東京新聞、元日コラムを全文削除でおわび だが、これでよかったのか?
東京新聞は、1月1日に掲載した「新年に寄せて」と題する西田義洋・特別報道部長のコラムの冒頭部分に誤りがあり、コラムとして成り立たなくなったとして全文削除した。1月9日付朝刊とデジタル版におわび記事を掲載した。
問題のコラムは冒頭で「『中国なにするものぞ』『進め一億火の玉だ』『日本国民よ特攻隊になれ』。ネット上には、威勢のいい言葉があふれています」などと書かれていた。記事掲載直後からSNS上で、同じ言葉はほとんど見当たらないとの指摘が相次いでいた。
「読者の皆さんからの指摘を受けて投稿内容を見直したところ、対立をあおる意図で使われているとはいえず、引用に適したものではありませんでした」とし、「引用した言葉がネット上にあふれているという状況にはなく、表現の仕方も不適切でした」と認めた。
特別報道部長本人の事前確認が不十分で、コラム掲載前の編集局としてのチェック体制にも不備があったとの認識が示され、「事実確認を徹底するとともに、チェック体制の強化に取り組み、再発防止に努めてまいります」と記されていた。
問題となったコラムの投稿とおわびの投稿
【筆者の視点】全文削除でよかったのか
コラムは、昭和史研究家の故・半藤一利氏(2021年死去)が「国民的熱狂をつくってはいけない」と言い残した言葉などを引用しつつ、末尾で「『熱狂』に向かっている状況に歯止めをかけ、冷静な議論をできるような報道を続けていきます。今年も、ご愛読よろしくお願いします」と締め括っていた。
だが、デジタル版で非会員は前半の一部しか見れないようになっていて、冒頭の書き出しがSNS(X)で炎上した。新年早々、報道の信頼性を損なう事態となった形だ。
おわび記事は、紙面版では元日朝刊と同じ「特報面」に掲載され、デジタル版では問題のコラム記事と同じURLに全文差し替える形で掲載されていた。デジタル版トップページの目立つ位置にも表示され、X公式アカウントにも投稿された。この種の訂正記事としては比較的長く丁寧だった。新聞社の訂正としては異例の対応と言える。
今後も、東京新聞に限らず、訂正の仕方として、最低限、これをスタンダードとしていくべきではないか。
もちろん、これで十分かというと、そうとも言えない。
東京新聞は、このおわび記事で「例示した言葉はいずれも、特別報道部長が昨年1年間のX(旧ツイッター)を検索して見つけたものです」と説明している。「捏造」性を否定する意図だということはわかるが、この説明で理解は得られるだろうか。
筆者が調べたところ、昨年かなり拡散した投稿の中に、例えば「理不尽な中国の暴虐に対し日本の方々よ一丸となって戦いましょう」と書かれたものがあった。コラムが例示した「中国なにするものぞ」と文言は違うが、趣旨はさほど変わらないように見える。もし別の投稿を引用していれば、コラムとして成り立っていた可能性がある。
実際は単に「勇ましい言葉」が飛び交っている印象が頭にあり、十分調べずうっかり書いてしまった可能性もある。あるいは検索していた各投稿の真意や拡散状況をきちんと確認していなかった可能性もある。文言が長かったため、わかりやすく「丸めた表現」にした可能性もある。いずれにせよ、おわび記事は一見丁寧だが、腑に落ちる説明になっておらず、真相は本人が語るしかない。
もし、どうせ説明しても無駄だし、炎上してしまったので詳しい説明を行うより全文削除の方が早いという判断だったのであれば、残念だ。コラムの趣旨や表現に賛否両論はあろう。だが、メディア自身が不必要に世論を煽ることをよしとする人はほとんどいないはずだ。冷静な議論のための報道が必要だという論旨に反対する人もいないはずだ。誤りの部分は率直に認めつつ、元のコラム全文を公開し、丁寧に説明することの方が理解と信頼につながったのではないか。
ただ、新聞は双方向性がなく、丁寧な説明には向いていない媒体である。疑念が向けられた場合に「紙面」や「コメント」での対応にこだわっていてはうまくいかない。
考えられる一つの方法は記者会見だ。不祥事や疑惑があった際、報道機関から厳しい質問を受け、社会的な説明責任が求められるのが一般的だ。ところが、逆のパターン(報道機関の不祥事や疑惑)での会見が行われることは滅多にない。大抵、官僚的な短いコメントで済ます。こうした慣行が人々を伝統メディアから遠ざけている要因の一つだと思う。
もちろん会見をしても、型通りに用意された文言だけなら意味はない。今日は動画配信など様々な手段がある。報道と言っても結局はひとり一人の記者の営みだ。人々の理解を得るには、しかるべき人が顔を見せ、寄せられる疑問に耳を傾け、人間味にある言葉で率直に説明を尽くすことも必要ではないだろうか。