ムウタスィム
| ムウタスィム المعتصم بالله | |
|---|---|
| アッバース朝第8代カリフ | |
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| 在位 | 833年8月9日 - 842年1月5日 |
| 出生 |
795/6年 フルド宮(バグダード) |
| 死去 |
842年1月5日 ジャウサク宮(サーマッラー) |
| 埋葬 | ジャウサク宮 |
| 配偶者 | バズル |
| カラーティース | |
| シュジャー・アル=フワーラズミー | |
| 子女 |
ワースィク ムタワッキル ムハンマド アフマド アッバース アリー アブドゥッラー アーイシャ(娘) |
| 王朝 | アッバース朝 |
| 父親 | ハールーン・アッ=ラシード |
| 母親 | マーリダ・ビント・シャビーブ |
| 宗教 | イスラーム教(ムウタズィラ学派) |
アブー・イスハーク・ムハンマド・ブン・ハールーン・アッ=ラシード(アラビア語: أبو إسحاق محمد بن هارون الرشيد, ラテン文字転写: Abū Isḥāq Muḥammad b. Hārūn al-Rashīd, 795/6年 - 842年1月5日)、または即位名でアル=ムウタスィム・ビッ=ラーフ(アラビア語: المعتصم بالله, ラテン文字転写: al-Muʿtaṣim biʾllāh,「神に加護を求める者」の意)は、第8代のアッバース朝のカリフである(在位:833年8月9日 - 842年1月5日)[1]。
ムウタスィムは第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの息子であり、異母兄で第7代カリフのマアムーンの治世にトルコ人奴隷兵を中心とした軍団を編成して頭角を現した。マアムーンはムウタスィムとその配下のトルコ人軍団をペルシア人などの既存の有力者層に対する牽制に利用し、反乱への対処やビザンツ帝国に対する遠征においても活用した。833年8月にマアムーンが遠征中に急死すると、軍内で支持を集めていたマアムーンの息子のアッバースを抑えてムウタスィムがカリフに即位した。
ムウタスィムはマアムーンの政策の多くを引き継ぎ、アッバース朝の総督としてホラーサーンとバグダードを統治したターヒル家との連携や、マアムーンがアッバース朝におけるイスラームの教義として公認したムウタズィラ学派への支持とその反対者に対する異端審問であるミフナを継続した。ムウタスィムの治世は軍事面、特にトルコ人軍団を中心とした新体制の確立という点でイスラーム世界の歴史における大きな転換点となった。836年にはこの新体制の象徴としてバグダードの北方に新たな首都であるサーマッラーを建設し、トルコ人軍団も軋轢が生じていたバグダードの民衆から隔離される形でこの新首都に移った。新体制の下でトルコ系軍人が台頭する一方で旧来のアラブ系とペルシア系の支配者層は次第に権力から遠ざけられるようになり、これと並行して中央政府のトルコ人軍団の指導者が地方総督に任命されるようになったことで行政の中央集権化も進んだ。
その一方で国内ではいくつかの反乱が起き、中でもマアムーンの治世から続いていたバーバク・ホッラムディーンが率いるホッラム教徒の反乱とターヒル朝の総督と衝突したタバリスターンの土着王朝の君主であるマーズヤールが起こした反乱がムウタスィムの治世における2つの主要な反乱であった。ムウタスィムはこれらの反乱に対する戦いを指揮する一方で838年にビザンツ帝国に対する大規模な遠征に乗り出し、ビザンツ皇帝テオフィロスを破ってアナトリアの主要都市であるアモリオンの破壊に成功した。この戦果は広く称賛され、ムウタスィムのガーズィー(信仰の戦士)としての評判を高めた。
ムウタスィムが採用を推し進めたトルコ系奴隷軍人の台頭はやがて「サーマッラーの政治混乱」として知られる政情不安を引き起こし、1世紀足らずのうちにカリフの政治的権力の喪失を招くことになったが、ムウタスィムが確立した奴隷軍人を基盤とする政治制度は後世のイスラーム世界で広く採用されることになった。
出自と背景
[編集]将来にムウタスィムの即位名を名乗ってカリフとなるムハンマドはバグダードのフルド宮(フルドは「永遠」を意味する)で生まれた。ただし、正確な生年月日は不明である。歴史家のタバリー(923年没)は、複数の情報源からの引用として、生まれた時期をヒジュラ暦179年(西暦795年3月27日 - 796年3月15日)かヒジュラ暦180年シャアバーン月(西暦796年10月9日 - 11月6日)であったと記している[2][注 1]。両親はアッバース朝第5代カリフのハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)と女奴隷の内妻のマーリダ・ビント・シャビーブである[1][4]。マーリダはクーファで生まれたが、家族はソグディアナの出身であり、一般にはトルコ系であったと考えられている[5]。
ムハンマドの若年期は後世の人々がアッバース朝の黄金時代と呼んだ時期と重なっている。803年にそれまで権力を掌握していたバルマク家が突如として失脚し、宮廷の上層部で政情が不安定化する兆しが現れた。同時期に起こっていたいくつかの地方の反乱は困難の末に鎮圧されたが、これらの出来事は王朝の帝国支配に警鐘を鳴らすものだった。それでもハールーンの死後に数十年にわたって続いた紛争と帝国の分裂に比べれば、アッバース朝はまだ平穏な時期を過ごしていた。東は中央アジアとシンド地方から西はマグリブに至るまで、ハールーンは依然として当時のイスラーム世界の大部分を直接支配していた。唐やインド洋とヨーロッパおよびアフリカを結ぶ活発な貿易網はバグダードを結節点として帝国の東西を行き交い、巨大な繁栄をもたらしていた。各地域の歳入によって国庫が継続的に満たされていたことで、ハールーンがビザンツ帝国への大規模な遠征に乗り出し、遠方のシャルルマーニュの宮廷に使節を派遣するといった活発な外交活動を展開することも可能になった。また、このような富は膨大な量の支援活動を行うことも可能にした。イスラームの聖地であるマッカとマディーナへの莫大な寄進や、イスラーム法学者(ファキーフ)や禁欲主義(ズフド)の実践者を宮廷へ招き入れるといった行為は宗教階層の王朝に対する好意的な態度を保証し、一方で詩人への惜しみない資金の提供は王朝の永続的な名声を保証するものだった。最初期の『千夜一夜物語』のいくつかの物語はこのようなカリフの宮廷の華やかさに着想を得ている[6][7][注 2]。
マアムーンの治世
[編集]成人したムハンマドは一般にアブー・イスハークのクンヤで呼ばれるようになった[9]。タバリーは成人したアブー・イスハークを「色白で黒い鬚を生やしていたが、その毛先は赤みを帯び、先端は整えられて赤く筋がかっていた。また、見栄えの良い目をしていた」と説明している。また、後年のアモリオンへの遠征(詳細は後述)の際にラバに乗って軍隊の先頭に立ち、川を渡るための浅瀬を自ら探したという逸話から想起されるように、他の著述家はほとんど体を動かそうとしなかった前任者や後継者たちとは対照的なアブー・イスハークの体力と運動への嗜好を強調している。後世の作家たちはアブー・イスハークについてほとんど読み書きができなかったと記しているが、歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディが「アッバース朝の王子としてはほとんどありえないことである」と指摘しているように、このような説明はほぼ間違いなくアブー・イスハークの知的探求に対する関心の低さを反映したものであると考えられている[10][11]。
内戦期の活動
[編集]ハールーンの年少の息子の一人であるアブー・イスハークは当初はほとんど重要視されず、後継者の立場を確立することはなかった[12]。809年にハールーンが死去すると、すぐにアブー・イスハークの異母兄であるアミーン(在位:809年 - 813年)とマアムーン(在位:813年 - 833年)の間で激しい内戦が勃発した。アミーンはバグダードの伝統的なアッバース朝の支配者層(アブナー[注 3])による後ろ盾を受け、一方でマアムーンはアブナーの別の複数のグループから支援を得た。そして813年にマアムーンが長期に及んだ包囲戦の末にバグダードを陥落させ、アミーンも死亡したことで内戦の勝利者となった[14][15]。しかし、マアムーンは本拠地であるイスラーム世界の北東の外縁地帯に位置するホラーサーンに留まることを選択し、イラクの統治は自身の主な代官たちの手に委ねた。しかしながら、その結果としてマアムーンとその「ペルシア人」の代官たちはバグダードの支配者層や西方地域一帯の人々から度重なる反感を買うことになり、817年にバグダードでハールーン・アッ=ラシードの弟のイブラーヒームが対抗のカリフとして指名されるに至った。この出来事を受けてマアムーンは遠隔地から統治することに対する自身の無力さを悟り、民衆の反応に屈して自分に最も近い立場の代官たちを解任するとともに処刑した。そして819年に自らバグダードに戻り、国家の再建という難題に着手した[16][17]。アブー・イスハークはこの内紛とその余波が続いている間、バグダードに留まり続けていた[18][19]
タバリーは816年にアブー・イスハークが多くの部隊と役人を伴いながら巡礼(ハッジ)を率いたと記録しているが、この巡礼団にはイエメンの総督に任命されたばかりで現地に向かおうとしていたハムダワイフ・ブン・アリー・ブン・イーサー・ブン・マーハーンも同行していた。アブー・イスハークの部隊はマッカに留まっている間に巡礼団のキャラバンを襲撃したアリー家支持派の指導者を打倒して捕虜とした[20][注 4]。アブー・イスハークは翌年も巡礼を指揮したが、この時の巡礼における行動の詳細は不明である[25]。また、少なくともこれらの巡礼を率いていた間はマアムーンとそのイラク総督のアル=ハサン・ブン・サフルに忠実であったとみられているが[19]、その後はバグダードのアブナーや王家の成員の大半と同様に817年から819年にかけてマアムーンに対抗した叔父のイブラーヒームを支援していた[18]。
トルコ人軍団の創設
[編集]アブー・イスハークは814年か815年頃からトルコ人軍団の編成を始めた[注 5]。最初の軍団員はアブー・イスハークがバグダードで購入し、兵法を教え込んだ家内奴隷(名将として知られるイーターフはもともとは料理人であった)だったが、すぐに東方のサーマーン家の支配者との協定によって中央アジアのイスラーム世界の外縁地域から直接送られたトルコ人奴隷によって補完された[18][注 6]。この私兵部隊は当初は小規模であったが(後にアブー・イスハークがカリフに即位した時点では恐らく3,000人から4,000人の規模だったと考えられている)、高度に訓練され、優れた規律を有していただけでなく、マアムーンが次第にアブー・イスハークの支援に頼るようになったことから、このトルコ人軍団の存在はアブー・イスハークを自律的な権力者の一人へ押し上げる役割を果たすことになった[28][29]。また、このトルコ人の近衛兵のために初めて特別な軍服が導入された[30][31]。
上述の長期に及んだ内戦は初期のアッバース朝国家の社会的秩序と政治的秩序を大きく損なわせることになり、国家の主要な政治的、軍事的支柱であったアブナーは内戦によってその規模を大きく減らした[32]。以前はイスラーム教徒の初期の征服時代から地方に定住していた古くからのアラブ系の一門や広範囲に及ぶアッバース家の成員がアブナーとともに伝統的な支配者層の中核を形成し、アミーンを大きく後押ししていたが、マアムーンの治世の後半になるとこれらの人々は行政と軍事機構における地位を失い、それと同時に影響力と権力も失っていった[33][34]。さらに、アッバース朝の東半分の領域とイラクで内戦が激化すると、西方地域では現地の有力者たちによるさまざまな自治権の要求の実現、あるいはアッバース朝からの完全な分離すら目指す一連の反乱が起き、その結果としてこれらの地域はバグダードの支配から離れていった。その一方でマアムーンは旧来の支配者層を打倒したにもかかわらず大規模で忠実な支持母体と軍隊を欠いていたため、独自の軍隊を従える「新人」の力を頼りにしていた。これらの人々の中にはアブドゥッラー・ブン・ターヒルに率いられていたターヒル家や実弟のアブー・イスハークも含まれていた[35][36]。しかしながら、一方でマアムーンは内戦で自分を支援し、今や新体制の要職を占めるに至っていたターヒル家のような主として東方のペルシア系指導者に対する依存度を減らそうとしていたため、アブー・イスハークのトルコ人軍団はマアムーンにとって政治的に有益と言える存在だった。その結果、マアムーンはアブー・イスハークとそのトルコ人軍団に正式な承認を与え、ペルシア系指導者たちの影響力に対抗させた。同じ理由からマアムーンはマシュリク(レバントとイラクを合わせた地域)のアラブ部族からなる軍団を息子のアッバースの手に委ねた[37]。
一般に「トルコ系奴隷軍人」と呼ばれている人々の性格と正体については議論の対象となっており、民族的な呼称と奴隷の地位の双方が論点となっている。軍団員の大部分は戦争で捕らえられたか奴隷として買い取られた明らかに隷属的なルーツを持っていたにもかかわらず、アラビア語の史料ではこれらの人々は決して奴隷(マムルークあるいはアビード)とは呼ばれず[注 7]、むしろマワーリー(庇護民あるいは解放奴隷)またはギルマーン(従者)と呼ばれており、このことはこれらの兵士たちが解放奴隷の立場であったことを示唆している。また、軍団員が現金で俸給を受け取っていたという事実もこの見解を補強している[39][40]。しかしながら、史料では軍団員は単に「トルコ人」(アトラーク)と総称されているにもかかわらず[39]、初期の著名な軍団員はトルコ人でも奴隷でもなく、ウシュルーサナの小王国の王子であったアフシーンのようなマアムーンの治世中の征服活動によってアッバース朝に帰順した中央アジアのペルシア系臣下の王子たちであり、これらの王子は個人的な従者(ペルシア語ではチャーカル、アラビア語ではシャーキリーヤと呼ばれる)を従えていた[41][42][43]。同様にトルコ人衛兵結成の背後にあった動機も不明であり、特にアブー・イスハークが若かったことを考えると、この目的のために利用できた財政的手段についてもよく分かっていない。これらのトルコ人はアブー・イスハークと密接な関係にあり、通常は当時のイスラーム世界では珍しくなかった私的な軍事的従臣であったと解釈されている[44]。歴史家のマシュー・ゴードンが指摘しているように、中央アジアの小王国の王子たちとその従臣を宮廷で採用するという当時の一般的な政策の一環として、マアムーンがトルコ人の採用を始めたか奨励していた可能性を示す史料も存在する。このため、トルコ人衛兵はもともとアブー・イスハークの発案で結成されたが、マアムーンの統制下に置かれることと引き換えにすぐにカリフの認可と支援を受けていた可能性がある[45]。
マアムーンの治世下での軍役
[編集]819年にアブー・イスハークはバグダードの北に位置するブズルジュ・サーブール周辺で起こったマフディー・ブン・アルワーン・アル=ハルーリーに率いられたハワーリジュ派の反乱を鎮圧するためにトルコ人衛兵とその他の軍司令官とともに現地へ派遣された[46]。タバリーによって残されているほぼ間違いなく創作と思われる話によれば、後年トルコ人の最も重要な指導者の一人となるアシナースは、動き回って将来のカリフ(アブー・イスハーク)を攻撃しようとするハワーリジュ派の槍騎兵の前に身を置き、「私を覚えておけ!」(ペルシア語でアシナース・マーラ)と叫んだことからその名が付いたとされている[46]。
828年にはマアムーンがアブー・イスハークをエジプトとシリアの総督に任命し、前任者のアブドゥッラー・ブン・ターヒルはホラーサーンの総督に任命された。その一方でビザンツ帝国との国境地帯(スグール)とジャズィーラの統治はアッバースに委ねられた[41][47]。アブドゥッラー・ブン・ターヒルはエジプトをアッバース朝の支配下に戻し、内戦の混乱を収拾したばかりであったが[48]、情勢は依然として不安定なままであった。エジプトにおけるアブー・イスハークの代官であったウマイル・ブン・アル=ワリードは増税を試みたものの、ナイルデルタとハウフ地方で反乱が起こった。ウマイルは830年に反乱軍をなり振り構わず鎮圧しようとしたが、逆に奇襲を受けて多くの兵とともに殺害された。アブー・イスハークは自身の4,000人のトルコ人軍団を率いてエジプトの首府のフスタートに留まっていた政府軍とともに自ら反乱の鎮圧に介入した。最終的に反乱軍は大敗を喫し、その指導者たちは処刑された[49][50]。
ビザンツ帝国の防衛体制の弱点を察知し、さらにはバーバク・ホッラムディーンに率いられていたホッラム教徒[注 8]の反乱軍とビザンツ皇帝テオフィロス(在位:829年 - 842年)の結託を疑ったマアムーンは、830年7月から9月にかけてアッバース朝の内戦が始まって以来初めてビザンツ帝国の領内への大規模な侵攻に乗り出し、いくつかのビザンツ帝国の国境の要塞を占領して略奪した[33][52]。エジプトから帰還したアブー・イスハークは、831年にマアムーンが再び実施したビザンツ帝国に対する軍事遠征に参加した。テオフィロスによる和平の提案を拒絶した後、アッバース朝軍はキリキア門(キリキアの低地の平野とアナトリア高原を結ぶタウロス山脈の峠)を通過し、その後カリフとその息子のアッバース、そしてアブー・イスハークを先頭とした3つの部隊に分かれた。アッバース朝軍はいくつかの小規模な砦とテュアナの町を占領して破壊し、アッバースはテオフィロスが自ら率いていたビザンツ軍との小規模な戦闘で勝利した。その後、アッバース朝の軍隊は9月にシリアへ撤退した[53][54]。
アブー・イスハークがエジプトから去った直後、今度はアラブ人入植者と先住民のコプト教徒が640年代にエジプトを征服したアラブ人の子孫であるイブン・ウバイドゥースの指導の下で反乱を起こした。反乱軍はアフシーンに率いられたトルコ人軍団と対峙したが、アフシーンは組織的な軍事作戦を展開し、一連の勝利を収めて反乱者の大規模な処刑を実行した。多くの男性のコプト教徒が殺害され、一方でコプト教徒の女性や子供たちは奴隷として売られた。さらに7世紀にイスラーム教徒がエジプトを征服して以来この地を支配してきた古いアラブ人の支配者層も実質的に根絶された(エジプトに対する政策面の詳細は後述)。832年の初頭にはマアムーンがエジプトに入り、その後まもなく最後の抵抗勢力であったナイルデルタの海岸湿地一帯のコプト教徒が制圧された[50][55]。
同じ年の後半にマアムーンは再びビザンツ帝国の国境地帯への侵攻に乗り出し、戦略的に重要なルーロンの要塞を占領したことでキリキア門の双方の出口におけるアッバース朝の支配を固めることに成功した[56]。この勝利に自信を得たマアムーンはテオフィロスによる好条件の和平の提案さえ再三にわたり拒否し、コンスタンティノープルを攻略する意志を公に宣言した。そして放棄されていたテュアナの町を軍事植民地に作り替え、西方進出への足掛かりとするために翌年の5月にアッバースが派遣された。7月にはマアムーンがこれに続いたが、急病に罹り、833年8月7日に死去した[57][58][注 9]。
カリフ時代
[編集]マアムーンは自分の後継者を正式には指名していなかった。息子のアッバースは統治者として十分な年齢に達しており、ビザンツ帝国との国境地帯における戦争で軍の指揮官としての経験も積んでいたが、後継者には指名されていなかった[12]。タバリーの説明によれば、マアムーンは死の床でアッバースではなく弟を後継者に指名する旨の書簡を口述で作成し[60]、アブー・イスハークは8月9日にアル=ムウタスィム・ビッ=ラーフ(「神に加護を求める者」の意)の即位名を名乗り歓呼でカリフに迎えられた[61]。この説明が実際の出来事を反映したものなのか、あるいはこの書簡自体が捏造であり、カリフになるために瀕死の兄に近かったこととアッバースの不在という状況を利用しただけであったのかははっきりとしていない。アブー・イスハークは自分以降におけるすべてのアッバース朝のカリフの祖先となったため、後世の歴史家たちがアブー・イスハークの即位の正当性を疑問視することはほとんどなかったが、一方でその地位が安泰からは程遠いものであることも明らかだった。軍隊の大部分はアッバースを支持しており、兵士の代表団がアッバースの下を訪れ、アッバースを新しいカリフであると宣言しようとすらした。性格の弱さからなのか、あるいは内戦を避けたいと強く望んだからなのか、アッバースはこれを拒否し、自ら叔父に忠誠を誓ったことで兵士たちはようやくムウタスィム(以降はこの名で表記する)の継承を不本意ながらも受け入れた[62][63]。ムウタスィムの立場が不安定であったことはムウタスィムが直ちに遠征を中止し、テュアナにおける計画を放棄して軍とともにバグダードへ引き返し、9月20日にはバグダードに到着したという事実からも明らかだった[64][65][66]。
政権の新たな支配者層
[編集]即位の実際の背景がどのようなものであったにせよ、ムウタスィムが即位に至った要因には本人の強い個性と指導力に加えてアッバース朝の王子の中で唯一トルコ人軍団という独自の軍事力を手にしていたという事実があった[28]。アラブ部族やトルコ人を利用してペルシア人部隊との均衡を図ろうとしていたマアムーンとは異なり、ムウタスィムはほぼ全面的にトルコ人に依存していた。歴史家のタイエブ・エル=ヒブリーは、ムウタスィムの政権を「軍国主義的であると同時にその中心にはトルコ人軍団を据えていた」と説明している[42]。その結果としてムウタスィムの即位はアッバース朝政権の性格に根本的な変化をもたらし、アッバース朝革命で王朝が権力を得て以来、イスラーム世界が経験することになる最も大きな変化の到来を告げるものとなった。アッバース朝革命が社会変革の実現を求める大衆運動によって支えられていたのに対し、ムウタスィムによる大改革は本質的に自らの権力の保持を目的とした少数の支配者層の手による事業であった[67]。
マアムーンの時代にはすでにムハッラブ家のような古くから存在するアラブ系の有力家門は宮廷から姿を消し、アッバース家の傍流の成員も総督や軍の上級職に任命されなくなっていた[34]。ムウタスィムの改革はこのような一連の変化を完全なものにし、その結果としてバグダードにおいても地方においてもそれまでのアラブ系とペルシア系の支配者層がトルコ系軍人に取って代わられ、カリフの宮廷を中心とした行政の中央集権化が進んだ。このような変化の象徴的な例はエジプトであり、エジプトではそれまで有力なアラブ人入植者の一門が名目的な国の駐屯地(ジュンド)を形成し、その地位に基づいて現地の歳入から俸給を受給し続けていたが、ムウタスィムはこの慣行を廃止し、アラブ系の一門を軍籍(ディーワーン)から外すだけでなくエジプトの歳入を中央政府へ送るように命じた。そして中央政府は地方に駐留するトルコ人の軍隊にのみ現金による俸給(アター)を支払うようになった[68]。ムウタスィムがアシナースやイーターフのような高位の補佐官をいくつかの地方の名目的な最上位の総督に任命したこともそれまでの慣行とは異なるものだった。この措置は恐らくムウタスィムの重臣たちが配下の部隊を養うための資金を即座に調達できるようにするためであったとみられている。ケネディは、「これは権力のさらなる集中化を意味した。なぜならば、地方の下級総督が宮廷に姿を現すことはめったになく、政治的決定に関与することもほとんどなかったからである」と指摘している[69]。実際にムウタスィムの下での支配体制は中央政府の権力の絶頂期を示しており、このことはとりわけ地方から税金を徴収する中央政府の権利と権限の中に表れていた。また、このような権利と権限の集中化はイスラーム国家が成立した初期から物議を醸し、多くの現地の反対に直面していた問題でもあった[69]。
この変化における唯一の大きな例外はターヒル朝であり、ターヒル朝はアッバース朝の東部の大部分を占める広大なホラーサーンの統治者として自立した地位を維持した。さらにターヒル朝は一族からバグダードの総督を輩出し、マアムーンの政権下で反対派の拠点となっていたバグダードの平穏を保つのに貢献した。アブドゥッラー・ブン・ターヒルの従兄弟にあたるイスハーク・ブン・イブラーヒーム・アル=ムスアビーがムウタスィムの治世を通じてバグダードの総督職を務めており、東洋学者のクリフォード・エドムンド・ボズワースによれば、イスハークは「常にムウタスィムに最も近い助言者の一人であり、側近中の側近」であった[1][71]。トルコ人軍団とターヒル朝を別にすれば、ムウタスィムの政権運営は中央政府の財務官僚に依存していた。歳入は主にイラク南部(サワード)とその近隣地域の肥沃な土地からもたらされていたため、行政官僚のほとんどはこれらの地域から登用された人員で占められていた。このようなムウタスィムの下で台頭した新しい国家の官僚層はそのほとんどがペルシア人かアラム人であり、新たに改宗したイスラーム教徒が大きな割合を占め、中には地主か商人の家系に生まれた少数のネストリウス派のキリスト教徒も含まれていた[72]。
ムウタスィムは即位と同時に古くからの個人秘書であったアル=ファドル・ブン・マルワーンを主席大臣または宰相(ワズィール)に任命した。アッバース朝官僚の伝統に倣っていたファドルはその注意深さと質素さを好む性格でよく知られていた人物であり、当時厳しい状態にあった国家財政の立て直しを図ろうとした。しかしながら、カリフから廷臣たちへ配られる下賜品を国庫に余裕がないという理由で認めなかったため、このようなファドルの性格はやがて自分自身が失脚する原因となった。そのファドルは836年に罷免され、アッ=スィン村へ追放されたが、これ以上の厳しい処罰を受けずに済んだのは不幸中の幸いであった[73][74]。後任となったイブン・ザイヤートはファドルとは全く性格の異なる人物だった。裕福な商人であったイブン・ザイヤートは、ケネディによれば「有能な財政の専門家だったが、多くの敵を作った無情で残忍な男」であり、政権内の同僚さえも敵に回していた。このような性格に加えてイブン・ザイヤートの政治的権限が決して財政の領域を超えることはなかったにもかかわらず、イブン・ザイヤートはムウタスィムの治世だけでなくその後継者のワースィク(在位:842年 - 847年)の下でもその地位を維持することができた[1][75]。
トルコ人の台頭
[編集]ムウタスィムのトルコ系奴隷兵への依存は、特に838年のアモリオンへの遠征の間に発覚したムウタスィムに対する失敗に終わった陰謀事件の余波の中で次第に高まっていった。この陰謀の首謀者はマアムーンとアミーンの間の内戦以来マアムーンに長らく仕えていたホラーサーン人のウジャイフ・ブン・アンバサであり、そのウジャイフは謀議を通じてムウタスィムの政策、特にトルコ人に対するムウタスィムの寵愛に不満を抱いていた伝統的なアッバース朝の支配者層を結集させていた。トルコ人に対する不満はトルコ人の隷属的な出自に起因しており、アッバース朝の上流階級の人々はこのようなトルコ人の出自に嫌悪感を抱いていた[注 10]。陰謀者たちはカリフを殺害し、マアムーンの息子のアッバースをその座に就けようとした。タバリーによれば、アッバースはこの計画を知っていたにもかかわらず、ムウタスィムによるジハードの努力を損なったと見なされることを恐れて計画の初期段階でウジャイフによるムウタスィム殺害の緊急の提案を拒否した。結局、アシナースが陰謀を計画していたアムル・アル=ファルガーニーとアフマド・ブン・アル=ハリール・ブン・ヒシャームの両者に不審の目を向け始めたことで陰謀はすぐに発覚した。アッバースは投獄され、トルコ人の指導者であるアシナース、イーターフ、そしてブガー・アル=カビールが他の陰謀者たちを探し出し、拘束する役目を担った。この事件はケネディが「ほとんどスターリン的な冷酷さ」と表現する大規模な軍部の粛清の合図となった。アッバースは喉の渇きによる死を余儀なくされ、その息子たちもイーターフによって拘束された末に恐らく処刑された。その他の陰謀の首謀者たちも同様に独創的で残酷な方法によって処刑され、他の人々への警告として大々的に宣伝された。11世紀に著された年代記である『キターブ・アル=ウユーン』によれば、この粛清でトルコ人を含むおよそ70人の軍の指揮官と兵士が処刑された[77][78][79]。
歴史家のマシュー・ゴードンが指摘するように、この出来事は恐らくアブナーの歴史的記録からの消滅と関係している。そしてそれと呼応するようにトルコ人とその最高司令官、特にアシナースの地位も間違いなく高まったとみられている。839年にアシナースの娘のウトランジャがアフシーンの息子と結婚し、840年にムウタスィムはバグダードから北へおよそ130キロメートル離れた当時の首都のサーマッラー(サーマッラーへの遷都の詳細については次節参照)を不在にしている間の代官としてアシナースを指名した。その後、サーマッラーに帰還するとムウタスィムはアシナースを公然と玉座に座らせ、儀式用の王冠を与えた[80][81]。同年にアシナースはエジプト、シリア、およびジャズィーラの各地域を統括する大総督に任命されたが、アシナースがこれらの地域を直接統治することはなく、各地の総督として代官を任命し、自身はサーマッラーに留まった[80][82]。また、841年の巡礼に参加したアシナースは滞在した先々で栄誉を受けた[80][83]。
その一方でアフシーンは840年にカリフから向けられた疑いの目の犠牲となった。将軍としての功績があったにもかかわらず、アフシーンはサーマッラーの有力者層の中では非常に「変わり種」であった。ペルシア人の王子であったアフシーンと生まれの卑しいトルコ人の将軍たちは互いに反感を抱いていた。さらに、アフシーンはタバリスターンの地に干渉し、伝えられるところによれば、現地で自立していた支配者であるマーズヤールに対しターヒル朝による支配を拒否するように働きかけていた(マーズヤールの反乱に関する詳細は後述)。このため、アフシーンは他の状況であれば自身の自然な味方であったはずのターヒル朝を遠ざける結果を招いた[84][85]。タバリーはアフシーンがムウタスィムを毒殺しようと企んでいたことや莫大な金を持って故郷のウシュルーサナに逃れようと計画していたことなど、アフシーンに対する数々の疑惑を報告している[86]。
ケネディは、アフシーンに対する疑惑の数々はその真偽を疑うに足るものであり、アフシーンは宮廷で敵対者たちに嵌められた可能性が高いと述べている[84]。真偽の程はともかくとして、これらの疑惑はアフシーンに対するムウタスィムの信頼を失わせることになり、アフシーンはカリフの護衛の職(アル=ハラス)を解かれた[87]。そして宮殿で見せしめの裁判が開かれ、そこでマーズヤールを含む何人かの証人と対峙した。アフシーンはとりわけ偽イスラーム教徒であること、そしてウシュルーサナで臣下から神のような扱いを受けていることを非難された。これに対しアフシーンは雄弁に自分を弁護したものの、有罪の判決を受けて投獄され、その後まもなく飢えか毒によって死亡した。アフシーンの遺体は宮殿の門の前に設置された絞首台に公開で晒された上に焼却され、遺灰はティグリス川に投棄された[88][89]。この事件はトルコ人の指導者たち、特にアフシーンの収入と財産を受け継ぐことになったワスィーフ・アッ=トゥルキーの地位を高めることになった[90]。
しかしながら、このような出来事があった後でもムウタスィムは自分が権力の座に引き上げた人物に完全に満足していたわけではなかったようである。イスハーク・ブン・イブラーヒーム・ブン・ムスアブによって伝えられているムウタスィムの晩年の逸話によれば、カリフはイスハークとのくつろいだ会話の中で、自分がこの点で粗末な選択をしたと嘆いた。そして、兄のマアムーンがターヒル家から4人の優秀な部下を育てたのに対し、自分は死んだアフシーン、「弱虫で臆病な」アシナース、「まったく取るに足らない」イーターフ、そして「不肖の召使い」のワスィーフを育てたのだと語った。これに対しイスハークは、マアムーンが現地に人脈と影響力のある人物を起用したのに対し、あなたはイスラーム教徒の社会に根を下ろしていない人物を起用したためだと語り、ムウタスィムは悲しげにそれに同意した[91][92]。
サーマッラーの建設と遷都
[編集]トルコ人軍団は当初はバグダードに駐屯していたが、すぐにバグダードの古いアッバース朝の有力者層や民衆と対立するようになった。特に古くからの有力者たちは外国人の軍隊に影響力と出世の機会を奪われたことに対して恨みを抱いていた。さらに外国人兵士たちはしばしば規律を乱し、暴力的で、アラビア語を話さず、イスラームに改宗してから間もなかったか異教徒のままであった。こうして民衆とトルコ人たちの間で暴力的な事件が頻発するようになった[93]。
このような状況は836年にムウタスィムがバグダードから北へおよそ130キロメートル離れたサーマッラーに新しい首都の建設を決意する大きな要因となったが、他にも考慮すべき要因があった。このような新都の建設は新体制の樹立を公に宣言するようなものであり、タイエブ・エル=ヒブリーによれば、宮廷は「バグダードの民衆から距離を置き、外国人部隊の新たな衛兵に守られ、雑然と広がった宮殿の敷地、公共の見世物、そして表面上は際限のない悠々自適な享楽の追求を中心に据えた新たな王室文化の只中に」存在することができた。オレグ・グラバールはこのような統治の形態をルイ14世以降のパリとヴェルサイユの関係になぞらえている[94][95]。ムウタスィムはそれまで人が住んでいなかった場所に新しい都市を建設することで、利権集団と高騰した不動産が存在していたバグダードとは異なり、いかなる制約も自ら費用を支出する必要もなく商業の機会と土地を与えることで追従者たちに報いることができた。実際に土地の売却は国庫に相当な収入をもたらしたとみられ、ケネディの言葉を借りるならば、この遷都は「政府と追従者たちの双方にとって利益を期待できる一種の巨大な不動産投機」であった[94]。
新しい首都の空間と生活環境は厳格に規制された。居住区は市場から切り離され、軍には一般の住民から隔てられた独自の兵舎が与えられた。また、これらの兵舎が軍のそれぞれ特定の民族集団の部隊(トルコ人軍団やマガーリバ連隊など)の本拠地となった[注 11]。都市はモスク(中でもカリフのムタワッキル(在位847年 - 861年)が848年から852年にかけて建設したサーマッラーの大モスクが有名である)と宮殿の統制下に置かれ、モスクなどの都市の建築物は広大な未開発の土地を与えられた軍の上級司令官たちとカリフによって壮麗な様式で建設された[94][97]。バグダードとは異なり、この新しい首都は完全に人工的に作られたものだった。しかし、もともと水利や河川交通の面での立地条件が悪く、カリフの宮廷が存在するという理由だけで存続しつづけていたため、60年後に首都がバグダードに戻されるとサーマッラーは急速に放棄された[98]。そのため、このアッバース朝の都の遺跡は今日においてもその姿を目にすることができ、現代の考古学者たちが非常に正確な当時の都の地図を作ることを可能にしている[99]。
学問の振興
[編集]軍人でもあったムウタスィムの考え方は実用主義的であり、知的探求に向けられた関心の度合いはマアムーンや自身の後継者であるワースィクのそれとは比較するまでもなく低かったが、作家や学者を登用するという兄の政策は引き継いだ[100]。バグダードはムウタスィムの治世を通じて学問の中心地であり続け、その治世に活躍した著名な学者の中には、天文学者のハバシュ・アル=ハースィブ・アル=マルワズィーとアフマド・アル=ファルガーニー[101][102]、博学者として知られるジャーヒズ[103]、そして著名なアラブ人数学者で哲学者のキンディーらがおり、このうちキンディーは自身の著作である『第一哲学』をパトロンであったムウタスィムに捧げている[104][105]。ネストリウス派の医師で翻訳家のフナイン・ブン・イスハークのパトロンであった(同じネストリウス派の医師の)サルマワイフ・ブン・ブナーンはムウタスィムの侍医となり[106]、もう一人の著名なネストリウス派の医師でサルマワイフとはライバル関係にあったイブン・マーサワイフはカリフから解剖用の猿を受け取ったと記録されている[107]。また、イスラーム医学の百科事典を著した医師として知られるアリー・アッ=タバリーは、イブン・マーサワイフとともにムウタスィムの宮廷に出仕していたと伝えられている[108]。
宗教政策
[編集]イスラームの思想面に関してムウタスィムは前任者のマアムーンの政策を引き継ぎ、ムウタズィラ学派に対する支持を継続した。ムウタズィラ学派はその神学上の教義において、クルアーンはある時点で創造されたものであり(クルアーン被造物説)、それ故に神によって導かれるイマームが変化する状況に応じてクルアーンを解釈する権限を有するという考えを取り入れていた。また、イスラーム時代初期のかつてのカリフであるアリー・ブン・アビー・ターリブとその反対派の間の対立に関してどちらの側の正当性についても明確な立場を示さなかった一方で(ムウタズィラという呼称は「身を引く人々」を意味するアラビア語に由来している)、アリー自身は神の導きを受けたイマームの典型としてムウタズィラ学派からは高く評価されていた。そのため、ムウタズィラ学派は神学の領域のみならず政治的領域を含むさまざまな立場から支持を集め、カリフの言葉に神権的な力を付与することによってカリフの権力を強化することが期待できる神学的教義を有していた[109]。ムウタズィラ学派は827年にマアムーンによって公式に採用され、そのマアムーンは833年の死の直前にムウタズィラ学派の教義を強制し、異端審問所(ミフナ)を開設した。ムウタスィムはマアムーンの治世中に西方地域でミフナの執行に積極的に関与し、自身の即位後もこの政策を継続した。ムウタズィラ学派の最も重要な擁護者であったカーディー(イスラームにおける裁判官)の長官のアフマド・ブン・アビー・ドゥアードは、恐らくムウタスィムの治世を通じてカリフの宮廷において支配的な影響力を保持し続けていた[110][111][112]。
このようにムウタズィラ学派はムウタスィムの新体制と密接に結びついていた。ムウタズィラ学派を疑問視することは神に認められたイマームとしてのカリフの権威に対する挑戦を意味したため、新体制のムウタズィラ学派への固執は極めて政治的な問題へと転化した。そのムウタズィラ学派は広範な支持を得ていたが、一方でクルアーンの言葉はその一語一句が神の啓示として絶対的なものであり不変であると考えていた伝承主義学派からは猛烈な反発を買っていた。また、このようなムウタズィラ学派への反発は新体制とその支配者層を嫌う者たちへの批判の手段としても機能した[113]。結果として伝承主義者たちに対して行われた積極的な弾圧は失敗に終わり、むしろ逆効果をもたらした。834年にムウタズィラ学派に対する最も頑強な反対者の一人であったイブン・ハンバルが鞭打ちの刑に処され、投獄された事件はかえってイブン・ハンバルの名声を広めることにつながった。後のカリフであるムタワッキルが848年にムウタズィラ学派の公認を取り消して伝統的な正統派に回帰した頃には厳格で保守的なハンバル学派がスンナ派イスラーム法学の主要な学派として台頭していた[111][114]。
国内における軍事活動
[編集]ムウタスィムの治世は国家の中核地帯においては平和な時代であったが、ムウタスィム自身は精力的な軍事指導者であり、ケネディは「イスラームにおける戦うカリフの一人として名声を得た」と述べている[115]。アモリオンに対する遠征(後述)を別とすれば、ムウタスィムの治世における軍事遠征のほとんどは国内向けのものであり、名目上はカリフが統治する国家の一部でありながら実質的にイスラーム教徒による支配から逃れ、現地の住民と君主が事実上の自治政権を確立していた地域における反抗者たちを対象としていた[115]。また、その治世に行なわれた3大遠征であるアモリオンへの遠征、ホッラム教徒の反乱に対する遠征、そしてタバリスターンの統治者であったマーズヤールに対する遠征は意図的な宣伝活動の一部でもあり、ムウタスィムはこのような異教徒に対する戦争を率いることで民衆の目に自らの政権の正当性を強固に印象づけることができた[116]。
ザイド派とズットの反乱
[編集]834年の初頭にムハンマド・ブン・アル=カースィムに率いられたザイド派の反乱がホラーサーンで勃発したが、迅速に鎮圧され、ムハンマドは捕虜となってカリフの宮廷に連行された。しかし、834年10月8日から9日にかけての夜間にイード・アル=フィトルの祝祭に乗じて脱走に成功し、以降は行方不明となった[117]。同年の6月か7月にはウジャイフ・ブン・アンバサがズットの制圧のために派遣された。ズットはかつてサーサーン朝の王によってインドから連れてこられ、メソポタミア湿原に定住していた人々である。そのズットは820年頃からアッバース朝の支配に対する反乱を起こし、バスラとワースィトの周辺を頻繁に襲撃していた。7か月に及んだ軍事作戦の末にウジャイフはズットを包囲し、降伏させることに成功した。そして835年1月に多数の捕虜を連れてバグダードに凱旋した。その後、ズットの多くはビザンツ帝国との国境に位置するアイン・ザルバに送られ、ビザンツ帝国との戦いに従事させられた[118][119]。
ホッラム教徒の反乱
[編集]ムウタスィムの治世における最初の主要な軍事行動はアーザルバーイジャーンとアッラーンにおけるホッラム教徒の反乱に対するものだった[1]。この反乱は816年から817年の間以降に活発化したが、険しい山岳地帯が存在する同地方の地勢に加え、低地の少数の都市を除いて現地に大規模なアラブ系イスラーム教徒の集住地が存在しなかったことが反乱者側の活動にとって有利に働いていた。前任のカリフのマアムーンは反乱への対応を現地のイスラーム教徒にほとんど委ねていた。一連の軍司令官たちが自らの判断で反乱の鎮圧を試み、さらにはその過程で新たに地域内で発見された鉱物資源の支配権を獲得しようと争ったが、これらの軍司令官たちはバーバクの優れた指導力の下にあったホッラム教徒に敗北する結果に終わった[120]。
ムウタスィムは即位した直後にジバールからハマダーンへ拡大していたホッラム教徒の反乱に対処するためにターヒル家出身でバグダードとサーマッラーのサーヒブ・アッ=シュルタ(主に警察あるいは治安部隊を管轄する組織であるシュルタの長官)であったイスハーク・ブン・イブラーヒーム・ブン・ムスアブを派遣した。イスハークは速やかに反乱への対処に成功し、833年12月までに現地の反乱を封じ込めた。その結果、多くのホッラム教徒がビザンツ帝国の領内への避難を余儀なくされた[121]。835年になるとムウタスィムはバーバクに対する行動を起こし、(当時は信頼を置いていた)有能な補佐役であるアフシーンを軍事作戦の指揮官に任命した。アフシーンは3年近くに及んだ慎重かつ秩序立った軍事作戦の末、837年8月26日にバーバクの本拠地があったバッズでバーバクを捕らえ、反乱を最終的に鎮圧した。バーバクはサーマッラーに連行され、838年1月3日に象に乗せられて民衆の前で引き回された後に公開処刑された[122][123][124]。
その後まもなく、ホッラム教徒の反乱の鎮圧後にアフシーンがアーザルバーイジャーンの総督に任命していたミンカジュール・アル=ウシュルーサニーが反乱を起こした。この反乱の勃発はミンカジュールが財務上の不正、あるいはアフシーンの陰謀に関与していたことが原因となっていた。ムウタスィムはブガー・アル=カビールを反乱の鎮圧のために派遣し、840年にミンカジュールが捕らえられてサーマッラーへ連行されるとミンカジュールを投獄した[125][126]。
マーズヤールとターヒル朝の衝突
[編集]ムウタスィムの治世における第2の主要な国内向けの軍事行動は、タバリスターンを支配していた自立政権であるカーリン朝の君主のマーズヤールに向けられたものだった[127]。タバリスターンは760年にアッバース朝の支配下に入ったが、イスラーム教徒はカスピ海沿岸の低地とその一帯の都市にしか存在していなかった。山岳地帯はアッバース朝への貢納を条件に自治権を確保していた現地の統治者たち(主要な勢力は東部のバーワンド朝と中部および西部のカーリン朝であった)による支配下に留まっていた[128]。マアムーンの支援を受けたこともあり、マーズヤールはタバリスターン全域の事実上の支配権を確立したが、その過程でイスラーム教徒の都市のアーモルを占領し、現地のアッバース朝の総督を投獄するという事件も起こしていた。ムウタスィムは即位時にマーズヤールの地位を追認したものの、マーズヤールが東方のターヒル朝の総督のアブドゥッラー・ブン・ターヒルへの従属を拒否し、代わりに自身が統治する地域内の税金をムウタスィムの代官に直接納めると強く主張したため、このマーズヤールの行動はすぐに厄介な事態へと発展した[127][129][130]。タバリーによれば、カーリン朝の頑なな態度はアフシーンによって秘密裏に後押しされており、そのアフシーンはターヒル朝の評判を落とすことで東部の広大な地域を管轄する総督職を手にしたいと望んでいた[131]。
この事態に対し、ターヒル朝が現地のイスラーム教徒に対してマーズヤールに抵抗するように働きかけたために緊張が高まった。マーズヤールはイスラーム教徒の入植者に対してますます敵対的な姿勢を取るようになり、大部分はゾロアスター教徒であったペルシア人農民層に支援を求め、これらの人々を扇動してイスラーム教徒の地主を攻撃するように促した。838年には公然とした衝突が起こり、マーズヤールの部隊がアーモルとサーリーの都市を占領してイスラーム教徒の入植者を捕虜にし、その多くを処刑した。これに対し、アル=ハサン・ブン・アル=フサイン・ブン・ムスアブとムハンマド・ブン・イブラーヒーム・ブン・ムスアブに率いられたターヒル朝の軍隊がタバリスターンに侵攻した。その後、マーズヤールは兄弟のクーフヤールに裏切られ、そのクーフヤールはターヒル朝にマーズヤールとアフシーンの間で交わされていた書簡の内容を暴露した。さらにクーフヤールはターヒル朝から指名を受けてマーズヤールの後任となり、マーズヤールは捕虜となってサーマッラーに連行された。バーバクと同様にマーズヤールは民衆の前で引き回され、840年9月6日に鞭打ちによって処刑された[132][133][134]。この反乱後においても現地の土着王朝による自治は維持されたが、その一方でこの事件は国内における急速なイスラーム化、特に土着王朝の間でのイスラーム化の始まりを告げるものになった[135]。
シリアの反乱
[編集]ムウタスィムの治世の終わり頃にはシリア諸州で一連の反乱が起きた。その中の一つがムバルカ、あるいは「ヴェールを被った者」の呼び名で知られていたアブー・ハルブによる反乱であり、反乱自体は841年から842年にかけて鎮圧されたものの、この反乱によってシリアのアラブ人の中に残るかつてのウマイヤ朝を支持する感情が浮き彫りとなった[1][136]。
ビザンツ帝国との対立
[編集]ビザンツ皇帝テオフィロスはアッバース朝がホッラム教徒の反乱の鎮圧に忙殺されていた状況を利用して830年代初頭にイスラーム勢力と接する国境地帯への攻撃に乗り出し、いくつかの戦果を挙げた。さらに、テオフィロスの軍隊は帝国内に逃れてきたおよそ14,000人のペルシア人のホッラム教徒によって強化された。これらの者たちは洗礼を受けてキリスト教に改宗し、その指導者でテオフォボスの洗礼名で知られるナスルの指揮下でビザンツ軍に編入された[137]。その後、当時ますます苦境に立たされていたバーバクの要請を受け、テオフィロスは837年にイスラーム勢力と接する国境地帯で大規模な軍事作戦を展開した。この軍事行動でテオフィロスは70,000人を超えていたと伝えられる大軍を率い、ユーフラテス川上流地域へほとんど抵抗を受けることなく侵入した。ビザンツ軍はソゾペトラ(ズィバトラ)とアルサモサタの町を占領し、農村地帯を略奪して荒廃させ、攻撃を行わないことと引き換えにマラティヤを含むいくつかの都市から賠償金を取り立て、さらに複数の小規模なアラブ軍を破った[138][139]。サーマッラーに避難民が到着し始めると、カリフの宮廷はビザンツ軍の襲撃の厚かましさと残虐行為に憤慨した。ビザンツ軍がホッラム教徒の反乱者と公然と結託して行動しただけでなく、ソゾペトラの略奪の際には男性の捕虜の全員が処刑され、残りの住民も奴隷として売られ、さらには捕らえられた一部の女性がかつてのホッラム教徒のペルシア人部隊によって性的な暴行を受けた[140][141]。
ビザンツ帝国に対する遠征は慣例としてアッバース朝のカリフが直接参加していた唯一の遠征だったこともあり、ムウタスィムはビザンツ帝国への報復を目的とした軍事遠征の準備を自ら指揮した[115]。ムウタスィムはタルスースに非常に大規模な軍隊を招集したが、12世紀の歴史家のシリア人ミカエルは30,000人の使用人と非戦闘従事者を伴った80,000人の兵士がいた伝えており、他の作家の中にはさらに大きい数字を記録している者もいる。そして報復攻撃の目標を当時ビザンツ帝国を統治していた王家(アモリア朝)の発祥の地であるアモリオンであると宣言し、さらに軍隊の盾と軍旗にその都市の名前を記させたと言われている。遠征は6月に始まり、最初にアフシーンに率いられた小規模な部隊が東方のハダスの峠を通過して攻撃を開始した。一方のムウタスゥムは主力軍を率いて6月19日から21日にかけてキリキア門を越えつつ進軍した。テオフィロスは2方面からのアッバース朝軍の攻撃に不意を突かれ、最初にアフシーンの小規模な部隊と対決しようとしたが、7月22日に起こったアンゼンの戦いで大敗を喫して命からがら戦場から逃れ、その後もアッバース朝軍の進軍に有効な手を打つことができないままコンスタンティノープルに戻った。戦闘から1週間後にアフシーンの軍とムウタスィムの主力軍がアンキュラの前で合流し、無防備な状態に置かれていたアンキュラを略奪した[142][143][144]。
アッバース朝軍はアンキュラからアモリオンに向かい、8月1日に都市の包囲を開始した。アフシーン、イーターフ、そしてアシナースの各将軍がそれぞれ部隊を率いて都市への攻撃を繰り返し、守備側の離反者から得た情報に基づいて城壁の弱点となっていた箇所に裂け目を作ったが、それでもなお都市の守備隊による激しい抵抗を受けた。しかし、2週間後にアッバース朝軍は城壁に裂け目ができていた場所を担当していたビザンツ軍の指揮官が交渉のために短時間の休戦を要求した隙を突いて都市を制圧することに成功した。都市は徹底的な略奪を受け、城壁は破壊され、数万人に及ぶ住民は奴隷として売るために連行された[145][146][147]。タバリーによれば、ムウタスィムはコンスタンティノープルを攻撃するために遠征のさらなる続行を考えていたが、この時、甥のアッバースを首謀者とする陰謀の知らせがムウタスィムの耳に届いた。このため、ムウタスィムは遠征を中断し、近くのドリュライオンに駐留していたテオフィロスとその軍隊を無視して急遽自国へ引き返さざるを得なくなった。帰路はアモリオンからキリキア門へ直接抜ける道を利用したものの、軍隊と捕虜の双方がアナトリア中央部の不毛な大地を通過する行軍に苦しんだ。疲れ切って動けなくなった一部の捕虜は処刑され、他の捕虜たちも混乱に乗じて逃走を試みた。ムウタスィムは報復として捕虜の中から最も重要な立場にある人々を分離し、残りのおよそ6,000人を処刑した[148][149][150]。
アモリオンの破壊に成功したことでムウタスィムはガーズィー(信仰の戦士)あるいは戦うカリフとして広く称賛され、同時代の人々、特に宮廷詩人のアブー・タンマームによる有名な頌歌の中で讃えられた[1]。しかし、アッバース朝はさらなる成功は追求しなかった。両国間の国境地帯では小競り合いが続き、襲撃と反撃が繰り返されたが、最終的にはビザンツ側がいくつかの勝利を収めた後の841年に停戦が成立した。その後、ムウタスィムは再度の大規模な侵攻を計画したが、842年には自身が死去してしまい、コンスタンティノープルを攻撃するために準備された大規模な艦隊もムウタスィムの死から数か月後にケリドニア岬沖で嵐によって破壊された。両国間の戦争はムウタスィムの死後に徐々に沈静化し、844年に起こったマヴロポタモスの戦いが840年代における最後の大規模な両国間の戦闘となった[151]。
死と遺産
[編集]タバリーはムウタスィムが841年10月21日に病気になったと伝えている。カリフが絶対的な信頼を寄せていた侍医であるサルマワイフ・ブン・ブナーンは前年に死去していた。新しい侍医のヤフヤー・ブン・マーサワイフは通常の治療法である吸玉療法と腸内洗浄を実践しなかった。フナイン・ブン・イスハークによれば、このことがカリフの病状を悪化させ、カリフが死に至る要因となった。結局、ムウタスィムは快方に至ることなく842年1月5日に死去した。ヒジュラ暦によるムウタスィムの治世は8年8か月と2日であった[152]。ムウタスィムの遺体はサーマッラーのジャウサク・アル=ハーカーニーの宮殿に埋葬された[152][153]。ムウタスィムの息子で後継者のワースィク(在位:842年 - 847年)の即位に反対する者はいなかった。そのワースィクの治世に目立った特徴はなく、本質的にはムウタスィムの治世の延長と呼べるものだった。政府は引き続きトルコ人のイーターフ、ワスィーフ、アシナース、宰相のイブン・ザイヤート、そしてカーディーの長官のアフマド・ブン・アビー・ドゥアードといったムウタスィムが権力の座に引き上げた人々によって運営された[154]。
タバリーはムウタスィムについて、比較的おおらかな性格であり、親切で、愛想や気前も良かったと説明している[155]。クリフォード・エドムンド・ボズワースによれば、史料はムウタスィムの性格についてあまり明らかにはしておらず、その一方で探究心に富んでいた異母兄のマアムーンと比較して教養では劣っていたという点を強調している。それでもなお、ボズワースはムウタスィムについて、政治的、軍事的に強力な国家体制を維持することに成功した有能な軍事指導者であったと結論づけている[1]。
ムウタスィムの治世はアッバース朝の国家の歴史における重大な転換点であり、イスラーム世界の歴史に長期にわたる影響を残した[42][41]。ケネディによれば、ムウタスィムの一連の軍事改革は「アラブ人が築いた帝国をアラブ人自らが支配する力を失った瞬間」を象徴しており[156]、一方でダヴィド・アヤロンによれば、ムウタスィムが導入した奴隷軍人の制度は「イスラーム世界が知った最も重要で最も永続的な社会政治制度の一つ」となった[157]。トルコ人衛兵を従えていたムウタスィムは後に広く模倣されることになる制度の見本を作った。軍人が国家内部で支配的な地位を獲得しただけでなく、イスラーム世界の外縁地域に居住する少数派の集団の人々が次第にその地位を独占するようになった。その結果としてこれらの人々は民族的な出自、言語、そして時には宗教の違いによってアラブ人とペルシア人の主流社会から分離された排他的な支配階級を形成した。ケネディによれば、このような社会の二分化は多くのイスラーム国家の政治体制における「際立った特徴」となり、その政治体制は中世後期にエジプトとシリアを支配したマムルーク朝の下で最盛期を迎えた[42][158]。
より短期的にはムウタスィムの新しい職業的な軍事集団は軍事面で非常に高い効果を発揮したものの、その一方で軍が主流社会から切り離されていたため、兵士たちは自らの生存を国家から支給される俸給(アター)に完全に依存していた。このことはアッバース朝政権の安定に潜在的な危険をもたらすことになり、俸給の支払いが滞ったり兵士たちの地位を脅かす政策が採られたりした場合には暴力的な反応を引き起こす可能性があった。実際にこの危険性はトルコ人が主要な役割を果たした「サーマッラーの政治混乱」として知られる期間(861年 - 870年)において1世代も経たないうちに表面化した。このように軍事支出をいかに賄っていくのかという問題は以降のアッバース朝政府における恒常的な課題となったが、同時にこの問題は政府の歳入が急激に落ち込んでいく時期とも重なっていた。これは地方で自立した王朝が台頭したことや、伝統的に税収の大半をもたらしていたイラクの低地地帯の生産性が低下したことなどが要因となっていた。このような趨勢はムウタスィムの死から1世紀も経たないうちにアッバース朝政府の財政を破綻させる結果を招き、936年にハザール人の将軍のイブン・ラーイクがアミール・アル=ウマラー(大アミール)の地位に就任するという出来事を通じてカリフの政治的権力の喪失をも招くことになった[159]。
家族
[編集]ムウタスィムにはバズルという名の妻がいた。バズルはマディーナの出身でバスラで育ち、音楽的才能、特に楽器演奏の腕前を高く評価されていた。また、作詞家や歌手としての卓越した才能や色白で魅力的な容姿でも知られていた。ムウタスィムの妻となる前は最初に以前のカリフのハーディー(在位:785年 - 786年)の息子でムウタスィムの従兄弟にあたるジャアファル・ブン・ムーサー・アル=ハーディー、その後は兄弟のアミーンとマアムーン、そして有力な将軍のアリー・ブン・ヒシャームの女奴隷として過ごしていた[160]。
内妻の一人には長男で後継者のワースィクを産んだギリシア人女性のカラーティースがいた。カラーティースは842年8月16日にクーファで死去し、アッバース朝の王族であるダーウード・ブン・イーサーの宮殿に埋葬された[161]。もう一人の内妻であるシュジャーはホラズムの出身であり[162]、ブガー・アル=カビールとは姻戚関係にあった[163][164]。そのシュジャーはムウタスィムとの間に後のカリフであるムタワッキルを産み、861年6月19日にジャアファリーヤで死去した。葬儀では孫にあたるカリフのムンタスィル(在位:861年 - 862年)が祈りを捧げ、遺体は金曜モスクに埋葬された[162][165]。
ムウタスィムの他の子女には後のカリフのムスタイーン(在位:862年 - 866年)の父であるムハンマドや[166][167]、アフマド[167][168]、アッバース[168]、アリー[167]、アブドゥッラー[167]、そして詩人としても知られる娘のアーイシャなどがいた[169][注 12]。
| アッバース朝の系図(9世紀) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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出典:清水 2005, pp. 50–51 (系図・地図), Kennedy 2006, p. xv
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文学におけるムウタスィム
[編集]ムウタスィムは中世のアラビアとトルコの叙事詩であり、アラブ人とビザンツ帝国の間で起こった戦争の出来事を大幅に脚色した内容が特徴となっている『デルヘンマ物語』に登場する。この物語の中でムウタスィムは英雄たちとともに裏切り者で背教者のウクバを「スペインからイエメンまで」複数の国を跨いで追跡し、最終的にコンスタンティノープルの前で十字架にかける手助けをする。その帰還途中にイスラーム軍はビザンツ軍によって隘路で奇襲を受け、カリフとほとんどの英雄を含む400人だけが脱出に成功する。ムウタスィムの後継者のワースィクは報復としてコンスタンティノープルへの遠征を敢行し、そこでイスラーム教徒の総督を任命する[170]。
また、ムウタスィムはアルゼンチンの作家のホルヘ・ルイス・ボルヘスが1936年に発表した短編小説である『アル・ムターシムを求めて』の中で想像上の人物の名前として登場しており、この作品はボルヘスの短編集である『伝奇集』の中に収められている。この作品で言及されている「アル・ムターシム」はアッバース朝のカリフではないものの、ボルヘスはその名前の由来となっている実在したムウタスィムについて次のように述べている。「8つの戦いで勝利を収め、8人の息子と8人の娘を儲け、8,000人の奴隷を残し、8年と8か月と8日間統治した第8代のアッバース朝のカリフの名前」[171]。この説明は厳密には正確ではないが、ボルヘスの引用はタバリーの記述を改変したものであり、タバリーは「8月に生まれた8代目のカリフであり、アッバース(預言者ムハンマドの叔父でアッバース家の始祖)から数えて8世代目にあたり、8年と40年の生涯を送り、8人の息子と8人の娘を残して死去し、8年と8か月間統治した」と記している。また、この記述はアラビア語の史料でムウタスィムが「アル=ムサンマン」(al-Mut̲h̲amman、「8の男」の意)として広く言及されていることを反映している[172]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 一方で別の歴史家のマスウーディー(956年没)は、ヒジュラ暦で生まれてから38歳と2か月の時に即位し、46歳と10か月の時に死去したと記している[3]。
- ^ 現代において『千夜一夜物語』として知られているものは、ペルシアやインドの題材が8世紀に翻訳や改変されたものを土台にして長い時間をかけて作られたものである。アッバース朝時代に追加された物語の多くはバグダードを舞台にしており、なかでもハールーン・アッ=ラシードはこれらの物語の中心人物として繰り返し登場し、模範的な統治者の姿で描かれている[8]。
- ^ アブナーは「息子たち」を意味し、アッバース朝の歴史においては通常アブナー・アッ=ダウラ(王朝の息子たち)という用語で言及されている。このアブナー・アッ=ダウラはアッバース朝革命を経て王朝が権力を獲得する際に主要な役割を果たしたアラブ系のホラーサーン人を指し、バグダードの軍事指導者層を形成していたが、ムウタスィムのトルコ人軍団の台頭とともに影響力を失っていった[13]。
- ^ シーア派の起源にもなっているアリー家とアッバース朝の関係は幾度とない混乱と変化を経験した。アリー家はイスラームの預言者ムハンマドの娘婿であるアリー・ブン・アビー・ターリブの子孫を称し、ウマイヤ朝に対する何度にもわたる失敗に終わった反乱において中心的な役割を担っていた。そのウマイヤ朝は一般に抑圧的な政権とみなされ、カリフ制の世俗的な側面をイスラームの教えよりも重視していると考えられていた。また、アリー家の支持者たち(アリー派)は「ムハンマドの一族から選ばれし者」(al-riḍā min Āl Muḥammad)のみがクルアーンとスンナに従って統治し、イスラーム共同体に正義をもたらす真にイスラーム的な政権を樹立するために必要な神の導きを得ることができるという考えを取り入れていた。しかしながら、アッバース朝革命でカリフの地位を獲得したのはアリー家と同様にハーシム家の一員であり、したがってより広義の「預言者の一族」に含まれるアッバース家であった[21][22]。この革命後にアッバース朝は宮廷から与えられる俸給や栄誉を通じて政権に対するアリー派の支持、あるいは少なくとも黙認を得ようとしたが、一部の人々、特にザイド派やハサン家(アリー・ブン・アビー・ターリブの息子でシーア派の第2代イマームであるハサン・ブン・アリーの子孫)はアッバース朝を簒奪者であるとして拒否し続けた。その後、アッバース朝のカリフによる懐柔と弾圧が交互に繰り返され、弾圧がアリー派の蜂起を招くとその度にアリー家とその支持者に対する迫害が行われた[23][24]。
- ^ 本稿で言及されている「トルコ人」は必ずしもすべてが人種的にトルコ系だったわけではない。当時のアラブ人から見てトルコ(複数形ではアトラーク)とはマー・ワラー・アンナフル以東の中央アジアに住む遊牧民全般を指しており、ペルシア系のソグド人など別の民族の出身者も含まれる場合があった[26]。
- ^ 819年頃にアサド・ブン・サーマーンの4人の息子たちがマアムーンを支援したことに対する見返りとして中央アジア一帯の諸都市(サマルカンド、フェルガナ、シャーシュ、およびヘラート)の統治権を与えられた。これらの地位は一族内で世襲されるようになり、9世紀末までにホラーサーンの全域とマー・ワラー・アンナフルの大部分を独立して支配するサーマーン朝に発展した[27]。
- ^ ただし、中世イスラーム史の研究家である清水和裕は、歴史家のヤアクービー(897年没)やマスウーディー(956年没)の著作の中でラキーク、マムルーク、アビードといった奴隷を意味する用語が使われている例があることを指摘しており、このことからトルコ人軍団が奴隷身分のグラームからなる軍事集団であったと結論づけている[38]。
- ^ ホッラミーヤまたはホッラムディーニーヤとも呼ばれるホッラム教はイスラームとペルシアの古い宗教的要素が混淆した一連の宗教運動の総称である。その起源は6世紀のマズダク教運動に求められ、一部はアッバース朝革命でアブー・ムスリムに従ったが、そのアブー・ムスリムがカリフのマンスール(在位:754年 - 775年)によって殺害されると、9世紀半ばまで続く一連の反乱を引き起こした。バーバクの反乱はホッラム教徒が起こした最後の大規模な反乱であった[51]。
- ^ アラビア語の史料はマアムーンの最後の病気について裏付けに乏しくそれぞれ内容が大きく異なる話をいくつか伝えており、その中にはマアムーンがアブー・イスハークによって毒殺されたという主張や、マアムーンの病気は「(アブー・イスハークの)命令を受けた医師が行った不必要な手術」の結果によるものだったとしている主張もある[59]。
- ^ タバリーはアッバース朝の支配者層内部でアブナーとペルシア人がトルコ人に対して不機嫌で反抗的な態度を取っていたという実態の具体的な例を伝えている。それによれば、ウジャイフとともに陰謀を主導したアムル・アル=ファルガーニーとアフマド・ブン・アル=ハリール・ブン・ヒシャームの両者は、アモリオンの包囲戦の最中にアシナースから屈辱的な扱いを受けたとして不満を漏らし、「この奴隷、この娼婦の息子め」とアシナースを罵ったうえにアシナースの下で仕え続けるくらいならビザンツ側へ寝返った方がましだと語った[76]。
- ^ ムウタスィムが編成した新軍団は通常トルコ人軍団と呼ばれているものの、ムウタスィムの軍団の中には西方のエジプトなどの出身者からなるマガーリバと呼ばれる軍団も存在し、この軍団には奴隷身分の者と自由身分の者の両方が含まれていた[96]。
- ^ これらの人物のうち、歴史家のヤアクービーが挙げているムウタスィムの息子は、ワースィク、ムタワッキル、ムハンマド、アフマド、アリー、そしてアブドゥッラーの6人のみである[167]。
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ムウタスィム
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| 先代 マアムーン |
カリフ 833年8月9日 - 842年1月5日 |
次代 ワースィク |