしそうであっても,楽しい面、やり甲斐のある面があるのは,様々な大学やバックグラウンドを持った方々と仕事をともにすることができ,そのような共通体験を持つことによって知らず知らずのうちに自分の世界や知見が広がっていくところです。このように学会事務局に関わることは時間的にまた手間の点で大変な面もありますが,人間的にも学問的にも,とても有益な面があります。
このような経験をした私から見ると,日本公法学会の事務局が特定の大学学部の関係者のみによって構成されていることには,とても不思議な感じがしてしまいました。もちろん,事務局が企画委員会を兼ねている憲法理論研究会は別として,国際人権法学会そして憲法関係の学会である全国憲法研究会でも,学会の研究大会等の企画や紀要の編集はそれぞれ独立性の高い委員会の決定に委ねられていて,学会事務局がそれらの委員会の決定に干渉することはできない仕組みになっている,と思います。そして,このことは日本公法学会についても全く同様に当てはまることだと思います。ですから,日本公法学会の企画運営のあり方の実際が特定の大学学部によって左右されている現実がある,とは全く考えられません。また,宍戸先生は,私の直接知りえた経験に照らしても,あらゆる場面で出身大学等を理由として日の当たらない人が出ないように全力で配慮している,およそ学会で右に並ぶものがいない方なのではないか,とつねづね思っています。恐らく宍戸先生を知る人は,口を揃えてそのように評価するのではないでしょうか。公法学会の事務局についても,宍戸先生をはじめとする関係者の方々はこれまで貴重な研究時間をかなり奪われ大変苦しい思いをされてきたのではないか,と拝察しています。
ですから,私が述べたかったことは,日本公法学会の企画運営のあり方の実際が特定の大学学部によって左右されているということでは全くありません。これまで続いてきている,決して誰のせいでもない学会の一定の「構造」についてです。恒常的に学会事務を特定の大学学部所属者が担うというのは,学会事務負担の一方的なしわ寄せになっているのではないか,とも思います。また,その組織におけるジェンダー等のバランスが悪ければ,それがそのまま事務局の構成に反映されることになってしまうことでしょう。
私が上に述べた不思議感は,何らかの学会事務局を経験したことがある方であれば,多かれ少なかれ共有いただけることではないか,と思いました。そうだとすれば,例えば理事のどなたかがずっと昔にそれを発言して,学会事務の負担のあり方の見直しがおこなわれていたのではないか,と思うのですが,私の理事在任中に,そういうことはなかったように思います。そうだとすれば,そこには,このことについて何か指摘しにくい,<目に見えない空気>,というようなものが存在しているのではないか,と感じたのです。もし,ある組織や団体に<目に見えない空気>が存在していると,そのような社会や空間は決していい方向に行かないのではないか,と感じました。何らかの機会があれば,この<目に見えない空気>について発話した方が,発話しないよりもずっといいのではないか,と思ったのです。「構造」の存在について指摘をしましたが,こういったからといって,決して特定の誰かが悪いといいたいわけではありません。それは,まさに<空気>のせいだ,と思っています。学会事務局の皆さんも,このような抗うことの難しい<空気>に縛られているのかもしれない,とも思います。
学会事務局の仕事が実際どれくらいの負担かは,私の憲法理論研究会と国際人権法学会での経験に照らしてみても,担当している当事者ではなければよく分からない面があります。ですから,学会事務局体制の見直しは,その事務に携わっている人でないと,提案することが難しい性質を有しているのではないか,と思います。現在はオンラインで会議を持つことができるので,全国どこにいても,その性質次第では学会事務の処理を行うことができます。ですから,例えば,学会は学会員全体のものですから,公募で事務局員を募って多くのバックグラウンドを持つ人によって学会を運営すること,そうやって学会活動を様々な人々が共同で担っていくことは,とても素敵なことではないかと思ったのです。
私は,憲法学界の片隅で研究をおこなっている者の一人として,自分の関係している全ての学会が素敵な学会であればあるほど,私の人生自体がそれによってますます素敵なものになるに違いない,と思っています。