中国メーカーを切り捨てることで日本の中小企業が「1万人」グローバル企業に躍進 『閉塞企業を甦らせる』海外戦略
国内市場が急速に縮小するなか、日本企業にとって海外進出は喫緊の課題だ。だが世界情勢が混迷する今の時代に、どうすればグローバル展開を成功に導くことができるのか。従業員300人余りの商社だったミスミを1万人規模の世界的企業に変貌させた三枝匡氏の新著『決定版 閉塞企業を甦らせる』から、同社の中国事業を飛躍的に成長させた「秘策」を紹介する。 【画像】中国メーカーを切り捨てることで日本の中小企業が「1万人」グローバル企業に躍進 『閉塞企業を甦らせる』海外戦略 あらすじ 事業再生の専門家で、2002年に機械工業部品事業で知られる中小企業ミスミの社長に就任した主人公・黒岩莞太は、無分別な事業の多角化によって赤字を垂れ流している経営を立て直すため、世界戦略の見直しを図る。黒岩は海外事業を社長直轄とし、自ら現場に赴いて事業組織を改革。重点地域の一つに選んだ中国で、これまでの方針を覆す驚きのアイディアを実行する。
中国メーカーを見限る
黒岩は初めてミスミ上海に出張したとき、数社の中国メーカーを訪問した。それがミスミの世界展開戦略に大きな変化を生み出すことになった。 当時のミスミ中国チームが最も急いでいたのは、商品の現地調達体制の構築だった。歴史的に日本でミスミが協力メーカーを組織化したのと同じように、中国で現地メーカーのネットワークを構築したいとチームは考えていた。しかし、それが容易でないことが見えてきた。 最大の障害は当時の中国メーカーの品質の悪さだった。 日本でミスミは顧客から、QCT(品質[Q]、コスト[C]、時間[T])のQで高い評価を得ていた。それに対して当時の中国品の品質は、とてもではないが、ミスミブランドで売り出せるレベルではなかった。品目ごとに二社どころか一社でさえ、適格なメーカーを見つけるのが容易でないことがわかってきた。 事業チームはあちこちの工場を検分するために飛び回った。対象を広げ、取引をしたことのない台湾や香港系のメーカーまで含めて、候補先メーカー120社ほどをリストアップした。 その日、黒岩社長は「この工場は中国メーカーとしてはレベルが高い」という会社に連れて行かれた。工場見学をしながら、チームメンバーに尋ねた。 「この会社の品質をここまで上げるのは、誰が指導したの?」 「ミスミです。日本でやっているように、顧客のクレームをこの工場に伝え、品質改善を指導してきました。彼らは初め鈍感でしたが、指導していくうちにレベルが上がってきました」 それを聞いて黒岩の表情が動いた。 「このメーカーとミスミは『専売契約』を結ぶの?」 「それは無理です。この会社は昔から他の顧客に売ってきたので、そこまで縛れません」 「だったらミスミが指導した品質のメリットは、他の顧客への販売にも自由に使われるね」 「それは……そういうことになります」 黒岩は真剣な表情だった。 「このメーカーが中国経済の拡大に乗って成長し、海外市場に出てくる規模になったら、彼らがミスミの日本の顧客に売るのも自由だよね。安い価格で……。そうなったら、ミスミは日本でどうやって対抗するの?」 「………」 チームメンバーはそんな先のことまで考えていなかった。冗談じゃない、そこまで考えるのが戦略だろう。黒岩が抱いた恐れは、歴史観にもとづいていた。 1950年代から60年代にかけて、多くの日本企業が米国企業に技術供与や指導を求め、当時の米国企業は無防備に、多くの技術を日本企業に渡した。 日本の戦後復興を助けるという米国人の寛大な精神があった。日本人は猛烈な熱意でその技術をものにし、さらに改良した。 その結果、日本企業は急速に米国への競争脅威として台頭した。米国の産業は次々と日本に攻め込まれ、苦境に陥り、米国経済は30年間も後退を続けた。 30年間は長い。大学を出た若者が50代に達するまでの期間、日本に負け続けたのである。 歴史は繰り返す。中国企業から技術供与を求められた日本企業は熱心に対応した。戦争で中国に迷惑をかけたから、戦後中国の成長を助けたいという日本人の心理が働いていた。例えば、日本製鉄が中国の鉄鋼業の発展にどれほど大きな手を貸したかは、山崎豊子『大地の子』を一冊読むだけでわかる。 しかし半世紀も経ち、中国の製鉄企業が力をつけてくると、彼らは日本製鉄を圧迫するようになった。日本製鉄が中国企業との合弁事業を解消する事件や、中国側を特許侵害で訴える事件が起きた。助けたつもりだったが、恩をあだで返されていく。 だがそれは、日本企業が戦後、米国企業に行ったのと同じことではないのか。
Tadashi Saegusa