井川洗厓 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

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『大菩薩峠』つながりを続けます。

…というか、いよいよこの方の登場です。

 

 

井川 洗厓 いがわ せんがい
1876(明治9)年5月1日
岐阜市 生  本名 井川 常三郎

1892(明治25)年 大阪に出て稲野年恒に師事し人物画を学んだ後、東京へ出て富岡永洗に就く
日露戦争に応召して帰還
1906(明治39)年 前年の師永洗の死去を受けて都新聞社に入り、
同じ都新聞の社員であった中里介山『氷の花』(明治39年)
                『荒野の義人』(明治39年)
                『大菩薩峠』(大正2年~)や
  本田美禅「御洒落狂女』(大正11年~12年)など、客員となる時期を経て昭和9年の退社まで多く挿絵を手掛けた
在職中より、大正2年の「講談師問題」をきっかけに都新聞の記者が「講談倶楽部」などに筆をとるようになったのを機に、
講談社の雑誌に口絵などの仕事も請け負うようになり、その後、他社の雑誌などにも挿絵や木版口絵を描く

昭和13年以後は、挿絵界を引退し、その後は専ら美人画を描いていた

1961(昭和36)年10月13日没 86歳

昨今では、美人画の口絵などがわずかに残り、『大菩薩峠』の挿絵にしても後の石井鶴三の者が挿絵の独自性などの問題であまりにも有名となってしまっているが為に、あまり最初に描いた挿絵画家として振り返られることもないですが、やはり最初が相応の成功を収めていなければ、後の作品もどうなっていたかわからないのだから、ここではキチンと取り上げておきたいと思います。
否、それもですが、何と言っても、新聞社専属だったとはいえ、20年以上も新聞連載小説の挿絵を毎日毎日やり続けたことこそ凄い。
もっとも、昭和2年頃には、当時純文学の新人として注目されていた小島政二郎が、初めて新聞小説『緑の騎士』を書くこととなり、
社の方針で挿絵は洗厓と決まっていたところ、若き作者としては内心「年をとってからの洗厓はセンスも古くなり描線もモダンな女性風俗には不向き」と不満に感じ、
担当編集者に「もっと新しい他の絵描きさんに」と持ち掛けたところ、「洗厓さんはウチで重役待遇を受けている人だから、そんな話を持ち出すと、あなたの方が降ろされることになりますよ」と言われて、気鋭の新進作家が大いにクサったという話があるというのも、
なかなかどうして面白く、社史の中にだけ埋もれていたのではもったいないので、引用させてもらいました。

内弟子であった初山滋関連の資料では、初山滋が井川洗厓に弟子入りしたのが1911(明治44)年のこととであるが、
『大菩薩峠』が始まったのが大正2年9月からなので、弟子入り時にはまだ「当時の洗厓は『大菩薩峠』の挿絵で人気を博し、云々」という表現にはあたらない。
また、都新聞の社史によると、「(『大菩薩峠』連載時、)洗厓が病気の時は、弟子の如洗、桜厓らが代筆した。」とあり、
「桜厓」が初山滋のことのようなので、他に兄弟子(先に名前が記載されているからだけの理由)がおり、「金厓塾」としていたようだが、
いつ頃から弟子をとっていたかについてはほとんど記述など残されていないので、略年譜からは省略しています。
「太平洋画会に入会、卒業」という記述もあるところでは目にすることができるが、いつのことか明確でなく、「卒業」という単語もピンとこないので、やはりここでは省略します。

そんなことより、今回こうしていろいろと改めて挿絵画家のことを見直しているなか、
1997年に(もう20年以上昔!!!!)神奈川近代文学館で開催された「文学の挿絵と装幀展」の図録なども見返してみたのだが、
見返してみて驚いたのが、都新聞掲載の『大菩薩峠』の第一回の挿絵の版木が当時展示されていたらしいのである。
う~む。展示は見に行ったのだが…版木あったのかぁ。当時は今ほどのめり込んでいなかったから、あまり感動しきれていなかったんだろうなぁ。
今だったらもっと感動できていたのに。…感動や感激はやっぱりタイミングが大事ですよねぇ。

…もう一度見ることが出来る機会はあるのだろうか?

 

 

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