言葉というものは、本来は事実や出来事を説明するための道具のはずなのに、 いつの間にか「それっぽく聞こえるかどうか」だけで判断される場面が増えている気がします。 中身を確かめる前に、語調や肩書き、雰囲気にうなずいてしまう。 昔の迷信は、いま見ると突飛で幼稚に思えるのに、 少し現代的な言葉に置き換えられただけで、途端に警戒心が緩んでしまうのは不思議です。 しかもその変化は、だまされているというより、 こちらが進んで疑う手間を省いているだけ、という場合も少なくありません。 そんな「言葉に安心してしまう感覚」を頭の片隅に置きながら、 次の話を眺めてみたいと思います。 ところで、 「月ではウサギが餅をついている。」 「夜、笛を吹くと魔物がやって来る。」 「夜空には大きな熊がいるのね。」 「地球の空気がなくなるかもしれないから、タイヤのチューブを 備えておこう!」 すべて大昔の迷信ですが、我々はこれを笑い飛ばせるでしょうか? 言葉が変わったり、言い方がより巧妙になったりしてるだけでは ないでしょうか?(笑) 「この店のシェフはフランスで料理修行して来ました。」 フランスのどこで、どんな店で、どんな師匠について? 修行ったって、皿洗いを含め、いろいろあります。 えっ、フランス語は全然できないって? じゃ、どうやって勉強したんです? 「パエリャ、注文したらすぐに出て来る」? はっ?ですよ(笑) そこで質問ですが、 私たちはどの段階で、こうした「もっともらしく聞こえる言葉」を、事実確認を省略したまま信じる側に回ってしまうのでしょうか? 迷信だと笑って切り捨ててきたはずの思考と、肩書きや権威、巧妙な言い回しに安心してしまう態度とのあいだに、実はどれほどの違いがあるのでしょうか? そして、言葉が事実を説明しているのか、単に不安や期待を覆い隠しているだけなのかを見分けるために、私たちはどんな疑い方を身につけておくべきなのでしょうか? ๑/๑๐