長野市にある『典厩寺』の続きのブログになります。
川中島合戦は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が北信濃の覇権を争って戦った、
戦国時代で最も有名な合戦の1つです。
北信濃を舞台に繰り広げられたこの戦いは、1度だけではなく12年間の間に
5度繰り返され、その中で最も激戦となった戦いが4度目となる
永禄4年(1561年)8月の第四次川中島合戦です。
両軍合わせて3万人を超える壮絶な戦いは歴史に残る合戦でした。
その舞台ともなった典厩寺(当時は鶴巣寺)は、この合戦で武田典厩信繁
(信玄の弟)が典厩本陣として出陣しましたが、
激戦で惜しくも37歳の若さで戦死し、当寺に埋葬されています。
典厩寺の境内には川中島合戦記念館があります。
山門を入ったところに無人の受付があり、拝観料(大人200円)を納めると
閻魔堂、川中島合戦記念館、境内などが自由に見学できます。
川中島合戦記念館に入ると館内は真っ暗になっていたので
入口のスイッチをONにして見学をしました。
◆川中島合戦記念館
館内には武田典厩信繁の遺品など貴重な史料60点余りが展示されています。
「撮影禁止」の文字もマークもなかったのでバチバチ撮影させてもらいました。
小ぢんまりとした記念館ですが、ショーウィンドウー越しに
ジックリと見ることができました♪
◆武田典厩信繁自画像
◆武田典厩信繁
大永5年(1525年)、父・武田信虎と母・大井夫人の間に次男として生まれました。
「甲陽軍鑑」によれば、信繁は幼少期から信虎に寵愛されたようです。
信虎は嫡男である晴信(後の信玄)を廃して信繁に家督を譲ろうと考えていましたが、
天文10年(1541年)晴信により駿河に追放されると、信繁は武田家副将として、
晴信の領国支配、軍事行動を補佐しました。
官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」と呼ばれ、
嫡男・信豊も典厩を名乗っていたため、後世では「古典厩」と呼ばれています。
信繁は嫡男・信豊に家臣団の倫理規定とも云える99ヶ条からなる「武田信繁家訓」
(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読まれていました。
永禄4年(1561年)9月10日の第4次川中島合戦で、信玄本陣を守り壮絶な死を遂げ
ました。その遺骸は鶴巣寺に埋葬され、典厩塚と呼ばれました。享年37。
信玄は、戦死した信繁の遺体を抱くと号泣したと伝えられ、敵将の上杉謙信からも
その死は惜しまれたと云います。武田家臣団からも「惜しみても尚惜しむべし」と評され、
後年の信玄と信玄の嫡男・武田義信との対立はなかったと云われるほどです。
◆武田典厩信繁の兜
◆武田典厩信繁の刀・鎧の下着
◆真田家の床飾や瓦
真田幸貫が天下泰平を祈念した写経です。
◆写経
◆胸当
◆砥石崩れと川中島合戦
砥石城は築城年代は不明ですが真田氏の外城として築城されたと伝えられています。
天文10年(1541年)5月の海野平合戦において、海野棟綱と真田幸綱(幸隆)らは
武田信虎(信玄の父)・村上義清・諏訪頼重らの連合軍に敗れ上野国に逃れ、
砥石城は村上義清の出城となりました。
武田信虎は海野平合戦から帰国した同年6月に嫡男・晴信(後の信玄)により駿河へ
追放され、晴信が家督を継承します。
天文17年(1548年)晴信は村上義清との上田原合戦で敗戦し、武田家中の中心だった
板垣信方と甘利虎泰、その他多くの将兵を同時に失いました。晴信は村上義清対策に
人材を求め、それに応じて真田幸隆は晴信の武田氏に臣従したと云われています。
天文19年(1550年)9月に武田晴信は圧倒的な兵力で村上義清の砥石城を攻めましたが
砥石崩れと呼ばれる大敗を喫しました。
翌年再び砥石城攻めが行われ、真田幸隆が調略を用いて1日で城を攻略したといいます。
天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、真田幸隆は旧領を
完全に回復し、義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越領国は北信濃の
領有を巡って対峙し、川中島合戦を展開することとなりました。
◆砥石米山城
武田信玄は大永元年(1521年)11月3日に武田信虎の嫡男として誕生し、
元亀4年(1573年)4月12日に信濃駒場において亡くなりました。享年53。
令和3年の今年は、信玄生誕500年になり、来年は450回忌にあたります。
◆武田信玄自画像
◆武田信玄銅像
◆当寺の鎧塚からの出土品
武田信玄は源氏の嫡流にあたる甲斐武田家の第19代当主なので
清和天皇の子孫になります。
◆武田家系図
一番最後に甲斐武田家最後の当主となった勝頼が記されています。
中央に武田不動尊が祀られています。
武田家の菩提寺である山梨の恵林寺にも立派な武田不動尊が祀られています。
享禄3年(1530年)1月21日、越後守護代・長尾為景の四男(次男・三男とも)として誕生、
天正6年(1578年)3月13日春日山城で死去。死因は脳出血と云われてます。享年49。
◆上杉謙信自画像
◆武田信玄自画像
上杉謙信が使用した鉄扇もありました。
◆川中島戦争遺物
武田家が使用した火縄銃が展示されていました。
◆典厩寺縁起
信玄と典厩信繁が最後の杯を交わした杯もありました。
◆鶴卵の杯
村上義清の息子・村上源五(山浦景国)が徳川家康から送られた書状もありました。
◆武田典厩信繁使用の鉄扇
戦国画人・雪村周継の筆による韋駄天像。
◆韋駄天像(左)と武田典厩信繁像(右)
第四次川中島合戦で山本勘助も討死にしています。享年69。
◆山本勘助像(左)、典厩墓畔(中)、典厩信繁奮戦図(右)
◆武田典厩信繁愛馬の帯と轡
甲陽軍鑑には、武田信玄や勝頼時代の合戦記事が中心に記されています。
その中に、第四次川中島合戦のとき、真田昌幸が足軽大将として武田家奉行人として
加わったと記されています。
◆陣鐘(左)と甲陽軍鑑(右)
◆永禄年間川中島大合戦之図
◆第四次川中島合戦(八幡原の戦い)
武田信玄は北信濃に新しく海津城を築城し、それを拠点に勢力を伸ばしていました。
上杉謙信は1万3,000の兵を率いて、海津城の向かいにある妻女山に布陣しました。
対する武田信玄は2万の大軍を率いており、数では謙信に勝っていましたが、なおも
信玄は慎重でした。しばらく睨み合った後、家臣たちに進言されて遂に信玄は決戦を
決意します。永禄4年(1561年)9月9日、天才軍師・山本勘助の提案で、兵を2手に分けて、
高坂昌信・馬場信房・真田幸隆らが率いる別動隊12,000が妻女山に向かい、
信玄率いる本隊8,000は八幡原に布陣しました。
妻女山にいる上杉軍をつついて平野に追い込み、そこを待ち伏せて勝つという作戦です。
これは啄木鳥が嘴で木をつついて驚いて飛び出した虫を食べることに似ている
ことから「啄木鳥戦法」と名づけられました。
ところが、海津城からの炊煙がいつになく多いことから、謙信はこの動きを察知します。
恐るべき観察眼です。謙信は一切の物音を立てることを禁じて、夜陰に乗じて密かに
妻女山を下り、八幡原に布陣しました。
翌朝、深い霧が晴れた時、いるはずのない上杉軍が眼前に布陣しているのを見て、
信玄率いる武田軍本隊は動揺しました。謙信は柿崎景家を先鋒に、車懸りで武田軍に
襲い掛かりました。
武田軍は完全に裏をかかれた形になり、鶴翼の陣を敷いて応戦したものの、
上杉軍の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方となり、信玄の弟で副将の武田典厩信繁や
軍師の山本勘助など名だたる武将が討死、武田軍本陣も壊滅寸前で危機的状況と
なりました。乱戦の最中、手薄となった信玄の本陣に謙信が斬り込みをかけました。
馬上の謙信は床几に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は軍配でこれを
受け止めますが、肩を負傷し、家臣が謙信の馬を刺して信玄は助かった、
と云うのが二人の一騎打ちの有名なシーンです。
もぬけの殻の妻女山に攻め込んだ高坂昌信・馬場信房・真田幸隆ら別動隊は、
慌てて八幡原に急行しました。武田軍の別動隊は、上杉軍の殿を務めていた
甘粕景持隊を蹴散らし八幡原に到着しました。
それまで優勢だった上杉軍は、両側から武田軍に攻められる形となり、
形勢不利となった謙信は、兵を引き犀川を渡って善光寺に敗走しました。
「甲陽軍鑑」には、「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」と書かれています。
合戦後に、両軍とも勝利を主張していますが、明確な勝敗はついていません。
◆川中島大合戦図
◆大龍(狩野祐清筆)
◆武田典厩信繁使用の烏帽子
◆典厩寺
長野県長野市篠ノ井杵淵1000番地
境内には川中島合戦古戦場の一騎打ちの像の原画になった碑があります。
◆武田・上杉両雄一騎打ちの碑
武田典厩信繁(武田信玄の弟)は、当寺を典厩本陣として出陣しましたが、
激戦で惜しくも37歳の若さで戦死し、当寺に埋葬されて菩提を弔っています。
◆武田典厩信繫の墓
◆典厩寺周辺マップ
<参考文献>
・現地説明看板およびパンフレット
・ウィキペディア