監督 : ショーン・ベイカー
公開 : 2025年
出演 : マイキー・マディソン ( as アノーラ、通称アニー )
: マーク・エイデルシュテイン ( as イヴァン、通称ヴァーニャ)
: ユーリー・ボロソフ ( as イゴール )
▶ CHAPTER 1 娼婦であること、人を愛すること
▶ この映画、物語のあらすじとして『 プリティ・ウーマン ( 1990 ) 』に似ているとも言われる。売春婦のヴィヴィアン ( ジュリア・ロバーツ ) が実業家のエドワード ( リチャード・ギア ) と出会い惹かれ合うという展開が、ストリッパー ( といっても金で本番行為をするので娼婦といえる ) のアニー ( マイキー・マディソン ) がロシアのオリガルヒの息子であるイヴァン ( マーク・エイデルシュテイン ) と出会う話に似ていますからね。違いはハッピーエンドとバッドエンドだと思えるかもしれないけど、主人公の女性アニーのキャラクターが、『 女囚さそりシリーズ 』における梶芽衣子演じる松島ナミからインスパイアされているだけあって気が強いという点も際立っている。
▶ そんなアニーは作中でイヴァンとセックスしまくっているけど心を許しているというよりかは、そういう行為形式でしか男と親密になれない、精神的な愛からは距離を取っている、そしてイヴァンの経済力に魅せられている、という感じなんですね。イヴァンとの結婚で一瞬、本気になりかけたかのように見えるけど、彼に捨てられて素では男を愛せない元の自分に戻っていく。それはラストのシーンに象徴的に現れる。対立関係にあったイゴールが自分の事を気に掛けてくれる事に気付き、素で彼を愛そうとして彼とセックスを始めるのですが、イゴールがキスしようとしても彼女は拒否してしまい彼の上で泣き崩れるという場面です。人を本気で愛そうとする領域に踏み込んでいく事に躊躇してどうしていいか分からずに泣いたといえるでしょう。
▶ CHAPTER2 人間的猥雑さを肯定する
▶ ただ、ここで気を付けるべきは、そのラストの場面で以って、アニーは人を愛せない娼婦だみたいな悲しい結論に走るべきではないという事です。というのもショーン・ベイカーのこれまでの映画における世界観を考慮するならば、彼は主人公の悲劇性を好むというよりかは、主人公を含めた登場人物たち及び、その彼らの振舞いを通じて人間の性的及び精神的猥雑さ、下らなさ、どうしようもない混乱、といった人間の底辺、そういうもの自体を肯定的に描き出す事、多くの人が建前上斥けてしまうそういうものこそ人間の本質だとして愛とユーモアを以て描き出す事 ( *1 ) を好んでいるからです。これは社会精神分析的に考えても間違っていない。人間の恥部を排除して "過剰に" 清く道徳的であるのは、人間的であるというよりも社会管理体制 ( キリスト教などの諸宗教、共産主義などの国家、そして一般社会、が建前でもどれだけ人間的恥部を抑圧してきたか ) への "無意識的従属" の面が強いという意味で人間性を抑圧するものだからです。
( *1 ) 例えば、アニーがイヴァンの両親によって無理やりイヴァンとの離婚手続きを進められている最中、怒ったアニーが高圧的なイヴァンの母親を口汚く罵るのだが、それを聞いていたイヴァンの父は怒るどころか、アニーの余りの罵りにグラゲラ笑いだす場面がある。
▶ そう考えると、ラストの場面はアニーはイゴールを愛せなくてキスできなかったから悲劇的だという事ではない。ショーン・ベイカーの世界観に従うなら、上手く人を愛する事が出来ない、人を本気で愛する事が出来ない、それに気付く事もない、肉体的性行為に浸ってしまう、それらもまた十分に人間的な在り方である事には違いがない ( 良いか悪いかの道徳的判断とは別にして )。つまり、多くの人が従う社会管理体制・社会道徳があるとしても、そこから外れたマイノリティがいる、マイノリティが生活する日常空間がある。そこにも同じように人間性がある。その逸脱性を "全て" 否定する事は人間が人間自身の豊かさ ( 差異 ) を排除する事になるかもしれない。ショーン・ベイカーの映画とは、まさにマイノリティの日常空間を描き出す事で人間的多様性をユーモアを以て回復させようとする。猥雑なもの・底辺のもの・周縁のもの、という排除・排泄的なもの ( *2 ) の精神的肯定 ( 精神分析的な昇華ともいえる ) によって人間性に活力を与えようとしている。
( *2 ) それが象徴されているのが、『 タンジェリン ( 2016 ) 』におけるゲロを吐くシーン。もちろん、本物じゃないけど吐くところを露骨に描写するって普通はしませんからね。こういうのをわざわざ正面切って描こうとする姿勢には少しパゾリーニ的なものを感じる( ただし、ショーン・ベイカーはもっとPOPな描き方に徹しているという違いはある )。例えばパゾリーニの『 ソドムの市 』。彼も "性的なもの" "排泄的なもの" を通じて人間的生命の回復を考えていた作家ですからね ( *3 )。
( *3 ) パゾリーニについては以下の記事を参照。
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