やりそこねた『戦国TURB』と、3人のおねえさまのこと
2026年になってから、「1999-2004という時代」というマガジンをあらたに作成した。
1999-2004という時代|cleemy desu wayo|note
https://note.com/cleemy/m/m461163ff514e
マガジンのタイトル通り、1999年から2004年あたりのことについての記事を複数書く予定である。今回の記事はこのマガジンのための最初の記事だが、同時に番外編でもある。
そう、この話は番外編から始めたいのである。
あるいはプロローグだと思ってもらってもいい。
でもプレリュード(前奏)ではない、というのもポイントだ。
おそらく「1999-2004という時代」の本編の記事を公開し始めるのは2026年の春以降になると思う。
番外編から始めたほうがいいとわたくしが思ったのは、あるゲームの存在を思い出してしまったからだ。
それは『戦国TURB』。
DC版(ドリームキャスト版)『戦国TURB』の発売は、1999年1月である。これはわたくしがプログラマーとして仕事を始めた月でもある。わたくしがただの引きこもりではなくなった月。
でもDC版『戦国TURB』は発売後すぐに買ったわけではない。だから発売のタイミングについては、そういえばそうだったっけ、という感じだ。
『戦国TURB』については、当時のドリームキャスト所有者の中には「この異様な言葉選びのセンスはなんだ」とか「NECが出すのにPC-FXじゃないのか」とか「とにかく自分には何の関係もないゲームだ」とか、いろんなことを思う人がいただろう。
わたくしにとっては何よりもまず、「なのれーさん」だった。
ああ、あの人の作品なのだ、という。
あの人の作品が、ついにこうやって商業作品として世に出るのだ、という。
同人作品ではなく商業作品として。
そして「関わった」とか「アイディアを出した」とかではなく、あの人が自分の納得のいくものを出すことができたというのが重要だった。なぜなら、DC版『戦国TURB』よりも前の、非常にメジャーなプロダクトのことがあるからだ。
そのプロダクトについては、何もかもがなのれーさんのセンスというわけではなかった。不本意な形でいろんな人の意見が入り込んでいたようだった。
そのプロダクトが有名になったのは1997年。
わたくしが初めて個人サイトを開設したのも1997年の前半だった。
若者ですらない。まだ子供だった。
わたくしはサイト内に日記のようなコーナーは設けていなかった。小説の構想はいろいろあったが、サイト内では小説らしい小説を発表していなかった。サイトは何もかもつくりかけのまま、すぐに放置状態になった。
1997年当時のなのれーさんの個人サイトは、ヴィジュアル面でも文章でもかなり異彩を放っていた。内容は伏せるが、日記のコーナーにはかなり生々しいことも書いてあった。
その日記の中でわたくしのサイトにちらっとだけ言及したこともあった気がする。どのような形だったのかはよく覚えていない。非常に雑多な話題を扱っていて、いろんな人に言及しており、わたくしはあくまでもそのうちの一人というだけである。もう本人は忘れているかもしれない。
なのれーさんは典型的な意味での有名人ではなかった。でも当時のわたくしにとっては圧倒的に、すでに表現者として認識されている側の存在だったといえる。
今となっては、同時代のどんな人間にどう思われようと、もうどうでもいいみたいな気分もある。でも当時は「おおっ、表現者だ!表現者が自分について何か書いてるぞ!」という気持ちだ。
まあ、ウブだったのである。
わたくしは社会的には完全に引きこもりで、友人といえる人がほとんどいなかったということもある。
1997年当時のわたくしの個人サイトについては、やはり黒歴史といわざるをえない。それなりの暗黒度である。ブラックホールほどではないかもしれないが、「真・黒色無双」程度の黒さはあるといえるだろう。
ちなみに「cleemy」という名前は2005年夏からのものであり、1997年当時は違う名前である。
mixiが登場するのは2004年になってからである。そしてTwitterは2006年。1990年代は日記といえば個人サイトだった。プラットフォームというものが実質的に存在しなかった。ブログという言葉も浸透はしていなかった。
記憶があやふやだが、2002年春から2004年秋のどこかのタイミングで、わたくしはなのれーさんに電子メールを送った可能性がある。その返信の中でわたくしがトッド・ラングレンの「FlowFazer」の存在を知ったということがあったはずなのである。
この時期、師匠がわたくしの名前(戸籍上の本名)を名乗って勝手に電子メールを送ったりすることがあった。OCNから送信されたものについては、わたくしではない可能性が高い。メールの中に兵庫県宝塚市の住所や固定電話の電話番号が書かれているものも、わたくしではない可能性が高い。
でもあの時なのれーさんに送ったメールについては、確かにわたくしが送ったものだ。
そう、あのころはまだ電子メールが重要だった。
1996年から2006年あたりというのは、みんなが文章を書いていた。絵を描く人たちも、文章も書くのが当然だった。プログラマーも文章を書いていた。
まあ、本当に「みんな」なのか、というのは慎重になったほうがいいのかもしれない。でも当時のネットユーザーは、現代のSNSとは異なる偏りがあったのは確かだ。
なのれーさんの『戦国TURB』以前の有名プロダクトのことについては、そろそろ誰かがジャーナリスティックな視点で整理したほうがよさそうな気もしている。
告発のようになるべきだと考えているわけではない。なのれーさんを圧倒的被害者のように語るのも、それはそれでフェアではないのかもしれない。
やはり大衆性を獲得したからこそあのプロダクトはヒットしたのだという可能性も、それなりにあったりするかもしれないのだ。
でもそれも、可能性でしかない。
何もかもなのれーさんの思うようにデザインされていたとしても、やはりヒットはしていたのかもしれない。そこは分からない。
可能性ということなら、もっと別の可能性も思い浮かぶ。例えば、何もかもなのれーさんの思う通りにしようとすることによって、結局は世に出ないというルート。もしこのルートだと、我々はその「有名プロダクト」の存在自体を知ることがない。わたくしと師匠とのことを思い返せば、こういう可能性にだってそれなりのリアリティがある。
実際のところは、分からない。
もう我々は革命が起こってからあまりにも時間が経ったあとの世界を生きている。もはや検証は不可能だ。
でも事実関係を整理することなら、今も可能ではあるだろう。
1990年代の個人のPC環境については、1990年代前半が MS-DOS で1990年代後半がWindowsだった。1995年に Windows 95 が発売されて個人のパソコンが一気に Windows PC へとシフトしていくことになるわけだが、その前からなのれーさんは同人ゲームサークルの Bio_100% のメンバーだった。
わたくしが小学生のころにプレイした Bio_100% の PC-98 用ゲームでは『SuperDepth』のことをよく覚えている。『metys's Snow Wars』も印象に残っている。後者については、キャラがかわいいと同時に異様さもあった。この異様さはどこまで意図的なんだろうか、と子供ながらに考えたこともあった。
PC-98 版の『TURB』や『戦国TURB』をプレイしたことがあったのかどうかはよく覚えていない。
『FLIXX』もプレイしたことがあるかもしれないが、動画を観ても確実にこれだと断言ができない。顔には見覚えがあるし、タイトルがだいたいこんな感じだったという気はする。
Bio_100% のゲームについては、Windows 95 登場以降もDOS窓の上でプレイすることが時々あったかもしれない。でもこれは記憶違いの可能性もある。プレイしていたのは、主に Windows 95 が席巻する前だ。
わたくしがDC版『戦国TURB』を買ったのがいつごろだったのかというのは、よく覚えていない。ドリームキャストの本体の購入が、もしかしたら2000年になってからかもしれないのである。
このDC版『戦国TURB』については、当時わたくしはじっくりプレイする時間がなかった。そのうちやり直そうと思いつつ、年月が経ってしまった。
風変わりな世界観がウリではあったが、世界観を見せるためにサクサク進んでいくようなものとは違っていた。むしろ、中途半端な関わりを許さない何かがあった。
笑えるというよりは、異様というしかない何か。
「考えさせる」というよりは「考え込む」。
わたくしは2026年になってからふとしたことでこの『戦国TURB』のことを思い出したわけだが、思い出した直後、わたくしの言う「姉弟子」というのが、なのれーさんのことではないかと思ってしまう人が出てくるかもしれないということに気づいた。
もしかして、そう思う人がすでにいたりするかもしれない。断片的な情報を拾っていくと、それはいかにもありそうな話に見えてしまうかもしれないのだ。
とりあえず、それは違うのだと先に強調しておきたい。
まあ、2人は世代的には近い。でもとにかく別人である。
「1999-2004という時代」の中では、姉弟子というのが誰なのか特定できないように書く予定である。
「姉弟子」と呼んではいるが、これは便宜上のものである。姉弟子にとっては「弟子入りしたつもりはない」という感じかもしれないのである。
姉弟子は1980年代半ばの時点ですでに有名で、わたくしから見れば神話の世界の住人である。姉弟子は今でも、わたくしの存在を知らない可能性がある。
兄弟子のほうについては、本当に兄弟子である。そして兄弟子は、1999年1月からのわたくしの雇い主でもある。1999年1月から2000年12月あたりの約2年間というのは、わたくしがフルタイムのプログラマーだった唯一の期間だ。職場は大阪市内。
兄弟子と姉弟子は、ともに音大出身だ。
そして、姉弟子は姉弟子で革命的な存在だった。
でも姉弟子には個人サイトのようなものはなかった気がする。近況が分からない。口頭の会話の中でのみ、語られる存在だった。あの頃はWikipediaにも姉弟子の項目がなかったかもしれない。今はちゃんとある。
そういうわけで「3人のおねえさま」のうち2人はなのれーさんと姉弟子だ。
では3人目のおねえさま、これが誰なのかというと。
これは元ギタリストさん(仮称)の奥さんの女性ライターさん(仮称)のことである。
兄弟子つまり当時のわたくしの雇い主と、元ギタリストさん(仮称)とは、1999年末あたりから仕事の絡みができた。その関連でわたくしも女性ライターさん(仮称)と知り合ったわけだ。
彼女はなのれーさんとは違って、表現者やアーティストというよりは職業的なライターだった。
メールマガジンなどにおいて、無記名の文章をよく書いていたようだった。つまり、カメレオンのようにスタイルを変えながら、状況にフィットする文章を書く人。
だいぶあとになって気づいたが、おそらくミュージシャンの公式ファンクラブ的な存在が発行するもの(デジタル・アナログ両方)における各種無記名の文章も書いていたのではないかと思う。だがこれは推測にすぎない。
ミュージシャンは当然、音楽こそが重要なメディアであり、特にライブにおいては同期コミュニケーションがメインとなる。でも、たいていの場合は活動を続けていく上で様々な文章が発生することになる。ああいうものも、誰かが書いているわけだ。
ちなみに元ギタリストさん(仮称)は大阪市内でデザイン会社を経営しており、そこでミュージシャンからの依頼を受けていた。2000年前半あたりからは、兄弟子の会社との「同居」が始まった。2つの会社は同じビルの同じフロアに移転したのだ。
なぜそのデザイン会社でミュージシャン関連の仕事があったのかというと、元ギタリストさん(仮称)がまさしく元ギタリストであり、インディーズでレコードを出したこともある人だったからだ。関西だけではなく、神奈川のインディーズシーンとも関わりが深かった。ミュージシャンの気持ちが分かるデザイナーということをウリにしていたわけだ。
女性ライターさん(仮称)は、技術者としてのわたくしではなく、小説の書き手としての側面に注目してくれたことがあった。わたくしが書いたいくつかの超短編のスタイルを実験として模倣しようと試みたけど、うまくいかなかったということも言っていた。このあたりが、ただのお世辞や社交辞令とは違う、手ごたえのあるレビューだった。
そして表現者やアーティストとも違う、職業的なライティングの視線。あるいは、女性編集者的な視点もあったかもしれない。
女性ライターさん(仮称)は、3人のおねえさまの中で唯一、わたくしと仕事上の絡みがあった人だということになる。
このようにして職業的なライターからの濃いレビューを受け取ったころ、わたくしは子供ではなく若者になりつつあった。まあ、精神的には子供のままだったかもしれないのだが。
ちなみにこの3人のおねえさまは、それぞれ世代的に近い。
今にして思うと、3人のおねえさまにはいろいろ奇妙な偶然の一致のようなものも見いだせる気がする。でもそれらは単に偶然だ。
わたくしが兄弟子に雇われてからの最初の約10カ月間は、退屈だったわけではない。むしろ新鮮な日々ではあったのだ。1999年末あたりに元ギタリストさん(仮称)と女性ライターさん(仮称)との仕事上の絡みができてからは、そこからさらに大幅に変質することになった。いろんな意味で普通の職場ではなくなった。
そしてこの変質とともに、話題の中にドリームキャストが登場するようにもなった。
ただし、直接的に話題にのぼっていたのは『戦国TURB』ではなかった。『シェンムー』でもない。
それは主に『シーマン』だった。
当時のフレッシュな話題作ということでは『シーマン』が重要であり、わたくしも参考にすべき作品として『シーマン』を兄弟子や元ギタリストさん(仮称)に強力に売り込むようなことをやっていた。
兄弟子はゲーマーではなかったが『The Tower』シリーズの何かにハマっていた時期があったようなので、もう一度ゲームに関心を持ってもらうためにも『シーマン』は格好の材料だった。
『戦国TURB』は職場では話題にしづらいなあ、などと思っていたわけではない。例えばわたくしは、元ギタリストさん(仮称)から『ゆきゆきて、神軍』の存在を教えられた。マニアックだからとか、病的な要素を含むからとか、そういう理由で避けることはない。
元ギタリストさん(仮称)の会社には、山本精一が好きな若い女性スタッフもいた気がする。何より、兄弟子も元ギタリストさん(仮称)も、典型的な意味での社会人ではなかった。
社会人だったり、あるいは圧倒的に正常の側であるというオーラをただよわせる人に対しては、「あの、あの……なの、なの……れーすぺくす……さんって……あの、分かります?あ、いや、なんでもないです」みたいになりがちであった。でも当時の「職場」はそういう場所ではなかった。
『戦国TURB』のことやその前の有名プロダクトのこと、そしてわたくしの1997年の個人サイトのことなどについても、わたくしはひととおり説明はしていた可能性が高い。でもどんな風に説明したのかは忘れてしまった。
『シーマン』については、社会人にとっても語りやすいヒット作だった。DC版は約40万本売れたらしい。ゲームにあまり興味がない人の間で、2026年現在でもそれなりの知名度があるようだ。
古代エジプトに記録が残っている架空の生物という設定が、ゲームやキャラクタービジネスを敬遠する人にもウケたのかもしれない。
『戦国TURB』の影響というのはかなり見えにくい。だが確かに海外にもファンがいる。もしかするとインディーゲーム開発者の中には、自分が『戦国TURB』から間接的に影響を受けていることに気づいていないケースもあったりするかもしれない。
ちなみに日本で「インディーゲーム」という言い方が定着したのは2010年代半ばとされる。
ところで、わたくしが『戦国TURB』を「やりそこねた」と言う場合には、2つの意味を持つ。
1つ目は、単にプレイヤーとしての立場だ。つまり、じっくりプレイしそこねたということ。
2つ目は、作り手として。なのれーさんが『戦国TURB』を出すことができたように、自分の納得のいくものを発表することに失敗したということ。
そもそもなぜ『シーマン』のようなものに注目して、その重要性を周囲に説いていたのかというと、自分たちはゲームをつくるべきだと思っていたからだ。
当時の日本はまだ「マルチメディア」という言葉が現役であり、必ずしもゲームらしいゲームである必要はなかった。
『戦国TURB』を参考にすべきものとしてオススメはしなかったが、それまでのゲーム業界の慣習では絶対にありえないような「マルチメディア作品」を世に出すべきだ、という主旨のことをわたくしは主張していた。元ギタリストさん(仮称)も、それなりに乗り気になっていた。
元ギタリストさん(仮称)もゲーマーではなかった。でも若いころに出会ったMac用の人工無能プログラム『RACTER』が印象深いものとして記憶されていたようだった。彼はデザイナーになるためにMacを始めたわけではなく、どんな風に役に立つのか分からない段階からのMacユーザーだった。
わたくしは積極的には「マルチメディア」という言葉を使っていなかったかもしれないが、当時の文脈としてはそういうことだ。
兄弟子もまた、Macユーザーだった。わたくしはタッチしていなかったが、4D(4th Dimension)と呼ばれる開発環境での仕事も引き受けていた。
当時の兄弟子の会社は、会社組織というよりは個人事業主のような側面があった。すべてのプロジェクトで、兄弟子がメンターだった。そしてとにかく、それぞれのスタッフ個人の裁量が大きかった。設計・コーディングからお客さんとのやり取りまで、強くコミットすることができた。それは同時に、納期の責任が大きくなりやすいということでもある。
兄弟子にとってわたくしの振る舞いは、納期が守れないとか、頼んだこととまったく違うことに没頭しているとか、そういう現実的な悩みをもたらすという要素があったようだ。でも元ギタリストさん(仮称)は、技術者に対する固定観念を破壊する存在としてわたくしを面白がってくれた。
元ギタリストさん(仮称)の会社は、個人事業主としての色彩がより濃厚だった。企業との関わりもあったから表面的に抑制的に振る舞うことはあったし、ギターを封印していたようだったけど、創作や表現ということについての野心は失っていなかった。
もしあのままわたくしが兄弟子や元ギタリストさん(仮称)と関わり続けていたとすると、やはり何らかの「マルチメディア作品」について、それなりの時間とエネルギーを投入することになっていた可能性があるのだ。そしてわたくしの思惑としては、自分の作家性を強く反映するものにしたかったわけだ。
あるいは、わたくしでない誰かの作品ということもありえただろう。わたくしはその別の誰かの作家性をサポートする存在。あるいは、ある時は自分のエゴを最優先させつつ、別の機会にはサポート役に徹する、みたいな可能性もあったのかもしれない。
なのれーさんがDC版『戦国TURB』を発表することができたように、これは自分の作品だという確かな手ごたえのある何かを世に問うような、そういう形での「マルチメディア」との関わり。それは十分にありえたのだ。
でもわたくしはそれを、決定的にやりそこねた。
当時、『シーマン』は良くも悪くも器用な作品に見えた。表面的には『シーマン』の話題を口にすることが多かったが、もっと堂々たる不器用を叩きつけるようなものをやるべきだと思っていた。
だからこそ、わたくしがやりそこねたのは『シーマン』ではないのだ。
『戦国TURB』なのだ。
ちなみにこの「マルチメディア作品」については、基本的には師匠とは関係のないものだった。
師匠もゲームをつくりたがっていた時期はあった。でも他人と共同でということではなく、すべてを一人でやろうとしていた。そして同時代のヒット作にはまったく関心がないように見えた。また2002年ごろは、ワンダースワンやワンダーウィッチに興味を持っていたようだった。ラズパイが登場するのは2012年になってからだ。
兄弟子や元ギタリストさん(仮称)との関わりがなぜ断たれてしまったのかというと、この師匠の存在があったからである。
師匠は2000年後半あたりから兄弟子に対して強烈な不信感を抱き始めた。やがて元ギタリストさん(仮称)にも不信の目を向け始めた。
わたくしが師匠の音楽の研究に継続的に協力するなら、2人とは縁を切る必要があったのだ。そして2002年にほぼ完全に離れた。
元ギタリストさん(仮称)からすると、なぜそっちに行くんだ、という気持ちが強かったはずである。なぜ俺じゃないんだ、と。
師匠が本当はどのようなものに取り組んでいたのかということも、元ギタリストさん(仮称)には話すことなく終わってしまった。すでに録音したものについて、聴かせることにも失敗した。元ギタリストさん(仮称)は何度も何度も、まずは聴かせてほしいと言った。でも最終的に、あの人には聴かせないでほしいと師匠が強く要求することになった。
元ギタリストさん(仮称)は忙しすぎるように見えたこともあった。依頼ベースで引き受けたものについて、業務量が多すぎた。新しいことを考えるためには、時間的余裕も必要だ。
師匠がやっていることについては、基礎研究寄りの側面があった。彼には研究者という自己規定がなかっただけであって、その活動のあり方は通常の作品づくりとは大きく異なっていた。創作活動や表現活動の一般的なイメージから、はるかにかけ離れていた。何らかのコラボ的状況をつくりだすことも、マルチメディアの文脈になじませることも、ほとんど不可能であるように思えた。
わたくしは結局、師匠の音楽を世に送り出すことにも失敗し、2004年秋に師匠とも縁を切ることになった。でも少なくともわたくしにとっては、まったくの無駄な日々だったというわけではない。
そのあたりのことは、「1999-2004という時代」本編でじっくり語ることになるだろう。
ところで、2026年現在の日本においては、女性ライターさん(仮称)という言い方は嫌悪感を呼び起こす場合があることは自覚している。男性の場合には入れないのに、女性の場合のみに「女子」や「女性」を入れることの無神経さ。
だが「1999-2004という時代」ではあえて「女性ライターさん(仮称)」と呼ぶことにする。
そういうことも含めて、あの時代は、あの時代だったのだ。
わたくしと女性ライターさん(仮称)との直接的な関わりは1999年末から2002年前半あたりだけということになるのだが、その後も師匠との会話の中に登場はしていた。
師匠は元ギタリストさん(仮称)に対しては警戒していた時期があったのだが、奥さんの女性ライターさん(仮称)のほうについては、そういう感情はまったくないようだった。
そしてわたくしと師匠との雑談の中では、姉弟子もよく登場していた。姉弟子については、師匠の側から一方的に聞かされるだけだ。姉弟子の存在も、良い印象のまま冷凍保存されていたようだった。兄弟子の口から姉弟子について語られたこともあったが、これは2回ぐらいだろう。
なのれーさんについては、わたくしの側が一方的に語るだけ。
この3人のおねえさまというのは、あのころの通奏低音のようなものだったといえる。
これはあくまでも、こちらの主観である。
師匠は師匠で、大阪市内の画廊の女性経営者や、どん底の時に大きい金額のお金を貸してくれた女性など、わたくしのよく知らない「おねえさま」が複数いたようだった。
兄弟子や元ギタリストさん(仮称)や3人のおねえさまたちについては、全員が1963年から1969年あたりの生まれのはずである。つまり、1999年から2004年あたりは30代。
師匠は彼らよりひとまわり年上で、おそらく1950年代後半の生まれのはずである。1999年から2004年あたりは、師匠は40代だったということになる。
念のために強調しておきたいが、師匠やなのれーさんを含めて、全員わたくしとの血縁関係・縁戚関係・同じ学校のつながりなどはない。わたくしが兄弟子の会社の存在を知ったのは紙の求人情報誌であり、紹介ではない。わたくしには、やや遠い親戚に音大か芸大を出た人がいるのだが、姉弟子というのはその人のことではない。
また、わたくしは2012年に初めて沖縄に来たのだが、沖縄に友人・知人がいたわけではない。沖縄に来てから出会った人たちと、1999年から2004年あたりのことは、何の関係もない。
1999年から2004年というのは、わたくしにとっては愉快な時期だったとはいえない。全体としては長く苦しい6年間だった。特に2003年と2004年がつらい。
わたくしは大学進学を拒否した。でも結局のところ、こういう6年間があらかじめ用意されていたのだろうか、などと思うこともある。もし医学部に行っていたら6年間だし、4年制の大学に行ってさらに修士課程にも行ったなら、やはり6年間。
あの6年間の事実関係について、今のうちに整理しておきたいわけだ。
そしてあの時期、雑談の中によく登場するのが「地元の有名ヤンキー」のようなものではなく、この3人のおねえさまであったことは、わたくしの精神の安定にとってはそれなりに良いことだった可能性がある。
そんな風に思い始めている次第なのである。
師匠と縁を切ってからの約5年半ほど、つまり2004年秋から2010年春あたりというのは、あまりわたくしの精神状態は良くなかった。3人のおねえさまのことをほとんど忘れていた時期でもあった。忘れてしまったから精神状態が悪くなったのかどうかは知らないが。
「1999-2004という時代」の本編の中では、3人のおねえさまに直接的に言及することはあまりないかもしれない。
特になのれーさんと姉弟子については、基本的には当時の口頭での会話に登場していただけだ。
そしていつごろどんな話をしたのかというのは、もう忘れてしまっている。
当時のことはフィクショナルに再構成するのではなく、確実に事実だと自分が思えるものだけを中心に書き、推測は推測と分かるようにするつもりだ。だからタイミングが不明なものはほとんど書かない可能性がある。
だからといって、この重要な通奏低音のことを、存在しないものとして扱ってしまうのは問題である。
それはそれで狂ったパースペクティヴとなってしまうかもしれないのだ。



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