細田守に必要なのは「鈴木敏夫」だ。天才の暴走を止める『客観性』と名作の方程式―『果てしなきスカーレット』レビュー
待望の新作『果てしなきスカーレット』を観てきました。
結論から言うと、映画館を出た私の中に残ったのは、怒りでも感動でもなく、ただただ重たい「虚無感」でした。
誤解のないように言えば、映像は圧倒的に美しい。大画面で見る価値のある美術、そして主演・芦田愛菜さんの演技と歌唱は、とても素晴らしかったです。 しかし、鑑賞後、心に何も残らない。軸や一貫性のなさに、ただただ翻弄された2時間。
「なぜ、こんなにも美しいのに、こんなにも空っぽなんだろう?」
その違和感を突き詰めていくと、近年の細田守作品が抱える構造的な問題と、私たちが「名作」と呼ぶものの正体が見えてきました。今回は、一人のファンとして、愛を込めてその「虚無」を言語化してみたいと思います。
「奥寺佐渡子のコース料理」と「細田守のごった煮」
かつて、細田守監督には「黄金期」とも呼べる時代がありました。『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』。これらの作品に共通していたのは、脚本家・奥寺佐渡子さんの存在です。
当時の作品を料理に例えるなら、それは計算し尽くされた「コース料理」でした。 前菜(伏線)があり、スープ(動機づけ)があり、メインディッシュ(カタルシス)へと至る。食べる人(観客)の感情の流れを完璧に計算したレシピがあり、私たちは安心して身を委ねることができました。
しかし、近年の単独脚本作品(『竜とそばかすの姫』や本作)は、いわば「感情のごった煮」です。
「シェイクスピアを入れたい」「ミュージカルもやりたい」「ネット社会も描きたい」「クジラも飛ばしたい」。 監督がその時々に「食べたい(描きたい)」と思った高級食材を、下処理もレシピもなしに鍋に放り込んでいる。結果、一つ一つの素材は良いのに、味が喧嘩し、何を食べているのかわからない「闇鍋」になってしまっているのです。
今回の『ハムレット』改変におけるストーリーの破綻は、まさに「整理整頓するシェフ」の不在を痛感させるものでした。
優れた脚本は、優れたマーケティングと同じ
なぜ「ごった煮」は美味しくないのか。それは脚本における「論理(ロジック)」が欠けているからです。
実は、「良い脚本」と「良いマーケティング」には共通点があります。 それは、「そして(And then)」ではなく「だから(Therefore)」で繋がっているということです。
悪い例(そして): 主人公が復讐を誓った。そして、歌を歌った。そして、みんな和解した。
良い例(だから): 主人公が復讐を誓った。だから、敵と対峙した。しかし、ある事実に気づいた。だから、剣を捨てて歌うしかなかった。
近年の細田作品は、この「だから」が抜け落ちています。 マーケティングで言えば、「顧客(観客)が何を求めているか」という視点が抜け落ち、「俺はこれが売りたいんだ!」というプロダクトアウト(自己満足)が先行してしまっている状態です。
観客との「契約(設定のルール)」を無視して、作り手の都合でストーリーが進む。これでは、顧客満足度(カタルシス)が得られるはずがありません。
「名作」の十分条件とは何か?
今回の映画体験を通じて、私は「名作の条件」について一つの仮説に辿り着きました。
「映像や演技は必要条件ではないが、脚本は絶対的な必要条件である」
極論を言えば、『けものフレンズ(1期)』のように、映像が粗くても脚本が神懸かっていれば、人間の脳はそれを補完し「名作」と認定します。 しかし逆に、本作のように映像が100点満点でも、脚本が0点であれば、それは作品として成立しません。
これを数式にするなら、こうなるでしょう。
名作の十分条件 = 優れた脚本(骨格) × 的確な演出・演技(伝達)
映像美はあくまで「加点要素」に過ぎません。私たちは「綺麗な絵」を見たいのではなく、「心を動かす物語」を見に行っているのです。建物の基礎(脚本)がないのに、豪華な外壁(映像)だけを飾り立てられても、住むこと(感情移入)はできないのです。
もし今敏が生きていたら、細田守をどう見るか
ふと、残酷な想像をしてしまいます。 もし、完璧な傑作だけを遺して早逝された天才・今敏監督が生きていたら、今の細田監督を見てどう思うだろうか、と。
かつて2000年代半ば、二人は同じ制作会社「マッドハウス」に在籍する同僚であり、互いに強烈な才能を放つライバル関係にありました。 2006年、細田守が『時をかける少女』を発表した同じ年、今敏は『パプリカ』を世に放っています。いわば、日本の劇場アニメを牽引する「双璧」が、同じスタジオの空気を吸っていたのです。
今敏監督や、あるいは宮崎駿監督には、常に「客観性」がありました。
宮崎駿には、鈴木敏夫という最強の「他者(プロデューサー)」がいて、暴走する作家性を「商品」へと翻訳していました。 一方、今敏監督の客観性は、彼自身の「資質」によるものでした。
彼は元々、大友克洋のアシスタントを務めた漫画家出身です。限られたコマの中に情報を整理して配置する「構成力」と、夢や狂気といった抽象的なテーマすらも数学的なカット割りで表現する「ロジカルな思考」が骨の髄まで染み付いていました。 信本敬子さんら脚本家と組みながらも、彼自身の中に「もう一人の自分(冷徹な編集者)」を飼っていたからこそ、彼の作品はどれほどカオスな夢を描いても、決して物語が崩壊することはなかったのです。
今の細田監督に欠けているのは、宮崎駿にとっての鈴木敏夫であり、今敏にとっての「自分の中の編集者」です。
マッドハウス時代、細田監督の感情豊かな「動」の演出と、今敏監督の緻密に計算された「静」の演出は、良い意味で対極にあり、切磋琢磨していました。 もし今敏監督が生きていたら。その圧倒的なクオリティの新作を見せつけられることで、細田監督も「脚本の甘さ」を許されない緊張感の中に身を置き続けられたのかもしれません。
彼の早すぎる死は、アニメ界にとっての損失であると同時に、細田守という作家から「最大の批評家」を奪ってしまったのかもしれない──そんなことまで考えてしまうのです。
それでも、細田守の「復活」を待ち望む理由
ここまで厳しいことを書きましたが、私がこれほど熱くなるのは、やはり細田守というクリエイターの才能を信じているからです。
彼のアニメーション演出、レイアウトの美しさ、動きの快感は、依然として世界トップレベルです。 「器」を作る技術は超一流なのです。あとは、その中に入れる「料理(脚本)」さえ、プロのシェフ(脚本家)に任せれば、またとんでもない傑作が生まれるはずです。
もし次回作があるなら。 壮大なファンタジーや仮想世界はもういい。 野木亜紀子さんのような、社会の解像度が高い脚本家と組んで、逃げ場のない「密室劇」や、地に足のついた「人間ドラマ」をやってみてほしい。
「映像の細田守」と「脚本のプロ」がガッチリと手を組んだ時。 その時こそ、私たちは本当の意味での『サマーウォーズ』や『時かけ』を超える、新しい「名作」に出会えるのだと信じています。
『果てしなきスカーレット』は、映像美という皮を被った「脚本の不在」を痛感させる作品でした。 しかし、この虚無感は、私たちがまだ細田守という作家に期待し、かつて見せてくれたあの素晴らしい「コース料理」の味を忘れられないからこそ生まれたものでもあります。
次こそは、極上のレシピで調理された一皿が運ばれてくることを、心から願っています。


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