戦国最強だった武田信玄公は北信の村上義清公に二度もケチョンケチョンに負けましたが、三度目には配下となっていた地元の真田幸隆を介し、豊富な甲州金を使って村上一族を買収した後に攻め掛かって敗走させました。敗走した村上義清公は越後の上杉謙信公を頼りました。義を何もよりも重んじる上杉謙信公は、卑怯を何よりも嫌う村上義清公の願いを聞き届け、義清公の領地奪回の為に北信濃に進出し武田信玄公と対峙したのです。此れが後に川中島合戦と伝わる当時の日本最強軍団同士の激突となりました。
我が家に有る川中島合戦時の三太刀七太刀之図です。
中でも最も激戦であったのは川中島の八幡原で行われた第四次川中島合戦だったと伝わる事は皆さまご存知の通りです。死傷者は合わせて2万7千余名にものぼり、日本の戦国史上最大の激戦の一つに数えられております。今回御案内する武田典厩信繁公は、其の第四次川中島合戦において、川中島の露と消えております。典厩信繁公とは戦国最強だった武田信玄公の実弟となります。
川中島典厩寺記念館所蔵の武田典厩信繁公(タケダテンキュウノブシゲコウ)の図です。兄に対して最後まで忠節を貫き、味方は勿論ですが、敵側からも、其の死を惜しまれた人格者でした。信玄公配下の武藤喜兵衛こと真田昌幸公は自らの次男に信繁(後の幸村)と名付けたほど心酔しいた事を思っても、其の威徳が凡そご理解頂けると思います。
名将であった武田信玄公に『己のが目』と称された真田昌幸公(当時は武藤喜兵衛)は、三方原の戦いで徳川軍を散々に打ち負かして敗走させ、後には上田城に立て籠もり、何倍もの徳川軍を二度までも打ち負かしております。
典厩寺境内にある閻魔堂に安置されている日本最大の閻魔大王像です。合戦における両軍の戦死者を弔う為に松代藩八代藩主真田幸貫の発願によって建立されました。我が妹も高校生の頃にバレー部に所属していただけ有って大柄な体躯を有しておりますが、此方の閻魔さまは全てを圧倒する大迫力です。閻魔堂の天井には三十三身の観音菩薩が描かれています。
典厩信繁公は大永5年に武田信虎公の四男として甲斐に生まれ、嫡男であった兄のクーデターの際には板垣信方、甘利虎泰等の重臣達と共に兄に従いました。晴信公が国主の座に着いた後は常に兄に従い、若き晴信公のブレーン的な存在だったのです。
武田信虎公です。どうしても有名な信玄公が表に出ておりますが、室町時代の甲斐は守護の武田信満が上杉禅秀の乱に加担した為に滅ぼされ、甲斐は混迷を極めておりました。其の乱れを治め武田宗家を統一したのが信虎公なのです。後に子により追放されましたが、子である信玄公が活躍できる土台を苦労の末に築き上げた大功労者なのです。
典厩信繁公は其の後の合戦でも数々の武功を残しました。最後の戦いとなった第四次川中島の戦いでは、武田側のキツツキ戦法が敗れ、濃い朝霧の晴れた八幡原において、武田軍の眼前に妻女山に居た筈の上杉軍の大軍が出現した時、典厩信繁公は兄を守る為に鶴翼の陣の左翼隊を率い、上杉軍最強の柿崎景家率いる先手組300騎に突撃致しました。典厩信繁隊は美濃の名工である兼高が打ち上げた二尺五寸の太刀を奮って勇猛果敢に善戦致しましたが、奮戦虚しく典厩軍は其の数を減らしていき、大激戦の最中で最後を遂げたのです。享年37歳の若さでした。
武田典厩信繁公が埋葬された典厩寺(当時は鶴巣寺)です。信繁公は此処に陣を置いたと伝わります。
典厩信繁公は強いだけでは無く、99ヶ条に渡る『武田信繁家訓』を残した他、古典の論語をおさめた教養人の側面も合せ持ち、正に文武両道の武人であったのです。『武田信繁家訓』は江戸時代の武士の心得として広く読み継がれました。多くの武家から信繁公こそは「まことの武将」と評され、死してもなお崇敬を集めておりました。
此処で典厩信繁公の書き記した家訓を5ツほど案内致します。尚、当時の表現は修正して分かり易くしてあります。
『急ぎ慌ただしい時も、危急の時も、仁に違わず、仁を忘れてはならない』
『自分の力量に達しない事に発言をしない事』
『愚痴や文句を周りの者と雑談しない事』
『働く意欲がある部下が困ったり窮したりしていれば助けてやる事 人を育てるのは1年どころではなく長い年月がかかる』
『あらゆる人に対して、不作法な振舞いをしてはいけない 僧侶、女子供、貧しい者に対してはいっそう丁重に接する事』
何れも現代にも通ずる素晴らしい教えだと思いますが、如何でしょうか。
話を本題に戻します。八幡原の合戦では戦死した信繁公の遺体を前に、兄の武田信玄公は、誰はばかる事無く弟の遺体を掻き抱いて号泣したと伝えられております。また、敵からも典厩信繁公の死は惜しまれたと敵側の記録にも残っております。
武田家の家臣達は『惜しみても尚惜しむべし』と信繁公の死を悼みました。遺骸は現地の鶴巣寺(かくそうじ)に埋葬されました。其の後、時を経て徳川の御世になり、徳川側に付いた真田信之公が上田から松代に転封となりました。松代の地は、かつての主家である武田家が上杉家と激戦を繰り広げた場所だったのです。其処で元主君の弟君である武田典厩信繁公が埋葬されている寺を知り、其の名を『鶴巣寺』から『典厩寺』と改めさせたと伝わります。
典厩寺に有る典厩信繁公の墓碑です。巨大な自然石に『松操院殿鶴山巣月大居士』と戒名が彫られております。此方には典厩信繁公の御身体が葬られております。
御首は家臣の山寺佐五左衛門により当時典厩公の嫡子である武田信豊が城主であった小諸城まで運ばれ、然るべき地に陣中で使う陣鍋におさめられ埋葬されました。忠臣の山寺佐五左衛門の末裔は武田家滅亡後に真田家に仕えております。
其の後、千曲川の大氾濫によって五輪塔は流失致しましたが、其の後発見され、現在は自然石の墓碑が据えられております。布引山釈尊寺の管理がなされているとの事です。
次に続きます。