第215話 一条愛の独白

 今日の夜、珍しく父が顔を見せに来ると連絡があった。

 思わず、心が苦しくなる。どうして、父の顔を見たくないと思ってしまうんだろう。本当にひどい娘だ。父から最愛の人を奪っただけでなく、彼の期待に何も答えることができないのだから。


 今日は珍しく先輩とも予定がない。

 断る理由がない。だから、覚悟を固めた。父と食事をすることを。わざわざ、覚悟を固めるほどのものではないはずなのに。私にはそれがどうしても必要だった。本当にいびつな家族関係になってしまったと、心の中で絶望した。


 日中の間は、授業がほとんど頭に入ってこなかった。思えば先輩と出会うまでの自分はずっとこんな感じだったな。セピア色の世界に生きて、ただ時間が過ぎるのを待つだけ。


 自分はずっと他人に愛想笑いをするだけの機械になっていた。

 機械は、自分の感情を無視して、ただひたすらに合理性を追求していた。自分の存在すら否定する結論を出してしまうほどに。


「一条さん、この問題、わかりますか?」

 少しぼーっとしていたから、狙い撃ちにされてしまったのかもしれない。

 黒板の問題を見る。

 図形の問題ね。


「はい、ほうべきの定理を使います。この場合はPA × PB = PC × PDの方程式を解けば……答えは、3ですね」


「さすが、正解です。みなさんも、一条さんを見習って、きちんと予習してくださいね」

 教師は苦笑いしながら、そう言ってくれた。クラスメイトからは「おー」という声があがった。そうか、まだほうべきの定理は教えてもらっていなかったんだ。基本問題で助かった。たしか、この定理は今日習う範囲にあったはずね。


 私は、また静かに物思いにふけった。さきほどまで降っていた雨は、いつの間にかやんでいた。グラウンドの水たまりに日が差し込んで、美しく反射している。あの日、センパイと初めて出会った日を思い出す。あの日の世界もこんなにきれいだったんだ。急いで学校を抜け出したあの日は、いっぱいいっぱいで周囲を見渡す余裕もなかった。


「楽しかったな。あんなにワクワクしたこと、今までなかったな」

 心の中で呟こうとしたけど、思わず言葉がもれていた。慌てて、周囲を見渡す。誰にも気づかれなかったようだ。よかったと安心すると、またあの運命の日を思い出していく。


 私を守るために、彼はフェンスに身体を強打していた。もし、打ち所が悪かったり、フェンスが老朽化していたら……


 青野英治という先輩は、初めて出会ったばかりの一条愛という後輩のために、命を懸けてくれたんだ。それがたまらなく嬉しかった。母の代わりに、彼は、私に生きてほしいと言ってくれた。


 たぶん、彼をお母さんと重ねてしまったんだ。失礼なことだとわかりつつ、彼に興味を持った。


 だから、あんないきなりの提案も否定しなかった。今まで自分が抱え込んでいた殻を壊してくれるようなそんな予感があった。


 今までずっと優等生で通してきた自分が、白昼堂々、学校を抜け出す。今まで閉じ込められた檻から、抜け出せたように思えた。


 そして、今の私がいる。あの日から、死のうと思ったことはない。父と向き合わなくてはいけない日の今でもそうだ。たとえ、父に愛されていなくても、私を愛してくれる人はいる。それがわかったから、私は強くなれた。


 今まで見せることがなかった自分の弱い部分や卑怯な部分も彼に見せることができるようになっている。なにより、誰かに頼ることができるようになった。


 先輩のご家族にはしっかり説明しないといけない。もう、嘘はつきたくないから。


 ※


 放課後。いつものように先輩と下校しながら、私は「今日は父と食事なんです」と告げた。彼は、すごく困ったように、それでいていつも以上に優しく語り掛ける。


「大丈夫?」


「実の父と食事をするだけですから、大丈夫ですよ。それに、少しずつでもいいから、父と向き合いたくなりまして」


「そっか、一条さんは強いね」

 何を言うんだろう。だって、強くなれたのはあなたのおかげなのに。


「ふふ、どうでしょうね」

 少しだけ意地悪がしたくなる。


「でもさ、もし、なにかあったらすぐに言ってくれ。一条さんが無理して、強くなる必要はないんだからさ」


「ずるいな、そうやって、もう……」

 私は、震える声で先輩の前を歩く。言ってほしいことを、行ってほしいことをやってくれる。たまに、私の想像を通り越してしまうけど、きちんと私のために考えてくれている。


 私はくるりと向き合って告げる。


「そんな、あなたが大好きですよ」

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