▶ 映画『 ANORA アノーラ 』( 2024 : directed by ショーン・ベイカー ) について哲学的に考える

監督 : ショーン・ベイカー

公開 : 2025年

出演 : マイキー・マディソン ( as アノーラ通称アニー )

   : マーク・エイデルシュテイン (  as イヴァン通称ヴァーニャ)

   : ユーリー・ボロソフ ( as イゴール )

▶  CHAPTER 1  娼婦であること人を愛すること

  この映画物語のあらすじとして『 プリティ・ウーマン ( 1990 ) 』に似ているとも言われる。売春婦のヴィヴィアン ( ジュリア・ロバーツ ) が実業家のエドワード ( リチャード・ギア ) と出会い惹かれ合うという展開がストリッパー ( といっても金で本番行為をするので娼婦といえる ) のアニー ( マイキー・マディソン ) がロシアのオリガルヒの息子であるイヴァン ( マーク・エイデルシュテイン ) と出会う話に似ていますからね。違いはハッピーエンドとバッドエンドだと思えるかもしれないけど主人公の女性アニーのキャラクターが『 女囚さそりシリーズ 』における梶芽衣子演じる松島ナミからインスパイアされているだけあって気が強いという点も際立っている。

  そんなアニーは作中でイヴァンとセックスしまくっているけど心を許しているというよりかはそういう行為形式でしか男と親密になれない精神的な愛からは距離を取っているそしてイヴァンの経済力に魅せられているという感じなんですね。イヴァンとの結婚で一瞬、本気になりかけたかのように見えるけど、彼に捨てられて素では男を愛せない元の自分に戻っていく。それはラストのシーンに象徴的に現れる。対立関係にあったイゴールが自分の事を気に掛けてくれる事に気付き素で彼を愛そうとして彼とセックスを始めるのですがイゴールがキスしようとしても彼女は拒否してしまい彼の上で泣き崩れるという場面です。人を本気で愛そうとする領域に踏み込んでいく事に躊躇してどうしていいか分からずに泣いたといえるでしょう。

▶  CHAPTER2  人間的猥雑さを肯定する

  ただここで気を付けるべきはそのラストの場面で以ってアニーは人を愛せない娼婦だみたいな悲しい結論に走るべきではないという事です。というのもショーン・ベイカーのこれまでの映画における世界観を考慮するならば彼は主人公の悲劇性を好むというよりかは主人公を含めた登場人物たち及びその彼らの振舞いを通じて人間の性的及び精神的猥雑さ、下らなさ、どうしようもない混乱、といった人間の底辺そういうもの自体を肯定的に描き出す事多くの人が建前上斥けてしまうそういうものこそ人間の本質だとして愛とユーモアを以て描き出す事 ( *1 ) を好んでいるからです。これは社会精神分析的に考えても間違っていない。人間の恥部を排除して "過剰に" 清く道徳的であるのは、人間的であるというよりも社会管理体制 ( キリスト教などの諸宗教、共産主義などの国家、そして一般社会、が建前でもどれだけ人間的恥部を抑圧してきたか ) への "無意識的従属" の面が強いという意味で人間性を抑圧するものだからです。

( *1 )  例えばアニーがイヴァンの両親によって無理やりイヴァンとの離婚手続きを進められている最中怒ったアニーが高圧的なイヴァンの母親を口汚く罵るのだがそれを聞いていたイヴァンの父は怒るどころかアニーの余りの罵りにグラゲラ笑いだす場面がある。

  そう考えるとラストの場面はアニーはイゴールを愛せなくてキスできなかったから悲劇的だという事ではない。ショーン・ベイカーの世界観に従うなら上手く人を愛する事が出来ない人を本気で愛する事が出来ない、それに気付く事もない肉体的性行為に浸ってしまうそれらもまた十分に人間的な在り方である事には違いがない ( 良いか悪いかの道徳的判断とは別にして )。つまり多くの人が従う社会管理体制・社会道徳があるとしてもそこから外れたマイノリティがいるマイノリティが生活する日常空間がある。そこにも同じように人間性がある。その逸脱性を "全て" 否定する事は人間が人間自身の豊かさ ( 差異 ) を排除する事になるかもしれない。ショーン・ベイカーの映画とはまさにマイノリティの日常空間を描き出す事で人間的多様性をユーモアを以て回復させようとする。猥雑なもの・底辺のもの・周縁のものという排除・排泄的なもの ( *2 ) の精神的肯定 ( 精神分析的な昇華ともいえる ) によって人間性に活力を与えようとしている。

( *2 )  それが象徴されているのが『 タンジェリン ( 2016 ) 』におけるゲロを吐くシーン。もちろん本物じゃないけど吐くところを露骨に描写するって普通はしませんからね。こういうのをわざわざ正面切って描こうとする姿勢には少しパゾリーニ的なものを感じる( ただし、ショーン・ベイカーはもっとPOPな描き方に徹しているという違いはある )。例えばパゾリーニの『 ソドムの市 』。彼も "性的なもの" "排泄的なもの" を通じて人間的生命の回復を考えていた作家ですからね ( *3 )。

( *3 )  パゾリーニについては以下の記事を参照。

 

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