監督 : コラリー・ファルジャ
公開 : 2024年
脚本 : コラリー・ファルジャ
出演 : デミ・ムーア
: マーガレット・クアリー
: デニス・クエイド
▶ CHAPTER 1 一体何のジャンルの映画なのか
▶ 最初に言っておきたいのは、この映画が "娯楽映画" としてとても面白いという事です。おちぶれたハリウッド女優のエリザベス・スパークル ( デミ・ムーア ) は今はエアロビクス番組のレギュラーなのだが、プロデューサーのハーヴェイ ( デニス・クエイド ) は新たに若い女性をレギュラーに据えようとしてスパークルを降板させる。追い詰められたスパークルはサブスタンスという妖しげな薬に手を出す。その薬を使用すると、スパークルの背中が裂けて、中からスー ( マーガレット・クアリー ) という若く美しい女性が現れるというSFホラー的な話。観客にインパクトを与えるパワーが凄いし、コラリー・ファルジャ自身が言うように脚本段階でしっかり構成され、それを元に映画が組み立てられているのも分かるのですが、気になったのはそのジャンルなんです。それについて考えてみようという訳です。
▶ もちろん、ジャンルなんてそんなに気にしなくとも楽しめればそれでいいと思う人は多いでしょう。しかし、この作品が終盤のグロテスクかつ地獄絵図の展開場面でスプラッターホラーやグロテスク映画の影響を受けたものであるのが明らかなのを考えた時、つまり、他のジャンル以上に観客に強いショックを与える要素で構成された映画である事を考えた時、これは "スプラッター映画" なのか、"B級娯楽映画" なのか、という "ジャンル化への疑問" が起こるのは当然なんですね ( 主演のデミ・ムーアがスプラッターホラーに出るなんて普通の人は思いもよらないから )。コラリー・ファルジャ自身がこの作品で長編2作目という事もあって、彼女がいかなるジャンルに属する監督なのかという評価が定まっていない事もそこに関わる。ただ、本作を見終わった観客のほとんどはこれはスプラッターホラーのジャンル映画だと思うはずです。
▶ しかし、単なるスプラッター映画であると定型化してしまうには、心理的ホラーの要素も強い為、ある種のグロテスク映画の系譜 ( 人間主体がグロテスクな生き物に変異して人間存在自体が実は怪物的であるのを寓意的に描く ) に属するものであるのかという迷いも出てくる。例えば、デヴィッド・リンチの『 エレファントマン 』、アンジェイ・ズラウスキーの『 ポゼッション 』、デヴィッド・クローネンバーグの『 ザ・フライ 』、リドリー・スコットから始まる『 エイリアンシリーズ 』とかですね。
▶ その辺りについて考えようとしてコラリー・ファルジャのインタビューを結構、読んだり見たりしたのですが、そこでの彼女の発言は僕が想像していたのとは違っていた。ホラー映画やグロテスク映画などのいわゆるB級映画への偏愛などほとんど語られる事なく ( タランティーノのように影響を受けた映画に愛着を持つようには見えず )、彼女自身がどのように考えて映画を作ったか、どのような方法論か、などの一般的な没個性的な見解がどのインタビューでも予め用意された定型文のように繰り返されるばかりだった。曰く、年取った女性は社会的地位からは遠ざかり消えていくのではないかという彼女の中での不安や恐れを、ホラー、グロテスク映画のショッキング性を参考にして爆発的な形・暴力的な形で表現したと繰り返して言う ( ギレルモ・デル・トロと対談した時でさえそんな調子だった )。
▶ そのようなフェミニスティックは意見は彼女自身のものなので肯定的には受け止めるのですが、でも、その際、彼女はホラー映画やグロテスク映画という表現を公的な場で使いたくないのか、その種の映画の事をぼかして "ジャンル映画" というオブラートな表現を使うんですね ( そういう言い方が一般的にあるにしても )。そこまで格好つけないといけないのかなと思うのですが、そんな風なので、彼女のホラー・グロテスク映画嗜好を期待していたあるインタビュアーなどはしびれを切らしてインタビューの最期で誰々の映画の影響がありますねと言い出す有様だった。でもそれもスルーされてたけど。
▶ もちろん、彼女がこれから監督してキャリアを築いていかなければと考えた末に自分の社会的価値を高めたい、自分を推し出したい、と思う気持ちは分かる。でも、実際に出来た作品を観ればB級娯楽映画以外の何物でもない ( 人によっては何じゃこりゃとなる )。過去のB級映画を参考にしながらも、そこに心理性やドラマ性を溶かし込んだ過激描写は彼女ならではものであり、その事は彼女が自身をB級映画のジャンルには収まらない監督になりたいという欲望を持っているのだろうと考えさせる。デヴィッド・リンチとかみたいに。でもどうだろう、自分が影響を受けたものを素直に語れないというのは。逆に言うと、それは自分が未だ、いや、いつまでも影響を受けたものの範囲から脱け出せない事をも秘かに意味しているとも言える。それは自分のオリジナリティは何なのかという映画監督としてのアイデンティティに自信が持ててないからこそ、何らかのジャンルに属している事・埋もれる事を示したくないからこそ、のセンシティブな内面の問題でもあるんですね。
▶ CHAPTER2 大義的復讐なのか、娯楽的復讐なのか、それとも攻撃衝動なのか
▶ 前章で述べたコラリー・ファルジャの映画的オリジナリティ・アイデンティティを考える上で挙げておきたいのは彼女の前作『 REVENGE リベンジ ( 2017 ) 』です。男達から殺されかかったジェニファー ( マチルダ・ルッツ ) 女性が何とか生き延び執念で復讐していく物語。レイプされた女性が男たちに復讐するという、メイル・ザルチ監督の世間に賛否を引き起こした暴力的問題作『 I Spit on Your Grave ( 1978 ) 』からの影響をインタビューで聞かれた時、彼女はそれは観ていないと否定し、そもそもそのようなジャンルから脱け出したものとして『 REVENGE 』は作られているとまで言っている。しかし、この即座の全否定が暗黙に示すのは『 I Spit on Your Grave 』がいかに社会道徳的に問題のある暴力的映画なのかを実は知っているが故のリアクションであるかもしれないという事です。知らなければどんな映画なのか聞くでしょうから、自分の作品との共通性を考えようとして ( でもそうはしない )。そういう映画とは一緒にされたくないという事でしょう。でも実は知っていてインパクトを与える残酷な手法を薄めて借用しているかもしれないのです。
▶ 今や溢れる女性によるリベンジものというジャンルが、いかに残酷な出来事を起源とする事で発生したジャンルであるのか、それはリベンジものが娯楽化され再生産され続けるようになった現在においても女性主体による復讐というアクティングアウトの為にその起源が設定保存・更新されているという事なんですね ( コラリーだけに限らずレイプという設定を生々しく描く事を避けたリベンジものはジャンル形式として確立されているとしても、それでは男を殺す程の復讐の増悪は一体何処から来ているのかという話になる )。
▶ なのでコラリーが『 REVENGE 』で為したのは、B級映画というジャンルの意識的踏襲などではなく、B級映画の視覚的かつ構造的特質を観客を刺激する映画作りの為のアイデアとして借用したという事になる ( これが妥当であるのなら彼女がB級映画にマニアックな愛着を示さないのも頷ける。製作上のテクニカルな興味しかないのかもしれないのだから )。それこそが彼女の勤勉的な方法論・構築論であるといえるのですが、ただし、それは現実の社会に道徳的に問題を与える事、映画外へ向かう事、を目的にしているのではなく ( ミヒャエル・ハネケが『 ファニー・ゲーム 』で世間を挑発したのとは違い )、道徳的問題に近づきつつも直接的には避けて、映画鑑賞における視覚的刺激・ドラマ化による心理的刺激、を与える事に徹してあくまでも映画内娯楽化を図るというものです。
▶ コラリーの映画製作の方法論においては、娯楽化されたリベンジものは映画内娯楽を追求するB級映画に他ならない。しかし、そこには直接的被害の報復の大義としての復讐はない ( なぜならレイプ設定を避けているから ) にせよ、自分の中で燻っている漠然とした不満を社会に対してぶつけようとする "攻撃衝動の具現化欲求" がある ( 先に述べたように女性の社会的地位への不安など )。特定の誰かではない社会一般への攻撃性が "娯楽性の殻を纏って" 道徳的問題化を避ける形で作品化されているといえる。
▶ それを秘かに象徴化しているような "興味深い偶然" があるんですね。それは『 サブスタンス 』主演のデミ・ムーアを通じて起きている。デミは自伝の中で子供の頃の記憶としてシングルマザーだった母親の恋人にレイプされた事を語っていて、その後、16才で家を出て得た最初の仕事のひとつが事もあろうに上でも述べた暴力的映画『 I Spit on Your Grave 』のポスター撮影だった。そこで "裸の背中" を見せているのは実はデミ・ムーアだったという訳です ( 以下画像参照 )。
▶ その自伝内容をコラリーが知っていていたかどうかは分からない ( 建前的に『 I Spit on Your Grave 』を観ていないと言うのだから、これも知らないとしか言わないでしょうけど )。知った上でデミ・ムーアにオファーしたのかどうかも分からない。分からないのだからこの場合は偶然だと考えるべきでしょう。しかし、その偶然の内容が興味深いんですね。実際に関係が無くとも、あるように見えてしまう偶然性。これは精神分析的領野での話に繋がるものであり、諸々の困難を経験してきたが故のデミ・ムーアの社会に対する心理的攻撃性がコラリー・ファルジャによって具現化されてしまったように思われる偶然性だといえる。『 サブスタンス 』の中で年を取ったデミ・ムーアの "裸の背中" から若いデミ ( マーガレット・クアリー演じる ) が生まれるという場面 ( 以下画像参照 ) は、『 I Spit on Your Grave 』とデミ自身の過酷な経験が重なった事で形成された複合的トラウマ化 ( トラウマが主体の社会的存在化の基盤になってしまうという ) を破壊する為の偶然的出発点として機能している。これ、コラリーが意図的にしていたら凄いなと思うけど多分偶然でしょう。
[ END ]