第209話 バーにて
南さんは、俺の横に座る。
まるで、昔のように。
すぐに、老紳士の目の前にチェイサー用の水とウィスキー、ナッツがおかれた。
「ほう、このモルトでバーボン樽とは本当に珍しいの。意外と若い酒かな」
さすがは、自分のウィスキーの師匠だ。香りと一口飲んだだけで、ほとんどの特徴を当てることができるはずだ。
「香りは、バニラと木材の香りが強いが、奥にシトラスやフローラルさも感じられる。このフローラルな感じが原酒の良さだろうな」
マスターがウィスキーを注ぐときに、ボトルを見たが、たしかに8年表記だった。若すぎず老いすぎずと言ったところだろう。
しかし、偶然なわけがない。この人のことだ。何か話があって、ここに来たのだろう。
「珍しいですね。今日はボランティアはなかったんですか?」
「もちろん、やってきたよ。今日は昼間に、小学生たちの下校の見守り活動じゃ」
「この暑い日に、なにを平然と。そんな疲れがたまった状態で、ウィスキーのストレートを飲んだら身体に響きますよ」
この人は昔からそうだった。バイタリティーと酒が強い。
「構わん。人間ドックでは、何一つ悪いところがないからの」
「本当に……」
思わず、右側を見てしまった。そこが、あいつの指定席だったから。いるはずがないとわかっているのに。
本来であれば、帰ってきたはずの相槌はもう届かない。
その様子を南さんが見ているのは分かっていた。こちらの仕草がどういう意味を持っているかも気づかれているはずだ。
「そうか」
彼は短くそう言った。深く言及するつもりはないらしい。
「しかし、あの青年が、今では与党幹事長。今太閤の最年少記録を抜く政治家をまさか見ることになるとは思わなかった」
「幸運でしたよ」
「そうか。君に言うことでもないと思うが、政治家は策と運を手繰り寄せなければ、出世はできない。最も必要な才能じゃないか?」
そう言って、南さんはゆっくりと酒を口に含む。こちらもつられてしまう。
「私がやりたいことは、出世した上でしかできないことですから」
それができなければ、失ったものが大きすぎる。
「三木武吉の再来と呼ばれている政界の大タヌキが、青い感情のまま突き進んでいることを知ったら、みんな驚くだろうね」
「そんな歴史的な偉人に例えられて、恐縮です。私にはそんな価値があるとは思えませんが」
三木武吉。伝説の宰相である吉田茂をその座から引きずり下ろし、不可能とされた保守合同からの55年体制を実現した天才的な権謀術数の使い手だ。彼は保守合同が実現した直後に病死したが、その体制はその後、約40年間も維持された。
正直に言えば、持ち上げ過ぎだと思う。なぜなら、自分はただ、親友との約束や個人的な遺恨によって動き続けているだけだ。
こちらの様子に気づいたのか、南さんはぽつりと言葉をこぼした。
「もうそろそろ、自分を許す時期にきているんじゃないのかな?」
その言葉はまるで冷たい凶器のように感じられた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます