今の私は、美大生である。
金沢美術工芸大学の工芸科3年の漆コースに在籍していて、現在は精神科病棟に入院しているから、不登校の状況である。
今回のタイトルは「休学について」。
少し、色々と振り返りつつ書いていく。
休学したいと思うようになったのは、2年のいつだったろう。5月あたりで一度かなりの鬱っぽさに悩まされていた。具体的に言うと……なかなか思い出せない。鬱期の記憶が希薄なのは私だけだろうか、否、私は全体的に記憶力に乏しいのだけれど。ただ猛烈に死にたいと言う気持ちと死にたくないと言う気持ちとで泣き、布団から出られなかったことは覚えている。
理由は課題の多さ、難しさだった。私は圧倒されるとフリーズしてしまう質で、さらに言えば上記のように希死念慮をはじめとした抑うつに襲われてしまう。
その頃は学校のカウンセリングを受けてやり過ごし、2年の前期は何とかなった。
しかし、そこで燃え尽きた私は夏休みに入っても回復しきることなく、後期が始まってしまった。その時からは流石に心療内科へ通い始めた。効いてるのか効いてないのかわからない薬、私の話を鼻で笑う医者、相変わらず圧倒してくるような課題たち。自殺企図(未遂?)も何度かした。
バイトも細々とやっていたが、やはり自分を損なうものでしかなかった。救いはゲームに没頭できることだったろうか。
金沢の冬は、太平洋側出身の私には辛いものがある。年末年始に地元に帰り、真っ青な空を見て、「ああ、金美をやめたい」と思ったのだった。
だが、急にやめるのも現実的ではない。まずは休学だろう。そう考えるようになったのもおそらくその頃じゃないだろうか。とはいえ、本気で休学をする勇気はなく、父には「休学したいって思うくらい課題が大変でねぇ」と言うだけだった。
3年になった。
私は相変わらずの抑うつと共に進級したが、ほどなく首を吊ろうとしたり、学校に行くことが段々と出来なくなったりしていた。辛うじて私と学校を繋げていたのは、学生相談室のカウンセラーだと思う。そこでようやく私は、休学をしたいと口に出したし、カウンセラーもその方が良いと頷いたのだ。
それから何度か、教員たちや父を交えて話し合いがあった。父は休学以外の選択肢は無いのか、休学とは早計じゃないかと言っていた。そんなことはない。塵も積もれば何とやらだ。あの人は塵しか見ておらず、出来上がった山には気づいていないようだった。
そして、後期の休学が決まった。
そうすると3年度の留年は確定だし、私も未だ抑うつを抱えていたので、カウンセリングを除き完全な不登校となった。
また、医者への不信感など(診察室で煙草を吸いやがる!)から、6月には今の病院の精神科へ転院した。
7月に書いたまばらな日記を読み返すと、鬱がひどい時もあれば、マシな時もある。
だが、8月の2週目辺りから夜のパニックが起こるようになった。このパニックについては前の記事で書いたので割愛。だがこの夏はバイトに勤しむことができたことが唯一良い点である。
9月。パニックに怯えたり、休学するのだという事実に恐れたりしていた。どういうわけかと言うと、この不登校などの流れが、過去の私の中学時代ととても似ていたのだった。
中学時代、重いうつ状態で学校に行くことが段々と出来なくなり、3年の二学期は不登校だった。しかし修学旅行をきっかけに、三学期から復帰を目指し登校し、そして──折れた。積み重なった疲労の蓄積と、ちょんとした出来事でぽきりと折れてしまったのだ。私は自殺未遂をし、ODをし、県で一番だった中高一貫校だったそこから通信制高校へと転校したのである。
それが今。うつ状態で学校に行くことが段々と出来なくなり、不登校になり、休学し──すると、どうなるだろう? 復学しようとしても、またぽきりと折れてしまうのではないか? 想像に容易かった。なぜなら既に経験していたからだ。
私は、美大生である。
このことに多少の執着があることをここに認めようと思う。
なぜならば、美大、それも金沢美大に受かったということは、私の人生の挽回を意味するからである。
もちろんこの考えが歪んでいることも承知の上で、私は不登校や通信制時代を100%良かったものとは思えないのである。悪かったと言いたいわけではないけれど、どこかでやはり、「落ちこぼれた」感覚がある。
それを、だ。私は金美に受かることで挽回したのだと思っているのだ。ジョジョ7部ジョニィの言葉を借りれば、『ぼくはまだ「マイナス」なんだッ!「ゼロ」に向かって行きたいッ!』でいうところの「ゼロ」にようやく立てたのだ。
しかし、休学し、復学し、そして復学し損なったら? 退学したら? 私はまた落ちこぼれ、「マイナス」へ落ちていくのではないだろうか?
その恐怖は酷かった。9月当時はそのせいで夜のパニックを起こしているのだと思っていた。
そして父との話し合いの末、休学を取り消すことにした。
休学すれば、学校の設備は使えなくなる。復学に向けての慣らし登校のようなことはできないし、同じく制作もできない。けれど休学しないのならば、留年は免れないが、休み休み制作もできるし、比較的楽な座学ならば単位も取れよう。そう思っての判断だった。
10月。学校が始まり、私は週3ほどの頻度で登校、制作し、必要単位が残りわずかな座学に出席していた。夜のパニックはこれで収まる、と思われたが、ご存知の通り収まることはなく、私の生活は抑うつと、パニックと、学校と、わずかなバイトとで段々と成り立たなくなっていった。食事は疎かになり、風呂には入れず、好きだったことに手がつかず、床にただぼんやりと倒れていることしかできない。
11月、12月と時が過ぎ、事が起きたのは20日、入院である。
入院するほどかなあ? というのは、今でも思うし、ゆえに罪悪感がある。入院や通院への罪悪感については前の記事で書いたと思うので割愛。
ただ驚いたのは、父が「来年度1年間休学しないか」と提案してきたことだ。
あれほど休学以外の選択肢は無いのかと言ったり、夏だって休学やめれば? と言ってきたのに、今になって「来年度休学しないか」?
いや、今になってだからかもしれない。入院という出来事によって、彼はようやく塵の積もった山が見えたのだろう。
「半期じゃなくキリがいいから1年間休学して、父さんと一緒に住んで、食事や風呂などの生活を立て直そう」
父の提案はもっともな気がした。
来年度再び3年生をやるとして、まともに学校に通える自信もなかったし、また同じように首を吊らない自信もなかった。そもそも生活ができていなかったのだ、学校もくそもないのである。
最早私には、中学時代と同じ轍を踏むのではないか、という恐れよりも、来年度に対する自信の無さの方が大きかった。
また父は言った。
「大学を卒業する事だけがあなたがあなたらしくいられる事とは限らない」
退学の可能性も考えた上で、それも私らしくいられるなら構わない、と言うのだった。
そして言う。
「中学は辛い思いしたけど、通信制へ行ったことであなたは自ら考え画塾へ通い出し、バイトをはじめ、美大受験を志して成し遂げた。今も辛い状況にあるけれど、休学すれば、きっとまた色々できるようになる。今と中学時代と、似てると思わない? また出来るようになるよ」
と。
「大学上がって3年間か。一人でよく頑張ったよ」
頭をわしわしと撫でながら父は言った。
涙が出た。
結論として、私の休学の意思は既に8割は腹が決まっている。
休学して何をするのかと聞かれると、さて、まずは車校だろうか、バイトでお金も貯めておきたい、好きなこと──二次創作やゲームなどにも触れていたい。
まだ先生やカウンセラーとも話せていないことなので、今後どうなるか確実なことはまだ言えないが、それでも確かなことは、父は私を思ってくれていたのだということだろう。