非アングロ・サクソンの理論としてのリアリズム
カーは、ユートピアニズムの理論が現実と乖離していることを指摘する立場を、リアリズムと呼んだ。カーは、徹底してリアリズムの思想家や政治家として、ヘーゲルやマルクス、そしてヒトラーのようなドイツ人たちの名前を列挙する。そうでなければレーニンのような革命期ロシア人だ。1939年のカーにとって、リアリズムとは、ドイツやロシアなどの英語圏諸国民の対極に位置する国民が持つ理論のことであった。
なぜかと言えば、カーのユートピアニズムが、「現状維持を望む」「持つ者」「満足国家」の理論であったのに対して、その偽善を突く「現状変更を望む」「持たざる者」「不満足国家」の理論が、リアリズムであったからだ。ユートピアニズムとリアリズムの対立は、抽象理念の対立というよりも、具体的な政治情勢の中で異なる立場を持つ人々の異なる世界観の対立のことであった。
英語圏諸国の政治家や理論家たちは、次のように考える。「アメリカやイギリスの国益と人類の利益とを同一とみなしても」、自分たちは「正しい」。なぜなら彼らが「実際に道義的かつ公正である」からだ。この都合の良い自己肯定が、ユートピアニズムの特徴である。これに対して、アメリカやイギリスらがそのような態度をとるのは、「自分本位の国益を全体利益の衣のなかに隠す技能にかけては、かねてから名人であったこと、しかもこの種の偽装はアングロ・サクソン精神ならではの際立った特性である」ためだ。リアリズムは、ドイツのように、アメリカやイギリスと共通の利益を持たない国の態度である。英語圏諸国民の偽善を突くのが、リアリズムの特徴である(164頁)。
カーは、このユートピアニズムとリアリズムの対立を、「単純」な事情によるものとみなす。「社会道義の理論は、つねに支配集団が生み出すものである。すなわち、支配集団はみずからを全体としての共同体と同一視するのであり、しかも支配集団はその共同体にみずからの人生観を押しつけるための目的達成手段(これは下位集団や個人には与えられていない)をもっているのである。国際道義の理論も、同じ理由から、そして同じプロセスを経て、支配的な国家ないし国家集団がこれをつくる。過去百年間、とりわけ一九一八年以降はもっとそうなのだが、英語圏諸国民は世界における支配集団を構成してきた。したがって今日の国際道義の理論は、彼らの優位を永続させるよう練りあげられており、しかも彼ら独特の表現形式で示されている」。「英語圏諸国民が国際道義の独占者であるという見解と、彼らが見事な国際的偽善者であるという見解」が併存するのは、「国際的善徳の今日の基準は、自然かつ必然の成り行きから、主として英語圏諸国民によってつくられた」ためである(165-6頁)。
カーは、リアリズムは誤解されている、と述べる。リアリズムは、ユートピアニズムは理想主義的すぎるという理由で、ユートピアニズムを批判するのではない。そうではなく、ユートピアニズムにおいて「絶対的・普遍的原理と信じられているものが、およそ原理という代物ではなく、(支配者階層の)国家政策」を反映したものでしかないことを、批判しているのである(178頁)。